「今日も暑いな」
優日の病室。
窓を覗きながら、そんなことを呟いた。
病室から差し込む日の光は熱を含み、夏だということを知らせている。
「そうですね」
優日も眩しそうに目を細めている。
顔色は少し良くなり。
それでも気だるさは拭えないのか。
まだ言葉に元気さはなかった。
「柚華さん、まだ帰ってきてないんですよね」
「うん」
柚華さんが東京へ行ってから一ヶ月は経とうとしていた。
あれから一向に連絡はなく、なにをしにいったのかはよく分からない。
優日や僕にもその理由は伝えずに行ってしまったからだ。
だけど、優日の実家に行ったこと、東京に行ったこと、そして優日の病気。
これらを考えれば、なんとなく想像が出来た。
きっと、如月美冬さんに会いに行っているんじゃないか、と。
でも、ただ会いに行くだけならこんなに時間は掛からない。
そこだけが、引っかかっていた。
「東京はきっと、ここより暑いんでしょうね」
「そうだろうね。今頃、喫茶店にでも入って涼んでるんじゃないかな」
暑い暑い、と言いながらテーブルに倒れこんでいる絵が思い浮かぶ。
優日もそう思ったのか、一緒に笑ってしまった。
窓から見える広く透き通るような青空。
肌に焼け付くような日差しを放っている太陽。
その太陽の光を受け、繁々と新緑を讃えている木。
季節は八月を迎えていた。
昔語(二十一)『きっかけ』
「俊也くん?」
「……あ、はい」
不意に名前を呼ばれた。
「大丈夫かい? 疲れているなら無理はしない方がいい」
浩介さんが少し心配そうにしながらそう言ってきた。
「今もぼーっとしていたみたいだし。こっちのことは私に任せていいんだぞ」
「すいません。大丈夫です」
何度か呼ばれていたのだろうか。
何も考えずに黙っていたのは本当だったために、少し恥ずかしい気分になる。
「優日ちゃんの調子はどんな感じだい?」
「……なんとも言えません」
一ヶ月。
薬による治療は、なかなか上手くいっていなかった。
でも、薬の副作用は優日を確実に苦しめていて。
実際、不安は増すばかりだった。
「いつ体調が変わるか分かりませんし、見ている方としては気が休まらなくて……」
「……」
「僕が不安になっててもどうしようもないことなんですけど……ね」
「……俊也くん」
「はい?」
呼ばれて、視線を向ける。
何故か浩介さんは真剣な顔をしていた。
「こんなことを今言うのは不謹慎なのかもしれない。それでも、言っておくよ」
「……?」
一呼吸置く。
「後悔のないように」
「っ」
その言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
「こうしておけば良かった、こんなことをしておけばよかった、これを言っておけばよかった、とか」
「……」
「そういう後悔のないように、今を大切に」
「……浩介さんはなかったんですか?」
遠い昔の話。
僕や浩司はあまり聞いたことがない人。
浩介さんの前の奥さん。
「……私の場合は、母体に危険があるって分かっていたしね。二人でよく相談して決めたことだったから、覚悟はしてたよ」
「……相談ですか」
「最初、私は反対していたんだ。子供は欲しかったけれど、なにより楓の方が大事だったからね」
僕も同じ立場だったとしたら、浩介さんと同じことを言うだろう。
命を天秤にかけるなんていうのは、いけないことだけれども。
それでもやっぱり、優日に生きていて欲しいと思う。
「ケンカにもなったし、酷い時には一週間も口を利かなかったことをあるよ」
そう言って苦笑する浩介さん。
「それでも……授かった命をこの身体で産んでみたいと、そう押し通した彼女に負けて、産むことに決めたんだ」
「それで、後悔はなかったんですか?」
「決意したから後悔はなかった……とは言えないか。少しはあったと思う」
だけど、と続けて。
「産まれて来た子供が……浩司がいたから、落ち込んでいる暇はなかったかな」
そう言って笑う。
笑えるようになったんだ、この人は。
……僕にはとても出来そうになかった。
