――コンコン。

「はい?」
「……俺だ。俊也や紗衣香ちゃんはいないのか?」
「……大丈夫です。出ていってもらっていますから」

 ――ガチャ。

「すいません。わざわざ来てもらって」
「……ああ」
「この前のこと、考えてくださいましたか? 俊也さんが帰ってきたので中途半端になってしまいましたが」

「……なぁ、優日ちゃん。なにを考えているんだ?」

「……どういうことでしょうか。それに、私がしていることは"お願い"ですよ」
「その"お願い"が問題なんだよ」
「なにも問題なんてありませんよ」
「あるだろ! なんでだ? なんであんなことを言ったんだ?」
「……それが一番いい方法だからです」
「誰にとってだよ!?」

「俊也さんにとって、です」

「そんなわけない……いいわけないだろ!」
「……」
「あいつのことが好きなんじゃないのか?」
「……当たり前のこと聞かないでください」
「だったら! どうして」





「どうして、"私と俊也さんを引き離して"なんてお願いをするんだよ!」




      昔語(二十三)『それぞれの迷いと覚悟』






 優日が倒れてから、一週間が過ぎようとしていた。
 僕はその間、優日を穂波診療所に転院させるための手続きに追われていた。
 病気の方はあれから落ち着いており、良くも悪くもそのままの状態で、優日は少し元気を取り戻していた。

「……俊也くん」

 優日の担当医との話を終え、浩介さんが部屋から出てきた。

「浩介さん……どうでしたか?」
「……とりあえず、許可は得たよ」
「あ、ありがとうございます!」

 今日は、優日を転院させるにあたっての、最終的な打ち合わせをだった。

「これで、優日が診療所に来れます」
「……本当に、これでいいのかい?」

 浩介さんに転院の話をした時から、何回か問われたことだった。

「私は、君たち二人で決めたことなら、口出しをする気はない。それに協力だってしよう」
「……ありがとうございます」

 浩介さんの協力がなければ、実現不可能なことだった。
 もしも、優日の容態が悪化したとき、穂波診療所では手の尽くしようがないからだ。
 設備が整っていない。そして、専門的な知識もない。
 浩介さんだって、白血病についてなんでも知っているというわけではない。
 それが、一番の不安要素となった。

「……いや、やめておこう。何回も聞いたことだったね。そして答えも同じだ」
「はい……わがままばかり、すみません」

 本当に、頭を下げるしかできない。
 僕や優日のために、一番骨を折ってくれたのは、他ならぬ浩介さんだから。

「……それじゃ行こうか」
「その前に、ちょっといいですか?」

 病室へと向かおうとする浩介さんを呼び止める。
 聞きたいことがあったからだ。

「浩司……様子おかしくないですか?」

 最近、浩司が暗かった。
 なにかを思い悩んでいるというか、誰かと一緒にいても上の空のような。
 普段そういう役目は僕で、それを殴ってでも明るくさせるのが浩司だから。
 余計に僕の中で違和感は広がっていた。

「浩司が……?」

 浩介さんは腕を組んで、考えるような姿勢をとった。
 そして、深くため息を吐くように。

「……仕方ないよ」
「仕方ない、ですか?」
「いや。俊也くんは気にしなくていいよ。君は優日ちゃんの心配をしていればいい」
「……」

 僕には知る必要のないことなのか。
 それとも……僕に知られたらマズいことなのか。
 どっちにしろ、聞いても教えてくれなさそうだな。

「わかりました。それじゃ行きましょうか……優日のところへ」

 浩介さんを横切って、病室へと向かう。
 ……いいさ。
 僕だって、もう考えるのが疲れた。
 浩介さんの言うとおり、僕は優日のことだけを考えよう。







「……今日もいい天気だね」

 姉さんは窓から空を見上げて、そう言いました。
 さわやかな言葉とは裏腹に、姉さんの表情は白く。
 ベットに座っていることすら辛そうに見えます。

「そうですね」

 これでも今日は調子が良いほう。
 日に日に、少しずつ、姉さんの病状は悪化していくようでした。

「確か、今日結果が出るんでしたよね」
「うん……どうだろうね」

 先生が、姉さんを穂波診療所に転院させたい。
 姉さんが倒れた次の日。
 私が、病院に戻ってくると、先生は私にその話をしました。

「……姉さんは、診療所に本当に行きたいんですか?」
「その方が、みんなと一緒にいれるから」
「……少ない時間でも、ですか?」

 諦めているわけではない。
 そう先生に念を押されました。
 残った寿命を、診療所で過ごすために転院するのではないと。
 ……先生はそうだとしても、姉さんは?

