考えていたことがある。
 診療所に来る患者……治る見込みがない人たちのこと。
 一時の安らぎを求め、都会の喧騒を逃れ、ただ静かにその一生を閉じたい。
 それだけを求めて、診療所に来る人たち。
 医者という身分でありながら、僕は何度、その人たちを見殺しにしてきたのだろう。
 いつだってそうだ。僕は何も出来ずに……ただ見ているだけ。
 仕方がないと言えば、それで終わり。
 けど、そんな簡単に割り切れるものじゃない。
 だからこそ、償いたかった。
 だが、その気持ちでさえも……。

 ……助けたかった。
 何においても、あの人の未来を守りたかった。





『昔語(二)〜過去の日常と訪問と』






 時刻は七時半。
 学校にはまだ生徒の影は見えない。
 少し早かったかな。
 僕は今、診療所ではなく、保健室の方で寝泊りしている。
 けど、昨日は篠又さん達に貸したので、浩司の所へやっかいになっていた。
 あいつは実家を出て、同じ町のアパートに住んでいる。
 あんまり意味がなく見えるが、本人は早く親元を離れたかったらしい。
 しかも昨日は篠又さんについて根掘り葉掘り聞かれたし。
 おかげでこっちは寝不足だった。

「ふぁ……」

 少しだけ重いまぶたをこすり、保健室の前まで行く。
 開けようとポケットを探るが、鍵が見当たらない。

「あれ? あ、そうだった」

 篠又さんに鍵を預けてたんだっけ。
 さて、と……どうしよう。
 とは言っても、篠又さんが来るまで待つしかないんだけど。
 今、開いていそうなところは……と。

「図書室にでもするかな……ちょうど寝不足だし、少し寝させてもらおう」

 自分の寝不足を解消するいい案が浮かび、少し軽い足取りで、図書室へ向かった







 ぼんやりと甲高い機械的な音が聞こえた。

「……ん」

 少しだけ気だるい感じの頭を振り切り、起きる。

「今、何時だ……?」

 誰に向けるでもなく、ただ自分の気持ちを発する。
 返事など返ってくるはずがないのに。

「八時半ですよ」

 と、聞き覚えのある声が返ってきた。
 ぼやけた視界の中で、目の前に誰か居ることに気付く。
 だんだんと目がはっきりとし、そこに居る人を認識させた。

「篠又さん?」

 そう。篠又さんが僕の目の前で微笑んでいた。
 昨日と変わらない、あの笑顔で。

「おはようございますっ」
「おはよう……どうして、ここに?」

 状況がイマイチ把握できない。
 僕は篠又さんが来るまで、図書室で寝ていて。
 それで、なんで目の前で篠又さんが微笑んでいるような状況になるんだ?

「授業で使う資料を探しに来たら、俊也さんが気持ちよさそうに寝ていましたので……」

 それで、ずっと僕を見ていたのだろうか。
 なんだかとても恥ずかしいんだけど……うん?

「って俊也さん!?」
「あ、はい。これからそう呼ばさせてもらおうかなって思ったのですけど、ダメですか?」
「別にいいけど。どうして、また?」
「なんとなくですよ。なんとなく」