例えば……もし例えばの話で、優日が死んでしまったら……僕は生きることを選べるだろうか。
「自信……ないな」
たとえ、それが一時の絶望であったとしても。
僕はそれに押し潰されてしまうだろう。
「浩介さんは……どうして」
「ん?」
「どうして、今、笑っていられるんですか?」
愛する人を失って。
どれだけの絶望を味わったのか。
そして、それをなぜ乗り越えられたのか。
「忘れていくから、かな」
発された言葉は、僕には理解できないことだった。
「……え?」
「寂しさとか、哀しさとか、そういった感情は薄れていくものなんだ」
それもきっと寂しいことなんだろうけどね、と浩介さんは呟いた。
「それに、さっきも言ったけれど浩司がいたから。そういったことを感じる頃には、もうかなり時間が経っていた」
心の傷を癒してくれるのは時間だけ。
そう言ったことを聞いたことがある。
「……だから、ですか?」
浩介さんは苦笑する。
「どうかな……『がむしゃらだった』ってそう言えばまだ聞こえいいのかもしれないね。だけど、あれはただ生きてただけだよ」
「……どういう意味ですか?」
「目的も目標もなく、ただ何も考えずに、これをしないと、あれをしないとって……」
……ようやく、なんとなくだけど、分かった気がした。
浩介さんの苦しみが。ほんの少しだけ。
「だけど、それが良かったんだと思う。悲しさや寂しさに押しつぶされて……命を投げ出すようなことを選ばなかったんだから」
今の僕からすると、優日がいなくなってしまったらきっと「生きていこう」とは思えない。
それだけ大切だと思える人だから。
だけど、浩介さんは楓さんが亡くなっても生きてきた。
僕や浩司を育ててくれた。
それは、とてもすごいこと、なんだと思う。
「……どんなに辛いことがあっても、哀しいことがあっても、人間ってなんとかやっていけるんだよ」
「……」
「お腹はすくし、眠気だってくる。絶望なんて言っててもね。それが人間の強いところでもあり、醜いところなのかもしれないね」
生きるための本能。
それを身体は勝手に求めてくる。
自分の思いとは関係なく。
「っと、話が外れたね。私のことはいい。私が言いたかったのは後悔しないようにしてほしい。ただそれだけだよ」
「……わかりました」
どれほどの時間をかけて、この人は笑えるようになったんだろう。
きっと、僕や浩司の知らないところで、浩介さんは闘っていたんだ。
そして、それを支え、立ち直らせたのは……。
「……ただいま」
「……え?」
柚華さん……?
久々に聞いた声は、とても疲れていて。
暗く沈んだ声だった。
◇◇◇
病院の外。
すぐ傍にある公園に、私は浩司さんと二人で来ています。
公園の脇にあるベンチに腰掛けて、浩司さんに向き直ります。
「今日は、どうしたんです?」
今日、先生は診療所にいます。
浩介さんばかりに任せてられないということで、今日は私が姉さんに付いていたのですが……。
「いや……なんとなく暇でね」
「暇って、学校はどうしたんですか?」
いつも先生と一緒に来る浩司さんが今日は一人。
……何かあったんでしょうか。
「あぁ……サボってきた」
信じられないことを言います。
「先生がサボってどうするんですか……」
ため息しか出てきません。
どうしてこう不真面目にしているのに、この人はクビにならないんでしょう。
「……あのさ」
「はい?」
浩司さんが身を乗り出してきました。
何かを迷っているような、そんな素振り。
「あ……いや、優日ちゃんの調子はどうだ? ほら、本人いると聞きづらいだろ?」
……話を変えた?
「……調子は良いとは言えません。治療が始まってから、そんなに良い状態ではありません。逆に行き詰っているというか……」
状況は決して良好ではありません。
一ヶ月前とほとんど変わらない状態。
いつ体調が変化してもおかしくありません。
「……そう、か」
「……どうしたんですか、本当に」
私に聞きたいことは、これではないはず。
なにを迷っているんでしょう?