「……生きてください」
「紗衣ちゃん?」
「……絶対に諦めないでくださいよ」
「……もちろんだよ」
「もし、諦めたりなんかしたら、一生姉妹の縁を切りますからね」
「……それは困るね」

 曖昧に薄く笑う姉さん。
 なぜでしょう。
 あの姉さんが倒れた日から……姉さんがなにを考えているか読めなくなってきました。
 ……私はあの日から、姉さんを失うかもしれないという恐怖心と闘うと決めました。
 でも……姉さんは、病気ではない別の"何か"と闘っているような気がして。
 私の覚悟と、姉さんの心が、すれ違っているように思えて……不安が増します。

「……姉さ」

 ――コンコン。

「僕だよ」

 先生の声。
 その声を聞いて嬉しそうに姉さんは返事をしました。

「どうぞ。入ってください」

 扉を開け、先生と浩介さんが入ってきました。

「優日。許可を得たよ。これで来週にでも診療所に移れる」
「本当ですか……良かった」
「これで、一緒に居られるね」
「……はいっ」

 嬉しそうに話す二人。
 どちらもお互いを大切に思っているの見ていて分かります。
 けど……この言い知れぬ不安はなんのでしょう。

「紗衣香ちゃん」

 そんなことを考えていると、浩介さんが隣に来ていました。
 そして、私のことを心配そうに見ています。

「どうかしたかい?」
「いえ……」

 この不安は私だけ感じているのでしょうか。

「……これでいいんですよね? 姉さんと先生が望んでいること、ですもんね」
「……私には分からないよ」
「そんな」
「でも、人のやることに正解も間違いもない。ただその場その場で自分を信じて行動するしかないんだ」
「……」

 違います。
 そんな聞いたような正論を言われたって……この不安は消えてくれません。
 ……誰でもいいです。
 これが、間違いではないと。
 最善の行動だと
 ……自信もって答えてくれたなら。

「……自分を信じて、それが結果的に間違ってしまったら?」
「……ひたすら反省して、後悔する」
「そして次は間違えないように、ですか?」
「同じことの繰り返し、なんだよ。結局」

 浩介さんは悲しそうに、笑いました。

「次は間違えないように、そう信じて行動して……また間違ったと後で知る」
「……」
「人生は、自分が想像しているように上手く動いてくれない」
「……そんなの当たり前じゃないですか」

 そんなの痛いほどに知っています。
 私の思い通りに世界が動いてくれていたのなら。
 両親は今でも生きていて。
 姉さんは病気になんかかからずに。
 そして、私はきっと先生と……。
 本当に……上手くいきません。

「……なら"間違った"なんて誰が決めるんだろうね?」
「……え」
「"正解"なんて誰が決めるんだろうね」
「それは……」

 ……他人が勝手に評価するものではありません。
 それは……良くも悪くも……。

「自分が決めるんだ。結局ね」

 たとえ、誰かが間違ったと言っても、私が正しいと信じていれば、それは"正しい"ことになり。
 誰もが正しいと言っても、私が間違ったと後悔すれば、それは私の中で"間違い"となる。

