「……俊也、俺は車を止めてくるから先に行ってろ」
「分かった」
土砂降りの雨の中、僕は車を降り、病院の正面玄関へと走った。
服についた水を払いつつ、中に入る。
早足で優日の病室へと向かった。
「……」
不安だ。
優日は大丈夫なのだろうか。
僕は優日が倒れたということしか聞いていない。
もし深刻な状態だったとしたら。
僕はどうしたら……。
「あれ……」
優日の病室の前で、紗衣香ちゃんが座り込んでいるのが見える。
声をかけようと、急いで近づいた。
「……紗衣香ちゃん?」
紗衣香ちゃんはずぶ濡れになっていた。
着替えもしないで、ただ俯いている。
状況がよく掴めない。
だけど、紗衣香ちゃんの様子がおかしく、僕の中の嫌な予感が膨らんできていることは確かだった。
「紗衣香ちゃん、しっかりして、優日は?」
「……あ……せ、先生」
僕の声がようやく届いたのか。
俯いた顔を上げる。
泣いていたのか真っ赤になった目で僕を見ていた。
そして、震える口で。
「……ね、姉さんは……」
「俊也! 紗衣香ちゃん!」
浩司が走ってきているのが見えた。
「状態はどうなっ……て」
ずぶ濡れになっている紗衣香ちゃんに気づいた。
「大丈夫か?」と呟いて、浩司は彼女に近づいた。
持っていたハンカチで紗衣香ちゃんの髪を拭いていく。
「……っぁ」
うめく様に、紗衣香ちゃんが声を漏らした。
身体が小刻みに揺れ。
なにかを我慢しているみたいで。
「紗衣香ちゃ」
「っぅわぁぁぁぁぁぁっ」
浩司がまた心配そうに名前を呼ぼうとした。
だけど、それを遮るように、紗衣香ちゃんは泣き叫んで浩司に抱きついた。
「……」
僕は浩司を見て、「後は頼む」と目で告げた。
浩司が頷くのを確認すると僕は病室のドアへと足を進める。
中はどんな状況になっているのだろうか。
不安でしょうがない。
この中でもし最悪な状況になっていたとしたら……見たくもなかった。
でも、早くこの不安を解消したいとも思う自分がいる。
僕自身が……よくわからなかった。
そして僕は、結局、なんの覚悟も出来ないままに。
病室のドアを開けた。
昔語(二十二)『弱さと強さ』
「……ぅん」
ぼんやりとした風景。
向いにあるソファーに誰かがいます。
「……起きたか」
聞き覚えのある男の人の声。
次第に意識がはっきりとし、目の前にいる浩司さんは少し安心したかのような表情をしていました。
「気分は大丈夫か?」
「……?」
そういえばここはどこでしょう。
あたりを見回すと、はっきりとしてきた視界に見慣れた景色が写りました。
「私の……家?」
「まだ寝ぼけてるみたいだな。ほら」
コトと硬い音がして、目の前をみるとコップが置かれていました。
「ありがとう、ございます」
「悪いな、色々と家の中の物使わせてもらってる」
「いえ……私が」
私が……?
