「おかあさん! おかあさん!!」

 頭に響く声。

「おかあさん!! 死んじゃやだ!!」

 幼い頃の自分の声。

「やだ!! やだよぉ!!!」

 暗い空間に、ベッドがぼやけて見える。
 そこで横になっている人がいた。
 ……母さん。

「いやだ!! 死んじゃやだ!!」

 あの記憶。
 ただ叫ぶことしか出来なくて。
 ただ嘆くことしか出来なくて。
 悔しくて、哀しくて。
 もうどうしようもないって分かってるのに。
 必死に。
 抗うように。
 感情に任せた言葉を吐いていた。

 あの時の記憶だった。

「嫌だ!! 嫌だ!!」

 声が変わった。  細く高い音から、太く低い音へ。
 だけど、聞こえてくる感情は、変わっていない。
 叫び、嘆いているだけ。
 自分の無力さを呪って……。
 これは……?
 ベッドは変わらず見えている。

「どうして!? ダメだ! ダメだよ!!」

 ベッドの中にいるのは……母さん、じゃない。
 あれ……?
 なんだ? これ?

「ダメだよ!! 君は……」

 辛そうに叫ぶ声。
 これは……僕?
 じゃあ、ベッドの中にいるのは……?

「どうして、優日」

 その名を呼んだ瞬間。
 ぼやけていた空間の中で、彼女の顔だけがはっきりと見えた。
 僕を心配させないように。
 僕を傷つけないように。
 優しく、哀しく笑っている彼女の笑顔が。




      昔語(十九)『悩んでも止まらずに』






「―――っ!!!!」

 起き上がる。
 目の前に見えるのは、いつもの見慣れた自分の部屋。
 暗い部屋なんかじゃなくて。
 病院のベッドだってここにはない。

「っ……はぁ……はぁ……」

 動悸がする。
 手を突いたベッドは何故か湿っていた。
 汗……?
 体を見てみると、服はまるで風呂にでも入ったかのように濡れていた。

「……はは」

 情けない。
 悪い夢だ。それも最悪の。
 そんな感想しか浮かばない。

「……」

 身体に纏わりつくような湿った衣服が気持ち悪かった。
 着替えようと、立ち上がる。

「今何時だ……」

 時計を見ると十時を過ぎようとしている。
 部屋を見渡す。
 さっきまでは気づかなかったが、薄暗い部屋の中でカーテンの隙間から光がこぼれていた。

「おい、俊也」

 浩司の声が扉の外から聞こえる。

「まだ寝てるのか?」

 診療所に人がいることにまったく気がつかなかった。
 時間は十分に過ぎている。
 浩司たちは、もっと早くにここに来ていたはずだ。

「俊也? ――うわっ暗」

 返事がないことに痺れを切らした浩司が扉を開けて中に入ってきた。

「って、起きてんじゃねーかよ。返事しろよ」
「ああ。ごめん」
「お前……」

 浩司は僕の姿を見るなり、黙り込んだ。
 そして、視線を僕から部屋へと見回す。
 奥にあるベッドを見て、大体の事情は掴めたようだった。

「まぁ、寝れなかったってわけじゃなさそうだな。さっさと着替えろ。そのまんまじゃ風邪ひくぞ」
「ああ、分かってる」
「これ以上、心労増やすなよ? あと、着替えたらちょっと来てくれ、話がある」
「話?」
「ああ、昨日お前が心配していたことだ」