「……たとえ……たとえ、姉さんが……たとしたら……私は正しいなんて言えるわけありません」

 なにがどうあっても。
 誰もが納得したとしても。
 しょうがないって諦めたとしても。
 絶対に、後悔しか残らないでしょう。

「……今回のことは、"正しい"のか"間違い"なのか、きっと誰にも分からない。けど、誰もがこれでいいんだと、そう思って行動している」

 私は、なにを信じたいのでしょう。
 なにを信じたくないのでしょう。
 こうして、駄々をこねるように、浩介さんに答えの出ないことを聞いて。
 ……分からない。

「とにかく今は信じよう。どんな行動も最善であると」
「……はい」

 不安が、日に日に大きくなる。
 その大きさに、潰されないように。
 私は、なにをすればいいのでしょう……。







◇◇◇







「悪いわね。遅くに」

 夜は更けて十時。
 穂波町に戻ると、柚華さんが待っていた。
 そして、話があると言って、夜の散歩に僕を連れ出したのだった。

「いえ、こちらこそすみません、もっと早く帰ってくるべきでしたね」
「伝えていなかった私が悪いのよ。気にしないで」

 昼間はセミがミンミンとうるさく、陽射しが照りつけているけど。
 夜はひんやりとした風がたまに吹き、夜歩くには丁度いい気温だった。

「気持ちいいわね」

 目を閉じ、両手を広げながら、風を受け止めようとする柚華さん。
 そうしている姿は小さな子供みたいで、少し笑ってしまった。

「……余裕が出てきたみたいね」
「え?」
「最近、笑ってなかったでしょ?」
「……そうでしょうか」
「訂正。優日ちゃんの前以外では笑っていなかったでしょ?」

 ……本当によく見てるなぁ、この人は。

「自分ではよく分かりませんけど……」

 優日の前では普通に接することを心がけていた、からだろうか。
 確かにここのところ、転院の問題で色々と気を遣っていたから……。

「ということは、転院の話、まとまったのね」
「ええ。来週にはこっちに来れると思います」
「……そう。嬉しそうね」
「そりゃ、もちろん。このために色々動きましたから」

 そうだ。
 色々な人に迷惑をかけながら。
 ようやく、ここまでこぎつけられた。

「……そういえば、どうして診療所に? 詳しくは聞いてなかったけど」
「……優日が落ち着けるように、です」
「優日ちゃんが?」
「ええ、静養の意味で。……今の状態では、ドナーが現れるのを待つしかありません」

 優日は、遠くからわざわざ僕や紗衣香ちゃんが来ることを、心のどこかで申し訳なく思ってる。
 それは、少なからず優日の心にストレスになっているから。
 近くにいれば、そういう負担も減ると思う。

「それに、ドナーが現れても手術できなければ意味がありませんから。それまでのあいだ、なるべく負担のかからない方法をって考えて、決めました」

 悪化した場合の心配があるけれど……それでも、この方が優日には良いって思った。
 そして、優日も同意してくれたんだ。
 だから僕は、自信を持って、皆に相談することが出来たんだから。

「そう……私も優日ちゃんに簡単に会うことが出来るから、嬉しいわ」
「はい。学校のこどもたちもずいぶん心配してましたし、見舞いに行けるって喜んでます」
「……突然だったものね」