そうだ。
私がずぶ濡れだったから、浩司さんはここに連れてきてくれたんだ。
そして、着替え終わった後、なにも考えてたくなくて、ボーっとしていたら、いつのまにか……。
「……今日はゆっくりしていた方がいいんじゃないか。優日ちゃんの方は俊也が看てくれているから」
「いえ、そんなわけには……」
「……今日はここにいろ」
強い口調で言われ、私はなにも言えなくなりました。
「俺が泊まって行くってのは無理だけど……それでも出来る限りは一緒にいるから。今日だけは休養日だ。な?」
「……はい」
今日は……誰かに甘えていたい。
今日は……誰かに傍に居て欲しい。
私がそんな気持ちだと知っているのか、浩司さんの優しさは嬉しかったです。
怖かった。
姉さんがいなくなってしまうって状況に直面した時……何も考えられなくなって、ただただ怖かった。
大切なものを失ってしまう喪失感。
そんなはっきりとしたものだけじゃなく、色々な思いがごちゃ混ぜになって……。
「……っ」
震えが止まりません。
「とりあえず状況を整理しようか」
浩司さんはそう言って、私の横に座り、私の手に自分の手を重ねました。
それだけで、少し安心してしまいます。
「優日ちゃんは今、状態が回復して病室で寝てる。一時的なものだったらしくてね」
「はい……」
そういえば、おぼろげながらそんな事を聞いた気がします。
だから私は、不安にならずに、こうして落ち着いていられるんでしょうね。
姉さんは大丈夫だった。
その情報だけは覚えてますから。
「そして、俊也に看病を任せて、俺は君を着替えさすためにこの家に来た。そして君は着替えた後、この部屋で寝てしまった」
覚えてるか? と言われ、なんとなくしか思い浮かびません。
そんな状態で私はこの家の鍵を開けたり、着替えたりしたんですね。
今、浩司さんが優しくしてくれている理由が分かります。
私……精神的に危なかったんだ。
「もう一回言っておくか? 優日ちゃんは今、病室で寝ている。命の危険はない」
「……はい」
そう大丈夫だった。
それでいいんです。今回のことは。
後は私が、しっかりすれば……。
「ダメ、ですね」
「なにが?」
「私、姉さんがいなくなるかもしれないっていう状況に直面して……姉さんは無事だったのに、今もこんな感じで……」
実際に、失うことを考えると……。
「怖くて……」
両親が亡くなった時の思いが、洪水のように雪崩れ込んできて。
……あの時は、姉さんがいたから頑張れました。
だけど、今度は……。
「独りは嫌です……嫌なんです」
きっと、耐えられません。
「……」
私の言葉をじっと黙って聞いてくれていた浩司さんは。
手を握る力を少し強くして。
「大丈夫、だろ? 絶対に助かる、だろ?」
「……」
「実際、治療が上手くいってないってのは分かってる。今回のようなことが何度も起これば優日ちゃんにとって良くないってこともなんとなく分かる」
そうです。
今回"は"助かった。
それだけなんです。
「でも……それでも、絶対治るって信じてやらないと。俺たちが先に諦めてしまったら……優日ちゃんはどうするんだ?」
姉さんのことですから……それでも、笑って。
独りで黙って……耐えるんでしょうね。
「彼女を、独りで闘わせる気か?」
「……いいえ」
そんなことは、できません。
「なら、今日だけだ。こんな弱音を吐くのはな。弱音を吐いていいのは優日ちゃんだけ。そう決めたんだろ」
「……はい」
怖い。
失うことを考えると、今でも怖いです。
しかも、その時が訪れてしまうのが、現実味を帯び始めていて。
それでも、この恐怖と……この絶望と。
私は、闘わなければなりません。
だから……今日だけは……。
「あの、お願いがあるのですけど」
「ん?」
「……抱きしめてくれませんか?」
甘えさせてください。
「へ?」
私がそう頼むと、浩司さんの動きが止まりました。
……随分と恥ずかしいことを頼んでますよね。
自覚あります。
「あ、あの……良ければ、でいいんですが……」
「い、いや……いいけど」
そう言う浩司さんの顔が赤くなっているのが分かります。
……言って後悔です。
でも、もう取り消すのも気まずいですし。
「じゃ、いくぞ?」
「あ……は、はいっ」
浩司さんは、恐る恐ると言った感じで、両手を広げ、私の身体を包みました。
優しく。
まるで、壊れ物に触るかのように。
「……」
……たったそれだけのことなのに。
すごく安心できて。
自分の身体を全て預けてしまう。
「……もっと強くてもいいですよ?」
「ああ。……頑張れ、俺の理性」
なにか聞こえましたが、すぐに力強く抱かれ、聞き取れませんでした。
少しずつまどろんでいく世界の中で。
私は一つ決意をしました。
もう、恐怖に負けない、と。
◇◇◇
「……はぁ」
病室の中に僕のため息の音だけが響いた。
ベットで眠っている優日を見る。
数時間前まで苦しんでいたとは想像もつかないほどのやすらかな顔で寝ていた。
「……」
大事にならなくて本当に良かったと思う。
紗衣香ちゃんがずぶ濡れの姿で立ち尽くしていたのを見たときは、もうダメだとも思ったけれど。
それでも、こんなことが何度も起こるような……優日の命は終わってしまう。
「……時間がない」
これ以上、薬の効果を強くすることはできない。
今使っているものだけで、今回のような副作用が出ているんだ。
副作用で苦しむ優日の姿を見ていたくないし、なにより優日の身体が耐えられるだろうか。
……もう薬による回復にはあまり期待できなくなった。
「……はぁ」
また、ため息が出る。
どうしたらいい?
