目が覚めたのは、いつもより早い時間でした。
外を見ると快晴。
雲一つない空は、いつもなら気持ちよく感じられました。
そう……いつもなら。
なんでしょう。この何かが纏わりつくような感覚は。
まるで、あの事故の時みたいに。
私にとって嫌なことが起こるかのような、あの感覚を思い出させます。
「紗衣香ちゃん……?」
後ろから男の人の声がしました。
振り返ると、浩二さんが心配そうな顔で私のことを見ていました。
「おはようございます。浩二さん」
いつもと変わらないように挨拶をします。
下手に気を遣わせてしまわないように。
「……紗衣香ちゃんさぁ。君もホント、優日ちゃんのこと言えないよな」
そんなことをいきなり、浩二さんは言ってきました。
「……なんのことでしょうか?」
「いや……まぁ、いいんだけどさ」
……?
よくわかりませんが、呆れられているみたいです。
「それで、何かあったの?」
「……バレバレなんですか?」
「まぁ、な。なんか随分硬い表情していたけど、何かあったのか?」
私はどうやら浩二さんに隠し事は無理なようです。
何故かは分かりませんが、分かってしまうらしいのです。
隠し事……というほど大層なものでもないのですが。
「……なんとなく、嫌な予感がするんです」
「嫌な……予感?」
「振り払っても、大丈夫だって思っても、頭に纏わり付いて離れないです……不安が」
私は、何かを見落としているんじゃないでしょうか。
そんな気がします。
「……悪い方に考えすぎだと思うんだけどな。君も俊也も、心配性だからな」
「そう、なのかもしれません」
むしろ、そうであってほしいという気持ちの方が強いです。
「それじゃ、俺は俊也の部屋の方に行って見るわ。朝飯、作ってるんだろ?」
「え、あ、はい」
ボーっとしていて、全然出来ていませんが。
「そんじゃ、俺の分もよろしくな」
そう言って、私の頭を撫でて、浩二さんは出ていきました。
大丈夫だってそう言ってくれているのでしょうか。
「ありがとうございます」
浩二さんに直接言ってもはぐらかされてしまいそうですから、出ていったトビラに向けてそう言いました。
よくない方向に考えてしまうのは私の悪いクセ。
それだけの話。
そう結論付けて、私は朝食の準備を再会しました。
『昔語(十六)』
朝。
小鳥のさえずりが薄く聞こえた。
目を開ける。窓から射し込む光が、白い部屋をさらに白に包んでいく。
いつの間に眠っていたのだろうか。
ずっと座っていた身体は痺れた感じがして上手く動かせなかった。
手の中には彼女の手。昨日から握っていたからか、動かそうとすると痛みが走る。
「……?」
ふと、視線を感じた。
……優日。
いつから起きていたのだろうか、僕の顔をじっと見つめていた。
「……おはよう。優日」
そう呼びかけてみる。
いつも通りの挨拶。
そこから始めたかったから。
僕たちは話し合わなくちゃいけない。
何処から絡み合った糸を解いていかなくてはいけないのだ。
「おはようございます。俊也さん」
彼女も、それに応えてくれた。
「よく眠れた?」
「はい。なんだかとても温かくて心地良かったです」
そう言って、優日は握っている手にぎゅっと力を込めた。
僕も握り返す。
言わなければいけない言葉があったはずだ。
「ごめん」
「……なにが、ですか?」
彼女は僕を責めない。絶対に。
まるで僕が何も悪くはなく、自分が悪いとしてしまう。
そんなのは絶対に駄目だから。
「僕のせいで優日を苦しめた。もっとちゃんと話していれば良かったのに」
「私が勝手にやったことですから、俊也さんは何も悪くありません。むしろ私が謝らないといけません」
そう言って起き上がり、頭を下げた。
「心配かけて、すいませんでした」
……結局、こうなってしまうのか。
「それは、もういいよ。心配するなんて当然のことなんだから」
彼氏として当然のこと。
それよりも、彼女が謝るという事が僕には納得出来なかった。
だけどそれを言えば、また同じ事の繰り返しだ。
自分が悪いんだと僕が言う。
すると、彼女は自分の方こそ悪いのだと言う。
謝って、謝って、謝って……堂々巡りとなる。
それじゃいけない。
「優日。僕が東京へ行くことになってしまって……どう思った?」
だから話し合おう。
本音で、語り合おう。
彼女の気持ちを聞くために。
僕の気持ちを分かってもらうために。
「それは……嬉し、かったですよ。だって、俊也さんにとって良い事じゃないですか。浩介さんの後を継げるんです。ずっと願っていたことじゃないですか」
