浩介さんとの電話を終えた僕は、待合室で座っていた。

 優日はこれからここに入院する。
 僕は……どうするべきだろうか。
 一緒にいたい。
 ここの近くで泊まるところを探して、優日が落ち着けるまではここに居たかった。

 でも、そういうわけにもいかないだろう。
 僕は穂波診療所の医者であり、学校の保険医でもある。
 それに、保険医のほうは僕が好きで始めたこと。
 いくら浩介さんがいると言っても、そこまでフォローしてもらうわけにはいかない。

 だから僕は、町に戻らないといけない。

「俊也」

 電話を終えたのか、浩司が僕の元へ歩いてくる。

「病室へは行かないのか?」
「……まだ寝てるだろうし」
「そうか……」

 そう呟いて、僕の隣に座る。

「親父がな、今日はとりあえず戻って来いって」
「今日!? でも、まだ優日が……」

 不安定なまま。
 このまま帰るのは、心配だ。

「今日のところは紗衣香ちゃんに任せよう」
「……」
「駄々をこねるなよ。心配なのは分かるが、優日ちゃんが安心して病気を治せるように、 俺たちがフォローしなくちゃいけない」

 今の優日には病気を治すことに専念してほしい。
 だから、それ以外の面倒ごとは僕たちがやって。
 紗衣香ちゃんに、優日を看てもらう。
 それが一番いいというのは分かっていた。
 ……僕が、優日と一緒にいたいというのは、ただのわがまま。

「分かってる」

 考えなくてはいけないことはたくさんある。
 不安だ。心配だ。とただ見ているわけにはいかないんだ。
 なってしまったものはどうしようもない。
 だから、これからのことを考える。

 いいかげん……気持ちを切り替えないと。
 浩司や紗衣香ちゃんだってもう出来てるはず。
 まだウジウジしているのは僕だけだ。




      『昔語(十八)~動き出した時間~』






 病室に入ると静かで。
 さきほどまで、姉さんが泣いていたとは信じられないくらいでした。
 ベッドを見ると、姉さんは安らかな寝息をたてています。

 起こさないように、窓辺へと近づく。
 そこから見える景色は、緑らしいものがなく、目の前にあるのは商店街。
 さっき浩司さんと歩いた道を、親子が仲良さそうに歩いているのが見えます。

「……」

 家族……私にはもう一人しかいない家族。
 たった一人の姉。
 もう絶対に失いたくありません。

 私たちは、これから病気と闘っていきます。
 今までの私の仕事は、患者さんたちがどれだけ安らかに息を引き取れるかということを 考えていました。
 これからは、生きるために。
 生きてもらうために。
 私になにが出来るかを考えていかなくてはいけません。

「……大丈夫です」

 私が出来ることはきっと少ない。
 先生のほうが、今の姉さんには力強いと思います。
 今はもう、たった一人になってしまった家族なんですから。
 絶対に、死なせません。

「……紗衣ちゃん?」

 後ろから小さな声が聞こえました。

「すみません。起こしてしまいましたか……?」

 振り向くと、ベッドから顔を上げた姉さんの姿が見えました。
 先ほどまで泣いていたからか、目が真っ赤になってます。

「大丈夫だよ。ごめんね。気を使わせて」
「……」

 不自然な間があく。
 何を言うべきなのか。
 病気のことを知った姉さんに、どんなことを言ったらいいのだろう。

「……紗衣香ちゃん。先に謝っておきたいの」

 起き上がった姉さんは、下を向いたままそんなことを言った。

「謝るって……何をでしょうか?」
「それは――」

 ――コンコン。

「ちょっといいかな」

 浩司さんの声。
 姉さんは俯いた顔をあげ、私の方に視線を向けました。
 なんだか、何か言いたそうな……そんな感じの目。
 ですが、すぐにドアの方に目線を移しました。

