暗い世界に居た。
そこにはあたし以外は存在していなかった。
右を見ても、左を見ても、上を見ても、下を見ても、真っ暗。
ましてや自分の身体が在るべき場所を眺めてみても、何も見えない。
真っ暗。どこまでも続く闇。
これは……あたしの心の中? それともあたしが見ている夢の中?
どっちにしたって、あまり良い心地はしない。
というより、最悪だ。
あたしはまだ、囚われているということなのだから。
"あの人"の呪縛に。
逃げても逃げても、いや、逃げれば逃げるほど、"あの人"の呪縛はあたしを蝕んでいく。
この暗闇のように逃げ場が無い。逃げる方向さえ見定めることが出来ない。
それでも逃げ続けてやる。
その先に何が起ころうと関係ない。
それがあたしが生きようと決めた道なんだから。
だから、誰であろうとその道を阻む事は許さない。絶対に。
『変化〜新たな日常と関係と〜』
朝。
太陽の眩しさで目を覚ました。
カーテンを開き、窓を開ける。
すぅっと、草の匂いが鼻腔をくすぐる。
空気がおいしい、太陽も燦々と輝いている。
こんな朝をもう一度迎えたい、そう思うほど清々しい朝だった。
「おはよ。秋亜ちゃんに持って行くの?」
台所に入ると、紗衣香ちゃんがおぼんを持って立っていた。
おぼんの上にはご飯や味噌汁、焼き魚などが乗っている。
まさに日本の食卓と言ったところだ。
「はい。先ほど見に行ったら起きていたみたいなので」
「そうなんだ……ここで食べるっていうのは、ダメかな?」
今回は、病気ではないから、制限は掛かっているけど、自由に動かせる。
「一緒に食べた方がいいかなって思ったんだけど」
そのほうが、早く馴染んでくれそうな気がする。
紗衣香ちゃんはちょっと考えてから、笑って答えた。
「そうですね。一人で食事なんて寂しいですし、一緒に食べましょうか」
そう言って、おぼんを紗衣香ちゃんは台所を出た。
テーブルを見てみると、さっき運んで行ったのと同じ食事が置いてあった。二人分。
おぼんと合わせて三人分の食事を紗衣香ちゃんは用意していたみたいだ。
「そっか。僕なんかより、最初から考えていたんだ」
僕からの指示を待っていただけで。
「やっぱり、紗衣香ちゃんは紗衣香ちゃんだな」
常に周りを良く見て、他人の為に動くことが出来る人。
仕事で培われたものもあるだろうけど、彼女の性格によるところの方が大きいと、僕は思う。
だからこそ、穂波診療所の看護士が、彼女で良かった。
彼女のような人間でなくては、きっと、ここで働くことなんて出来ないと思うから。
そんなことを考えていると、ドアが静かに開いた。
紗衣香ちゃんの後ろには、不機嫌そうな顔をして、秋亜ちゃんが立っている。
「おはよう」
「なんでお前と一緒に食わなきゃいけないんだよ」
いきなり、随分な言われようだった。
「まぁ、そう言わずに。一人で食べるより、皆で食べる方がきっと楽しいよ」
秋亜ちゃんは、僕の考えがよく分からないのか、要領を得ない顔をしている。
「……ま、いいや。さっさと食っちまおうぜ」
仕方がないと言った感じで、承諾をする。
三人して、テーブルに座る。
不意に、家族みたいだなと感じる。
一年前、優日と夢見ていた家族という将来。
もう二度と見ることはないけれど、この風景を大切にしていきたい。
叶わなかった夢だからこそ、大切に。
朝食が終わり、秋亜ちゃんの部屋の前まで来ていた。
まだ早いかなとは思ったけど、診察の方を済ませておこうと思ったからだ。
扉をノックする。
少ししてから、返事が来た。
「だ、誰だ?」
なんか、少し焦ってるような感じの声が聞こえた。
「僕だよ。上月」
「ちょ、ちょっと待ってろ」
「わかった」
なんなんだろう?
