優日の病室へと向かうため、廊下を歩く。
「……」
紗衣香ちゃんはどこへ行ったんだろうか。
彼女を傷つけてしまった。
言わなくてもいいことなのに、ただ当り散らすように彼女に言葉を吐いた。
「悪いことをした……」
そして、この情けない姿を見て、優日はなんて思うだろうか。
顔を洗って気分を変えてみたけど、たいした効果はない。
僕はいったいなんなんだろう。
傍に居たいくせに、それだけじゃ嫌だと悩んで。
会えば優日は辛くなるかもしれないのに、顔を見たいから会う。
……まるで子供だ。
自分以外の人の気持ちを考えず。
ワガママを通して。
「間違ってる……のかな」
自分でも分かりはじめていた。
でも、それを認めてしまうわけにはいかない。
いかないんだ。
「俊也くん?」
前から柚華さんの声が聞こえた。
見ると、ちょうど優日の病室から出てきたようだった。
「下向いて歩いていると危ないわよ」
「考え事してて……話は終わったんですか」
「……ええ。一応ね。それより、頬が赤いようだけど、どうかしたの?」
「あー……紗衣香ちゃんに喝を入れられました」
柚華さんは苦笑する。
その中にはやっぱりという言葉も含まれているように見えた。
「それで、その紗衣香ちゃんは?」
「……」
なんて言ったらいいだろうか。
明らかにあれは僕が悪い……。
嘘つくわけにもいかないし、素直に話そう。
「すみません。少し言い合いになってしまって、どこかに行ってしまいました」
「言い合いって……はぁ」
思いっきり、当てつけるようにため息を吐く。
「なんで俊也くんが言い返さなきゃならないのよ」
「……すみません」
「謝るんだったら、紗衣香ちゃんにでしょ」
わざわざ言葉に出すことじゃなかった。
自分の中で処理していかなきゃいけないものなのに。
紗衣香ちゃんに当たってしまったようなもの。
「はい……」
「……はぁ。それじゃあ、私は紗衣香ちゃんを探してくるわね」
「……すみません。お願いします」
僕が行くわけにはいかないから、ここは素直に頼ろう。
浩司に知られたら殴られるかもしれないな。
「少し遅くなると思うから、優日ちゃんをよろしくね」
歩き出した柚華さん。
行く場所を決めているみたいだけど……。
「心当たりがあるんですか?」
「いいえ、彼女たちの実家に行ってくるのよ。調べたいことがあってね。紗衣香ちゃんはどこにいるかは分からないけれど、多分会えるでしょ」
なんか投げやりだな……頼んでいる身としてはなにも言えないけど。
「ま、柚華さんに任せなさい。それと、浩司にはしっかりと伝えておくからね」
「ぐっ」
去り際に恐ろしい言葉を残して、柚華さんの姿は見えなくなった。
殴られるかもしれないじゃなく、殴られることが決定、だな
これ以上頬が赤くなるのは、優日にどう言おうか困るんだけど……。
「自業自得、か」
それだけのことをしたんだから、当たり前。
優日になんて言おうか、理由を考えながら、僕は病室の扉をノックした。
昔語(二十)『彼のトラウマ』
「はぁ……はぁ……はぁ……」
苦しい。
もうなんだか分からないうちに走りだしてしまって……。
気がついたら……ここは、どこでしょう?