「……どうぞ」

 入ってきたのは浩司さんと、先生でした。

「ちょっと、紗衣香ちゃんを借りたいんだけど、いいかな」
「はい。なにかお話ですか?」
「ああ。これからのことについてね」

そうですか、と呟くと姉さんは私を見て。

「さっきのお話は後でしようか」
「え? ……あ、はい」

 謝っておきたいこと……でしたよね。
 なんでしょう。
 そんなこと、無いはずなのに。
 逆に私が謝らなくてはいけません。
 こんなことになるまで、気づけなかった私の方が。

「それじゃ、紗衣香ちゃん。ちょっと」

 浩司さんが私を手招きしました。
 廊下を出ると、浩司さんがすぐ正面で、壁によしかけて立っていました。

「悪い。なんか大事な話をしてたか?」

 空気を感じ取ったのか、浩司さんが申し訳なさそうに言います。

「いいえ。大丈夫です。それで、お話というのは?」
「これからのこと、だよ」

 ドアの隣に立っていた先生が口を開きます。

「僕たちはいったん診療所に戻ることになった」
「え? 診療所に?」
「そ。親父たちに報告しないといけないし、これからのことを相談しないといけないからな」

 これから……そうでした。
 私にも仕事があります。
 ずっとこっちにいるわけにはいきません……よね。
 すっかり頭にありませんでした。

「今日は、こっちは紗衣香ちゃんに任す。優日ちゃんの傍についてやっててくれ」
「あ、はい。お二人で帰るんですか?」
「ああ。俊也もあっちに戻ってもらう。さすがに俺一人じゃきついからな」
「そういうわけだから、ごめん。優日のことお願い」

 何に対しての“ごめん”なのでしょう。
 自分が今日帰ること?
 それとも、姉さんのことを看てもらうこと?
 どっちにしろ、それは言われるようなことではありません。

「当たり前じゃないですか。私は家族ですよ」
「……そうだね」
「ですから先生たちは、早く帰って相談をしてきてください。私はなんであろうとそれに従いますから」

 先生たち、それに浩介さんでしたら、きっと一番良い方法を提案してくれるはずです。
 心配せずに姉さんを看病していられます。

「分かった。それじゃあ早いほうがいいな。すぐに出よう」
「ほ、本当に早いですね」

 自分で言ったとはいえ、今すぐ行くとは思いませんでした。

「決めたらすぐ行動。時間が惜しいからな。俊也、お前は優日ちゃんに何か言っとかなくて良いのか?」
「……うん。大丈夫。すぐ行こうか」
「……?」

 なんでしょう。
 姉さんといい、先生といい、様子がおかしいような気が……。

「それじゃ、紗衣香ちゃん。優日ちゃんのこと頼むな」
「あ、はい。お気をつけて」

 浩司さんは手を振ると、玄関へと向かいました。
 先生は、私の向こう……おそらくは姉さんの病室のほうを見て、浩司さんの後を追います。

「……」

 先生の様子は気になりますが、今は姉さんのところへ。
 何か話したいことがあるようでしたし。
 その内容も気になりますが。
 今はとりあえず、姉さんの傍にいましょう。







◇◇◇







 街の景色が薄れ、緑が見え始めてきた窓の外。
 車に乗ってから会話もせず、ただ黙々と家路へと急いでいた。
 ここからはまだ三十分はかかるだろう道のり。
 今度からは、この往復が当たり前になる。

 車の免許を取っておけば良かった。
 僕一人ではなんの行動も出来ないし。
 簡単にあっちには行けない。
 浩司か柚華さんに頼むしか方法はなく、それがダメなら列車を使っていくしかない。
 一時間に一本あるかないかの列車を。

「……浩司。免許ってどれくらいで取れるの?」
「なんだいきなり。2、3ヶ月ぐらいだと思うけど、今更取りたいのかよ」
「だって、その方が……」
「すぐにでも優日ちゃんに会いに行けるってか」

