数時間後。
診断結果が分かりました。
病名は『白血病』
……助かる確率が低く。
死に至る危険性が高い、有名な病気。
「……」
……予感が当たってしまった。
それも、最悪な方向に。
どうして、姉さんばかりが傷つけられなくてはいけないのですか。
どうして、私じゃないんですか……?
どうして……。
「……紗衣香ちゃん、大丈夫?」
気が付くと浩二さんの顔が私の目の前にありました。
心配しているように見えます。
「あ……すみません。大丈夫、です」
しっかりしなくちゃ。
私が落ち込んでいちゃダメだ。
一番辛いのは姉さんと、それに……先生だ。
私が一人で暗くなっちゃいけない。
「俊也、優日ちゃんのところに行ってやらなくていいのかよ」
「……」
先生は何も喋りません。
先ほどからずっと、下を向いたままです。
どういう気持ちでいるのか……まったく分かりません。
かといって私は……行けません。
どんな顔して姉さんに会えばいいのか、分からないから。
そして、病気のことをどう話せば……。
「……っ」
ダメです。
今、姉さんの顔を見ると、泣いてしまうかもしれない。
「紗衣香ちゃん。そんなに暗くなるなよ。まだ助からないと決まったわけじゃないんだろ?」
浩二さんが、私達を見かねて、そう言ってきました。
確かにそうです。
そうなのですが……。
「……診療所に同じ病気で入院していた人がたくさんいました」
その誰もが、助からないと分かったために、来られた人たちだということを。
私たちは知っています。
「百パーセントじゃないんだろ? どれだけ確率が低くても、それを信じてやれよ。お前らが信じなくて、誰が信じるんだ?」
「それは……」
浩二さんの言うことは分かります。
分かりますが……。
「俊也、お前もだ。医者のお前がそんなんでどうするんだよ」
「……医者、か」
今まで何も喋らなかった先生の声は、驚くほど低い声でした。
「僕は優日に何もしてやれない……! コレじゃ何のための医者なんだよ!!」
やるせない怒りをぶつけるように、先生が壁を叩きました。
「先生……」
気持ちは同じ。
私たちは何もしてあげることが出来ない。
医療に携わっている人間なのに、何も出来ない。
……かつてその苦痛を、自分達の出来る範囲で、と考えることができたのに。
そう考えることが……今はまったくできません。
「……」
身体の内側の病気に関しては、先生の専門分野ではありません。
だから、浩介さんだけが気付けたのかもしれません。
浩介さんは専門ではないながらも、幅広く医療に携わっていた人ですから。
「……白血病ってどんな病気なんだ?」
「……簡単に言いますと"血液のガン"です」
それは、助かる見込みのほとんどない病気。
……いえ、そうじゃありません。
「……完治する見込みはかなり低い。そういう病気です」
完治が難しく、一生付き合っていかなければならないかもしれない病気。
「どういうことだよ、それ」
「一度治ったとしても、再発する恐れがあるんです」
「再発……って。今回のようなことがまた起こるかもしれないっていうのか」
「もし再発するのであれば、今回よりさらに酷くなっているかと思います。姉さんの場合だと……酷いというより、もう遅いかもしれません」
そう。
今回こうして病院まで連れてこられたのは、かなり良い方だったのかもしれません。
先生が、強引に姉さんを連れてきて、本当に正解でした。
「……って、俺も"もし"の話に参加してたってしょうがねーじゃねーか。さっさと優日ちゃんのところに行ってやれよ、二人とも」
「……」
先生は何も言わず、立ち上がりました。
それにうながされるように、先生の後をついていきます。
……普通でいられるでしょうか。
いえ、普通でいなきゃいけません。
先生の様子を見ていると、何をしようとしているのかまったく分かりません。
だから、私がフォローしなくては。
姉さんを不安にさせるわけにはいきません。
……私が、頑張らないと。
私だけは、いつも通りに。
『昔語(十七)~覚悟~』
エタノールの匂いが充満している廊下。
壁や天井そして床も、まるで一面が雪のようで、冷たさを感じる。
その中を、僕は紗衣香ちゃんと歩いていた。
何をしていたんだ、僕は。
どうしてこういう結果になった?