 心配していたこと。
 なんだろう。
 色々なことがあり過ぎて、どれか分からなかった。

「んじゃ、早くしろよ」

 そう言って、浩司は部屋から出て行った。
 どうせすぐ分かること、か。
 考えることをやめ、僕は着替えるために服を脱いだ。









 部屋を出て、居間へと出た。
 そこには、浩司となぜか柚華さんが座っていた。

「おはよう」

 柚華さんの挨拶に、頭を下げて、答える。
 なるほど。
 確かに、僕が心配していたことだ。

「昨日はあまり話せないで、帰ってしまってごめんなさいね」
「いいえ。その……」

 浩司に目配せをする。
 すると頷いた。
 聞いてもいい、ということだろう。

「大丈夫ですか? 昨日様子が変だったので」
「浩司くんから聞いてるわ。こんなおばさんでも心配してくれたのでしょう。嬉しい」

 顔を見ても、僕らをからかったりして遊ぶ明るい柚華さんだった。
 大丈夫そうだ。
 すぐにそれが確認できた。

「当たり前ですよ……お母さん」

 こんな言葉は普段恥ずかしくて言わないんだけど。
 それが僕の正直な気持ちだった。

「……ありがと」

 柚華さんも、若干照れているように見えた。
 僕も照れくさくなって、浩司に目線を移す。
 その顔はにやにやしていたが、それを無視して質問を投げかけた。

「それで、話っていうのは?」
「くくくっ。まぁ、ほとんど終わったんだが」

 浩司は柚華さんを見て、僕の質問に答える。
 こうして実際に見たほうがいいってことで、僕を呼んだんだろうな。
 確かに、それは正解だった。

「後は、今日は母さんと一緒に優日ちゃんの所に行ってくれないかってことだ」
「柚華さんと?」
「ええ、優日ちゃんにお話したいことがあってね。それに紗衣香ちゃんも気になるし」
「それは構いませんが……」

 というより、僕は連れて行ってもらうのだ。
 誰が送ってくれようと、それに意見する権利はないと思うんだけど。

「んで、お前はどうすんだ?」
「なにが?」
「移動が大変だからな。こっちまで戻ってくることないだろ? 親父に了承を得たんだし」

 今日からあっちに泊まるのか、ということを聞いているらしい。
 確かに、それはそうだった。
 戻ってくるのも、浩司や柚華さんに負担を掛けるだけだし……。
 でも……。

「極力こっちにも戻ってくる。列車とかあるし。全部、浩介さんに任せることも出来ないだろ?」
「……お前がそうしたいってんなら無理に止めないがな。あんまり無理はするなよ」
「ああ、ありがと」

 でも、無理をしなきゃ、出来ない時もある。
 僕は今がその時だと思っている。

「もう出るの? なら、準備してくるけど」
「ええ、お願いします。僕も優日が気になりますから」

 僕がそう言うと、柚華さんは頷いて居間から出て行く。
 それを確認して、僕は単刀直入に浩司に疑問に思っていたことを聞いた。

「で、どんな手品を使ったの?」
「母さんか? 俺じゃないよ。親父だ。なにがあったか知らんが、朝になるとけろっとしてた」
「さすがはおしどり夫婦」
「仲良すぎるっていうのも考えもんだけどな」

 うんざりしたような顔でそう言う。
 実際、僕が今でもあの人たちの傍で暮らしていたら、そうなるだろうな。
 学生の時には僕も坂上家に世話になっていたんだし。
 その時も、二人の子供の目をはばからずに、イチャイチャしていた記憶がある。

「にしても、お前が"母さん"って呼ぶなんてな」

 笑うのが我慢できないというような顔で、話を蒸し返してきた。

「うるさい、いいだろ。僕にとってもそうなんだから」
「俺はこんな弟、嫌だねぇ」
「浩司が兄貴になるのか?」

 不満はないけど、不安がある。

「いや、もし俺の夢が達成したならば、俺はお前の義弟になるな」
「は……?」
「だから、俺も頑張んないとなぁ」

 遠い目をしだした浩司。
 浩司から"お兄ちゃん"と呼ばれる……?
 ……想像だけで鳥肌が立った。
 ま、頑張りなさい。
 そんな状況、背筋が凍るから応援はしないけど。