 そういうことだった。
 お見通しなのか、それとも僕が分かりやすいのか。

「やめておけ。ただでさえ優日ちゃんのことで精一杯のお前が、他の余計なことなんて出来るわけないだろ」
「だけど」
「それに、そういうのに時間を割くぐらいなら、少しでも優日ちゃんの傍に居てやれよ」
「……」

 何も言い返せないくらいの当たり前のことだった。

「だから、その時は俺でも母さんでもいいから使え」
「……ありがとう」

 結局、一人ではなにも出来ない自分が、どうしようもなく情けなかったんだと思う。
 分かってる。
 僕は優日のことだけで、他の事はなにも手がつけられなくなるだろう。
 運転免許なんて取れるわけがない。

 だけど、頭の中では常に考えてしまっている。
 自分になにか出来ることはないだろうか、と。
 少しでも、何か役に立つようなことはないだろうか、と。

 ……昔の自分の影がちらつく。
 何も出来なかった自分。
 ただ……お母さん、と叫ぶことしか出来なかった自分。
 まるで、今と変わっていない気がした

「ねぇ、浩司」
「あ?」
「僕は、何をしてあげればいいのかな?」
「……何度も言ってる。それ以外は俺には分からん」

 何度も言ってる……傍にいろ、ということ。
 そういうことじゃなく。
 もっと、形に……目に見えるもので、役に立ちたかった。

「……それが不服みたいだな?」
「不服ってわけじゃ……でも、そんなことでいいのかなって」

 何も出来ずに、ただ傍にいるだけで。
 それが優日の力になる?
 そんなの、何も出来ない自分への甘えだと思った。
 そんな考えに逃げ込んでいいのだろうか。
 もっと出来ることがあるんじゃないのか。

 こうやって、常に考える。
 思考を止めずに、何が自分にとって、優日にとって最善なのかを。

「……じゃあ、あそこの医者に代わってお前が優日ちゃんを診れたらそれで満足なのか? 彼女の主治医にでもなれば、お前は納得するのか?」
「……」
「変わりねぇだろうが。結局、治す方法を探すんだろうが。自分に何が出来るのかを探すんじゃねーか。そうやって、お前は診療所の患者たちと向き合ってきたんじゃねーのか?」

 ……分かってる。
 何度、この言葉を呟いただろう。
 頭では納得してる、けど結局心までは納得できない。
 今までと同じように。
 自分に何も出来ないことを、心では認めたくないまま。

「だから、お前はお前の立ち位置を守れ。あそこではお前は医者じゃない。優日ちゃんの恋人だ。彼女を見守る義務がある」

 窓の外を眺める。
 景色らしいものは見えず、ただいくつも重なった葉と枝の壁が広がっていた。
 まるで、何人も受け入れないかのごとく。

「……浩司なら、なんて答える?」

 呼び起こすのは、病室の雰囲気。
 抱き寄せた彼女の温もり。
 甘い匂い。
 そして、彼女の小さく震え……許しを請うような声。

「……あ?」
「優日に病気のことを教えたとき、彼女泣きじゃくったんだ」
「ああ。それはお前から聞いてる」
「その時に、彼女が言ったんだよ。震える声で何度も何度も」