「……なぁ、手術って、どうなんだろう?」
「手術、ですか?」
「俺、聞いたんだけどさ。骨髄移植ってのがあるんだろ」
骨髄移植とは……正確に言えば造血肝細胞移植療法という治療法の中の一つの方法です。
骨髄の中には、あらゆる血液の細胞の元となる、造血肝細胞というものが存在します。
つまり、骨髄の中の血液の細胞が悪くなっていれば、身体全体に回る血液も悪くなってしまいます。
それを、癌に犯されていない正常な造血肝細胞を注入することで、根元から治すというのが、骨髄移植という治療法なのです。
「それって、出来ないのか?」
「……適合する人がいないのです」
「適合って?」
「白血球には型があるんです。HALって言うんですが、それが一致、またはほぼ一致しない限り、それを行うことは出来ないんです」
造血肝細胞の提供者を、一般的にドナーと呼びます。
ドナーは兄弟や姉妹、親子と血縁者の方が型が合いやすいと言われていますが、それでも適合する確率は25%と低く、非血縁者だとしたらもっと確率は低くなってしまいます。
「姉さんに……血縁者はいません。産みの親だってどこに居るのか分かりませんし、兄弟がいるのかも分かりません」
その為に、全国から自分の白血球の型と適合するドナーを探すことが出来る機関−骨髄バンクというものがあるのですが……それでも姉さんの型と合う人は見つかりませんでした。
「それに、姉さんの体力の問題もありますし」
「……喘息か」
最近は、治まってきているように見えますけど、いつ発作が起きるか分かりませんし。
その時に病気の進行状態によっては命に関わってしまいます。
「それで、それがどうかしたのですか?」
「……いや、状態が思わしくないっていうのは俊也から聞いててな。何か手はないだろうかって思ってさ」
「そうですか、ありがとうございます」
「……大丈夫、なんだよな」
望みに近い問いかけ。
私だってそう思いたいです。
でも、現実は……。
「悪い。なんかおかしいな。今日の俺は」
「……浩司さんがおっしゃったことですよ。悪いことは考えないようにしましょう」
「……ああ」
……先生も同じような調子。
時折、思いつめたような顔で、じっと黙ったまま考え事をしているときを見かけます。
姉さんだって、それに気づいているのに。
何も言わないでいるようですが、また面倒なことにならなければいいのですが。
「でも、その白血球の型ってのが合えば、手術は出来るんだろ」
「合えば、ですけど。あとは姉さん次第になりますね」
確か、手術するには身体の中の癌細胞を限りなく少なくしなければいけなかったはずです。
姉さんは今、その段階で上手く行っていないのですから……本当に不安になってしまいます。
悪いことは考えないようにしたい。
でも……。
「なら、見つかるさ。きっと大丈夫」
そう思いたい。
それが例え、私たちだけの願望だったとしても。
「当の本人は落ち着いたものなんですけどね」
「あれは……逆に心配になってくるよな」
自分の身体のことは自分が一番分かっているはずです。
身体が重く、しんどそうにしているのは見てて分かります。
だけど……姉さんはまったく弱音を吐きません。
それどころが、いつも笑顔で……。
「無理しているふうに見えないので、何も言えないのですけど……」
「……俺たちに心配かけないようにしているのか分からないけれど、あれでいいのか?」
「……」
姉さんは絶対に本音は見せません。
全部、自分の中で抱え込んで……。
「それが、姉さんにとって普通なんです」
自分自身のことが疎かになって、他人の心配ばかりして。
それで今までどれだけ、家族を心配させたことか。
「……半分は私のせいもあるんですけどね」
「どういうことだ?」
「昔の話ですよ」
そう。
私が大馬鹿者だった時の話。
思えば私は私でそれに縛れている……のかもしれませんね。
でも、大切な思い出でもありますから。
あの約束だけは絶対に曲げたくありません。
「……まぁ、こうなったら俺たちがしっかりすればいいさ」
私が話そうとしないことを悟ったのか、浩司さんは話を変えました。
「俺は俊也。紗衣香ちゃんは優日ちゃんを。そうやってフォローしていけばいい」
「……はい」
「まったく手のかかるヤツらだよ」
そう言って笑う浩司さんには、いつもの元気がなく。
私自身も、どうしたらいいか分からないまま。
結局、ただ時間だけが流れていく。
……先生。私は、あなたを信じていていいんですよね?