 優日は人気のある先生だったし、彼女の入院を聞いて落ち込んだこどももいた。
 あの子たちが病室に来てくれたら、ずいぶん賑やかになるだろうな。

「……これで、色々な人たちから元気を貰って、少しは調子が良くなればいいなって思ってるんですけどね」

 そう簡単ではないけれど、力を与えてくれそうな気がするから。

「そうね……頑張りましょう」
「……はい」

 僕たちに出来るのは、病気と闘っている優日を支えることだけだから。

「ねぇ、俊也くん」

 急に僕の袖を引っ張り、歩くのを止める。
 そして、真剣な表情で。

「ごめん……私、隠してることがある」

 そう言いながら、柚華さんは視線を外した。
 そして、そのまま言葉を発せず、ただ時間だけが過ぎていく。

「……っ」

 沈黙に耐え切れなくなったのか、顔を上げ。
 何かを言おうとして……でも、また顔を下げ。
 そんなことの繰り返しだった。

「……柚華さん?」

 僕の声を聞いて、動きが止まる。
 一瞬の迷い……でも、覚悟を決めたのか、まっすぐに僕を見つめ。

「優日ちゃんの産みの親である、如月美冬は……彼女のドナーになりえるの」
「……え?」

 如月美冬は……ドナーに……?
 その言葉を聞いて、一瞬意味を理解できなかった。

「ごめんなさい」

 その言葉を聞いて。
 止まっていた思考が動き始める。

「……なんで」

 言葉が出てこない。
 聞きたいことが山ほどある。
 だけど、その先が出てこなかった。
 ……いや、違う。

 身体が急速に冷めていく感覚がした。
 だけど、それも一瞬のことで、すぐに怒りがほとばしった。

「なんで黙っていたんですか……そんな重要なことを!!」

 ありすぎたんだ。
 聞きたいことが、言いたいことが。
 だから……思わず、叫んでいた。

「なんで!」

 こうしている間にも病気は進行している。
 否応もなく、優日の命の時間は削られていっている。
 それを……この人はどうして、黙って見続けることが出来たんだ!
 救えるかもしれないのに!
 どうして!

「……無駄だから」
「……どういうことですか?」
「とりあえず、手を放して」

 熱くなっていて、柚華さんに掴み掛かっていたことに今気が付いた。
 柚華さんの着ている服は伸びてしまっていて、僕はすぐに力を緩める。

「……すいません」
「……彼女、如月美冬はね。もう諦めているの」
「諦めているって……優日を、ですか?」
「……優日ちゃんというより、自分をよ」

 ……どういうことだ?
 どうして母親が簡単にこどもの死を受け入れられるんだよ。
 それに、どうして会いに来ない。

「彼女は……籠に閉じ込められて育ったの。そして一時的に解放された場所で、好きな人が出来た」

 いきなり昔話を話すかのように、柚華さんは語り出した。
 なにを話そうとしているのか。
 僕には分からなかったけれど、とりあえず黙って柚華さんの話を聞くことにした。

「そして、その人と両思いになった彼女は、籠から逃げるために、その人と駆け落ちした。そして、一年が過ぎ、優日ちゃんが生まれた」
「……」
「だけど、幸せだったのもそこまでだった。その人が、事故で死に、彼女は優日ちゃんとふたりだけになった。人生の大半を籠で過ごしてきた彼女は、優日ちゃんをどう育てたらいいかわからなく、それに働く術も知らなかった」
「……籠ってなんですか?」

 ところどころに出てくる単語。
 それはとても重要な言葉に思えた。

「……家、よ。如月家という、代々続く由緒正しい家」

 家が籠?
 ……なんとなく、閉じ込められる、隔離される、そういった言葉を連想した。

「そして、彼女は籠に連れ戻された。だけど、籠は優日ちゃんを受け入れなかった。どこかに捨てて来いと、そう言われた」

 由緒正しい家……厳しい家。
 どこの馬の骨とも知れない男のこどもは認めない。
 そういった、古い厳格な家。

「彼女は、子どもを育てて生きていくことに自信がなかった、彼女自身が一人で生活することも難しかったから、だから彼女は決意した。自分が最も信頼している人に預けることを」
「それが……篠又夫妻」
「ええ、そう。そして、彼女は籠に戻った」

 ……だから会いに来ない?
 言葉は悪くても、捨てたこどもだから?

「籠に戻った彼女には、相手が用意されていた。だけど、その相手も良い人で、彼女に結婚を無理強いしなかった。彼女の心の傷が癒えるのをひたすらに待って、そして、彼女はそんな彼に惹かれていった」
「……」
「そして、彼女はその人と結婚し、こどもを生んだ。だけど、こどもは籠が管理すると言われ、直ぐに引き離された。そして、結婚した相手も、急な病気で亡くなったの」

 ……なんだろう。
 その過去は。
 想像するのですら嫌になるくらいに、不幸な出来事。

「……彼女はね、こう思ったの。自分は呪われているって」
「……そんなの」

 不幸な出来事が重なっただけ。
 呪いだなんてあるわけがない。

「そして、呪いを生んだのは、自分の家だって……だから彼女は、籠を壊すことにした。徹底的に、何も残らないように」
「……それに、なんの関係があるんですか?」

 ここまで聞いてきたけれど、それが優日に会いに来ないことの説明にはならない。

「……彼女は、そのために全てを捨てる覚悟をしたの」
「だからって、美冬さんの事情に、優日は関係ないじゃないですか!」
「そう。関係ないのよ。だから巻き込みたくないの。彼女の事情に……復讐に」
「……そんなこと言っている場合じゃ」