「ってなわけで、妹たちを頼むぞ。次男坊」
「もうわけが分からないよ」
「穂波診療所は一つの家族だ。俺だけじゃなく、親父たちもそう思ってる」
「……」
「家族の為になにかしたいって思うのは当たり前だろ? だから、俺たちのことはなんの気負いもすんな。迷惑だろうとか思うんじゃない」

 卑怯だ。
 いきなり、なんの脈絡もなく。
 こういう話をしだすんだから。

「そして、お前はうちの次男だ。なんとも頼りないがな」
「……浩司」
「兄貴が妹を守ってやるのも当然、恋人を守るのも当然。だから、頼んだぞ」

 俺はずっとそっちに居てやれないから。
 そう聞こえた気がした。

「うん」

 情けない、と嘆いたって始まらない。
 無力だ、って嘆いたって始まらない。
 弱音を吐く時間は、もうとっくの間に終わってるんだ。







◇◇◇







 朝、病室に入ると、姉さんは立ち上がって外を見ていました。

「……え?」

 その姿はまるで普通で。
 病気なんか患っているように見えなくて。
 思わず、そのまま見入ってしまいました。

「……あ、紗衣ちゃん」

 そうやって名前を呼ばれるまで。

「姉さん、大丈夫なんですか」
「ん、どうだろう。なんだか気分が良くてね。外が見てみたくなった」
「そう……ですか」

 普通には見えましたが、顔色は悪いです。
 立っているのもやっとという感じなのに……。

「それはいいことかもしれませんが……どうかベッドに」

 大丈夫だと言っても、見てるほうは気が気ではありません。

「うん。ごめんね」

 そう言って、素直にベッドに向かってくれます。

「俊也さん。今日、来てくれるかな」
「来ますよ。来てくれなくては困ります」

 少し、先生と話さないと。
 じゃないと私の気が収まりません。

「どうして?」
「あ、いえ……」

 ということは姉さんに言えるわけもなく。
 少し言葉に困っていると、
 ――コンコン

「篠又紗衣香さん、いらっしゃいますか?」

 私と同い年くらいの女性が病室に入ってきました。

「私ですけど」
「坂上さんから、お電話が入っています」

 ここの人だったのですか。
 坂上……浩司さん? 浩介さん? それとも柚華さん?
 いずれにせよ、電話なんてなにがあったのでしょう。

「分かりました。姉さん、ちょっと行って来ます」

 悪い知らせ、ではないといいのですが。









 事務室みたいなところに入ると、電話の元まで案内されました。

「ありがとうございます」

 私がそう言うと、彼女は一礼してこの場から離れました。
 それを確認して、私は受話器を取ります。

「もしもし? お待たせしました」
「おう。紗衣香ちゃん、悪いな」
「浩司さん? どうしたんですか」

 なにか重要な用がなければ、こういうところに電話なんて掛けないはずですが。

「今、俊也と母さんがそっちに向かったから」
「先生と、柚華さんですか?」
「ああ、本人が行きたがってな。なんか優日ちゃんに話があるらしい。紗衣香ちゃんのことも気に掛けてたぞ」

 それはとても嬉しいですね。
 それに、色々相談できますし。

「そうですか。私は大丈夫ですのに」
「自分の目で見ないと心配なんだろ」

 柚華さんに来てもらえるというのは、安心できました。
 私なんかより、人を看る経験ありますしね。

「それだけ、ですか?」
「いや、俊也なんだけど……」

 歯切れが悪く、話を切り出しました。
 それだけ話しづらいことなのでしょうか。

「なにかあったのですか?」
「いや、あったわけじゃないんだけど……なんて言うか、変なんだ」
「……体調がですか? 雰囲気がですか?」
「両方。あいつ、昨日うなされてたらしいな。今日起こしに行ったんだけど、寝汗で布団から服までびっしゃりだった」

 ……自分で自分を追い詰めるから、そうなるんですよ。

「しょうがないですね……こっちでも注意して見てみます」
「頼む。悪いな」

 本当に、浩司さんは私や俊也さんや姉さんのことばっかりですね。
 自分のことには無頓着ですのに、私たちの為ならどんなことでも力を尽くす人。
 先生とは違った形の、優しい人。
 まるで……。

「……お兄ちゃん」
「……へ?」

 浩司さんの間の抜けた声が聞こえました。
 あれ……?
 私、今、もしかして声に出してました!?