なんで僕はもっとちゃんと優日を見てなかったんだ。
自分にイライラする。
ぶつけようのない怒りが、僕の中で渦巻いていた。
変わってない。
僕は、あの頃とまったく変わっちゃいない。
母さんの時と同じように。
また何も出来ず、ただ見ているだけになる。
「……っ」
白血病についての知識はあっても、僕にはどうすることも出来ない。
これで、なにが医者なんだ?
知識だけじゃどうしようもない。
僕には、優日を治すことなんて出来ない。
愛しい人が苦しんでいるというのに。
「くそっ」
「……先生?」
紗衣香ちゃんの声で、我に帰る。
気がつけば、優美の病室の前を通り過ぎていた。
「先生、大丈夫ですか?」
顔を覗き込みながら、紗衣香ちゃんは聞いてきた。
「……ごめん」
白く塗られた木のドアの前に立つ。
ノックをしようとして、思いとどまる。
……どんな顔して優日に会えっていうんだ。
こんな自分を責めて、苛立っている顔なんて見せられるわけがない。
「……先生。普通で、いいんじゃないでしょうか?」
「え?」
紗衣香ちゃんは、ぎこちないながらも、"いつも"の調子を作ろうと、笑っていた。
「……すごいね」
紗衣香ちゃんも辛いはずなのに、どうして……そんなことが出来るのだろう。
そんな彼女が見ていられなくて、目を背けた。
「僕は笑えやしない。ましてや今まで自分のことばっかり考えてた。なのに、紗衣香ちゃんは優日のことをちゃんと考えてる」
しっかりしろよ。
医者としての自分より、先に優日の恋人として行動するのが普通だろ?
……つくづく、情けない。
「……先生には、期待していませんから」
「え?」
その言葉に驚いて、紗衣香ちゃんを見る。
「だから、いつも通りでいいんですよ。無理しなくていいんです。いつも通り、姉さんのことを心配してあげてください」
そう言って、まだぎこちないながらも微笑んだ彼女の顔は。
僕のことをからかう時のような、少しだけ得意げな笑顔だった。
まるで、私に任せてくださいと言われたような、そんな感じ。
「……情けないよな。僕は」
「そんなことありませんよ。それに、二人とも無理して明るくなんてしてたら、逆に姉さんに不審に思われてしまいます。だから、ちょうどいいんですよ」
年下にフォローされている自分がとても小さく感じる。
本当に……情けない。
しっかりしろよ。
もうなってしまったものはどうしようもない。
これからだ。これから僕が優日に何を出来るのかを考えるんだ。
医者として役に立たないのなら、せめて恋人として何が出来るのかを。
「よし、入ろうか」
「はい」
大きな音を立てないようにドアを二回叩く。
ネームプレートには『篠又優日』と書かれていて、その人の声が、すぐに聞こえてきた。
「どうぞ」
ノブをひねり、甲高い音を鳴らしながら、ドアを開く。
優日がまっすぐにこっちを見ていた。
……涙を流しながら。
◇◇◇
「優日……?」
先生の戸惑った声が響く。
姉さんが……泣いてる?