それから、少し時間が経ってから返事が来た。
「失礼するよ」
扉を開ける。
彼女はちょこんとベットの真ん中に座っていた。
少し恥ずかしそうに。
「なにか用か?」
「うん。ちょっとね。それより、なんかあったの? 慌ててるみたいだったけど……」
そう言うと、彼女は顔を少しそっぽを向いた。
「……着替えてただけだ」
タイミングが悪かったみたいだ。
それにしても、着替えていたぐらいでそんなに恥ずかしがるなんて、珍しい。
「そ、それで。なんだよ、用って」
「診察なんだけど。今からどうかなって思ってね」
「今から?」
少しムッとした顔になる。
感情が表に出るタイプだな、この子は。
「ダメかな?」
「ダメじゃないけど、急過ぎる」
「早めにしたほうがいいかなって思ってね」
「まあいいや。じゃあ、さっさと済ませるぞ」
そう言って、秋亜ちゃんはベットから立ちあがり、ドアのほうへと近付いて行く。
彼女が僕の横を通り過ぎようとしたその時、体が前のめりに崩れ落ちた。
「え? ちょ――」
急なことで反応が遅れる。
必死に手を伸ばし、彼女の体を抱きとめた。
軽い。
驚くぐらい彼女の体は軽かった。
「秋亜ちゃん……大丈夫?」
「……ああ。大丈夫だからそんな心配そうな声すんな。……ふぅ」
息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がる。
「本当に大丈夫? 気分は?」
「最悪。けど、もう慣れた」
立ち眩みだろうか。
術後にはよくあること。
それに、精神的なものも少しはあるのかもしれない。
「さぁて、診察するんだろ? 早く行こう」
僕が考え込んでいるからだろうか、彼女が明るく笑いかけて言った。
でも、無理してる感じが見える。
「いや、午後からにするよ。休んでて」
「大丈夫だって言ってるだろ」
「大丈夫そうに見えないから言ってるんだよ。今の自分の顔を鏡で見たほうがいい。時間はまだある。午後からでも充分間に合う。急ぐわけじゃないんだから」
秋亜ちゃんが「先にアンタが言ってきたんだろうが」と小声で呟く。
「……分かった。もう午後でも午前でもどっちでもいい。それよりもアンタ、どさくさに紛れてあたしのこと『秋亜ちゃん』って呼ばなかったか?」
「あ゛……」
「あたしは確か『ちゃん』付け禁止って言ったよな?」
顔を引きつらせながら言う。
怒っているとみていいだろう。
というか『霧宮さん』と呼ぶと言って以来、ひとっかけらとして呼んでいない。
「それはね。習慣だし、クセだし……治らないというか、治す気がないというか」
年下を呼ぶときはどうしてもそうなってしまう。
これは自分ではどうしようもない。
意識せずともそうなってしまうのだから性質が悪い。
患者さんにも何回か「恥ずかしいからやめて」と言われ、努力はしたが無理だった。
というより、無謀だった。
「はぁ……もういいや。午後からにするならさっさと出てってくれ」
手をしっしっと振り、ドアの方向を指差す。
僕は年上として見られていないんだろうか……。
少し苦笑しつつ、彼女の部屋から出た。
なんでだろう。
正面にある醤油ラーメン見ながらそう思う。
「俊也。早く食べないと麺が延びるぞ」
「……」
なんで僕の右隣に浩司が居て、それでいてラーメンをすすっているのだろう。
「先生? どうかしましたか?」
「紗衣香ちゃん。気にしなくていいさ。いつものこと、いつものこと。おい俊也。せっかく作ってやったんだから、延びないうちに食えよ」
「……僕が普段から意識飛ばしてるみたいな言い方しないでくれ」
「おい、この人誰?」
僕の左隣に居る秋亜ちゃんが、浩司を指差しながら訊いて来た。
彼女の目の前にもラーメンが置いてある。
「俺? 俺はこいつの親友で坂上 浩司っていうんだ」
浩司は僕を指差して自己紹介する。
「ふーん。坂上さんね……これ、なかなかおいしいよ」
「そうですね。おいしいですよ。浩司さん」
僕の正面に座る紗衣香ちゃんが言った。
もちろん、彼女の目の前にもラーメンが置いてある。
「紗衣香ちゃんにそう言ってもらえたなら、作ったかいがあるよ。ああ、涙で麺が見えない……」
「こしょうが目にしみて見えないだけだろ」
「いえいえ、皆さんそう思っていますよ」
違う。問題がずれてきた。
「いや、確かにおいしいけど。なんで浩司がここに居るのさ?」
「それは……私が昼食を作ろうとしたら、突然いらっしゃって、それで作ってくださるというので」
「そういう経緯じゃなくて、根本的になんで浩司がここに居るのさ」
第一、この時間は学校じゃないのだろうか。
浩司は体育の教師をしていたはずだけど。
「昨日は来るのが遅かったからな。紗衣香ちゃんにも会えなかったし、それに新しい患者っての気になって、昼時なら必ず居るだろうと思って来た訳だ」
心なしか「紗衣香ちゃんにも会えなかったし」の部分を強調していたように聞こえたけど、当の本人は秋亜ちゃんとお喋りをしていて、まったく聞いていないみたいだった。
「……くっ」
彼の心の中でまた一敗が付いただろう。
なぜ昼飯を作ると言い出したのかは敢えて聞かない。
どうせポイント稼ぎで作ると言い出したんだろう。
「そうだ秋亜ちゃん」
「なんだ?」
「診察なんだけど、三時からにしようと思う。その時間になったら診察室に来て」