「あっ、いえ、そのっ……気にしないでください!」
「あー、いや、気にしてない気にしてない」

 なんてことを口走ってしまったのかっ。
 つい思ったことがそのまま……。

「すみませんっ」

 うー……恥ずかしい。
 顔が熱を持ってきていることを感じました。

「それにしても……ははははっ」
「笑わないでくださいよぉ」

 思い出すだけでも恥ずかしすぎて。
 絶対、顔が真っ赤になっているでしょうね……。

「悪い。いや、似たもの家族だなと思ってな」
「え?」
「ま、次男より頼りがいのある妹で良かったよ」
「あ、あの……?」

 浩司さんはなんのことを言ってるのでしょう。

「優日ちゃんの調子はどうだ?」
「あ、え……姉さんですか? 昨日とあまり変わりはありません」
「そうか……」

 なにしろ、治療は始まったばかりです。
 それに、そんなすぐに効果の出るようなものではありません。
 簡単なことではないのです。
 姉さんが良くなることは。

「ま、用はそれだけだ。あんまり長く電話すると優日ちゃんが心配するだろ」

 浩司さんは、振り切ったような明るい声でそう言いました。
 ありがとうございます。
 でも、最後に一つだけ言わなければ……。

「あの、さっきのことは内緒にしていただきたいのですけど」
「……」

 え、どうして黙り込むのでしょうか……?

「悪いな」
「へ? あ、あれ……浩司さん? 浩司さーんっ」

 電話口からはツーツーという音が聞こえるだけ……。
 しかも最後謝りましたよね。
 ……もしかして私は、とてつもない弱みを握られたのでしょうか。







◇◇◇







 車は走り出して三十分は過ぎようとしていた。
 今は山道を走っている。
 穂波町と病院がある街はこの小さな山で分かれている。
 流れる景色は陰鬱になるくらいの深緑一色。
 たまに日差しがあるくらいで、まるで長いことトンネルを走っているかのような感覚だった。
 この山さえなければもっと早く行けるのだが、そんなこと言ってもどうしようもないこと。

「俊也くん、大丈夫?」

 そんなことを考えていると、柚華さんが聞いてきた。

「えっと、そんな無理しているように見えますか?」
「っていうより、いつもと違うという感じね」
「いつもと、ですか」

 どう違うのかは分からない。
 でも、こんな状況じゃ、その"いつもと同じ"なんて無理だと思う。
 これは普通なんかじゃないんだから。

「……撤回。無理してる」
「え……?」

 思わず、柚華さんの方を見る。
 顔は前を向いていて表情は読めないけれど、怒っているように思えた。

「いっぱいいっぱいって感じね」
「そう見えますか」
「そうしか見えない」

 そう言われて、少したじろぐ。
 別に自分がそう見せようだなんて思ってないのに、そういうふうに思われるのはキツい。

「いつもそうよね、俊也くんは。考えて考えて、そのうち身動きが取れなくなっちゃう」

 身に覚えがありすぎることだった。
 僕はいつもそうだった。
 嫌なことだったり、生きていくうえでの壁があったりしたとき、僕は悩み尽くしてしまうんだ。
 答えが見つかるまで。

「でも、前よりはマシか。今はそれでも歩こうって頑張ってる。立ち止まったりしてないしね」
「……それじゃダメだと思ったんですよ」

 そうだ。
 だから僕は変わろうとした。
 優日の両親の事故の時にそう思ったんだ。
 あの時、記憶を忘れて、立ち止まってしまった優日。
 どうしたらいいか、悩んで悩んで、それでも歩こうと誓った
 そうしないと、優日も記憶を思い出してくれないと思ったから。