色々な治療法があるのは調べた。
だけど、どれもこれも優日の身体が耐えられるという保障がない。
「くそっ」
焦ったってどうしようもない。
なにも事態は好転しないのだから。
分かってる……分かってるけど……。
暗い闇の中に放り出されたかのように、何も見えず。
どこに進んでいいのか見当がつかなかった。
なにが正解なのか。
どうすれば優日のためになるのか。
そんな問いかけも、闇の中へと吸い込まれていく。
まるで、そんなこと考えても無駄だと、囁きかけられているような感覚がした。
「……ん」
目の前の優日が声を上げた。
黙って見ていると、静かに目を開ける。
「大丈夫?」
「……俊也、さん……?」
寝たまま少し辺りを見回して。
「私、助かったんですね」
そう言った。
「ああ。ちゃんと生きてるよ」
布団の中の優日の手を握る。
強くしっかりと。
「……はい」
その感触を確かめるかのように握り返し、ゆっくりと頷く優日。
「死んじゃうかもって思ったんですよ……苦しくて、息が出来なくて……そんな時、紗衣ちゃんが……」
その名前を出した途端、はっとして。
「そういえば、紗衣ちゃんはどこに?」
「今は自分の家に戻っているよ。えっと、この町の」
「実家に、ですか?」
「なんかずぶ濡れでね。優日が大丈夫だって聞いて、僕が優日を看ている代わりに着替えてもらうことにしたんだ」
「心配……かけましたよね」
あの時の紗衣香ちゃんは放心状態に近かった。
……大丈夫だろうか。
「……私が苦しんでいたときに呼びかけていた紗衣ちゃん……泣いてました」
「こうして無事だったんだ。大丈夫だよ。それに浩司もついている」
「……はい」
いつも冷静で、頼もしい紗衣香ちゃんなのに。
どうしてあんな状態になったのか。
「……」
いや、なんとなく予想は着いた。
きっと、失ってしまうと思ったんだろう。
優日を。
その事態に直面してしまったから……怖くなって。
「俊也さん……?」
「なに?」
「いえ、なにか怖い顔をしていたので」
「あ、ごめん。なんでもないんだ」
優日に心配させるわけにはいかない。
あくまでもいつも通りに。
「それより、今日はゆっくり寝るんだ。あんなことがあった後だ。疲れてるだろ?」
「ふふっ。今まで私は寝ていたんですよ。眠れるわけないじゃないですか」
だから、話し相手になってください。
そう言っているようだ。
彼女の体調を心配してしまうんだけど……きっとそれは逆効果なんだろうな。
「そういえば、紗衣香ちゃんはずぶ濡れになっていたけど、どこか行っていたの?」
「実家です。着替えを持ってくるとかで」
その帰りに雨に打たれたのか……あれ?