 なんとなく、ねぇ……。

「それでですね、私のことも名前で呼んでください」
「名前って……優日?」
「いえ、別に呼び捨てでなくてもいいですけど……」

 少し赤くなりながら、俯く。
 なんで照れてるんだろうか。

「呼び捨てなんて事はしないけど……どうしたの? 本当に」

 朝から随分張り切っている感じがする。

「だって、篠又って私と紗衣ちゃん、二人いますから…まぎらわしいですよ」
「いや、そんなことないけど」
「まぎらわしいんですっ」

 語気を荒げる彼女に、少し怖気づく。

「そ、そうだね…」

 まあ、どちらでもいいのだから、彼女の言うとおりにしますか。

「あ、そうです。鍵……」

 そう言って、彼女は自分のポケットの中から鍵を取り出し、僕に渡す。

「ありがとう。昨日は何時くらいまで居たんだい?」
「九時くらいまでです。そのあとは私のアパートに行って、そのままお泊り会ですよ」
「アパート?」

 それを聞いて、嫌な感覚が背筋を走った。
 だって、アパートというのはこの町に一つしかないはずだ。

「……どうかしましたか?」

 僕が考え込んでいるので、優日さんは気になったらしい。
 別に隠す事でもないので、正直に彼女に話す。

「いや、この学校に坂上浩司って男がいるだろう? それが僕の友達でそのアパートに住んでるんだ。昨日はそこに泊まったんだよ」

 偶然と言うのは恐ろしい。
 昨日、僕が優日さんについて浩司に問い詰められていた時に、同じアパート内に二人が居たとは……。

「へ!? 俊也さんって昨日アパートに居たんですか!?」
「え? う、うん」

 何をそんなに驚いているのだろう。
 というより、驚いている場所がおかしい気がするのだけど……。

「あの、何号室なんですか? 坂上先生って」

 優日さんが何故か赤くなりつつ、聞いてきた。
 昨日、なにかあったのだろうか?

「確か、一号室だよ」

 ホッと安心したように、胸を押さえた。
 いったい昨日、彼女の部屋で何が行われていたのだろうか。

「私は八号室です。それじゃ気付きませんね。私も全部屋には挨拶に行ってないですし」

 まぁ、普通は両隣と上下の住人に挨拶するぐらいだろうからな。

「ははは。確かにね。そう言えば、八時半って授業は大丈夫なの?」
「はい。一時間目は私、入ってないですから。小学も中学も」

 そうか。それなら一時間くらい話してもいいかな。

「じゃあ、保健室に行こうか。お茶出してあげるよ」
「へ?」
「話しようと思ったんだけど……迷惑だった?」
「……! いいえ。全然っ」
「それじゃ行こうか。優日さん」
「はいっ」

 満面の笑顔で僕を見る。
 ……やっぱり可愛いと思った。







 放課後。
 保健室に備え付けてある冷蔵庫を見る。
 ……ほとんど、何も入っていなかった。

「さて、どうしよう……今から買いにでも出るかな」

 これからのことを思案していると、扉がいきなり開いた。

「よ。俊也。これからちょっと付き合わねぇ?」
「浩司……付き合うってどこに?」
「いいとこ」
「……いいとこ?」
「そ。まあ、いいから来いよ」

 強引に僕の手を引き、連れて行く浩司。
 こっちは足りないものを買いだしに行かないといけないというのに。

「ちょっ、待ってよ」
「いいから、いいから」

 そうやって、いつの間にか外にまで連れ去られ、アパートの前まで来ていた。

「……で? なんなの。ここに連れてきてどうするって?」
「優日ちゃんがここに八号室に居たんだってな。今日始めて聞いた」

 浩司の言葉に、少しだけ引っかかった。

「優日……ちゃん?」
「いや、俺も名前で呼ばせてもらうことにしたんでね。嫌なのか?」
「……浩司がそう呼びたいんだったら、いいんじゃない? 僕には関係のないことだよ」
「へぇ、さいですか」

 浩司が僕の答えなんかどうでもいいように相槌をうつ。
 なんかイラつくな。

「それで? 優日さんが居たからってなに」
「せっかくだしな。歓迎会でもしようかなって紗衣香ちゃんと計画してたってわけ」

 それは良い事だけど。
 どうして、僕がここまで強引に連れてこられるようなことになるのだろうか。

「今日がそうなの?」
「いや、明後日」
「じゃあ、なんで今日連れてきてるんだよ」

 意味がわからん。

「まぁ、待て。話を聞きなさい」

 浩司がゆったりとした口調で、僕に諭すように言った。

「とにかく、その歓迎会で俺とお前と紗衣香ちゃんでお金を出しあって、彼女にプレゼントをすることにしたんだよ」
「僕は強制参加ですか?」
「だから、これから優日ちゃんになにか欲しいものがあるのか、聞いてきてくれよ」