姉さんを守ってくれると。
◇◇◇
「……はぁ」
外を歩けば、じりじりとした太陽の光が差していた。
ただ数分歩いただけで、肌にはしっとりと汗が滲み出てきている。
病院も暑いのだろうか。
優日は、今日もまた薬の副作用に苦しんでいるのだろうか。
「……はぁ」
二度目のため息をつく。
そして、出たばっかりの診療所を振り返った。
一ヶ月ぶりに帰ってきた柚華さんはすごく疲れていた。
体力的にとかじゃない、あれは精神的にだ。
目は虚ろで。身体はどこに力を入れているのかフラフラしていて。
よくここまで帰ってこれたなというくらいに。
だから、浩介さんはすぐに僕を追い出したんだ。
その姿を自分の子供同然である僕に見せるわけにはいかなかったから。
「いったい……なにをしてきたんだよ」
想像は出来る。
だけど、その想像じゃ、今の疲れ果てた柚華さんの姿になるということが結びつかない。
「美冬さんに会って来ただけじゃないんだろうか」
美冬さんに会ってきたのは、きっと優日のことに関しての相談だろう。
何の相談……?
優日に会ってみないかとかだろうか。
だけど、それなら今じゃなくたって行けるはずだ。
「もしかして……HALか?」
そして、実の親である彼女なら、白血球の型が合うかもしれない。
でも、適合したのだとしたら、あんな状態では帰ってこない。
ということは……。
「……くそっ」
時間はあまりない。
何故かそう感じる。
きっと、僕が後悔してしまうような事態が、近いうちに起きる、と。
「僕にはなにが出来る……?」
後悔しないように、僕が出来ることはなんだろう。
今までと同じでいいのか?
優日の傍にいて。
優日を支えてあげればいいのか?
それで僕は後悔しないのだろうか?
「……違うだろ」
もうそう考えるのはやめたんだ。
僕は僕が出来ることをする。
それは優日の傍にいること。
それ以上はない……ない、はずなんだ。
「僕じゃなく、優日が笑っていられるように……その為に行動するんだ」
(その結果、彼女が死んでしまったら?)
「……っ!」
(その時、僕にはなにが残るのだろう?)
「……うるさい」
(それはきっと、後悔だ。なにも出来なかったという、罪の意識だ)
「うるさいっ!」
(それが嫌なんだ。だから行動したいと思うんだ)
「うるさいって!」
("彼女"ではなく、"自分"が後悔したくないから)
「くっ!」
……分かってる。
でも、それはもう考えるのは止めたんだ。
彼女の病気が治るというのなら、僕はなんでもしよう。
だけど、それが彼女から笑顔を奪うことに繋がるというのなら、そんなことするわけにはいかない。
たとえ……過去の自分が、罪の清算を求めていたとしても。
「そうだ……それでいいんだ」
残るのは微かな不安だけ。
そんなもの、気づかないフリをしていればいい。
それで、優日が笑っていられるのなら……。
◇◇◇
「あれ? 浩司さんは?」
病室のドアを開けると、姉さんが不思議そうに聞いてきました。
「もう帰るそうです。姉さんに頑張ってって言ってましたよ」
「そっか。珍しいよね、一人で来るなんて」
横になっているところを、起き上がる。
そうするだけでも、辛いはずなのに。
「……それは暗に先生に来て欲しかったと言ってるんですか?」
「そ、そんなこと言ってないけど……」
赤い顔になる姉さん。
というより、こんなことで恥ずかしがらないでください。
付き合ってるくせに。
「どうです? 調子は」
「ん、朝よりはマシかな。痛みもないし」
「……そうですか」
とてもそうは見えない、ですけどね。
顔は血の気があるように思えないくらい真っ白ですし。
「そういえば、紗衣ちゃん……浩司さんはどうなの?」
「……? どうってなにがです?」
「男の人として」
「……はい?」
何をいきなり言い出しますか、この人は。
「だからね。あんなに良い人いないと思うの。あの人なら妹を任せられるなーって」
曖昧に笑う姉さん。
それより、どうしてこんな話に?