「……ごめんなさいって」







◇◇◇







「い、今……なんて言いましたか?」

 突然の言葉は。
 私には受け入れられないもので。

「……ごめんなさい」

 なぜ、姉さんが謝るのか。

「一人にしちゃうかもしれないから」

 どうして、私が同情されるのか
 理解できなくて。

「っ! ふざけないでください!!」

 思わず声を荒げていました。
 それほどに許せなかった。

「なんで……なんで勝手に諦めてるんですか!」

 裏切られた、という気持ちが胸に広がる。
 勝手なのかもしれません。
 それでも……

「頑張っていくんじゃないんですか?」

 一緒の気持ちでいてほしかった。

「……」

 姉さんは黙ったまま。
 俯いて、嵐が過ぎ去るのを待とうとしているかのように見えました。
 それが一層、私を苛立たせます。

「姉さんっ!」
「……どうしたらいい?」
「……」
「私だって、もちろん治したい。治したいけど……」

 まだ俯いたまま、手は毛布を握りしめていた。
 なにが、その思いを邪魔しているのか。

「……この言葉、先生にも言ったんですか?」
「……うん」

 だから、先生の様子がおかしかったのですか。
 そして、それを感じ取って姉さんまでも。
 まったく……なにをしているんですか、この人は……。

「一人にさせるってなんですか……もう姉さんは死ぬ気なんですか?」
「そういうつもりじゃ」
「そういうつもりですよ。その言葉では」
「……」

 どうして治療しようという心に持っていってくれないのでしょう。
 根気よく治していくしかない病気。
 だからこそ……前を向いてほしいんです。
 でなくては、きっと折れてしまう。
 生きることを、諦めてしまう。

「……ごめん」

 自分が言ったことは間違いだったと分かってくれたのか、さきほどとは違う謝罪。
 まだ私の方を見てくれません。
 ですが、その言葉を聞いてようやく安心できました。

「これで“ごめんなさい”は最後です。それに、申し訳ないだとかも思わないでください」

 私にしても、先生や他の人にしても。
 姉さんは、自分のことで迷惑がかかることを極端に嫌がる人。
 でも、そんなことを言ってる場合ではありません。

「迷惑なんかじゃありません。したいからするんです」

 それを、分かって欲しい。

「ありがとう」

 私のほうを見て、微笑みながらそう言いました。
 ですが、私は知っています。
 本人は気づいていませんが、その笑顔は作り物だということを。
 ただ、私を安心させるためだけの笑顔。

「……」

 どうしても変わることはないのでしょうか。
 性格、というものは。







◇◇◇







 車は穂波町へと入り、すぐに診療所へと着いた。
 家の前では、車の音に気づいたのか、柚華さんが出迎えて待っていた。

「ご苦労様」

 車を降りてすぐ話しかけてきた柚華さんは、少し疲れているみたいに感じる。
 優日の話を聞いて心配していたのだろうけど、何かあったんだろうか。

「中で浩介さんが待ってるわ」

 促すように、玄関の扉を開けた。
 いつもの茶化すような雰囲気はなかった。
 こういう雰囲気の時こそ、場を明るくしてくれるのが、柚華さんだった。
 だけど……どうしたのだろうか?

「……はい」

 柚華さんのことは気になる。
 だけど、今は浩介さんと話すことに集中しよう。
 そのために帰ってきたんだから。
 そう決め、浩司と一緒に扉をくぐった。







「おかえり、ご苦労様」

 出迎えた浩介さんは、柚華さんと同じように、労いの言葉を言った。

「はい。ただいま帰りました」
「大体のことは、浩司から聞いたよ。大変だったね」
「いえ……僕は全然」

 本当に何もしていない。
 情けなくなるくらいに。

「浩司。帰ってきて早々悪いが、柚華についてやってくれないか」
「ああ。なんかあったのか?」

 浩司も柚華さんの様子に気づいていたみたいだ。
 特に驚くことなく、浩介さんの頼みを聞いた。

「分からない。だが、ずいぶん落ち込んでいる。私は俊也くんと話さなくてはいけないことがあるから、頼む」

 浩司は頷くと、すぐに診察室から出て行った。
 そして、僕と浩介さんの二人きりになる。
 今だ。
 ここで言わなくては。

「浩介さん。お願いがあります」
「……お休みを欲しい、かい?」

 僕が頼みごとを言う前に、浩介さんは伺うように言った。

「……そうです。どうしてもお願いしたいんです」

 浩介さんが分かっていたということは、答えはもう決まっているのかもしれない。
 それでも、僕は頼むしか出来ない。

「その前に、一つ確認しなくちゃいけないことがあるんだ」
「……なんですか?」
「研修の話、断るということでいいのかい?」

 東京への研修の話……すっかり忘れていた。
 でも今はそんな所に行ってるわけには行かない。
 そんな所より、僕は優日の傍にいたい。

「はい。すみませんが、断らさせていただきます」
「……分かった」

 浩介さんは少し残念そうな顔をした。
 僕のために用意してくれた話を、非常事態とはいえ僕個人のわがままで断るのだ。
 申し訳ないとは思う。
 だけど、これは譲れなかった。