「そうね。でも、動いている分、性質は悪くなってるわ」

 聞き捨てならない言葉だった。

「どういうことですか、それ」

 少しイラつく。
 柚華さんは僕の方をちらっと見ると、ため息をついて。

「自分で考えなさい」

 そうやって、また考え事を増やしたのだった。
 ……だったら、こっちも一つ考え事を減らせてもらおう。
 そんなふうに思い。

「柚華さん、昨日の夜、誰かと電話してたらしいですよね」
「……突然ね。それが?」

 少し動揺したように思える。
 あまり触れられたくない話題っていうのは知ってる。
 でも、気になることがあるのだから遠慮なしで聞いた。

「それ誰でしょうか?」
「別に。俊也くんの知らない人よ」
「……如月美冬さんではないですか」

 その名前を聞いて、柚華さんは一瞬だけ僕の方を見た。
 そして、無言。
 当たり……だったのだろうか。

「浩司から少し聞いたんです。先輩のせいじゃないとかそういうことを言ってるの。柚華さんから聞いたことありますよね、大学時代のこと」
「……」
「如月さん以外はもう死んでしまったって聞きました。だからそう思ったんですよ」

 まだ無言。
 怒っているのかもしれない。
 だけど、どうしても気になってしまうんだ。
 どうしてその人と、この状況で、このタイミングで、電話なんてしてるのかって。

「……考えることも悪いことではない、か」

 ぼそりと言った。

「そうね。俊也くんにならいいか」
「僕になら?」

 返ってきた言葉は、なぜか明るくて。

「彼女……美冬先輩はね」

 でも、正反対の真剣な顔つきで。

「優日ちゃんの、産みの親よ」

 とても唐突に、そんなことを言った。







◇◇◇







 病室で過ごす時間は、ただ静かでした。
 姉さんは横になり、ただずっと何かを眺めているだけで。
 私は私で、そんな姉の様子を見ながら、持ってきた雑誌に目を向けていました。
 そんな静寂とした空間に、控えめなノックの音が響きました。

「はい」

 私が返事をすると、扉が開き、白衣を着た少し白髪の混じった男の人が入ってきました。
 私はここの病院の先生だろうと、軽く会釈をすると、立ち上がり、部屋の姉さんのベッドから少し離れます。
 姉さんも起き上がろうとしたところ、先生は手で制しました。

「私は、あなたの担当をさせてもらいます、松村と言います。篠又優日さん、今日から治療をしていきます。まずは――」

 そうして松村と名乗った先生が、今後の治療について話し始めました。
 ぼんやりと、先に知らされていたことを思い浮かべます。

 これからするのは、化学療法と呼ばれる抗がん剤を用いた、治療法。
 簡単に言えば、お薬を使って白血病の細胞を殺してしまうというものでした。
 ただ、ガンを殺すほどの強力なお薬。
 当然、使った時の副作用も強く、姉さんの身体が耐えることができるのか、とても不安です。

 姉さんの病気、骨髄性の白血病。
 骨髄というのは、骨の中心にある血液を造るための場所です。
 そこが白血病の細胞で充満しているのです。
 なので、骨髄移植という治療法があります。
 患者さんの骨髄を、誰かの健康な骨髄と入れ替える治療法。
 これも、副作用が高い確率で起きますが、成功すればガンの再発の可能性は少なくなるみたいです。
 しかし、誰でもというわけではなく、白血球の型というものが完全またはほぼ一致しなければ、移植は出来ないそうです。
 血縁者でも一致する可能性は低く、さらに他人ともなるとさらに低くなるみたいで……。