脈絡なさすぎです。
「えっと……もちろん、悪い人だとは思っていませんが……」
なんと言っていいのでしょう。
私なんかがその候補に名を連ねてよいのでしょうか。
「なにか問題あるの?」
「私自身が問題ですよ」
「……?」
「つりあわないってことです」
というより、そんなふうに考えたことなんてありません。
「そんなことないと思うよ? もしかして浩司さんが紗衣香ちゃんのこと好きだったり……とか?」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
「……浩司さん、思ったより強力だねーこれは」
呆れたような口調でそんなことを言います。
どういう意味でしょうか。
「なにがです?」
「なんでもない。じゃあもし、相手が好きだって言ってくれたら付き合う気はあるの?」
「浩司さん、ですか……なんか想像できないのですが」
頼りっきりになってしまっていますし。
対等にお付き合いというのが、どうも……。
「……分かりません」
「あ、あははは……浩司さん、ガンバレ」
姉さんが小声で何か言いましたが、結局なんでこんな話題に?
「どうして姉さんがそんな心配なさるんです?」
実際、失恋させたのは姉さんなわけですし。
今はそういう気持ちになるのは無理があります。
「さっきも言ったけど、浩司さんなら任せられるって思ったんだよ。お姉ちゃんの推薦、かな」
本人の気持ち無視ですか。
「これからけしかけてあげよーかなって思ったり?」
「無茶言わないでください」
そんなの浩司さんに迷惑かけるだけじゃないですか。
「ははは、覚悟しといてね。紗衣ちゃん」
楽しそうに笑う姉さん。
病気だなんて信じられないくらいに。
でも……。
「……気分はどうです?」
「……うん。少しキツいかな」
結局、こうなんです。
私を安心させたいからこうやって軽い話をしているだけ。
「まったく……横になっててください。無理に起き上がらなくてもいいんです」
「でもせっかく来てくれたのに……」
「いつも看病している人間になに言ってるんですか?」
「それはそうだけど……」
「そういう余力は先生に使ってあげてください。じゃないと甘えられませんよ?」
姉さんは渋々とベットに横になります。
妹に気を遣ってどうするんですか……まったく。
「じゃあ、おとなしく寝ていてくださいね」
「……どこか行くの?」
「実家に。少し片付けてきます。着替えも必要ですし」
「……そっか」
曖昧に頷く姉さん。
……居たら居たで無理しますし、どっかに行こうとしたら寂しがりますし。
「まったくもう」
苦笑しつつ、姉さんに語りかけます。
「すぐ戻ってきます。だからいい子にして待っていてください」
「……うん」
姉さんに手を振り、病室を出ます。
「ふぅ」
寂しそうな姉さんの視線が頭を離れません
これじゃ、どっちが姉か分かりませんね。
……不安になっているのでしょうか。
一人になることが。
外に出ると、あんなに強かった日差しが、暑い雲に覆われていました。
一雨、来そうな感じですね。
「早く行って、戻ってきちゃいましょう」
そう言って、私は走り出しました。
◇◇◇
「おい、俊也」
行く当てもなく、歩いていると後ろから声が聞こえた。
振り向くと、車に乗った浩司が窓から顔を出していた。
「浩司。どこ行ってたんだ?」
朝からいなかったみたいだ。
学校も休んで先生としての自覚があるんだろうか、こいつは。
「優日ちゃんのところにな」
「……なにしに?」
「見舞いだよ」
わざわざ仕事休んでまで?