「家の……近く?」
辺りを見回すと、見覚えのある景色。
無意識に、こんなところまで来てしまったのでしょうか。
「……あの家には、もう誰もいないんですけどね」
それでも、自分の家へと歩いていく。
ひさびさ、ですね。
管理は姉さんに任せていますし、葬儀の時の処理以来でしょうか。
「反省しませんと……」
誰にこの気持ちを吐きたかったのでしょう。
……自分がこんなに感情的だったなんて。
気が休まるような時間がなかったのは確かです。
先生のことだけでイライラしていたわけではないでしょう。
それを全部、先生に当たってしまいました。
先生は悪い。
それは変わりません。
ですけど、叩くようなことではありませんでした。
しかも、感情に任せて……。
「謝らないと……いけませんよね」
今の状態の先生に、素直に謝るのはちょっと納得いきませんが。
そうしているうちに、家の前まで着きました。
喫茶店『Siesta』
それが私の実家でした。
学生のときはよくお手伝いをしていましたけど……そのことがとても昔のように感じてしまいます。
鍵をあけ、ガラス扉を押すと、カランカランと鐘の音がしました。
空気が止まっているかのようなガランとした静けさ。
たくさんあるテーブルやイスは、少しホコリがかぶっているようでした。
最近は姉さんにも色々ありましたし、来る暇がなかったのでしょう。
「ただいま……」
返ってこないと分かっています。
寂しさが増すだけだとも分かっています。
だけど、言っておきたかった。
なんなんでしょう、この不思議な気持ちは。
「それにしても、ここももう閉めないといけませんよね」
お店をまた始める予定なんてありませんし。
姉さんにも私にもそれぞれ仕事がありますし。
もうお母さんたちが亡くなって半年……いい加減、私も姉さんも区切りをつけないといけませんよね。
姉さんは少し嫌がるかもしれませんが。
進んでここの管理を引き受けたくらいですし、もしかしたら、この店を継ぎたかったのかもしれませんね。
「あら……開いてる」
聞き覚えのある声が外から聞こえてきました。
私と同じように鈴を鳴らしながら扉が開きます。
「紗衣香ちゃん!? どうして」
先ほどまでのガランとした静けさを一掃するかのような大きな声。
しかも、それはこっちのセリフですよ、柚華さん。
「柚華さんこそ、どうしてこちらに?」
来る理由が見当たりません。
「いえ……ちょっと探し物をね」
「……?」
ばつが悪そうに、そう話す柚華さん。
見当がつきません。
「いったい――」
「それより、どうして紗衣香ちゃんはここに?」
「……。ただ気が向いたからです」
どうやらまた内緒の話ですか。
ここは私の実家なんですけどね。
「聞いたけど、俊也くんとケンカしたって?」
「ケンカというほどのものでは……」
「でもビンタしたらしいじゃない」
どこまで喋ってるんですかっ、先生は!
「頬真っ赤になってたわよ」
「あ、あははは」
力の加減なんて考えていませんでしたし……力いっぱいやってしまいました。
さらに申し訳ない気分になります。
「いいんじゃない? 良い薬だったでしょ」
「薬になりましたか……?」
「少しは目が覚めたんじゃないかしら。これで優日ちゃんと話したら大丈夫よ、きっと」
そうであればいいのですけど……。
やっぱり、先生がしっかりしてくれなくては困ります。
「それで、探し物ってなんですか?」
このまま、うやむやにされるのは面白くありません。
「優日ちゃんの部屋ってどこ?」
「姉さんの部屋ですか? 二階にありますけど……勝手に通すわけにはいきません」
「大丈夫。本人の了承も取ってあるから」
ということは、内緒の話がらみということですか。
「一応、理由を聞いておきたいのですが?」
「ごめんなさい。今はまだ話せないの」
「……」
いったいなんだって言うのでしょう。
でも、ここまで聞いても教えてくれなかったのですから……もう、なにを聞いてもダメでしょうね。
「分かりました。ご案内しますのでついて来てください」
気になりますが、今はまだという言葉を信じましょう。
◇◇◇
「どうしたんですか? その頬」
病室に入ると、優日は目をまんまるにさせて聞いてきた。
そしてゆっくりと起き上がろうとする。
僕はそれを止めて、ベットの横に座った。
「いや、ちょっと寝ぼけてドアの前にいたら、浩司がいきなりドアを開けてきてね」
苦しい。
でも短い時間で考えた割には納得できるはずだけど。
紗衣香ちゃんに叩かれましたなんて言えるわけない。
「それより、気分はだいぶ落ち着いたみたいだね」
話すのは、優日が泣いた夜以来か。
顔色は相変わらず悪いけれど、悲壮感とか、空虚感とか、そういったものは見えなかった。
「はい。すみません。みっともない姿を見せて」
優日は申し訳なさそうに言う。
「仕方ないよ。もっと荒れたっていいくらいだ」
突然に、理不尽に病気だと叩きつけられて。
しかも、それは誰にも押し付けることができなくて。
苦しさを理解してもらおうとも、わかってもらえない。
こんなの……誰だって泣いたり、叫んだり、暴れたりする。
しょうがないなんて諦めることの出来る人間なんていない。
「荒れる、ですか。でも今はもう大丈夫です。なんて言ったらいいか分かりませんが……ほんとに気分が楽というか」
……なにを言いたいのかよく分からなかったけど。
今は落ち着いているみたいで安心した。
「頑張ろう。なにも出来ないけれど、傍にいるから」
それしか出来ないけれど。
必ず。何か自分がやれるものを探し出す。
僕に"しか"出来ないことを。
「違いますよ」
優日は首を横に振った。
「なにも出来ないなんて、そんなことないです。こうして私と居てくれる。傍で話してくれる。それだけで十分、嬉しいんです」
「……」
同じ。
浩司や紗衣香ちゃん、そして柚華さんや浩介さんの言葉と。
あの時、母の傍にいて何もできなかった自分を、納得させた言葉と。
なにも出来ないって分かっているから、それだけでも大丈夫だというその心が。
……同じ。
「……違う」
それは当然のことなんだ。
やって当たり前なんだ。
でも……それだけじゃ……っ。
僕は、あの日から何も成長できていないことになる……!