 そんなに大事に思っているのなら……どうして。

「……ごめんね。私は……どうしても強く言えなかった。今までの彼女の姿を見てきたから……それに、私も許せなかったの。如月家という籠が」
「……」
「あれが全て壊した……私たちの楽しかった時間も……全部っ」

 ……柚華さんや、美冬さんの過去に、なにがあったのかは分からない。
 どんな事情があって、どんな思いをしてきたのか。
 でも、やっぱり、優日には関係ない。

「救う手段がある。なのに、それが出来ないっていうのは納得いきません」

 美冬さんがいれば、優日は助かるかもしれない。
 僕にはその事実だけで十分だ。
 それ以外の事情なんてどうでもいい。

「だから、私は頼むのよ。あなたに」
「……頼む?」
「前にも言ったと思う。彼女に、会いに行ってって」
「……」

 僕なら、美冬さんを説得できる……?
 何日に、何週間に、何ヶ月になるかも分からないのに。
 その間、優日には会えないかもしれない。
 いや……関係ないか。
 それが、"僕"にしか出来ないというのなら。
 そしてなにより、彼女が救えるというのなら。

 絶対に、"僕"が、説得してみせる。

「でも……このことは、優日ちゃんには黙っていてほしい」
「どうしてですか? 優日のことなんですよ。自分が助かるかもしれないことを、どうして伝えてはいけないんですか」
「……ごめんなさい。これは彼女……いえ、私の我侭よ。如月家の問題には、優日ちゃんを巻き込みたくない」
「……分かりません」

 正直、そこは理解できなかった。
 だって、その復讐は美冬さんの妄想だ。
 自分に起こった不幸な出来事を、自分が受けた悲しみを、真正面から受け止めることが出来ず。
 復讐という形で、紛らわそうとしている。

「……それに、ドナーが見つかっただけでも」
「……ドナーっていうのは、提供者っていう意味よ」

 柚華さんはさっき言っていた。
「如月美冬は、ドナーとなりえる」と。
 つまり、ドナーではない。その資格があるだけで、提供を認めてはいない。

「……」

 でも、優日を苦しめるわけにはいかない。
 一日でも早く、優日に手術を受けさせてあげたい。

「……だったら、一度、会わせてくれませんか?」
「美冬先輩に?」
「ええ。その一度で終わらせますから」

 時間はかけない。
 時間をかければかけるほど、優日が助かる可能性が減っていくんだ。
 そんなことするわけにはいかない。

「……分かった。なんとかしてみる」
「お願いします」

 見つけた。
 "僕"にしか出来ないことを。
 それで彼女を救うんだ。
 同じ後悔は、もう二度としない……!







◇◇◇







「はぁ……」

 先生や浩介さんが出て行った後、私はなんとなく姉さんと二人になるのは気まずくて、病室を出て、外にいました。

「浩介さんには迷惑をかけてしまいましたね……」

 自分でもはっきりとしない不安を、浩介さんにぶつけてしまいました。
 反省です。

「私は決めたのですから」

 どのみち私は、信じるしかありません。
 先生を、姉さんを、そして病気が治ることを、信じるしかないんですから。

「その私が、信じることをやめてしまってはダメです」

 だから、転院の話だって、良い方向に繋がっている。
 ……そう考えないと。
 それに、先生と姉さんが話し合って決めたことなんですから。
 それを、私が反対するなんて、しなくていいこと。

「分かってはいるんですけど……ね」

 もちろん、あの二人を信頼しています。
 だけど、心のどこかに、まるで砂時計のように、少しずつ"不安"という底へと溜っていく砂。
 全て落ちきった時には、私は……。

「いえ、そうなる前に、全てを終わらせるんです」

 そうだ、砂時計を逆さにすればいい。
 "不安"から"安心"へと、砂を移そう。
 だから、少しでも落ちる速度遅くするために、不安を紛らせばいいんです。
 私は、そのやり方を知っているはずですから。