「本当にすみません。でも優日についていてあげたいんです」
「いいよ。こうなった以上は仕方ない。診療所は私一人で大丈夫だから、優日くんについててあげればいい」

 残念そうな顔はすぐ消えて、柔らかにそう微笑んだ。

「でも、僕が勝手に引き受けた仕事もあります……それまで頼むのは」
「保健医の仕事かい? なに、それぐらいどうということはないよ」
「ですが」
「どっちにしろ、他のことに集中なんてできっこないだろ? 君の今の状態では」

 ……僕はこの親子にどう思われているんだろう。
 なんか情けなくなってくる。
 そして、それを否定できない自分がものすごく嫌だった。

「別に気にすることではないよ。それが君の良い所でもある」

 僕の表情で読み取ったのか、フォローをしてくれようとしている。
 でも、そうされることがより僕を情けなくさせた。

「いいです。僕は未熟すぎてどうしようもない男です」

 だから、成長したい。
 一人でなんでも出来るように。
 彼女を守り、この場所を守れるように。

「……ねぇ、君はどうして彼女の傍にいたいんだ?」
「……どういう意味ですか」
「そのままだよ。なぜ彼女のそばにいようと思うの?」

 そんなことに理由なんかなかった。
 ただ一緒にいたいだけで……いや、違うだろ。
 それしか出来ないからだ。

「……僕にはそれしか出来ないからです」
「……」
「僕には、医者なのに優日の病気を治す力がありません。優日には一緒にいてあげることしかできません。恋人として傍に」

 僕がいる意味は?
 彼女の為にできることは?
 入院中の世話を見るのは同性の紗衣香ちゃんの方がずっといい。
 だったら、恋人として彼女が寂しくないように傍にいるしかない。

「……」

 浩介さんは何かを考えているように顔を伏せた。
 僕の考えは間違えているのだろうか。
 僕がしようとしていることはおかしいのだろうか。
 だとしたら教えて欲しかった。

「そうか。もういいよ。浩司に言って、彼女のところに行ってやりなさい」
「はい」
「それと、経過を誰でもいい。毎日連絡してくれ」
「分かりました」

 頭を下げて、部屋を出て行く。
 結局、その間も浩介さんはずっと何かを考えているような感じは消えなかった。
 そのことが、頭の隅で不安に残った。







◇◇◇







 窓の外は、もうそろそろ陽が傾き始める時間だった。
 まだ空は青いけれど、それは朱へと広がり、すぐに黒へと染まる。
 姉さんが、病気を知った後の、初めての夜になります。

 姉さんはベッドに横になってずっと天井を見続けていました。

「姉さん」
「うん?」
「辛くないですか?」
「……不思議なんだ。病気と分かってからなぜか落ち着いているの」

 どういうことでしょうか。
 姉さんは寝たまま窓の近くにいる私に視線を向けます。

「もちろん、身体はずっと気だるいし、熱っぽい。頭痛もするし、あんまり長くも話せない」
「……」
「でも、なんて言ってたらいいんだろう。すごく気分は良いんだ」
「……どういう意味ですか?」
「私にも分からないよ。でも不安にならない、どうしようってパニックにならない。大丈夫だって思ってるわけじゃなくて……」

 姉さんは上手く言葉に出来ないみたいです。
 私にもなにが言いたいのか伝わってきません。
 病状は悪いのに、気分は良い……?
 でも、前向きになっているみたいで、そこには少し安心した。

