ガタンッと、身体が揺れた。
 ウトウトしていた意識が呼び起こされ、ぼーっと流れていく景色を眺める。
 それを何度続けてきただろうか。
 一両だけの電車。そして、乗客はあたし一人だけ。
 そんな空間が、あたしをこんなにも油断させているのだろうか。
 今日は一日、走ったり、歩いたり、気を遣ったりで、色々と疲れているのだろうか。
 最後の最後まで安心できないというのに。
 それでも、少しくらいなら休んでもいいかな、と思う。
 一応、問題は無くなった。
 電話に出ていた女の人はかなり焦っていたけど、強引に押し切った。
 まぁ、なんとかなるだろう。
 ここまで来た。頑張ってきた。
 だから、少しくらいなら休んでもいいよな?
 そうして、自分を許した瞬間、意識が遠のいていった。







『―点――穂――、――町』

 ぼやけた空間の中に、甲高い音が響いた。
 心地よかった一定の振動はもう無く、完全に静止していた。

「……ん。着いた、のか?」
『終点――穂波町、穂波町』

 もう一度流れる声。
 今度ははっきりと聞こえた。
 頭がだんだんと覚醒していく。

「降りないと」

 あたしが降りるのを待っているのか、電車はずっと止まっている。
 急いで立ち上がり、荷物を両手で持つ。
 電車を出ると、そこには一面の稲穂が広がっていた。
 瞬間、風が吹く。涼しい風があたしを包み込んだ。
 草の匂いや土の匂いが、あたしの鼻をくすぐる。
 風と一緒に揺れる稲穂の中で、男が一人……立っていた。

「なんだ?」

 相手は、あたしの方をしっかりと見ている。
 もしかして、あたしを待っているのだろうか?
 どうして?
 ワケが分からない。

「なに?」

 短く、けれど訝(いぶか)しさを込めて聞いた。
 相手からの返答は、要領を得ない。
 こいつは誰だ?
 なんで、あたしを待ってるんだ?

「だから、なんだよ?」

 煩(わずら)わしい。
 さっさと正体を明かせよ。
 事によっては、あたしは逃げなくちゃいけない。
 だけど男は、あたしと目が合った瞬間、何かに驚いているようだった。
 こいつはあたしを知っているのか?
 分からない。

「僕は、上月俊也」

 突然、男はそう名乗った。
 驚いている様子はもう無く、何かを決意しているような感じがした。

「君が、これから行く場所の医者だよ」

 あたしはこの場所にようやく来た。来ることが出来た。
 だからここから始まる。
 だけど、この人の中では、もう既に始まっているのかもしれない。
 何故かは分からないけれど、そんな気がした。





『少女〜新たな患者と旧友と』






「んで? そのお医者様がなんでこんなところに居るんだ?」

 威圧的な態度を崩さず、彼女は聞いてきた。
 警戒されている気がする。

「君を迎えに来たんだよ。挨拶がてらね」

 手を差し出した。

「…? なんだよ?」
「荷物。案内するよ」
「……いい。自分で持つ」

 そう言って、両手で持っている荷物を僕の方から避けた。

「でも、重そうだから」
「いいっ、たいして重くない」

 会話を打ち切り、僕より先に歩いていく。
 荷物に振り回されているのか、足元がふらついていた。
 やっぱり重いんじゃないか。
 言い合ってても埒があかないな。

「あっ!」

 彼女の両手から荷物を強引に奪い取る。
 ずっしりとした重さが腕にかかった。

「持つよ。第一、ふらふらと歩かれてちゃ、説得力ないよ?」
「っ……勝手にしろっ!」

 彼女は僕をひと睨みして、歩き出した。
 素直じゃないのか、他人の力を借りたくないのか。
 道を知らないのに、ずんずん歩いていく。
 "患者"というには、どこかを悪くしているようには見えなかった。
 いったい、どんな理由でこの場所に来たんだろう。