「よしっ」

 落ち込んでいるのは終わりです。
 いや、終わりにしないと。
 私はとにかく"信じる"
 姉さんを、先生を、信じて、着いていきます。

 そう思い、私は、姉さんがいる病室へと足を向けました。







 病室へ戻ると、相次ぐ来訪で疲れてしまったのか、姉さんは横になっていました。

「大丈夫ですか、姉さん」
「あ、紗衣ちゃん。どこ行ってたの?」
「ちょっと外に、担当医の先生とのお話は終わったんですか?」
「うん。問題なしだよ」

 問題ない。
 そう言って明るく笑う姉さんに、私は少しだけ呆れてしまいました。
 本当に、いつもの姉さんです。
 自分は辛いくせに、それでも、私に心配掛けないようにと笑って。

「……姉さん」
「うん?」
「あ……いえ、その、穂波町に戻ったら、きっと子どもたちが来てくれますよ」

 今さら言ってもどうしようもないものですし。
 私は、とっさに話題をずらしました。

「そういえば、しばらく会ってないね……」

 姉さんは懐かしむように、遠い目をしました。
 学校の子どもたちは、姉さんが入院したと聞いて、とても心配そうにしていましたしね。
 この町は遠いですし、姉さんの身体にも障るから見舞いは控えるように、と浩司さんが子どもたちに伝えたと聞いていますけど。

「そういえば、紗衣ちゃん。どうして、学校の子たちのことを知っているの?」

 姉さんは不思議そうに私に問います。
 そうでしょう。
 私は、診療所の看護士であって。
 学校の保険医はやっていません。というか職業が違うので出来ませんし。

「私が、先生がいない時、代わりに保険医の仕事をしてますから……聞いてませんか?」
「うん……知らなかった」
「実際は、しちゃいけないことなんですけどね」

 アバウトな田舎の学校だから出来ることです。
 というより、保険医の仕事は、先生の好意で勝手に始めたことです。
 本来なら診療所だけでこと足りるのですから。
 だから、先生がいないときは、保健室がやっていないとしても誰も怒りはしないんですけどね。

「……? どうしたんですか?」
「いや……その、先生と紗衣ちゃんが変わり変わりに来てくれてるんだから、そういうこともあるんだなーって」
「……あの、姉さんが気に病む必要なんかまったくないことなんですからね?」

 まったく、どうしてこう些細なことにまで、気にかけるんですか。

「保険医の件は、私が勝手に好きでやってることです。学べる事も多いですから」
「……うん」
「それにしても、姉さんの人気は相変わらず凄いですよ」
「人気?」
「ええ。姉さんがしばらく休むって聞いて、泣き出した子だっているんですから」
「そんなになんだ」

 くすっと軽く笑う姉さん。
 学校を、教室を、懐かしく思っているのかもしれません。

「そっか、あの子たちにも心配かけてるんだもんね」
「はい。だから、早く元気になった姿、見せてあげないと」

 だからこそ……あの場所に、学校の教室に帰れるように。
 子どもたちに、また悲しい顔をさせるなんて、姉さんには出来ませんよね?

「ねぇ、紗衣ちゃん」
「はい?」

 少し、神妙な顔になっている姉さん。
 なんか、少しだけ嫌な感じがしました。

「私が、先生になったのはね。優しさを与えたかったからなんだよ」
「優しさ……ですか?」
「私が貰った……お父さんやお母さんや紗衣ちゃんから貰った、あのまるで春の陽気のような、優しさをね」

 ……お父さんや、お母さんは分かりますが……なぜ私も?