「すみません。いいです。なんとなく分かりましたから」
「うん……」
「先生たち、今頃どうしているんでしょうね」

 再び、窓の外を見ます。
 浩介さんとのお話とはどういうものでしょうね。
 先生はこっちに戻ってくるのでしょうけど。

「……ねぇ、紗衣ちゃん」
「はい?」

 姉さんは、起き上がりました。

「ダメですっ。横になっててください」
「俊也さん、どう思う?」
「……どういうことですか?」

 そんな真剣な目をして。
 起き上がるのすら辛いはずなのに。
 姉さんはまたなにを聞き出したいのでしょう。

「……俊也さん、自分を追い込んでいるように見えるんだけど、紗衣ちゃんはどう思
う?」 「……先生が、ですか」

 それは先生の性格からしてどうしようもないこと、という気がします。
 自分が何も出来ないのに、姉さんが苦しんでしまう。
 それを見ているのが辛くて……。
 でも、それは私も同じです。
 姉さんの病気に対しては何もしてあげられなくて、だから傍にいてお世話をすることしか出来なくて。
 そんな自分は……嫌になります。

「……先生は、自分が嫌になっているんじゃないでしょうか」
「嫌に?」
「何も出来ない。見ていることしかできない。でも何かをしてあげたい」

 そんなジレンマが。
 先生を、私を苦しめている。

「そういう気持ちってあるんですよ。私にも、先生にも」

 こんなことは不謹慎かもしませんが。
 病気にかかった当人より、近くで見ている側の方が精神的に辛い状況というのはよくあります。

「私は……なにも望んでないのに。傍に居てくれれば、それで嬉しいんだけどな」
「……ありがとうございます」

 それが“病気にかかった人”の心理なのでしょうか。
 分かりません。
 ですが、私は私の出来ることを、精一杯やる。
 それが診療所のいる頃からの私の選んだ道でした。
 でも……。

「先生は、きっとそれだけじゃ嫌なんだと思います」

 その言葉は、逆に先生を苦しめてしまう……そんな気がします。
 先生のことを解かってるというわけではないですが。
 もっと目に見える形で、自分が納得できる形で、姉さんの役に立ちたいと思っているはずです。

「うん…………俊也さんが、小さい頃にお母さんを亡くしているのって知ってる?」
「え? 知ってますけど……」

 どうしてその話が出てくるのでしょうか。
 先生の家庭事情は少しだけ知っています。
 ですが、あまり踏み込んではいけないものだと思い、積極的には聞いていませんでしたが。

「俊也さんはね。そのことにまだ縛られたままなんだと思う」
「お母様の死に、ですが?」

 姉さんは首を横に振ります。

「自分にはなにも出来ないっていう感覚、かな」
「……」
「お母さんを亡くされた時にね。なにも出来なかったのが悔しかったんだって、だから医者を目指したって私は聞いてる」
「その想いが、ずっと消えないのですね」

 消えるわけがありません。
 だって私たちが勤めている場所は、治してあげるだけではありません。
 死を看取ることも仕事に含まれています。
 その度に思い知らされる。自分がいかに無力かを。

「だから……私だと余計にその想いが強くなるんだと思う」

 先生にとっても、姉さんは本当に大切な人。
 だからこそ、姉さんの傍にいることしかできないというのなら……それは先生にとって苦しいこと。
 でも、それは……。

「勝手な人です」
「?」
「今、一番辛いのは、苦しいのは、姉さんです。誰でもそう言います」
「……私はそんなふうに思ってないけど」
「それでもです。ですが先生は姉さんのことを考えて、自分で苦しんで……姉さんのことなにも分かってません」