昨日も少し様子が変だったけど。
「……なにかあったの?」
「……まぁ、とにかく乗れよ」
そう言って、自分の横を指差す。
僕はそれに従い、助手席に座ると、診療所の方向へと走り出した。
「俊也は、知ってたんだろ?」
「なにを?」
「白血球の型ってやつ」
……現在、優日に必要なもの。
ドナーが現れたから助けられるわけではないけれど。
それでも、選択肢の一つとして、絶対に見つかってほしいもの。
「……もしかして、それを確認しに行ってたの?」
「確認……というか、紗衣香ちゃんに聞きに行ってた。それで助からないのかなって思ってさ」
「わざわざ行かないでも、僕がいるだろ」
「様子とか見たかったしな。それで……まったく見つからないんだって? 型が合う人って」
「……うん」
血縁者が近くにいない……というのが大きい。
合う可能性があるとしたら美冬さんだけ。
でもそれは……。
柚華さんはあんな状態だけれど、ちゃんと聞いておかないと。
「さっきだけど」
「あ?」
「柚華さんが帰ってきた」
「やっとかよ」
安堵するようにため息を吐く。
それと同時に、診療所に車は到着した。
「だけど、様子がおかしくてね」
「様子がおかしい?」
「なんていうか、疲れているんだけど、ただ疲れてるってわけじゃなくて……精神をすり減らしてきたかのような」
「……」
浩司は押し黙った。
車から降りることも忘れて、ただ僕の話を聞いてる。
「浩介さんが出てくれって言われて、僕は外を歩いていたんだけどね」
「ってことは、相当やられてるってことか」
「だから、今診療所に行っても、入れないかもしれない」
「……なにしに行ったんだが」
今度は重く沈んだため息。
問題がどんどん積みあがっていく。
そんな気がしてならない。
「浩司は、なにか聞いてる?」
「いや。なにも言わないで行ったからな」
やっぱり、浩司には美冬さんの存在を話していないのか。
知っているのは僕と優日と柚華さんだけ? 浩介さんはどうなんだろう。
そして、どうしてこの話を簡単に話してはいけないのか。
「でもきっと、母さんのことだから優日ちゃんに関係あることなんだろ」
「……そうだね」
……やっぱり、簡単に思いつくか。
僕だって少し考えれば分かることだった。
……大丈夫なんだろうか。
隠してなきゃいけないことなのに。
優日に親族がいるかもしれないというのをほのめかしても。
「とりあえず行くか」
「……うん」
二人とも車を降りる。
「それに親父なら、もうなんとかしてるだろ」
「そういえば、優日どうしてた?」
「……変わりなし」
「……そう」
明日は行こう。
そう思っていると、玄関の扉が僕たちが触れる前に、勢いよく開いた。
「っと、親父?」
「浩司か、俊也くんは?」
「後ろにいるけど……?」
浩司は前を譲るように、横に移動した。
僕に駆け寄る浩介さん。
その顔は必死で、どこか辛そうで。
「俊也くん、落ち着いて聞いてくれ」
そんな、嫌な前フリをして……。
「―――――れた!」
「……え?」
だから、かすかな予感はあったはずなのに。
……その意味を理解することが出来なかった。
◇◇◇
雨に濡れている歩道を、ただ走っていた。
水溜りから跳ねる雨水が靴の中に入り、中はびしょびしょの状態になっている。
「もうっ! なんで家に傘が置いてないんですか!」
髪も服も肌に張り付いてしまい、最悪の状態です。
早く帰るって約束した以上、雨が止むのを待っていられませんし……。
それよりどうして我が家には傘の一つもないのか。
それが一番の問題です。
いや……こうなってしまった以上、もうどうでもいいことなのですが。
「……恨み言、言いたくもなりますよ」
ですけど、それももう終わりです。
ようやく病院が見えてきました。
「姉さん待ってるでしょうね」
そう思うと、足に力が入ります。
早く、早く。
自動ドアが開いていく時間ももどかしく、身体を滑らせるように、中に入りました。
身体はびしょ濡れ。
こんな状態で入っては迷惑ですよね。
「確か、着替えの中にタオルが……」
これが濡れてしまってはなんの意味もありませんから、しっかり抱いて雨から守ってきたはずですが……。
「良かった。濡れてません」
服を絞って、髪を拭いて。
どのみち、着替えないといけませんね。
下着まで濡れてしまっていますし……。
とりあえず病室まで行きましょう。
「病室で……着替えられるでしょうか」
難しいかもしれませんね。
今日は診療所には戻りませんし……。
ここに泊まる訳には行きませんから……また家に?