「違いません」
「……え?」
「俊也さん。私はあの時から強くなりましたか?」
「あの時?」
「両親の事故の時から、です」
……よくわからない。
その話が、どうして今出てくるのか。
「あの時の私は、嫌なことを忘れようとして逃げました。そして、そんな私をこうして戻してくれたのは、俊也さんです」
違う。
僕は何もしていない。
それこそ、ただ傍にいただけだ。
「私はあれから、精神的に強くなろうって思いました。どんなに嫌なことがあってもちゃんと向き合おうって……今の私は、そんな私になれていますか?」
「……なれている、と思う」
今は病気という"嫌なこと"と向き合っている。
泣きわめいたり、何かを恨んだり、そうすることで楽になろうとはしていない。
「それなら、良かった」
「……どうして、そんなことを聞くの?」
「……弱いんです」
彼女は苦笑する。
「まだ、全然弱いんです。すぐ後ろ向きな考えをしてしまいますし、嫌な気持ちに囚われたりもします」
「それはしょうがないだろ?」
「そうなのかもしれません。でも、そんな気持ちを払拭してくれるのは俊也さんなんです」
「……僕?」
「はい。私は俊也さんが好きです。愛してます……そして、私は愛されています……違いますか?」
……いきなりなんてことを言うのだろうか。
「違わないけど」
「良かったです。だから、それだけでいいんです」
よく意味がわからない。
なにが言いたかったのだろう。
僕に、なにを伝えたいんだろう。
「……ごめん。よく分からない」
優日は、少し残念そうな顔をして、こう言った。
「私は一人じゃないって分かるんです。こんなにも好きな人が傍に居てくれるってだけで力をもらえるんです。だから、なにも出来ないなんてことは絶対にない。それだけは絶対に」
「……」
「大げさに言えば、私に生きる力をくれています。それはきっとなにより大事なものです。それをあなたは与えてくれています」
……母さんも、そうだったんだろうか。
そんな、ことは……。
だって……だって……。
「なにかして欲しいって思うだろ? 痛いとき苦しいとき、ただ傍にいても、痛みが和らぐわけでもなく、気分が楽になるわけでもない。なにも出来ない。辛い思いをしているのをただ黙って見てることしか……っ」
「……いいんじゃないでしょうか?」
「え?」
「黙って見ていていいんじゃないでしょうか。だってどうすることも出来ないのですから。それは、俊也さんが背負うものではないです」
"どうすることも出来ない"
分かってはいるけど、そう言われて心の奥に痛みが走った。
「そういう辛さは自分だけのものです。確かにそれを誰かに言って、押し付けようとする人がいます。けど……そういう人だって、ほんの一瞬でもその辛さから逃げたいだけです」
まるで、母親のように。
ゆっくりと、僕を諭すように。
「役割っていうか、立場っていうか……上手く言えませんが、そういうのが違うんです。その辛さを俊也さんが背負ったり、背負えないからって自分を責める必要なんてありませんよ」
それは分かる。
いや、分かっているつもりだ。
けど、そういう問題じゃない。
そう言おうとして、優日が少し辛そうにして笑っているのに気がついた。
「あ……」
「俊也さん……私は、あなたの母親ではありません」
「……なに言ってるんだ。当たり前じゃないか」
「……本当に、分かっていますか?」
優日は優日だ。
母さんであるわけがない。
そんな当然のこと、聞くほうがどうかしてる。
「だから、優日は優日だろ?」
「ええ。私は私、俊也さんのお母さんはお母さんです。私に対してなにかをしたからと言って、俊也さんのお母さんに報えるというわけではありません」
「……っ」
身体の内側から、何かが抉り出されたような気分になる。
「俊也さん。私のお願い、聞いてくれませんか?」
「……な、なに?」
乾いた唇から、ようやっと声を絞り出す。
自分勝手だった僕の、さらに傲慢な部分が引きずり出されていく。
「私と一緒にいてください。それが、私の"救い"です」
……母さん。
あなたはどうだったのでしょう?