先生だけじゃなく、私も戸惑ってしまった。
私は普通通りにしなきゃいけないのに……。
予想外の状況に頭が混乱してしまっている。
「優日、どうしたんだ?」
「どうしたって、なんのことです?」
「……なんで泣いてるんだ?」
「……泣いて?」
自分の頬を触り、そして驚く。
もしかして、今気付いたのでしょうか。
「あ、あれ……なんで? なんで私泣いてるんだろう。おかしいな、あれ……?」
「優日っ」
先生が、姉さんのもとへ急ぎ、すぐに抱き寄せました。
「おかしいですね。別に泣きたくなんてないのに……」
先生は何も言いませんでした。
ただ、姉さんを抱きしめていました。
「……っ。ぅあぁぁぁぁあぁぁ」
抱き合う二人。
その光景は、誰も入ってはいけないほど綺麗に見えて。
「……っ」
……私は、いない方がいいのかもしれませんね。
そう考え、先生や姉さんに気付かれないように、そっとドアを閉めました。
「……」
どうしたんだろう、私は。
部屋から出たってしょうがないじゃないですか。
「どうしたんだ?」
浩二さんの声が後ろから聞こえました。
私たちを心配して、様子を見に来たのでしょうか。
「部屋に入らないのか? 俊也は?」
「あ、その……」
「……? とにかく入るんだろ?」
そう言って、浩二さんはドアノブに手を掛けました。
「っ!」
慌てて、その手を押さえます。
「……紗衣香ちゃん?」
浩二さんは、不審気な顔で私のことを見ました。
どうしましょう、止める理由なんてないのに。
でも……どうしても……今だけは……。
「あ、いえ……その、良ろしければお散歩しに行きませんか?」
ただ、病室から離れたい一心で。
とっさに吐いた言葉。
「……あぁ、そうだな」
浩二さんは私を数秒見つめた後、了承の言葉をくれました。
外へ出ると、広がったのはコンクリートの道路と建物。
穂波町とはまったくの逆で。
まるで自然らしいものが見当たらないくらいの景色でした。
車で1時間くらいでここまで変わるなんて、不思議なものです。
「こうして見ると、やっぱり穂波町とは大違いですよね」
さきほどの暗い気持ちを払拭するように、出来るだけ明るい声で言う。
「そうだな。紗衣香ちゃんはどっちが好きなんだ?」
浩二さんも同じ調子で答えてくれます。
私のおかしな行動にも何も聞かないで、付き合ってくれています。
「ここは私や姉さんが生まれて育った街ですし。穂波町は今住んでいる大事な居場所ですから……両方ですね。」
どっちかに順位を決めるなんて出来ないです。
どちらも大切な場所。
「なるほどね。俺も青春はこっちで過ごしたんだけどなぁ。あんまり好きにはなれなかった」
「どうしてです?」
浩二さんなら、何処でも明るく順応しそうな感じですのに。
「あははは……まぁ、多感な時期ってやつだよ。色々とあってな」
「いいですね。私にはそういうのありませんでしたから」
私は、こういう喋り方をしているせいか、結構遠慮されてしまう場合が多かった。
そのせいで損をしていたことはたくさんあったと思います。
直そうと一時期は思いましたが、物心ついたときからこの喋り方なのです。直るはずがありません。
ある意味では寂しい青春だったのかもしれません。
「へー、以外だな。告白されたりしなかったの?」
「記憶にないですね」
された、という明確な記憶はありません。
いくらかそういう雰囲気の場面があった気はしますが、結局そういう話ではありませんでしたし。
「だろうね」
浩二さんが遠い目をしながら、そんなことを言いました。
なんでしょう。
私、何か悪いことを言ってしまったでしょうか?
「……それって、どういう意味ですか?」
「い、いや。なんでもないよ。気にしなくていい」
首を振りながら慌てたように、浩二さんは言いました。
……なんか気になりますね。
「それより、なんかあった? 病室で」
急に浩二さんは真面目な顔になりました。
「……姉さんが、急に泣きだしんですよ。それで、先生が今慰めてくださっています」
思ったより、素直に言葉が出ました。
浩二さんが付き合ってくれたおかげでしょうか。
「急にって?」
「部屋に入ってすぐ……でも、姉さんは自分が泣いているってことに気が付いてなかったように思えます」
自分の涙を見て、戸惑っていました。
どうして泣いているのか、分からないような感じでしたから」
「優日ちゃんは、自分の病気のことは聞いているのか?」
「いえ……まだです」
……きっと、姉さんは自分の身体の変調を感じ取っているのだと思います。
もとから身体の弱い人ですから、そういうことは敏感に察していそうです。
「……優日ちゃんはどういう状態なんだ?」
「え?」
「病気だよ。白血病って血液のガンなんだろ? ってことは進行の程度があるんじゃないのか?」
「当たり前ですけど、すぐに入院です。その後は、抗ガン剤を使っての治療になるかと思います」
心配なのは、姉さんの身体が治療に持つかどうか、ということなのですが……。
「……よく分からないが、とにかく重いってことなのか?」
「急性の白血病と診断された時点でもうすでに重い状態なんです」
「でも、助かる見込みはあるんだろ?」
「助かるために治療してもらうんです」
見込みとかそういう問題ではありません。
「悪い。聞かなくていいことを聞いた」
「あ、いえ。その……私もすみません」
キツい口調になってしまった。
浩二さんは心配してくれただけ。
それに普通の質問じゃないですか。
……私も先生のこと言えないです。
「とにかく、俺らは信じよう。一番辛いのは俺らでも俊也でもない。優日ちゃんだ。俺たちが背中を押してやらなくてどうするんだ」
「……はい」
いくら私たちが暗くなっても、何も変わりません。
ならせめて、いつもと変わらないくらいに普通に接してあげなくては。
姉さんは一番そういうことを嫌いますから。
自分のせいで、他の人が苦しむことを……。
「それで、紗衣香ちゃんはどうしたんだ?」
「え?」
不意な質問に、間抜けな声が出てしまいました。
私が……?