「私なんか……私が姉さんに貰ってばかりですよ」
「ううん……貰ってるよ、たくさん」

 違う。
 私が……私ばかりが貰い続けていたんです。
 姉さんの優しさを。
 ずっと……私は、それに甘えてきたのですから。

「……私はね、紗衣ちゃん。今まで貰った分の優しさを分けてあげようって、そういう大人になるんだって生きてきた」

 それが姉さんの将来像っていうのは知っていました。
 お父さんやお母さんみたいな人になりたい、といつも言っていましたから。

「私、勘違いしてた。優しさってあげると与えるとか……そういうんじゃないんだよね」

 いきなり、少し遠い目をして、なにかを諦めたように。

「こんなんじゃ、お父さんやお母さんみたいになれないや」
「……姉さん」
「紗衣ちゃん。優しさってね。気がついたら貰ってて、気がついたら与えてるもの、なんだ」
「……」

 姉さんの言ってることは、私にはよくわかりません。
 ですが、とても……複雑な気分です。
 人は病気になると達観する、とよく言います。
 達観と言いますか、悟ると言いますか。
 一日中、一つの空間にずっと居つづけるわけですから、考えすぎてしまうんでしょうね。

「……っ」

 なんか……とても、悔しい。
 そんなことを、今、達観し始めている姉さんを見て。
 どうしようもなく、そう思って、歯がゆかった。

「紗衣ちゃん?」

 私の表情になにか感じたのか、不思議そうな顔をして、私を見る姉さん。
 いけない。
 私は、普通に、接していないと。

「なんでもないですよ」

 できるだけ笑顔に。
 顔を緩めて。
 そう言った。

「ごめんね。紗衣ちゃん」

 でも、姉さんは騙せるわけもなく。
 結局、気を使わせてしまう自分が嫌になる。

「いきなりなんですか。姉さんは謝るようなことしてないです」
「なんか……哀しそうだったというか」
「気のせいですっ」

 つい顔を背けてしまった。
 これじゃ、なにかあるって言っているようなもんです。
 本当に、こんな弱い自分が嫌だ。

「……すみません。本当になんでもないんですよ」

 姉さんの近づきながら。

「姉さん。私、強くなりたいんです」
「……紗衣ちゃん?」

 それが、心からの気持ち。
 私の目標である人を目の前にして。
 誓うように。

「強くなりたいんです」
「紗衣ちゃん……」

 姉さんがたとえ、どんな思いや考えを隠していたとしても。
 それを隠し通している姉さんは、やっぱり強い。
 そして、そんな姉さんを許せない自分がいて。
 そんな姉さんに憧れている自分がいる。