同じように思い、同じように願ったのでしょうか。
僕は、その願いから逃げ続けてしまったのでしょうか。
……間違っていた。
僕の動機。医者になろうとした思い。
…………きっと、母さんの願いとは違っていた。
僕は……優日を通して……誰を救いたかったんだろう?
それは、優日でも、母さんでもなく。
……不甲斐なかった過去の自分。
あの日の自分から、決別したかった。
だから、探したんだ。
自分にしか出来ないことを。
もう、とっくの間に答えを出してくれていたのに。
それに気づかないで。
それだけでは満足できないって。
……そりゃ、殴られるよな。
「ありがとう、優日。そしてごめん……本当にごめん」
なにが優日のことを一番に考える、だ。
結局、考えていたのは自分のことだけ。
「……柚華さんが言ってました。過去のトラウマほどやっかいなものはないって。普通の生活では表に出なくても、こういったことでひょっこり出てきて本人を苦しめるものなんだって」
優日は静かに笑う。
そうか、柚華さんと話していたとき、僕のことも話していたのか。
……あの人らしい。
抜け目がないというか。僕にも気を回して。
「っ……私がやらなきゃって思ったんですよ……ごほっ」
「優日!?」
「ごほっ……っふ……大丈夫です。少し喋り過ぎただけですから」
息を整えると、優日はまた声を出す。
少し辛そうな、かすれた声を。
「俊也さんが苦しいなら……私も苦しい。俊也さんが悲しいなら、私も悲しい。……そう思っちゃうんです。……すみません。気持ち悪いですよね」
「……そんなことあるわけないだろ!」
僕だって優日が辛いなら、死ぬほど辛いし。
優日が哀しいって泣くなら、僕も泣きたくなる。
こんな気持ちおかしいのかもしれない。
異常なのかもしれない。
でも、そう思ってしまうんだから、どうしようもない。
「だったら、一緒にいてくれませんか?」
「……もちろん」
僕にしか出来ないこと。
優日を、支えること。
長い時間をかけて。
周りの人に迷惑をかけて。
ようやく……見つけた。
◇◇◇
柚華さんが姉さんの部屋に入ってから三十分は経とうとしていました。
一緒に部屋に入ろうと思ったのですが、ドアの前で止められました。
……どれだけ厳重な秘密なのでしょうか。
先生は知っているようでしたし……どうして私だけ。
――ガチャ。
二階から、扉が開かれる音が聞こえました。
続いて、トントンと階段を下りてくる音。
ようやく終わったみたいですね。
「ありがと」
そう言ってリビングに顔を出した柚華さん。
手には何かの封筒を持っていました。
「……探し物はみつかりましたか?」
「ええ。これで行動できる」
「行動……ですか?」
「明日からちょっと、東京に行ってくるわ」
「……はい?」
一瞬、なんて言ったのか聞き取れませんでした。
「東京……ですか?」
言ってて、なんだか嘘のように聞こえます。
というより、そんな大都市になにをしに?