「血縁者はいないのですか? こちらは妹さんと聞きましたが」
「血は繋がっていません。それに私は親のこともよく知らないんです」

 そう。姉さんには……血縁者がいません。
 私やお父さん、お母さんは、姉さんの血の繋がった家族ではないのです。
 今までなんも気にしないで入れたのに……そういうのは関係ないって思っていたのに。
 どうして私は……姉さんと血が繋がってないのでしょう。
 もしかしたら、私ので出来たかもしれないのに……。

「それでは、よろしくお願いしますね」

 気がつくと、松村先生は病室を出て行くところでした。
 私は、それを見送ると、姉さんの傍まで近寄ります。
 これからやっていくことに不安になったのか、苦笑という感じで姉さんは笑いました。

「大変だね」
「はい。大変です」
「……ちょっとくじけそうだよ」

 姉さんが顔を伏せ、布団を握り締めました。
 私は、それが見ていられなくて、思わず窓の外を見ました。
 すると、そこには一台の車が入ってきました。
 降りてきたのは……先生と柚華さん。

「でしたら、元気づけましょう」

 私は、病室を出ようと、扉のほうまで歩きます。
 姉さんは不思議そうな顔をしていましたが、いきなりなほうが喜びは増すでしょうし、なにも話さないで行くことにしました。
 ……逆に会うことで落ち込んでしまうかもしれませんが。
 それでも、あの人の代わりなんてどこにもいないのですから。







◇◇◇







 駐車場に車を止め、柚華さんと降りる。
 改めて見ると、この病院は大きい。
 階数は3階まであり、散歩できるような庭や、駐車場も4、50台は停まれるくらい広かった。
 診療所よりちゃんと設備がしっかりしている、というのが分かる。
 病院を見上げる。ふと目に映ったのは優日の病室の窓だった。

「あ……」

 紗衣香ちゃんだ。
 僕たちに気付いたらしく、窓を離れてしまう。
 出迎えてくれるのだろうか。

「なに?」
「いえ、紗衣香ちゃんが出迎えてくれるみたいですよ」
「あら……ならびっくりさせなきゃダメよね」

 いや、ダメってことはないです。

「急がば回れ、よ」

 そう言って、楽しそうに笑いながら走り去る。
 こういう時でも変わらないな……いや、こういう時だからこそ、なのかな。
 つい十数分前までは、あんな真剣に話していたっていうのに。

 自動ドアをくぐり、病院に入る。
 中央に階段があり、ちょうど、そこから紗衣香ちゃんが下りてくるところだった。
 柚華さんは……見当たらない。
 どこに隠れたんだ?

「……先生」

 僕を見た瞬間、少し怖い顔をした。
 怒っている……?
 なんでだろう。
 僕が疑問に思っていると、紗衣香ちゃんの背後からそろーりそろーりと忍び寄る人影が中央階段の隣の通路から現れた。

「……」

 でもずっと僕を見ている(睨んでいる?)紗衣香ちゃんは、そんなことに気付かないみたいだった。
 この重い空気……僕はなにかしただろうか。
 そんなことを知らない柚華さんは、もう紗衣香ちゃんに触れるぐらいまで近くに忍び寄ってきいて……。

「会いたかったー!!」
「ひゃっ!!!」

 覆いかぶさるように、紗衣香ちゃんの首に抱きつく柚華さん。
 言葉とも取れないような悲鳴を上げ、紗衣香ちゃんはなにが起こっているか分からず身体を強張らさせた。
 そして、恐る恐る後ろへと顔を向けると、この事態の犯人を見つけ出した。