「姉さんが、お父さんやお母さんを目標としているように。私は、姉さんを目標にしています」
「……紗衣ちゃん」
「私、強くなりますから」

 姉さんを支えてあげられるように。
 先生だけに任すんじゃなくて。
 私がそうなりたいから。

「紗衣ちゃん……」

 なんか最近、こうやって誓ってばかりな気がします。
 口だけじゃなく早くそうならないと。

 そう息巻いている私を見て。
 姉さんが複雑な表情をしていたことを。
 この時の、私は気づいていませんでした。







◇◇◇







「俊也」

 柚華さんと診療所に入ろうとした時、暗闇からいきなり声をかけられた。

「浩司? なんでそんなところに」

 診療所の横から現れた浩司に少しびっくりする。

「いや、ちょっと話でもしないかと思ってな」
「……ようやく浩司らしくなってきたの?」
「……は。まだ本調子じゃないけどな」

 柚華さんは、そんな浩司を見て、少し笑った。

「ようやく引きこもりが終わったの?」
「引きこもり言うな。これでも考えたんだからな」
「浩司くんが? 頭使うの苦手なくせに」

 そういたずらみたいに笑う柚華さん。
 この二人の間の空気は、僕と浩司のような違和感はなく、いつも通りだった。

「ったく。いいから行けよ」

 浩司はそう言って、また診療所の横へ歩いていく。
 僕はそれに従うようについていった

「はぁーい。ねぇ、俊也くん」

 柚華さんに呼ばれ、振り向く。

「頑張ろうね」

 ガッツポーズをし、僕を見つめる。
 すっかり元気になったみたいで、その姿を見て少し安心する。

「もちろんです」
「うん。それじゃ」

 その後姿を見送り、僕は浩司のいる方へと歩いていった。







 後を追いかけると、浩司は診療所の壁に背中を預けていた。

「浩司……」
「おう。今まで悪かったな。ようやく答えが出た」

 そのままの格好で、僕の方を見ようとせず、浩司は答える。

「答え?」
「ああ。なぁ、俊也。お前は優日ちゃんと離れたいか?」
「えっ」

 ドキっとした。
 さっきの柚華さんの話を浩司は知っていたのだろうか。
 誰にも話してはいけないことなのに?
 いや、浩司ならあるいは……。

「離れたいのか? 彼女を見捨てて、どこかに行きたいのか?」
「そんなわけないだろ」
「……だよな」

 浩司はまだ僕のことを見ようとしない。
 なんなんだ?
 浩司の雰囲気は戻りつつある。
 いつもの頼れる浩司に。
 だけど、嫌な感じが拭えない。

「なんでいきなりそんなことを聞くんだよ?」
「……なぁ、俊也」
「なに?」

 とても言い辛そうに、でも迷いはなく

「診療所に優日ちゃん移ったらさ」
「……」
「お前、東京に研修に行ってきたらどうだ?」
「……え?」

 一瞬、言ってる意味が理解できなかった。

「なに言ってるんだよ。冗談にして悪すぎるぞ」
「俺がこの状況で、冗談を言うような男か? お前なら分かるだろ」
「……なんなんだよ」

 どうしてそんなことを言うんだ。
 僕は優日と離れないためにに今まで頑張ってきたんだ。
 それなのに……研修に行けだって?
 そんなの僕と優日で、もう答えが出ていることだろ。

「お前がいることで、優日ちゃんを苦しめてる。そうは思わないか?」
「……なんだって?」
「……二人とも、お互いを気遣いすぎるんだよ」
「大切なんだ。当たり前だろ」
「お前らのは違う。互いに自分を犠牲にして相手を気遣って……それが幸せになれるのかよ」

 なんなんだろう。
 僕たちは今までそうやってきた。
 上手くいってるじゃないか
 だから、これからもそうする。
 ただ、それだけなんだ。

「幸せだろ。浩司に何がわかるんだよ!」
「少なくとも、優日ちゃんが無理してるってことだけは分かる」
「無理だって?」
「……優日ちゃん、お前の前で辛いって言ったことあるか? 泣いたことあるか?」
「……最初に、あったよ」

 一番最初。
 病気を知った時。
 あの時だけ、優日は弱さを見せてくれた。
 あの時だけ……。

  「なぁ、俺らってなんなんだろうな」
「……」

 そういう性格の優日だからこそ、周りを傷つける。
 いや、不甲斐ないと思わせてしまう。
 恋人の僕でさえ、弱みを見せてくれないんだから。

「別にずっとってわけじゃない。距離を置こうってことだよ。それで優日ちゃんの負担は減る」
「ずっとじゃないって、向こうに行ったら、1年間は帰ってこれないだろ」
「……親父に頼み込んだ。もしあっちに研修に言っても、俊也が帰りたい時に帰れるように」
「そんなワガママ、通せるわけがないだろ! 自分勝手な都合で……ここだけじゃない、向こうにも迷惑かけろって言うのか!」

 もう十分すぎるほど迷惑をかけた。
 これ以上はする気はない。

「優日ちゃんのためなら、なんでもするんだろ? 優日ちゃんを第一に考えるんだろ」
「……違う」
「優日ちゃんのために、なにもかもを犠牲にするって決めたんだろ」
「違う、僕は納得していない。それに、浩司が言ってたじゃないか、僕は優日の傍にいたほうがいいって」
「……」

 もうなにがなんだか分からなくなってきた。
 僕は優日の近くにいていいのか、ダメなのか。
 僕は……優日のいったいなんなんだ。

「お前らは、優しすぎんだよ。だから苦しむんだ」
「……」
「距離を置いた方が良い。それが優日ちゃんのためにも……きっと、お前のためにもなる」
「……認めない」

 浩司の言葉に、その言葉を喉の奥からひねり出した。
 そうだ。認めるもんか。

「……頭の隅にでも置いといてくれ」

 優日と離れることが幸せだなんて。
 絶対に認めない。
 ……認めない。





 この時の僕はまだ。
 厳しい現実を直面していなかった。
 だから、そうかもしれないという予感に。
 必死に、抗えていたのかもしれない。

 もうすぐそばに。
 終わりの時が来ている。
 別れの時が。






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