「どれくらいの期間ですか?」
「うーん……分からない。きっと長いと思うわ」
「……えっと、なにをしに行かれるんですか?」
きっと聞いても答えてもらえないでしょうけど。
「……友人に会いに、ね。といっても会ってくれるか分からないけど」
友人。
柚華さんの友達ですか。
まったく、見当がつきません。
でも、それは姉さんとの内緒の話に関係している人で。
きっと、今回のことにおいて、重要な人なのでしょう。
「だから、優日ちゃんのこと任せたわよ。俊也くんもあーだし。今日、優日ちゃんと話して、何か変わってくれるといいんだけどね」
「姉さんになにか言ったのですか?」
それは、姉さんの心労を増やすだけになる気が……。
「今の俊也くんについてちょっとね」
「……姉さん、ショック受けてませんでしたか?」
「いえ、大丈夫よ。というより、みんな慎重に扱いすぎなのよ。優日ちゃんも、俊也くんも、簡単に壊れたりしないくらい頑丈よ」
「……そういうつもりは」
もちろん大事にはしてますけど。
そんな、ガラスを扱うみたいな態度で接してはいません……たぶん。
「多少ほっといても大丈夫。それに恋人同士の問題でもあるんだから、本人たちに話させるのが一番。こういうのは部外者が入ると余計こじれちゃうんだから」
「はぁ……」
さすがは年の功と言いますか。
絶対口には出せませんが。
「でも、先生がこれでちゃんとしてくれるでしょうか」
「んー……たぶん。少しの間は、かな。そう簡単に治まるものじゃないでしょうし」
「治まる、ですか?」
「今回のこと、俊也くんの昔のトラウマが原因になってるのよ」
トラウマ……確か、過去に起こったことに対する心の傷、でしたよね。
先生にそんなものが?
「私は知らないのですが……聞いてもいいでしょうか」
「俊也くんのお母さんの話は聞いたことある?」
「小さい頃亡くなったということしか」
そういうことを聞いたことがあります。
それも本人からではない気がしますけど。
「そう。そのお母さんが、俊也くんが今の仕事に就いた理由なのよ」
「お医者さんになった、ですか?」
「誰かを救うことで、助けられなかった母親に対する思いを満たしているのよ」
それはそれで、別に良い気はしますけど。
満たされないものを他のもので補おうとするのは別段、不思議な行動だとは思いません。
「でね、その助けられなかったっていうのが、一番尾を引いているのよ」
「助けられなかったって、先生はその時、まだ子どもだったのですよね」
「ええ。子ども。何も出来ないのが当たり前。それなのに、俊也くんは弱っていく母親を、ただ見ていることしか出来なかった自分というのが、たまらなく嫌いなのよ」
それは……どうしようもない。
だからこそ、誰かを助けたりすることで、その頃の自分じゃないことを確認しているのでしょう。
でも……。
事情は分かりました。
そして、どうして先生が今、不安定になっているのかも。
「だから……先生は、姉さんに母親を見てしまっているんですね」
大事な人だから。
大切な人だから。
だから、見ているだけでは嫌なんですね。
「不思議なんだけどね、こういう時って病気に掛かった人より、その周りにいる人の方が心配しすぎちゃって倒れちゃうってことあるのよ」
そう言われてみれば、そういうことってありますよね。
私は大丈夫でしたけど、先生の方は、そうではなかったみたいですし。
性格的なこともあるのでしょうけど、もしかしたら、男と女っていう意味でも違いがあるのかもしれません。
「私は……ただ不甲斐ないって怒ってしまっただけで……」
やっぱり謝るべきでしょう。
叩いてしまったことだけではなく、それまでの態度とか全部。
きっと、さらに追い詰めるようなことをしてしまっていたでしょうから。
「申し訳ないって思わないでもいいわよ。やっぱり俊也くんが情けないんだと思うから」
ばっさりとそんなことを言う。
呆気に取られた顔をしていると、不思議そうな顔で。
「だって、そうでしょ。そういうのは自分で処理できないといけないのよ。もう大人なんだから。それなのに俊也くんはこうして私たちにも迷惑かけてる」
それは……そうかもしれませんが。
先生が、悩みすぎてしまうっていうのは、みんな知っていることですし。
「それで誰かを支えようなんて出来るわけないのよ。だから、優日ちゃんに話してもらったの。自分を支えて欲しいって頼むようにって」
「そんな押しつけがましい事を……」
「それぐらいがいいのよ。そっちに集中すれば、余計なこと考える暇なんてなくなるでしょ」
そう、だといいのですが……。
「ま、そっちのことは任せるわね。優日ちゃんというより俊也くんの世話の方が大変そうだけど」
そう言って苦笑する柚華さん。
「……なるべく早く戻ってきてくださいね」