「出てきたとき辛そうな顔してたからな。俺を誘ったのだってなんか聞いて欲しかったんじゃないのか?」
あははは……聞いて欲しかったってわけじゃないですが、ほとんどバレバレですか。
さすがは浩二さん。
「……その、泣いている姉さんを見て、先生がすぐに駆け寄って抱きしめたんです」
「……」
「それで、その光景を見ていて……なんか……」
私は、いなくていいんじゃないかって。
そう思いました。
孤独感……いえ、疎外感というものでしょうか。
よくは分かりませんが、なぜかそういう気持ちに陥ってしまいました。
姉さんは、私がいなくても、先生さえいれば、嬉しいんじゃないかって。
私は、姉さんと一緒がいいのに。先生と一緒がいいのに。
一緒に頑張っていきたいのに、もしかしたら二人で……。
「……くっ、あはははは」
「え?」
私の横で、そんな考えを吹き飛ばすかのように、豪快な笑い声が聞こえました。
「なるほどな。あのバカップルにあてられたか。心配しなくても、紗衣香ちゃんはあいつらの傍で堂々としていればいいんだよ」
「ですが……」
「あいつらが紗衣香ちゃんの助けなしに、入院生活なんて大変なこと出来るわけがない。あの二人の性格、紗衣香ちゃんなら分かってるだろ?」
それは分かりますが……。
「どっちも相手のことばかり考えて、自分のことが疎かになっちまう。それにブレーキをかけるのが紗衣香ちゃん、だろ?」
「……」
「あの二人はこういう事態になるとどんどん泥沼になる。少しの間離れてしまうだとか、こうした病気もそうだ。少しでも重い話になると、二人してさらに重くしやがる」
浩二さんは少し渋い顔をしながら、そう言いました。
確かにそうです。
本当にやっかいな人たちなんです。
周りを巻込んで、どんどん自分達を不幸にしていくんですから。
だから、私や浩二さんみたいなブレーキ役が必要……ということでしょうか。
「な? だから紗衣香ちゃんは必要なんだ。紗衣香ちゃんが一人でダメなら俺がいる」
だからいつでも俺に話してくれ、と。
優しい声で私にそう語りかけてくれました。
……それが、どうしようもないほどに、私の心を揺さぶって。
自然と、涙が出てきました。
「ありがとう……ございます」
本当に頼もしい人です。
私が困っていると、いつの間にか相談に乗ってくれて。
そして、私の心を軽くしてくれる。
「ありがとう、ございます」
今のことを。今までのことを込めて二度言いました。
そしてきっとこれからも、私は浩二さんに甘えてしまって。
この言葉を、この人に言うことになるんだろうな、と。
私は、なんとなく思って。
「……ありがとう、ございます」
三度目の、感謝の言葉をつぶやいた。
◇◇◇
優日の病室は、どこにでもあるような、ベットだけの色も何も無い部屋。
彩りがあるのは窓の外の世界だけ。
他は真っ白で、僕には清潔さというよりは、何もかもを吸い込まれそうな、そんな奇妙な感覚にとらわれていた。
その中で、小さくすすり泣く声が僕の腕の中から聞こえてくる。
ようやく落ち着いてきた。
さっきまでは、本当にどうしたんだというくらいに大声で泣きじゃくっていた。
「……優日?」
不意に胸に、押し返す力が加わった。
「すいません。もう大丈夫ですから」
「……何か辛いことがあった?」
優日はまだ検査結果は聞いていない。
だから、悲観してっていうわけでもないように思う。
優日自身、なんで泣いているかは分からないみたいだったから。
「よく分からないんです。俊也さんや紗衣ちゃんの顔を見たとたん、なんだか……急に」
「そっか……」
だったら、深くは聞けない。
それにこれからのことを考えると、もっと泣いてもおかしくない。
「でも、抱きしめてもらえて、安心しました」
「そっか。良かった」
実際は何も考えていなかった。
部屋に入って、彼女の泣き顔を見たときは、とにかく落ち着かせようと思って。
とにかく抱きしめてしまった。
「あれ、紗衣ちゃんはどこに行ったんでしょう?」