 歩き始めて数分。
 横を見てみる。改めて小さな女の子だなと思った。
 僕の肩にちょうど彼女の頭の先がある。
 僕の背は男としては平均の高さだと思う。180cmあるかないかぐらいだ。
 女の子としては普通なのだろうか?
 そんなことを考えつつ商店街を抜けた。
 そこで重要なことを思い出した。

「そういえば、君の名前は?」

 彼女の名前をまだ聞いていなかった。

「はぁ?」
「いや、だから。君の名前」
「あんた医者だって、言ってたよな? 患者のカルテとか資料とか見ないのかよ」
「……そういえば見てないな」

 記憶にはない。
 そういう資料は見せられていないし、あるかどうかすら分からない。
 彼女がこう言ってるということは、診療所の方に送ってあるってことだろう。

「ふつー見ないか?」
「ごめん。ちょっと色々あってね。それに今日見るはずだったんだけど…」
「……はいはい。あたしが無理言ったせいだって事ね」
「まぁ、確かに予想外だったかな」

 やっぱり彼女自身無茶だった思っているのだろう。
 普通、入院日を早めてくれなんてことを、本人の連絡で来るはずが無いからな。

「……霧宮。霧宮 秋亜」

 彼女はしぶしぶ自分の名前を教えてくれた。

「そっか。よろしくね。秋亜ちゃん」

 突然、ピタっと彼女の動きが止まった。

「いきなり下の名前かよ。しかも"ちゃん"付け……」

 何か失礼な事を言っただろうか。

「あたしは"ちゃん"って付けられるのが心底嫌なんだよ。吐き気がしてくる。呼び方改めろ」

 本当に嫌なんだろう。顔が引きつっていた。

「じゃあ秋亜さん、がいいのかい?」
「なんで下の名前を呼ぶんだ? 馴れ馴れしい」

 ばっさり切られた。
 随分はっきりと物を言う子だなぁ。

「分かったよ。霧宮さん、がいいんだね」
「っていうか、それが普通だろ」
「そうかな?」

 年下の子なら"ちゃん"付けが普通だと思ってるのだけど。
 僕が普通じゃないのだろうか。

「そういえば、どんな理由で入院するんだい?」
「……リハビリ」
「そっか。なんていう病気だったの? 良ければ教えて欲しいのだけど」

 今、彼女が平然と歩いているから、そんなに重くはないと思うけれど。

「胸癌、ってやつ」

 あんまり話したくないのだろう。
 これ以上深くは聞いてはいけない気がする。

「そっか」

 そうして、話題をそれで打ち切る。
 いつの間にか、診療所の前まで来ていた。
 秋亜ちゃんも気が付いたのか、僕に問い掛けるような視線を送ってくる。

「さあ、着いたよ」
「ここ、が……」

 深い思い出があるわけではないはずなのに、秋亜ちゃんはじっと診療所を眺めていた。

「さあ、入ろうか」

 彼女を促す。
 このまま、待ち続けているとずっと見ていそうな雰囲気だったから。
 彼女は静かに頷いて、僕の後についてきた。







 扉を開けると、きりっとした面持ちで、背筋を伸ばして立っている紗衣香ちゃんが居た。

「おかえりなさい。先生」
「うん。ただいま」

 扉の側に彼女の荷物を置く。
 秋亜ちゃんは何故か恐る恐る、部屋に入ってくる。

「彼女が新しい患者さん。名前は霧宮 秋亜さん」

 紗衣香ちゃんは丁寧にお辞儀をして自己紹介した。

「私は篠又 紗衣香といいます。よろしくお願いしますね」
「え? あ、うん。よろしく。あたしは霧宮 秋亜」

 秋亜ちゃんも慌ててお辞儀をして自己紹介をする。

「紗衣香ちゃんは君の身の回りのサポートをするのが仕事だから。何でも言ってくれていいよ」
「そうですね。何か困ることがあるなら言ってください」
「まぁ、大体の事は一人でやるから」