不安になる。
柚華さんという頼りになる人が、いなくなってしまうのが。
「ええ。さっさと終わらせてくるわ」
力強く頷く柚華さん。
それを見て、少しだけホっとしました。
◇◇◇
「あ、紗衣香ちゃんと柚華さんが帰ってきたみたいだよ」
窓の外を見ると、二人が歩いてくるのが見えた。
良かった。
なんだかんだ言っても、柚華さんは頼りになる。
「優日?」
さっきから返事のない。
気になって振り向いてみると、安らかに寝息を立てていた。
「僕と話しすぎた、かな」
邪魔するわけにはいかないか。
そう思い、静かに扉を開け、部屋を出た。
中央階段を下り、二人を出迎える。
「先生……」
自動ドアをくぐり、先に口を開いたのは紗衣香ちゃんだった。
「その……さっきはごめん!」
勢いよく頭を下げる。
謝らなくてはいけない。
そう思い、僕は場所も考えず大声で言った。
「あ……」
周りから「どうした?」という興味深々な目線が突き刺さる。
慌てて紗衣香ちゃんを見た。
紗衣香ちゃんも周りをキョロキョロして、顔は少し赤かった。
柚華さんは……いない。
というより、僕たちから離れて、自分は関係ありませんと他の人と同じような目でこっちを見ている。
……そりゃないですよ。
「ご、ごめん。ちょっといい?」
「え、あ……」
紗衣香ちゃんの手を引き、とっさにその場から離れた。
さっき、紗衣香ちゃんがくぐった自動ドアをもう一度くぐり、外へと出る。
そのまま病院の横にある、庭園みたいなところまで早足で歩いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。もう大丈夫ですよ」
紗衣香ちゃんからしてみれば、とんだとばっちりで恥ずかしい気分にさせてしまった。
「ごめん」
色々な意味を込めてもう一度言う。
「……いえ、私も軽率でした。すみません」
紗衣香ちゃんも頭を下げた。
「いや、叩かれて身に染みたよ。僕は見当違いなことをしてた」
「え?」
「不器用だって自分では分かってるんだ。あれだこれだって望んでも、上手い具合に二つともなんてことは僕には出来ない」
それは今まで生きてきて、知っていること。
要領を得なくて、いつも大事なところで間違えて。
そして手元には結局、一つも得られなかったなんてことはよくある。
「僕は決めたんだ。一緒にいようって決めたんだ。だから僕はそれだけを守らなくちゃいけない。自分の……ちっぽけなプライドを守っている場合なんかじゃない」
「……」
そう。それに気づけた。
あの時、お母さんが死ぬときになにも出来なかった自分。
それが悔しくて、情けなくて。
そして、同じ境遇に陥った優日を見て、今度こそはと思った。
それは……間違い。
僕は、優日の恋人だ。
彼女が辛い思いをしている時、傍で支えてやれないで、なんで恋人だって言える?
「ごめん」
「……」
紗衣香ちゃんは黙っている。
まだ何か言いたそうに。
やがて、少しタメ息を吐くと。
「先生。案外、姉さんはケロっとしていませんか? 一度泣いてすっきりしたせいなのかもしれません。自分の境遇を悲しんでなんかいませんし、今は病気と闘うって言ってくれました」
「うん」
「結局、本人次第なんですよ。私たちは具体的に何もしていません。ただ傍にいただけです。それでも姉さんは病気の事実から立ち直ってくれました」
私だって無力なんです。
そう聞こえた気がした。
「探しましょう。姉さんが良くなる方法を。私たちだけではなく姉さんも含めて、一緒に考えていきましょう……それが、一緒に闘うっていうことだと思うんですよ」
「……」
「それを、教えてくれたのは他でもない、先生なんですよ」
「……え、僕?」
そんなことを言った覚えはなかった。
「今、忘れてしまっていますが、私が言ったことは普段私たちの診療所に入院してきた患者さんに、先生が行っていることです。そうやって、患者さんの不安な気持ちを紛らわさせていたじゃないですか」
「……」
そう、だっただろうか。
よく思い出せない。
ただ、なにが出来ることはないかと、思ってしていた行動だから。
「ですから、難しいことなんか考えないで、普段の私たち通りでいいんですよ」
「……そうだね」
「姉さんもそれを望んでいますから、きっと」
自分のやるべきことをしっかりと。
なんて難しいことは考えないでいいんだ。
僕たちが普段やってきたことを、そのままで。
「だから、一緒に闘いましょう。先生は必要な人なんですから」
「……ありがとう」
まだ心は晴れない。
きっと、まだ出来ることはなにかあるんじゃないか……そんな気持ちがくすぶっているのだろう。
……過去は過去。現在は現在。
お母さんを優日と重ねてはいけない。
そんな当たり前なことを心に刻んだ。
もう間違えないように。