 無視ですか。そうですか。

「って、今からっ!? しかも僕一人で!?」
「とーぜん」
「それはまずいだろっ」
「なにが?」
「なにがって……女性の部屋に突然行くなんて普通に考えてもやばいだろ!」
「大丈夫だよ。行くって言ってあるから」
「はぁ?」

 頭が混乱してくる。
 彼女にプレゼントをするというのに、彼女に欲しいものを聞くって……おかしなことだと思うけど。
 びっくりさせる気がゼロという感じがする。

「だから、彼女にはお前が放課後来るって言ってあんだよ。アポは取ったからな。んじゃ頑張れ」

 浩司は片手を挙げ、自分の部屋に帰ろうと、ドアを開けた。
 僕はいっこうに混乱から抜け出せない。

「ちょっ、待ってくれ」
「なんだよ。往生際が悪いな」
「なんで今日? 明日でもいいじゃないか」

 明後日なんだから、明日学校で聞いてもいいはずだ。

「いいけど、どのみち今日行くって言っちまったぞ」

 う……逃げ場はないのか。

「聞くなら早い方がいいと思ってな。それに俺が行くより、お前が行った方がいいんだよ」
「へ?」
「いいからっ、行け!」

 そう言って浩司は、ドアを閉めて自分の部屋へと入っていった。
 なんなんだ。あいつは。
 昔からいつもそうだ。
 自分で勝手に決めて、勝手に行動して、知らぬ間に僕も巻き込まれていて。
 でも、僕が来ることを優日さんはきっと待ってる。行かないわけには……。

「……仕方がない」

 観念して、アパートの二階、右側にある八号室に向かう。
 少しドキドキする。
 落ち着け、落ち着け……たかだか女の子の部屋に行くだけじゃないか。
 すぐに部屋の前まで着く。
 あっという間、心を落ち着かせている暇なんてなかった。
 ドキドキ感ががさらに増した。
 少し、震える指でチャイムを押す。
 ――ピンポーン
 一拍、間を置き、「はい」という声が聞こえた。
 ドアが開く。

「あ……と、俊也さん」
「こ、こんばんは」

 僕を見た瞬間、何故か彼女は顔を赤くした。
 僕も僕でなにを緊張しているのか、少し顔が熱かった。

「ど、どうぞ。入ってください」
「う、うん。じゃあ、お邪魔するよ」

 二人とも顔を赤くしたまま、部屋に入る。
 ……中学生ですか? 僕らは。







 部屋はこじんまりとしていた。
 余計な物はなく、良く言えば綺麗でまとまっている、悪く言えば殺風景だった。
 まだ引っ越してきたばかりだから、かもしれない。
 ベット、テレビ、テーブル、たんす、冷蔵庫……と生活に必要な物があるだけ。
 それでも、女の子の部屋なんだなっていうのは所々に感じられた。
 入った時に感じた甘い香りとか、テレビの上にちょこんと乗っかっているくまのぬいぐるみとか。

「あ、あまりじっくり見ないでくださいね」

 じっと部屋を見回していた僕に、恥ずかしそうに声をかける。

「あ、ごめん」

 部屋に入ってから彼女はずっと顔が赤く、僕をまともに見ていない。
 僕は彼女とは対照的で、緊張はしているのだけど、頭の中は冷静になっていた。
 それは彼女の反応がおかしいから。
 彼女はどう見ても、恥ずかしがりすぎだと思う。
 いくら男が部屋に来たからといって、その男の顔をまともに見れないというのはおかしい。
 チラッチラッと僕を見て、目が合うとすぐに顔をそむける。

「……どうかした?」
「い、いえ……その……きょ、今日はどうしたんですか?」
「どうしたって、浩――坂上先生から聞いてない?」
「き、聞いていますけど……」

 やっぱり、様子がおかしい。
 っていうか、僕が話に来ていることの理由を浩司のやつはなんて言ってるんだ?