「あ。そういえば、いつの間にいなくなったんだろう」
まったく気がつかなかった。
どこに行ったんだろう。
僕はとにかく優日の方に集中してしまっていたから……何か聞き逃したのかもしれない。
そうだったとしたら、悪いことをしてしまった。
「探してくるかな」
「……俊也さん」
名前を呼ばれて、紗衣香ちゃんのことを考えるのやめた。
「俊也さんが来たっていこうことは、結果が出たんですよね?」
「……違うよ。心配で見に来ただけなんだ」
とっさに、本当のコトが出てこなかった。
醜い嘘を吐いた。
「そう、ですか」
何が心配で、だ。
僕は浩二に言われて、ここに来たようなもんだろ?
できれば会いたくないと思っていたんだろ?
本当に……弱い自分が嫌になる。
「でも、俊也さんがずいぶん辛そうに見えるのですが……?」
「え……」
「私がこんなことになったのは自業自得ですから、俊也さんは気にしないでください」
僕がもっと早く気づけていれば……。
その言葉が頭を廻る。
「そんなことないよ」
「それで、私の病状はどんな感じなのでしょうか?」
「……なんでだい?」
「俊也さんが嘘をつけないの、私知ってますから。私がこんなことになったって言ったとき、酷く顔が辛そうに歪んでいました」
「……」
……言えない。
「……黙っているってことは、それだけ重いっていうことですよね?」
「いや! そういうわけじゃない」
「……俊也さん。嘘は通用しません。それに、自分の身体ですから。なんとなくは分かってはいます」
「……」
なら、正直に言うべきなのか。
優日は、もう自分の病状を聞く覚悟を決めている。
なら、僕も覚悟を決めるべきじゃないのか。
「俊也さん」
言いたくない。
でも、言わなければ始まらない。
「……君は、ある病気に掛かっていることが分かったんだ」
「はい」
「それは……」
「……俊也さん」
先を促すように僕の名前を呼ぶ。
「それは、白血病という病気だよ」
これが限界だった。
なにより、優日の聞いた瞬間の固まった表情がとても見ていられなくて。
それ以上、言葉を発することはできなかった。
「……それが、私の病気の名前ですか?」
頷くことしかできない。
「そっか……そっか」
声が震えている。
「聞いたことありますよ……アレですよね。あの小説とかドラマでよく出てくる……あははは……そっか」
僕の嫌いなその笑顔。
「アレって、最後って……違ったかな。あはは……・よく分かんないや……」
無理して、自分の心を押さえつけて。
「分からない……分からないよぉ」
でも、それさえも結局は作りきれなくて……。
涙を、流し始めて。
「本当、なんですよね……? でも、俊也さんが嘘をつくわけ……でも……でもっ!!」
壊れていく。
優日の笑顔が壊れていく。
動けなかった。
抱きしめてあげることすら出来なかった。
ただ、立ち尽くして、彼女が泣いている様を見ているしか出来なかった。
……僕に何ができるだろう。
……僕は何をすればいいのだろう。
分からない……分からないよ。
◇◇◇
「もうそろそろ戻るか?」
前を歩いていた浩二さんが、振り向いていいました。
腕時計を見ていると、出てきてから三十分は過ぎています。
……そろそろいい時間ですね。
「はい。そうですね」
姉さんは泣き止んだでしょうか。
落ち着いて話が出来るといいのですが。
知らせなくてはいけません。
姉さんの病気のことを。
……その先の姉さんは、どうなるのでしょう。
誰も望まないことを、一番に望んで。
そして、自らを不幸に陥れていく。
そんな気がしてしまいます……。
「……紗衣香ちゃん。暗い顔禁止」
頭の上に温かい感覚がありました。
見上げると浩二さんの手の平が私の頭に乗せられていました。
「あ、はい。すみません」
そうだ。
私は明るくしなくてはいけません。
少しでも暗い現実に、明かりを灯せるように。
真っ暗な世界は何も生み出せません。
それは……生きていく意志さえも。