「傘……なんで差して来なかったんだろ」
「……あ、実家に今、傘ありません」
「え?」
傘がない家、というのが想像つかないのだが。
「この前、家じゃもう使わないだろうと思って、診療所の方に……」
「そういえば、カラフルな傘が何本か増えてたね……それで紗衣香ちゃんは雨に打たれたのか」
「……すっかり忘れてました」
紗衣香ちゃん、気の毒に。
でも、それだったら家で雨が止むまで待っていたらいいんだけど。
何か、こっちに急いで戻る必要があったんだろうか。
「紗衣ちゃん……また無理しちゃったんですよね」
「……無理?」
「元はといえば……私が悪いんですけどね」
話が読めなかった。
「無理ってなんのこと?」
「紗衣ちゃんが、雨の中病院に戻ってきたこと、です」
「それは、気になってはいたけど……」
「……私が、寂しそうにしていたから、紗衣ちゃんは無理をしたんですよ」
まるで、それがいけないことのように、優日は言った。
「……紗衣香ちゃんは"そうしたい"と思ったから雨の中帰って来たんだ。それは紗衣香ちゃんが望んだことで、優日が悪いと思う必要はないよ」
「……」
それでも、優日は顔を伏せたままで、
「……そういうことじゃ、ないんですよ」
「……優日?」
「いえ。なんでもありません」
「……」
少し気になるけど、ここは放っておくか。
そう決め、優日のベッドの横に座った。
そして、優日の手を探し、握る。
「……どうかしましたか?」
「いや、なんでもないよ」
……温かい。
僕の大好きな温もり。
これを失うわけには絶対にいかない。
だから……。
「優日、穂波診療所に来ないか?」
後悔のないように。
少しでも一緒に過ごせる場所へ。
そして、少しでも助かる可能性がある場所へ。
「……診療所に、ですか?」
あそこは療養所。
優日のような患者が入院できる設備は整っている。
それに、空気は綺麗だから、時間を過ごすには最適の場所だ。
そう、説明した。
「だから、どう?」
「……私にはなにも言えません」
「……だよね」
これは僕の勝手な判断だ。
通すには優日の担当医と浩介さんに話を通す必要がある。
でも、薬は強く出来ない。
病状はどんどん悪化していく。
優日の現状には、やっぱりドナーが必要だと思う。
それが見つかるまでのあいだだけでも。
「とにかく、僕から話してみるよ。優日はどう? 転院できるんだったら、したい?」
「……考えさせてください」
「……そっか」
……僕だけのわがままなのだろうか。
優日も一緒にいたいと思ってくれていると思っていたけど。
……そんな簡単なことでもないか。
「そういえば、柚華さんが帰ってきたよ」
「え? ホントですか?」
「ああ。今日の昼ごろに」
「元気そうでしたか?」
……正直に話しても、優日に心配かけるだけ。
それに、優日に会う頃には、いつもの柚華さんに戻っているはずだ。
「ああ。暑い暑い言いながら帰って来たよ」
「そうですか。良かった」
優日は本当に安心したように、ほっと息をついた。
「早く……会いたいですね」
「すぐ来てくれるさ」
そういえば、浩介さんたち、心配している……よな。
こっちに来てからなんの連絡もしていない。
「優日。ちょっと電話してくるよ」
「あ、はい」
イスから立ち上がり、病室の扉へと向かう。
その時。
「俊也さん」
後ろから、声がかけられた。
振り向く。
すると、優日は僕の方を見ないで。
「……どこにも行かないでください」
消え入るような声で、そう言った。
「……優日?」
突然、そんなことを言い出すのを不思議に思い、名前を読んだ。
すると優日はこっちを向いて……。
「冗談です」
無理しているような感じはなく。
とても自然に、笑った。
「……そっか」
僕は、優日がどうしてそんなことを言ったのか、理解できずに。
ただ、曖昧に頷くことしか出来なかった。
「そう。良かったよ」
受話器の奥から聞こえる浩介さんの声は本当にほっとしているようだった。
「それで、今日はそっちにいるのかい?」
「ええ。そうしようと思っています。浩司の方は分からないですが」
「しばらくそっちに居てもいいよ。心配だろう?」
「ええ、そうなんですが……あの、柚華さんはどうですか?」
優日の報告もそうだけど、そっちの方が気になっていた。
「ああ、大丈夫だよ。心配しなくていい」
「そうですか。少し話をしたいなと思って」
「……そうか。ちょっと待っててくれ」
少し間が空いたのが気になったけれど、それでも話せるくらいにまでは回復したのか。
帰ってきた時は、会話すらもおぼつかない様子だったからな。
さすが浩介さんってことか。
「……もしもし」
「柚華さん、ですか?」
思わず確認してしまうくらいに、その声は掠れていた。
「うん。ごめんね、心配かけて」
今でも十分に心配なんですが……。
それでも、聞かなくてはいけないことがあるから……すいません、柚華さん。
「いえ……それで、聞いてもいいですか?」
「……私が一ヶ月なにをしてのか、でしょ」
「優日に関係あること、なんですよね?」
沈黙。
長い静寂が、僕と柚華さんを包む。
「……私はね。ただ会わせたかっただけなのよ」
静かに、掠れた声でそう言った。
「会わせたかったって、如月美冬さんと優日を、ですか?」
「……ええ、そう」
「……それは、どうして?」