先程は急過ぎてムッとされたから、今度は時間に余裕を置いてみた。
「なんだよ、その中途半端な時間はっ」
「……」
時間を置いてもムッとされた。
もう、どうしたらいいんだ。
「その間なにしてればいいんだよ」
「散歩でもしてきたらどうですか?」
紗衣香ちゃんがそう提案してきた。
「散歩?」
「ええ。裏の山なら軽い運動になりますし、頂上の景色もいいですよ」
裏の山……優日の墓がある場所か。
確かにあそこならいい運動になるだろう。
一時間くらいあれば頂上に着ける。
「そうだな。そうしようかな」
立ち眩みくらいでそんなに心配するものではないけれど、なんとなく嫌な感じがした。
「けど、大丈夫なの?」
「午前中のこと言ってんなら大丈夫。あたしはリハビリでここに来てるんだ。それくらい良いだろ」
まだ会ったばかりだけど、彼女は一度言ったことは曲げない性格だろう。
普段の言動や態度でそう感じる。
「……分かった。許可するよ」
当然だと言うように、僕の方を見る。
彼女としては、行動を縛られたくないのだろう。
そういうことに対しては、かなりの嫌悪感を示していた。
「紗衣香ちゃんと一緒ということでね」
「はぁ!?」
「これでも譲歩したほうだよ」
「大丈夫だって言ってるだろ!」
そう。こんな風に、簡単に感情が高ぶってしまう。
理由があるのだろう。
まだ知ることはないけれど、拒絶が身体の中に染み付いてしまうほどの、理由が。
「キミの大丈夫は当てにならない。初めて会ったときも、午前中も。キミはどんなに辛くても大丈夫だと言うだろう。違うかい?」
彼女は僕の方を睨んでいる。
瞳の中にあるのは、理由のわからない嫌悪感。
構わず僕は続けた。
「午前中のことを見ていなければ、そうは言わない。けど見てしまったんだ。これは譲ることは出来ない」
「……わかった! もういいっ!!」
怒鳴って彼女は台所から出ていった。
「あの……」
今まで静かに見守っていた紗衣香ちゃんが口を開く。
「午前中に何があったんですか?」
「……立ち眩みでね。倒れたんだ。術後まもないし、仕方のないことかもしれないけれど、一応注意しときたくて」
単純に立ち眩みだけならまだいい。
癌が再発しているかもしれない恐れもある。
「もし秋亜ちゃんが行くと言ったら、付いていって欲しいんだ」
「はい。わかりました」
僕は笑顔を彼女に向けた。
紗衣香ちゃんもそれに笑顔で返してくれる。
「あの……俺が居るってこと忘れてない?」
……忘れてた。
三時。
まだ秋亜ちゃんは来ていないかった。
これ以上遅れると何を言われるか分からなかったから、一時間くらい前から準備をしていたのだけど。
「山にでも行ったんだろうか?」
単純に考えても往復に二時間、その他を合わせると遅れても仕方のない時間だが。
五分ぐらいして、静かに玄関の扉が開いた。
言うまでも無い。秋亜ちゃんだ。
「……悪い。少し遅れた」
「いや、構わないよ。許容時間内だ。それじゃ、始めようか。さっさと済ませた方がいいんでしょ?」
「……ああ」
なんだろう。違和感を感じた。
受け答えは少なく、声は低め。
酷く落ち込んでいる。
そんな感じがした。
「……なぁ。一つ聞いていいか?」
裏山で何があったんだろう。
彼女が落ち込むようなものは、あるとは思えないけど。
「なに?」
「あの山の頂上にさ……花束が添えてあった石があったんだよ……そこには『篠又 優日』って書いてあった」
優日の墓がどうしたっていうのだろう。
何が彼女をこんなにも、悲しくさせているのだろうか。
声を震わせて、今にも泣き出しそうな声で。
「なぁ……写真ってあるか? その人の」
僕のペンダントには優日の写真が入ってる。
それを首から外し、彼女に渡した。
「はい。これで良ければ……」
そこに映っている優日の姿をじっと秋亜ちゃんは眺めていた。
身体全身が震えている。
何かに耐えようと、必死でもがいている感じがした。
「秋亜ちゃん?」
「……なんでもない。返すよ」
ペンダントを渡す手は、震えていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だから……診察するんだろ。早くするぞ」
どうして、無理をするのだろうか。
こんなにも震えていて。
今にも泣き出しそうなのに。
弱音を吐くことを、自分自身に禁止しているかのように、頑なに感情を出そうとしない。
辛いことがあったのなら、泣けばいい。
泣けば泣くほど、きっと気が楽になると思うから。
だけど、彼女は自分の感情を抑え込んでしまっている。
「……分かったよ。始めようか」
僕は、彼女を救いたいと思い始めていた。
優日より深い孤独を抱き、自分の感情に素直になれない彼女を。
全てのしがらみから、解き放ってあげたいと思い始めていた。
おこがましいことかもしれない。
僕が犯してしまった罪から考えれば、誰かを救うなんて考えちゃいけないことなのかもしれない。
それでも、彼女が素直に、泣いて、笑って、怒れる日が来るのなら。
それを実現したい。
思えば、浩司と再会した日に流れた星は、始まりを知らせるものだったのかもしれない。
それが希望かどうかは分からないけれど、絶望にだけはしないように。
一日遅れで、流れ星に願う。
意味はない。ただ自分に言い聞かせるために。
"どうか彼女に、幸せが訪れますように"と。