「ゆ、柚華さん!!」
「ふふっ。一日振りだけど、なんか随分会ってないように感じてね」

 理由になってません。
 というより、抱きつきたいなら普通に抱きつけば良いのに。
 ……言っても無駄か。

「ごめん。止める間がなかった」
「あ……いえ、別にそれは」

 あっけに取られたのか、軽くボーっとしている紗衣香ちゃん。
 その間にも柚華さんの抱きしめ行為は続いているんだけど……。

「もうその辺でいいですよね、紗衣香ちゃんが困ってますよ」
「困ってるの?」
「え? そんなことはないですが……」

 どうしてそこで否定するかな。

「優日が心配なんで、僕は先に行きますよ」
「あー、そのことなんだけど、ちょっと待っててくれる?」

 紗衣香ちゃんから身体を離し、僕を手で制した。

「ちょっと話したいことがあるから」

 ふっと、真面目な顔になる。
 車の中で……優日の母親について話していた時と同じような、なにかを決意したような顔つきで。

「……分かりました」

 如月美冬さんと父親のこと。
 優日が篠又の家へ預けられた理由。

「ありがと。というわけで、紗衣香ちゃん。病室までの案内お願い」
「……? 分かりました」

 要領を得ない僕たちの会話に、紗衣香ちゃんはついていけていないようだったけど、道案内を承諾し歩き出した。
 僕は、近くに椅子を見つけそこに座る。

「……なんで、こう上手くいかないんだろうな」

 人生っていうのは。生きていくっていうのは。
 本当に、上手くいかない。
 車の中で聞いた話は、そんな話だった。

 優日の本当の母親である如月さんが、もしドナーとして適合者だったとしたら。
 何万、何十万の確立から適合者を見つけ出すより、ずっと楽に、ずっと安全に、優日の命を助けられるかもしれない。
 そんな話をしても、彼女の心は動かなかった。

"如月美冬はなにがあっても、篠又優日の前に姿を現すことはない"

 昨日の電話の最後に、そんなことを言われたらしい。
 自分の娘の命の危機なんだ。
 どうして来ない?
 どうして来ないんだよっ!!

 拳を握り締める。
 その怒りはどこへ向かう? 誰へと向かう?
 誰にも、何にも、ぶつけられしない。
 そんなどうしようもない怒りが、僕の中で渦巻いていた。







◇◇◇







「ここです」

 姉さんの病室の前まで来ました。
 柚華さんは、ありがと、と言いそのまま部屋に入ろうとしました……が。

「あの……私も一緒ではダメなのでしょうか?」
「……ごめん。優日ちゃんと二人で話したいのよね」

 困ったように、苦笑する柚華さん。
 いったい、なんの話なのでしょう?
 気になります……けど、きっと柚華さんは教えてくれないのでしょうね。

「分かりました」

 渋々頷き、柚華さんが入っていくのを見届けました。

「さて……」

 問題は下で待っているあの人。
 柚華さんに驚かされて、少し怒りが収まりましたけど……というよりそれを狙ってたんじゃないでしょうか、あの人は。
 でも、言わないと。
 あんな顔で、姉さんの前に出てこられたら、それこそ姉さんを傷つけます。
 あんな……目の下に隈をつけて、立っているのが辛そうなほど白い顔で。
 姉さんと同じくらい調子が悪そうにして……。
 思い出すと、またふつふつと怒りがこみ上げてきました。

「紗衣香ちゃん」

 中央階段まで戻ると、先生の姿が見えず、声だけが聞こえます。
 辺りを見回してみると、少し端にあったベンチにいました。

「話は少し時間かかると思う、ここで待っていようか」

 私はそこに近寄ると隣には座らず……先生の目の前へ。

「先生」

 姉さんのことで悩んでいるのも分かります。
 ご自分の力の足りなさに嘆いているのも分かります。
 ですが、それを姉さんの前で見せることはまったく分かりません。
 ですから……

「どうし――」

 見上げた先生の頬を、思い切り平手で打ちました。







◇◇◇







 頬がじわじわと痛み出してくる。
 なにをされたのか、ようやく頭が理解しかけていた。
 そして次に浮かぶのは疑問。

 紗衣香ちゃんはどうして怒っている?
 どうしてビンタなんてしたんだろう?