美冬さんが会いたいと言ったのか。
優日が会いたいと言ったのか。
それとも、誰かに頼まれたのか。
「……どうしてだろうね」
「え?」
「誰も望んでいないのに……私が勝手なことをしようとした。そういうことよ」
……つまり、柚華さんは美冬さんに優日と会って欲しいと頼んだ。
それを断られた……それも手酷く、そういうことだろうか。
「どうして断られたんですか?」
「……優日ちゃんに会ったら、彼女が今までしてきたことが、無駄になってしまうかもしれないからよ」
「……色々聞きたいですが、今はよしておきます」
その理由がなんなのかは分からない。
でも重要なのは、美冬さんは会う意思がない、ということだ。
そうなると、優日のドナーになれる人なのか、ということも調べられない。
……どうしてこう上手くいかないんだよ。
「……優日の現状、なにか聞いていますか」
「ええ。浩介さんから……大変ね」
「……昔、美冬さんの白血球の型を調べた、なんてことないですよね」
「私の知っている限りでは、ないわね」
……待つしかないのだろうか。
いつ現れるかも分からないドナーを。
「……柚華さんは、どうして二人を会わせたいって思ったんですか?」
「同情……なのかもね。先輩の過去や、優日ちゃんの病気に対しての」
「……優日の方は会いたがらなかったんですか?」
「ええ。自分にとっての親は篠又だからって」
優日は、篠又の両親を本当に大事にしている。
そして、育ててもらったことを感謝していた。
自分の誇りとして、両親のようになりたいと願っている。
でも……。
「……自分を育てていないからって、その人を親だと思わないのは……優日らしくない気がするんですけど」
「え?」
「優日は、人との出会いを大切にします。自分が、そういう出会いで救われてきたからって」
そんなのことを考える人間が、自分を産んでくれた親を、ないがしろにするだろうか。
会いたくないと思うだろうか。
「……なにか理由があるってこと?」
「分かりません。ただ、そう言った優日が不自然だなって、感じたんです」
「……」
考え込むように黙り込んだ。
「すいません。根拠は無いんです」
「……ねぇ、俊也くん」
「なんですか」
「先輩……如月美冬が何処にいるか、知ってる?」
「……え?」
◇◇◇
部屋に戻って、ベットに横になる。
でも、眠気はなく、それだけに色々と考えることが出来そうでした。
「……ふぅ」
さっきは、我ながらずいぶんと恥ずかしい時間を過ごした気がします。
思い出すと、顔が赤くなってしょうがありません。
「浩司さん、優しかったなぁ」
本当に優しい人です。
私が大丈夫って言わなかったら、ずっとついててくれる気だったんじゃないでしょうか。
このままだと、もっと甘えてしまいそうで……。
「そんなの、ダメですよね」
誰かの優しさに甘えるだけの人間にはなりません。
昔、それで私は失敗したんですから。
「……姉さん」
本当は私が今、姉さんについていてあげなくてはいけないのに。
あの現場を見てしまったからこそ、「大丈夫ですよ」って姉さんに知らせなくてはいけないのに。
じゃないと、姉さんは心配します、そして……自分を責めるでしょう。
何も悪いことなんてしていないのに。
「……弱すぎますね。私」
両親の死から立ち直って、少しは強くなったと思ったんですが。
まだまだ、姉さんに頼ってしまっているみたいです。
……こんな私が、姉さんを支えられるわけありませんよね。
「だから、強くならないと」
すぐには無理かもしれません。
でも、私は一人じゃありません。
先生や浩司さんがいてくれています。
それなら、少しずつでも、色々なことに耐えていけるようになります。
今回のように。
「そういえば、浩司さんが気になることを言ってました、よね」
柚華さんが帰ってきたって。
なんの用事かは分かりませんが、それが終わった、ということでしょうか。
……最近は良いことがあまりなかった気がしますから、嬉しいことです。
ですが……。
「元気がなかった、ですか」
問題が増えた、という感じがしないでもありません。
……実際に、会って話を聞かないと。
理由を聞いたときの、"今はまだ"はもう通用しません。
もう、まだと言えるような時間なんて、きっと残されていないのですから。
「……寝よう」
これ以上、一人でうじうじと考えていても、しょうがありません。
明日からは、私はいつも通りに。
もう、簡単に取り乱したりしません。
そう心強く誓い、目を瞑りました。
◇◇◇
電話を終え、優日の病室へと戻っていた。
でも、戻る足取りは重い。
まるで、水の中を歩いているように、上手く足が動かなかった。
「……」
どうして柚華さんはあんなことを言ったのだろう。
(美冬先輩はね。あなたのお父さんの近くに住んでいるわ。すごい豪邸だから分かりやすいとは思うけど)
どうして、そんなことを教えるのだろうか。
(簡単には会えない。私だって話をする約束を取り付けるのに一ヶ月も掛かったわ)
僕に、どうしろと言うんだ。
(私は……ただ会わせたいってそれだけだった。でも君は違う。それに優日ちゃんの病状がよくない)
それを、選べって言うのか。
(君なら、出来るかもしれないのよ)
柚華さんのように一人で、優日から離れて……如月美冬さんを説得に……?