「……あのさ、坂上先生からなんて聞いたの?」
「えっ!!」

 ボンッと擬音がついてもおかしくないくらい瞬時に顔が真っ赤になる。
 なんだ? 末期的なまでにおかしな表情になったぞ?

「本当に大丈夫?」
「は、はい。あ、いえ……その……俊也さんが……私に大切な話があるって……」

 なんて微妙な言い方を……。
 大切といえば大切だけど……歓迎会のプレゼントだし、喜んで欲しいとも思う。

「確かに大切だし、喜んでくれるものだと、思うけど……」
「そ、そのっ」
「?」
「俊也さんの……お気持ちは……その、とても嬉しいです。で、でも。まだ知り合ってから時間も経っていないですし……」

 だからこそ、だと思うのだけど。

「早い方がいいじゃないか。せっかく知り合えたのに」
「えっと……だって……その……まだお互いのことをよく知りあったわけではないですし……それに、勢いに任すのは……」
「でも。これからお互いのことを良く知るために、することだと思うんだけど……」
「えぇ!?……いや……そ、その」

 なんだろう、その驚きようは。

「僕は、優日さんのことをもっと知りたいと思っているよ。だからこそ」
「とっ、俊也さんのことは、もちろん嫌いじゃないです! で、ですけど、まだ……その……」
「まだ、決まっていない?」

 プレゼントが?
 まぁ、そんなに悩んでくれているのなら、嬉しいけど。

「……決まっていない、というか……まだ、分からないんです。私の気持ちが……」
「……気持ち?」

 プレゼントを貰う方の気持ちが、まだ分からない?
 言っていることが良く分からないのだけど……。
 もしかして、会話がまったく噛み合っていない?
 どうも微妙にずれている気がするのは、勘違いではないはずだ。

「と、俊也さんのことは――」
「ちょ、ちょっと待った!」
「へ?」
「一つだけ質問いい?」
「はい……?」

 優日さんはもはや顔全体が真っ赤になっていた。
 それでも、ようやっとのことで、僕の顔を見る。
 本当は見るのも恥ずかしいのだろうか。
 目をキョロキョロとさ迷わせている。

「大切な話ってなんだと思ってる?」
「へ……あ、あの…………俊也さんは……何の話をしようとしていたんですか?」

 逆に聞き返される。
 彼女もやっと話の食い違いを分かり始めたようだ。

「えっと、明後日に君の歓迎会を開くことになってね。その時にみんなでプレゼントを贈ろうと思って、君の欲しいものを聞きにきたんだけど……」
「……」
「……」
「……あ、あの……確認なんですけど、俊也さんのお話ではないのですか……?」

 頭では分かっているけど、自分では納得したくないみたいだ。
 恐る恐る聞いてくる。
 浩司……お前は、本当にお騒がせなヤツだ。

「僕の話じゃないよ。みんなの代表として来てるだけ」
「……」
「何と勘違いしたのかな……?」

 固まった。
 文字通り石のように……。
 随分と暴走していたからなぁ。優日さん。

「大丈夫?
「あははははは……その……な、なんでもないですっ! 気にしないでください!! ほんとにっ」
「う、うん」
「うぅ……まさか告白と勘違いしてたなんて絶対言えないよぉ」