 横を向いてしまった顔を、正面に戻す。
 紗衣香ちゃんの顔は、悲しそうに歪んでいる。

「今日、一度でも自分の顔を見ましたか……?」

 ずっと黙っていた紗衣香ちゃんは、そんなことを聞いてきた。
 自分の顔?
 当たり前だ、見ている。
 それがなんだと言うんだ。

「……その目の下の隈、辛そうな表情、仕草。そんなものを姉さんに見せつける気ですか?」
「え?」
「そんなもの、姉さんにとって何になるんですか……?」

 紗衣香ちゃんはなにを言っている?
 自分の顔……?
 そんなに酷い顔をしているのか……?
 だって、今朝見た。
 僕は見たんだ。自分の顔を。

「どうして……どうしてそんなことが出来るんですか?」
「っ!!」

 目の前に鏡が合った。
 紗衣香ちゃんの身体で隠れている僕。
 立ち上がり、その鏡へと走った。
 そこには……。

「なんで……」

 どう見ても寝不足で、疲れていて、今にも倒れそうな男が僕を見ていた。
 なんで今まで気付かなかった?
 どうして誰も……。

(そうね。でも、動いている分、性質は悪くなってるわ)

 車の中で柚華さんが言った言葉。
 自分で考えろと言われたこと。
 そして、自分の今の顔。

「……くそ」

 僕は確かに見たんだ。
 朝、自分の顔を、鏡で。
 どうして……。

「本当に、気付いてなかったんですか」
「……ごめん」

 いつも通りだと思ってた。
 雰囲気だとか、仕草だとか、そういうのはどうしようもないって思ってた。
 それでも、優日の前では隠し通せれると考えてたんだ。
 それが……このざま。

「僕は……どうして」

 歩みは止めない、かっこ悪い姿のままでも歩いていくと決めた。
 でもそうすると、周りを巻き込んで迷惑をかける。
 自分一人でなんか立ち直れないくせに。

「成長できないんだよ……!」

 なにもかもがイライラする。
 今の状況。
 今の自分。
 全部、上手くいかなくて、思い通りにならなくて。

「……っ」

 拳を握り締める。
 ぐるぐると渦巻く怒りを、どこかに吐き出したい。
 でも、そんなことしたって、自分の不甲斐なさが増すだけの行為。
 自分が、こんなにも嫌いになるのは初めてだった。

「……このまま帰ってもらうつもりはありません」

 後ろにいる紗衣香ちゃんが静かにそう言った。

「……僕が会ったって優日を悲しませるだけ。それは紗衣香ちゃんにだって分かってるんだろ?」

 だからこそ、僕を怒った。
 こんな状態で、今日ここに来たことを叱った。

「でも、先生しかいないんです」
「僕しか?」
「先生は姉さんを悲しませるでしょう。それでも……一番来てくれて嬉しいのは先生なんですよ」
「……」
「先生の性格はもう治らないみたいです。なら、悲しませた分……いえ。それ以上、姉さんを笑わせてください」

 悩んで、失敗して。
 悩んで、叱られて。
 悩んで、励まされて。
 悩んで、悩んで、悩んで……。

「私はっ! 医者としてのあなたは必要としていません! 一人の……篠又優日の恋人としてのあなたを必要としているんです!!」

 浩司にも言われた言葉だ。
 でも、僕は……。

「それだけじゃ……嫌なんだよ!」

 わがままだと思う。
 現実を見ていないと思う。
 でも、僕はあの頃のままでいるわけにはいかないんだ。
 過去の僕より、成長していないといけないんだ。

「っ! 勝手にしてください!!!」

 僕の言葉を聞いて、紗衣香ちゃんは怒鳴るように叫んで、走り去った。
 初めて……かな。
 仕事以外でここまで言い合ったのは。

「……ごめん」

 誰に対しての謝罪なのかは分からない。
 紗衣香ちゃん?
 優日?
 柚華さん?
 浩司?
 浩介さん?
 ……きっと、全てに対して。

 情けなくて、ごめん。






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