そんな姉さんは見ていたくありません。
「……。優日ちゃんもだけど、俊也のやつも、よく見ておかないとな」
「そうですね。先生は先生で難儀な性格をなさってますから」
あのとにかく一途なところは、今の状況では危ない気がなんとなくします。
姉さんと先生の想い。
……悪い方向にならなければいいのですが。
「まぁ、初めての恋人だから、入れ込んじまってるっていうのもあるが」
「……え」
聞き捨てならないことを聞いたような……。
「どうかしたか?」
「えっと、姉さんが先生の初めての恋人だって聞こえた気がしたのですが……」
「ああ。なんだ、知らなかったのか? 俊也が正式に女と付き合ったのは優日ちゃんが初めてだよ」
「……えぇ!」
先生ぐらいの男の人なら、経験豊富だと思っていたのですが。
……いえ、これはひいきに見すぎですね。
ですけど、姉さんが初めてだなんて、信じられません。
「そんなにびっくりすることか? あいつ今まで女なんか関係ないって感じだったんだぜ?」
「そういうイメージはありませんが……」
「あー……お前らから見るとやっぱそうなのか」
「それはどういうことですか?」
なんというか、苦笑という感じの浩二さん。
「あいつ、基本的に誰に対してもあーだろ? だからほとんどのヤツが勘違いしちまう。自分に気があるんじゃないかってな」
「分かる気がします」
先生は誰に対しても、平等に優しく接します。
そういう意味では、医者という職業は天職だったのかもしれませんね。
ですが、誰に対してもそうということは、誰もが同じようにしか見ていないということです。
たぶん、"他人"という括りでしか。
「んで、相手の方が気になって見ているうちに好きになっちまう。そういうパターンが多くってな」
「……それはなんというか」
可哀想というか。同情しますというか。お察ししますというか。
「……ふふふっ」
もはや笑うしかありませんね。
「ん。やっと笑ったな」
「え?」
「こんな状況でも笑えるもんだろ? 無理矢理でも、不自然でもなく。ちゃんと。自然に」
「あ……」
今日、初めて笑いました。
だって、笑っているような状況ではありませんでしたし。
いつの間にか、漠然とした不安にとらわれて。
当たり前だったものが、簡単に消えてしまいそうな予感がして。
「こうしてやればいいんだ。あいつにも。優日ちゃんにも」
それが、この一瞬だけでも忘れ去ることができました。
何もなかったこの間までと同じように。
自然な会話と笑顔。
「笑えるような状況じゃないのは分かりきってる。だからこそ必要なことだと、俺は思うぜ」
暗くなったってしょうがない。
今日、ずっと浩二さんがおっしゃっていたこと。
「……はい」
深く頷く。
先ほどまでの、明るくなきゃいけないというような感覚はなくなりました。
これが、私に出来るかは分かりませんけど。
だけど、そうしてあげたいです。
「よし。それじゃ行くか」
「はいっ!」
心を決める。
私は、姉さんを特別に扱ったりしないと。
腫れものを触るような、そんな感覚で接しないと。
病人としてではなく。
家族として、妹として。
◇◇◇
「……優日?」
あれから、どれくらい経っただろうか。
ずっと優日に抱きつかれていたから、よく分からない。
「……すぅ……すぅ……」
腕の中の優日は泣き疲れたのか静かな寝息をたてていた。
そっと離し、ベットに横たえる。
そして、足音を立てないように気をつけて、部屋を出た。
「……ふぅ」
優日の泣き顔を見ていて、病気のことを話したのが正しかったのか、不安になった。
もう少し後でも良かったんじゃないだろうか。
自分を追い詰めてしまわないだろうか。
……笑わない優日を見るのは、もう嫌だ。
「先生?」
声がした方を振り向く。
紗衣香ちゃんだ。それに後ろには浩二もいた。
「紗衣香ちゃん……何処行ってたんだ? 急にいなくなって……」
「すみません。浩二さんとちょっと外へ……姉さんはどうですか?」