 小声で何か言っている。
 この部屋大きいわけじゃないから、聞こえるんだけど……
 聞いていないフリをしとこう。

「それで、何がいい? プレゼント」
「あ……は、はい」
「なんでもいいよ。金銭的な問題はなんとかするから」

 僕には物欲というものはないらしい。
 日々食べるためのものや、生活していくものさえあれば、それで満足なんだ。
 だから、お金はそれなりに持っている。

「……その、歓迎会をしてもらえるだけでも嬉しいのに、何かを選ぶなんて出来ないですよ」

 申し訳なさそうに遠慮する。
 だけど、これはプレゼント。遠慮してもらっては困る。

「そう言われると、買う方としてはとても困るのだけどね」
「でも……無理ですよ。何も思いつきません」
「なんでもいいんだよ。手帳とかでも、小物でも……」
「いいえ、別にいいのですよ。プレゼントなんかなくたって。十分嬉しいですから」

 優日さんはまったく貰う気がないようだった。
 うーん……こういう場合はどうしたらいいのだろうか?

「けど実際、何か記念としての物があった方が思い出に残るだろう?」
「……じゃあ、写真なんてどうですか?」
「写真?」
「はい。みんなの写真を撮るんです。集合写真みたいな。私と俊也さんと紗衣ちゃんと坂上さんで」

 それはプレゼントとは言わないような……。

「そんなものでいいの?」
「はい。十分です」
「でも、その……もう少し、高いものでも……バックとか財布とかさ」
「そんな高価な物じゃなくていいですよっ。ただ、いつか見た時に『こんなこともあったなぁ』って振り返ることが出来ればいいと思ったんです」

 そう言われると、こちらとしてはなんとも言いようがないのだけど
 まぁ、しょうがないか。本人の意見を尊重しよう。
 それにカメラぐらいなら、診療所にあるはずだ。
 紗衣香ちゃんに頼んで、持ってきてもらえばいい。

「わかった。じゃあその日、僕は専属のカメラマンになるよ」
「ふふっ。ええ、お願いしますね」

 腕時計を見ると、六時を過ぎていた。
 そういえば、なんでもいいから、夕食の材料を買いに行かなければならなかったんだった。
 商店街は七時には閉まってしまうから、少し急がないと。

「さて。それじゃ、そろそろ帰るよ」
「え、あ、そうですか?」
「うん。買い物しなくちゃ」
「買い物ですか? そういえば、俊也さんは何処に住んでいるのですか?」

 あぁ、そういえば彼女にはなにも教えていなかったっけ。

「僕が普段、寝泊りしてる場所は保健室だよ」
「え、保健室……ですか? 学校の?」
「ははは、やっぱりおかしいよね。学校の施設に泊まってるんだから」

 普通は泊まってはいけない場所だ。
 けど、校長先生が少しの間ならと、夜の見回りをすることを条件に許してくれた。

「あの……昨日、紗衣ちゃんから少しだけ聞いたのですけど……最近、診療所の方に帰っていないって」
「……うん、一ヶ月くらいは帰ってない」

 本来なら、あそこで僕は生活をしなくちゃいけない。
 小さな町の診療所だから、どんな些細な事にでも医者が呼び出される。
 それに、いつでもすぐに対応するために、診療所に居住空間を作り、医者や看護婦が住み込みで働けるようにしてある。
 紗衣香ちゃんも、もちろん穂波診療所に住んでいる。
 だけど僕は今、そこで生活をしていない。
 それがどんな事だかは、きちんと分かっている。
 院長先生が出張中だし、穂波診療所の先生は僕しか居ないのだ。
 だけど……診療所に、近づくのが怖かった。
 助けられなかったから。
 命がどんなに大切なのかを、誰よりも分かっていたはずなのに、救えるはずの命を救うことが出来なかったから。

「……悲しいことがあったって、聞いていますけど……」

 悲しいこと? 果たして僕にとって、それは悲しかったのだろうか?
 僕は悲しくなんかない。
 本当に悲しいのは、残された人たち。

「何があったか……なんて聞こうなんて思っていません。けど、どうしても自分で解決できないのなら、人に話した方がいいと思うのです」

 たどたどしく、僕を慰める声が聞こえる。
 人に……優日さんに話せば楽になるのだろうか?
 話しても意味なんてきっとない。
 だって、優日さんにはどうしようもない問題だから。
 本当にただ、聞いてもらうだけ。
 それが、本当に?