 やっぱり他人の力はあんまり借りたくないタイプの子みたいだ。

「それじゃ、診察は明日やるから……今日は自由にしてていいよ」
「明日? これからじゃないのかよ?」
「長時間電車に乗って疲れてるだろ? 休むことは必要だよ」

 だからこそ、よくこの子を見ていないとダメみたいだ。
 大丈夫なフリをして無理をする。そんなタイプの子だからだ。
 そういう所は、優日に似ている。

「じゃあ、霧宮さん。お部屋に案内しますね」
「あ……うん。ありがと」

 何故か複雑そうな顔をしながら、紗衣香ちゃんに連れられていく秋亜ちゃん。
 今は何を考えてもしょうがないけれど、何かを隠しているような雰囲気を感じる。

「さてと……今のうちに資料を見とくか」

 沙衣香ちゃんが見ていたのだろうか。
 机の上に秋亜ちゃんの資料はあった。




 霧宮 秋亜
 十八歳
 幼い頃に父親が死去。母親は健在。
 一ヶ月前に右胸に悪性の腫瘍(がん)が発見される。
 すぐに手術したが、がんの進行が予想以上に酷かった為、担当医師の判断により、右胸を全体的に切除。
 患者本人の希望により、そちらの診療所にリハビリとして入院。
 リハビリ終了後は当院にて退院手続きをするため、連絡を。





「患者本人の希望により…?」

 どうしてここに?
 リハビリでここよりいい場所なら他にもたくさんある。
 それにどうして来るのを早めたんだろう。
 書いてあるのは個人の電話番号。
 主治医……いや、彼女に対しての専門医が居るのだろうか。

「どっかのお嬢様……?」

 そうと考えてもよく分からない。
 ここを選ぶ理由も、来るのを早めた理由も繋がってこない。
 それに、あの暗い瞳。
 何かに対して絶望している。
 いや、違う。希望を持っていないと言ったほうが正しいかもしれない。
 何かを諦めた……そんな感じの瞳。

「あの、先生?」

 不意に声を掛けられる。
 思考を止めて、声のほうへ体を向ける。

「うん? 早いね」
「はい。部屋まで案内したら『もう、大丈夫』と言われて帰されました」
「そっか。元気だね。あの子は」
「……先生?」

 不安げに僕を見る。

「ん?」
「あ、いえ。考え込んでいたようでしたけど…なにか問題でもあったのですか?」

 僕が手に持っている資料を指差す。

「いや、なんでもないよ」
「そう…ですか」

 頷いたものの、納得はしてないみたいだ。

「本当だよ?」
「べ、別に疑ってませんよ」
「じゃあ、僕達も部屋へ戻ろうか。診察は明日だから、今日はもう自由」
「……はい」

 紗衣香ちゃんはやっぱり納得していないのか、不満顔で僕の後に付いて部屋を出た







 夜。
 自分の部屋。
 夕飯も食べ終わり、何をしようか迷っていたところにチャイムが鳴った。

「うん? 客?」

 この家にお客さんが来た時は、僕の部屋に通知する様になっている。
 部屋を出て診療室の玄関に向かう。

「誰だろ? こんな時間に…」

 診療室まで来たところで、またチャイムが鳴った。

「はーい。今行きまーす」

 急いで、電気も付けず扉を開けた。

「よう。ひさしぶり!」
「へ?」

 野太い男の声で、さわやかに挨拶をされる。
 暗くて、よく見えない。
 ひさしぶりって言われても……誰だろう?

「なんだ。その間抜けな声は、せっかく会いに来てやったのに」
「まさか、浩司?」

 良く考えてみれば、僕が知っている男でここに尋ねてくる人物なんて一人しか居なかった。
 僕の親友。坂上 浩司。

「よう。俊也。戻ってきたって聞いたから、顔見に来たぜ」

 急いで電気を付ける。
 部屋が明るくなり、声の正体を明かしてくれた。
 髪の毛は短く、少々つり目で、がっちりとした身体。
 服の上からでも見える筋肉質なその体、その雰囲気。

「浩司……ひさしぶり。あの時、以来だね」
「ああ。ちゃんと立ち直ってきたようだな」
「ははっ。君のストレートパンチはもの凄く痛かったからね。目が覚めたよ」
「当然。そりゃあ痕が残るように殴ったからな」