(……考えておいて)
「ダメだ」
一緒にいるって約束したんだ。
人に遠慮ばかりして、どんなに寂しくても我慢してしまう優日が、望んでくれたんだ。
その約束だけは、守らないといけない。
でも、もし彼女がドナーになれるとしたら……優日の命が助かるかもしれない。
「……でも、無駄に終わるかもしれない」
結局、堂々巡りだ。
如月美冬さんに会うまでは。
「……優日」
病室の前に着く。
今、心配なんて掛けられない。
何事も無かったように、そう振舞わなければ。
目を閉じ、心を決めてドアを開けた。
「……俊也」
最初に目に飛び込んだのは、浩司の姿だった。
なんだろう、なにか嫌な空気が流れている気がする。
浩司は僕から目をそらした。
……なにがあったんだ?
「浩司、紗衣香ちゃんの方はもういいのか?」
「ああ、大丈夫だ。心配しなくていい」
「それを知らせに来てくれたんですよ、浩司さんは」
明るい声でそう言う優日。
まるで、この雰囲気をごまかそうとする様に。
「浩司……?」
僕は思わず目で訴えた。
なにがあったの? と。
でも、浩司は何も答えようとしなかった。
……なんなんだよ。
「浩司さんはもう穂波町に帰るみたいです」
優日が変わらずに明るい声でそう言う。
「帰るって、こんな時間に?」
もう結構遅い時間だ。
穂波町に着く頃には日付が変わってるんじゃないだろうか。
「……ああ、母さんが帰ってきてるんだろ? 顔出しとかないと」
「そう。分かったよ」
「……それじゃ」
そう言って、浩司はなにかを避けるように足早に去っていった。
「……なにかあった?」
この部屋に入ってからの疑問を優日にぶつけてみる。
「いえ、なにも」
だけど、優日にははぐらかされてしまった。
……大方、浩司が優日になにかを言ってしまったんだろう。
そう、片付ける。
もう面倒ごとはごめんだから。
深く考えないようにした。
「浩介さんがお大事にって、それに柚華さんも近いうちに会いに来るってさ」
「久しぶりですもの、楽しみですね」
そう言って笑う優日。
「……そうだね」
優日の現状で、こうして笑うことができるのは……本当にすごいと思う。
本人が一番分かっているはずだ。
そして、一番恐いはずなんだ。
僕に心配させないためなのか、それとも自分を鼓舞しようとしているのかは分からない。
それでも……こうやって、何かを糧にして、笑っていられる。
……そういう強さが、僕にはあるだろうか?
「俊也さん?」
「あ、いや、ごめん。なんでもないよ」
優日が僕の顔を覗き込んでいた。
心配ないと微笑んで、優日の手を握った。
「さぁ、今日は疲れたろ? こうして傍にいるから安心して寝ていいよ」
「俊也さんだって……気を遣わないでいいですから」
「僕は大丈夫。それに優日の手を握っていたいからね」
「……分かりました」
優日は照れくさそうに、それでも嬉しそうに笑うと目を閉じた。
「……ねぇ、俊也さん」
「……ん?」
「私、俊也さんの考えに賛成、です」
「僕の?」
「診療所に転院することですよ」
……良かった。
それが正解なのかは分からないけれど。
もっと、一緒に過ごすために。
「……ありがとう」
返事はなく。
変わりに優日はスースーと寝息を立てていた。
この時の僕は知らなかった。
浩司と優日が、なんの話をしていたのかも。
優日がなにを思って、僕の考えに賛同してくれたのかも。
なにも、分かっていなかった。