「きっと気持ちが、心が、ずっと楽になると思います」

 楽になれるのだろうか?
 本当は、許して欲しいと思う。
 だけどそれは、優日さんには出来ない事。
 僕に真実を叫んで、居なくなってしまった、あの子だけに出来る事。

「あ、その……すみません。ここに来たばかりの私が言うことではなかったですね」

 僕がずっと黙っていたからだろう、申し訳なさそうに謝ってきた。
 何をしているんだろう僕は?
 なんで彼女に気を遣わせてしまっているのだろう。
 これは、僕の問題なのに。

「ごめん。少し疲れたから、今は休んでいるだけなんだ」
「休み?」
「長期休暇。夏休みとか冬休み、みたいなものだよ。だから気にしないで」
「……そう、ですか」

 もう一ヶ月も経った。
 そろそろ、自分の気持ちにケジメをつけなきゃいけない。
 僕の為にも、あの子の為にも。
 そして、死なせてしまったあの人の為にも。
 これは良い機会なのかもしれない……そう感じた。

「さて、と……僕は帰るよ」
「あ、はい」

 玄関のドアを開けて、空を見る。
 もう、夜がまじかに迫ってきていた。
 まだ冷たい風が頬を撫でる。
 振り返り、優日さんを見た。
 彼女は僕の表情を伺うように、僕の瞳をじっと見つめている。

「……それじゃあ。また、明日」

 心配ないよと、笑みをつくり、別れの挨拶を告げる。

「はい……また、明日」

 彼女の返事を聞き、階段を降りていく。
 彼女はじっと、僕を見ている。
 そんな気配がする。
 どうして彼女は、こんなにも心配してくれるのだろうか。
 昨日今日あったばかりの他人に、どうしてここまで……。

「…………俊也さん!」

 張り詰めた声に反応し、立ち止まる。
 少しだけ体を彼女の方へ向けた。
 優日さんは、今にも泣き出しそうな震える声で。

「『誰か』に頼ることは決して恥ずかしいことじゃないです!」

 と、そんなことを言ってくれた。
 僕の不安を、弱さを、払拭するかのように。

「必要な時だってきっとあります! ……それが、今だなんて言う気はありません。だけど」

 一人では悩まないで、と。
 そう言ってくれた。

「……うん。ありがとう」

 歩き出す。
 僕が歩いていく姿を、彼女はそのまま見送っている。
 胸の前でぎゅっと両手を握り締めて。
 僕には今、何が出来るのだろうか。
 彼女を安心させることができるだろうか。
 僕は「大丈夫だ」とずっと言ってきた。
 紗衣香ちゃんにも、浩司にも。
 だけどそれは、きちんと前を向いてからこそ、言えることだと思う。
「心配はいらない」と。「大丈夫だ」と。

「優日さん!!」

 呼びかける。
 彼女はまだ部屋に入らず、僕を見送ってくれていた。
 手を頭の上まで高く上げて、手を振る。
 心配はいらないから。
 これから、前を向いていくから。
 そんな思いを乗せて。
 大きく、大きく、手を振る。
 彼女は……少し呆然としていた。何がしたいのか見えてこないのだろう。
 やがて、手を振り返してくれた。
 大きく、大きく。

「ありがとう」

 もう一度呟く。
 前を向こう。
 ちゃんと、自分の罪を背負おう。
 もう逃げずに、真正面から。
 そして、受け止めていこう。
 僕は成長していかないといけない。
 あの人の死が、無駄にならないように。
 そしていつか、あの子に謝りにいこう。
 全てを償うために。

 そして僕は、診療所へと続く道を、歩き始めた。
 一歩を、確かな一歩を踏み出すために。






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