 笑いあうことが、懐かしかった。楽しかった。
 あの時は何もかも嫌で、笑うことなんて決して出来なかったから。
 彼とは、幼少、小学、中学、高校と一緒に過ごしてきた言わば幼馴染。
 この診療所の元院長の息子。

「……まぁ、その顔を見てる限り、優日ちゃんのことはちゃんと吹っ切れたみたいだな」

 いきなり、真剣な顔になって聞いてきた。
 浩司は今までのことを全部知っている。
 僕がこの町を離れた理由や、優日が亡くなったと知った頃の僕を知っている。
 だからこそ、僕の事を本気で殴ってくれたヤツなんだ。

「……うん。大丈夫。色々と心配を掛けてごめん」
「いいさ。親父も気にしてたぜ」
「そうだね。院長にも迷惑を掛けた……今度、挨拶に行くよ」
「まあ、まだ吹っ切れてないようなら、殴るつもりだったけどな」

 拳を握って、僕に突き出す。

「それは嫌だな。君のパンチはものすごく痛いから」
「当然だろ。痛く殴ってるからな」

 前に……というか何回も殴られた事がある。
 あれは勘弁してほしい。

「まあ、元気そうで安心したよ」
「完全ってわけじゃないけどね。けど、前を向こうって思ってる」
「それでいいさ。いつまでも下を向いているよりは、な」

 そして、窓から見える山を見て。

「優日ちゃんだって、きっとそれを望んでるさ」
「うん。ありがとう」

 彼は唯一全てを知っているのかもしれない。
 優日の気持ちを、あの手紙のことを知っているのかもしれない。
 なぜかそう思う。

「そういえば、紗衣香ちゃんは?」
「奥に居るんじゃないかな。もう寝てるのかも」
「そっか…」
「会いに来たの?」
「まあ、理由の大半だな…」
「相変わらずだね。相手にされてないのに」
「そんなことはない」

 浩司は紗衣香ちゃんのことが好きだ。
 何回も告白を挑戦してるみたいだけど、失敗に終わっている。
 というか、紗衣香ちゃんが鈍感過ぎるのだ。
 いっこうに気付いてもらっていない。

「でも、二十七戦全敗でしょ?」
「違う。二十七戦中二十六敗一引き分けだ」

 心外だ、といって顔をしかめる。

「…引き分けってなに?」
「好きだって言ったことがあるからな」

 少し得意げに言う。

「でも、他の人に言ったと思われたんでしょ?」
「……」

 あ、一気にテンションが下がった。

「あそこまで、はっきりと言ってもダメなんて…」

 座り込んで、床に『の』の字を書き出す…

「…まあ、頑張って」

 本当に。







 数十分経った。
 お互いの近況報告も終わり、浩司は背伸びをして。

「よし! じゃあ、そろそろ帰るか」

 そう言って、外に出てゆく。
 僕も浩司を見送るために外に出た。

「そう? まだゆっくりしてってもいいのに」
「紗衣香ちゃんもいないし、お前も何かと疲れてるだろ?」
「確かに今日は色々とあったからね」

 二つの出来事…優日の手紙、新しい患者。

「今のお前はいい顔してるよ。安心した」
「ありがとう。頑張るよ。僕もね」
「ああ、頑張れ。そんじゃ」

 手を振り、別れを告げる。
 空を見上げると、空には星が見えた
 満天の星。
 そして、一筋の光。

「…流れ星」

 いつか、優日が言ってたっけ。
 「流れ星は、神様が地球に落としてくれる希望の光だ」って。
 本当にそうだといい。
 これから始まる全てのことへ。
 希望の光が降り注いで欲しいと思う。
 でも、これからすべき事は努力。
 希望を待つのではなく。
 必死に、精一杯に。
 ただ前だけを見て。
 そうして行くことが、きっと良い方向に繋がる。
 きっと、優日との約束を守れることになる。
 きっと……。






Back Novel letter Next