ということはまた雨の中を?
「……はぁ」
浩司さんに電話して迎えに来てもらいましょうか。
どのみち明日は先生が来るはずですし。
戻ってしまってすぐには申し訳ないですけど。
そんなことを思いながら、病室のドアを開けました。
「姉さん。すみません。遅くな――姉さんっ!?」
そこには。
ベットの上で。
苦しそうに、胸を押さえて……いて。
「っ!」
いつから?
どうすれば?
とにかくナースコールを!
「姉さん! しっかりしてください! 姉さん!?」
駆け寄って声を掛けても返事がありません。
いえ、というより……。
「……ひゅう……っはぁ」
呼吸困難?
息が出来ないのでしょうか?
「姉さん、落ち着いて。ゆっくり呼吸を」
「さ……いちゃ……っはぁ」
「ゆっくり……ゆっくり……」
「っは……ふぅ……はぁ……」
ダメです。
上手く呼吸が出来てない。
いったいなにが……。
「どうしましたか?」
とにかく、担当医に見せないと……!
「先生をお願いします! 息が出来ないみたいです!」
「っ! 分かりました!」
事態を把握した看護士さんは、すぐに呼びに言ってくれました。
「姉さん、頑張ってください! お願いですから!!」
「だ……っは……いじょう……はぁ……だから」
そう言って無理に、そんな状況でも、笑おうとしている姉を。
私は初めて……怖いと思いました。
「無理に喋らないで! 呼吸をすることだけを考えてください!」
先生!
姉さんが苦しんでいます……!
私は……どうしたら……。
先生!!
◇◇◇
「俊也、気持ちは分かるが落ち着け」
「……うん」
病院へと急ぐ車の中。
僕はその場にいないことのもどかしさを感じていた。
(優日ちゃんが倒れた!)
浩介さんからそう聞いても、理解できなかった。
いや、理解したくなかったんだ。
ただ真っ白になって、こうして動き出すまで時間がかかった。
「どうして……」
「……」
浩司は答えない。
そうだろう。僕だって答えて欲しいから言ったわけじゃなかった。
ただ、口に出さなければ耐えられないのだ。
この拷問のような時間を。
なにも出来ないで。
優日の傍にもいないで。
おそらくは全てが終わった後、その場に到着するだろう僕自身に。
怒りで……感情が抑えられない。
「くそっ」
「……俊也」
「え?」
「そうタイミングよく、こっちの思惑通りに事が運ぶわけじゃない」
「……」
浩司はこう言いたいのだ。
運なんだ、と。
「たまたま今日は紗衣香ちゃんが付いていただけで、こういうふうに不安で、なにも出来なくて、どうしようもない時間を過ごしていたのは紗衣香ちゃんだったのかもしれない」
その方が俺は嬉しかったんだがな、と笑う浩司。
「言っておくが、これから病院に行って、どんな結果が待っていてもお前は自分を責めるな」
「……」
「悪い癖だ。それに誰も望んでない」
「……ああ」
それとな、と続ける。
「お前がいたからってなにか出来たわけでもないだろ?」
「……っ!」
その通り……だな。
なにも出来ない。
なにも救えない。
それが僕なんだ。
どんなに望もうと。
どんなに抗おうと。
それは……変わらないのかもしれない。
……でも。
それでも……。
僕にしか出来ないことを探すのは……。
悪いこと、なんだろうか?
気が付けば、今日はあんなに晴れていた空が。
暗く厚い雲に覆われていて。
雨が、ポツリポツリと降り始めていた。