「今は寝てる。その、泣き疲れて」
「泣き……?」
そうだ……僕は、紗衣香ちゃんに相談しないで、何を勝手に言ってしまったんだ。
優日に迫られたからと言って、家族の承諾なしで言うなんて……。
「その……優日に病気のことを話したんだ」
「それで、ですか」
「紗衣香ちゃんに相談もなしに、勝手に喋ってごめん」
「いえ、それは構いません。いつかは知ることですから」
なんだろう。
紗衣香ちゃんの雰囲気がさっきと違うような気がする。
喋り方も、なにか力強さを感じる。
「さて、俺は親父に連絡してくるかな」
「あ。それ僕がしてきてもいいか?」
紗衣香ちゃんの様子が気になったが
浩介さんへ話すことがある。
「構わんが……なんかあるのか?」
「ちょっとね」
大変なのはこれからだ。
僕だって、ずっとこっちに居れるわけじゃない。
だから……。
「こっちに入院できないかって?」
「ええ。その方が安心できますし、今は他の患者さんは居ませんよね?」
浩介さんへのお願い。
それは、優日を診療所で預かりたいということだった。
僕は一応、保健医の仕事があるし、診療所にずっといれるわけじゃない。
この町に来るのだって、浩二の車か、汽車で来るしかない。
もし、なにかあったときのことを考えると……自分の近い場所に居てほしかった。
「でも、彼女は療養者じゃない。うちの設備じゃ、あの病気の治療は無理だ」
「それは分かっているんですが……」
「もし悪化した場合のことを考えると、簡単にこっちに入院を、なんてことは言えないな」
無理、か。
「いいか、俊也君。もし、彼女がこれを望んだんだとしたら、それを許しちゃいけない」
「え?」
「どうも何か勘違いしてるようだが、私は彼女に治ってもらうために、そっちの病院にお願いしたんだ」
それは、そうだろう。
普通、病院に行くということはそういうことだ。
「難しい病気だ。死ぬかもしれない。現にうちで亡くなった人にその病気の人はたくさんいた。だけど、彼女はまだ闘えるんだよ」
「……」
「君は、それを諦めろって彼女に言いたいのか?」
僕は……。
これから、どうしようとしていたのだろう。
優日と、どう付き合っていく気だったのだろう。
「大変なのは、これからじゃないのか?」
その言葉を聞いて、胸を突かれるような感覚が通り過ぎた。
闘え。病気と。
そして、それに立ち向かっていく彼女を支えろ。
そんな言葉が、聞こえた気がした。
「……はい」
自分の勝手。自分の都合。
今の僕は、そういうものにとらわれている。
だから、こんな身勝手なお願いが出来るんだろう。
……ダメだ僕は。
彼女が大事なら、それは傍に置くことじゃないなんて、ちゃんと考えれば分かることじゃないか。
いや、考えなくても最優先に選ばなくちゃいけないことだ。
それすらも、出来ていない。
僕が今していることは、彼女のためという言葉で覆われた、自己満足。
何が……恋人だよ。
「すみません。落ち着いて考えてみます」
これからのことを。
そして、心に決めておかなきゃいけないものを。
「……ああ。浩二と代わってくれるかな?」
「はい」
浩二を呼びに行き、電話機の前から離れる。
やることなすことが空回りしている気がする。
それはきっと、彼女のための行動をしていないからだ。
だから、上手くいかないのだろう。
いや……いかなくて良かったんだ。
注意されて良かったんだ。
このままじゃ、間違えたまま暴走するところだったんだから。
僕の周りには、本当に優しい人ばっかりいるなぁ。
そして、強い人が。
「僕は弱いな」
弱すぎて、情けなくなるくらいに。
もっと、強くならないと。
それこそ、優日を支えられるように。
優日と一緒に……闘うために。
僕は一緒に立ち向かっていこうと思っていた。
だけど、彼女は強かったんだ。
だから、一人で抱え込んでしまった。
僕に迷惑をかけないように、ただそれだけを考えて。
この出来事が、僕が見た、彼女の最初で最後の涙だった。