 先生の苦しみは自分で追い詰めているものです。
 そんなもの、姉さんに背負わすものではありません。
 こうやって、姉さんが気に病むことでもないのです。

「紗衣ちゃん……先生のこと怒らないであげっ…………っ……」
「っ! 姉さん!?」

 そのまま倒れるように、布団に顔をうずめました。

「姉さん!?」
「……大丈夫。ちょっと……眩暈がしただけだから」
「……横になっててください。もうお話は終わりです」
「……うん」

 今度は素直にベッドに寝てくれました。
 だから、起き上がるときに注意したのに……。

「自分で長くは話せないって言ってたじゃありませんが。あまり無理しないでください」
「ごめんね」
「いえ……」

 それもこれも、先生のせい……というわけじゃありませんが。
 一言、言っておかないといけませんね。







◇◇◇







 もう遅くなったという理由で、今日はこっちに泊まることにした。
 すぐに戻りたかったんだけど……浩司がそういうのなら諦めるしかなかった。

「俊也」

 浩司が僕を呼んでいる。
 自分の部屋から出、それに答えた。

「なに?」
「俺たちはもう帰るけど、大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「いや……誰か傍に居てやった方がいい気がしてよ」

 思わず笑ってしまう。
 僕はどこまで心配されているんだろう。

「大丈夫だよ。そこまで子供じゃない」
「そうか。ならいいけどな」
「そういえば、柚華さん大丈夫?」

 あの後、僕が浩司を呼び行ってみると、柚華さんは泣いていた。
 浩司もどうしたらいいか分からないようで、あたふたしていたけれど。
 いったい、柚華さんになにがあったんだろう。

「ん……まぁ、あったかはよく分からないんだが……昔の友達と話して、なんかこっぴどく言われたらしいな」
「……そう」

 酷いことを言われた泣く柚華さんというのが、想像できなかったけど……。
 でも、どうして柚華さんはその人と話したのだろう。
 何か理由があって?
 この状況で?

「なんか、『先輩のせいじゃない』とかなんとか、本当になにがあったんだか」
「……先輩?」
「ああ。そう言ってたのが聞こえたが……」

 先輩って……優日や紗衣香ちゃんの両親のことじゃなかっただろうか。
 でも、二人もう亡くなってて……いや、もう一人いた。
 聞いたことがある。
 それに二人のお葬式にも来てた……。

「如月さん……?」
「誰だよ」
「浩司も知ってるだろ。優日と紗衣香ちゃんの両親のお葬式に来てた人だよ」

 なんだろう。
 何かが引っかかる。
 この状況で、このタイミングで。
 どうして、その人が出てくるのか。

「あの人も、柚華さんの大学時代の友達だったはず」
「その人と話してたってのか?」
「そんな気がする」

 なぜこんなに気になるのか。
 よく分からない。

「……そうかもしれないな。でも気にしてもどうしようもないことだろ」
「うん……」

 よく分からないから、それは保留するしかなかった。
 今は難しいだろうけど、少し時間が経ったら、柚華さんに聞いてみよう。
 こうして気になる理由が分かるかもしれないから。

「そんじゃ、俺たちは帰るからな。母さんのことはこっちに任せろ。っていうか親父がいるからな。上手くやってくれるさ」
「そうだね」

 浩司は手を上げて、廊下を逆に歩き出した。
 僕もそれを見届け、部屋の中に入る。
 しん、とした静けさ。
 まるで、部屋の中が止まっているかのような、そんな感覚。

「はぁ……」

 これから朝まで。
 時間はたくさんある。
 思えばこんなにゆっくりと、なにもない時間なんて久しぶりかもしれない。
 ……優日のことがあってから、なにかと忙しかったし、気が休まることがなかった。

「それは今も同じか」

 事態は好転していない。
 なに一つ。

 僕は優日の為になにが出来る?
 なにをしてあげられる?
 傍に居るだけじゃなく。
 もっと違った形で。

 なんの為に医者になったのか。
 大切な人を守るための……力が欲しかったから。
 ……結局、無力だ。
 僕はなにも出来ないのか。

「……っ」

 いや、出来ないはずない!
 もう味わいたくない!
 大切な人が、目の前で死んで……自分には見ていることしか出来なくて。
 悔しくて……情けなくて……。
 あんな想いは……もう。







 夜はまだ長い。
 時間はたくさんある。
 そう思っていた。

 なにかあるはず。
 なにか出来るはず。
 そう思っていた。

 それが、間違っているとも気づかないで。  






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