「……そうだね。僕がずっと叶えたかったことだ。目標にしていたことだ。でも、そういうことじゃないんだ。僕が聞いていることは違う」
まだ、本音ではない。
彼女のことを話してくれてはいない。
「"優日"はどう思ったの? 僕が嬉しいだろうからじゃなくて、優日自身はどう思ったの?」
本当に純粋に、僕の夢が叶えられることを嬉しく思った心もあるのだろう。
だけど、それだけじゃないはず。
僕がそう思ったように、優日にも……。
「……」
優日は僕の目をじっと見つめている。
僕もその視線を外すことなく、見つめ返す。
本当のことを話してほしいから。
優日の事を、ちゃんと知りたいから。
「……寂しいと思いました」
静かに、ぽつりと、そうこぼした。
「実際に離れたわけじゃないのに、寂しくて、寂しくて、心が千切れそうでした」
降り落ちた言葉は、さらに大きな言葉となってこぼれてくる。
「考えないようにして、だけど、俊也さんの為にと思って、一人になる時間が多くて、もっともっと寂しさを自覚して」
それはまるで、雨のようだった。
悲しい言葉の雨。
「離れたくないと……そう思いました」
振り出せば、もう止まらなく。
ただただ、降り落ちるだけ。
「だって……だって、まだ半年も経っていないんですよ? 忘れられないことがあったけど、想いが通じ合って……やっと。なのに、一年もだなんて耐えられるわけないですっ」
僕は、その雨に打たれなければいけない。
自分を守るものなど使わずに、この身一つで。
「もっともっと触れ合いたい。手を握って欲しい。抱きしめられたい。キスをしてほしい。優しい言葉をかけてほしい。一日だって離れたくないっ!」
これは僕が招いたこと。
こんなに彼女が追い詰められていたというのに、僕はそれに気付かなかった。
いや、気づく事を放棄した。自分自身が傷つかないために。
「……わがまま、ですよね。俊也さんを困らせてしまいますよね。叶わないことなのに……言ってしまっては、ダメですよね」
それは違う。
わがままは言ったっていいんだ。
困らせてくれたって構わない。
どうしてそれをダメなことと言うのだろうか。
「僕は君の恋人じゃないのかな……?」
「……え?」
「心配もさせてくれないし、わがままも言ってもらえない。そんな他人のような関係なの?」
僕のその言葉を聞いて、優日はとても悲しそうな顔をした。
当然だ。
そう言われることが、優日にとって一番辛いのだと、僕は知っている。
「ち、違います! そんなことあるわけないじゃないですか!」
自己嫌悪する。
どうしても伝わらないからといって、彼女を傷つけてまで、分かってもらおうとしている自分に。
「だったら、心配させてよ。わがままだって言ってよ。もっと自分を正直に出してよ。僕は迷惑だなんて思わないから」
彼女の不安はそこにあるんだろう。
僕に嫌われるかもしれないという不安。
自意識過剰なのかもしれない。
でも、それしか思いつかないから。
だから、安心させてあげるんだ。
「……付き合う前に、言った事を覚えていますか?」
優日の目は、薄く涙目になっていた。
「付き合う前の……?」
どんな言葉だろうか。
付き合う前の、あのお葬式の後での……。
「私と居ることが、幸せだとは限りません」
思い出す。
優日は確かにそんなことを言っていた。
嬉しくてどうしようもなかったあの時に、自分と居ては不幸になるかもしれないとそう言っていたんだ。
「私は、自分の性格を一番分かっています。だから、今回こういうことになったんだと自覚しています。きっと俊也さんが気付いてくれなかったら、私は死んでいたかもしれません」
「な……」
そういう事を……言わないで欲しい。
本当にそうなったかもしれないのだから。
「ただ、そんな時でも私は、俊也さんの事しか考えてなかった。私は……本当に自分の事なんてどうでもいいんです」
優日は、遠まわしに言っている。
この性格は、直すことなんて出来ないと。
いや、そういうことじゃなく。
ただ、思いつけないのだと思う。
自分を大切にしようという考え自体が。
誰かに言われない限りは。
「もう一度、聞いてもいいですか?」
恐る恐る、僕を窺うように見る。
まるで、彼女にとってよくないことを聞くように。
とても、怯えて見えた。
「私は、これからも俊也さんが考えている事とは違う意味で心配させたり、困らせたりすると思います。厭(あ)きられてしまっても、仕方がないと思います」
今回みたいなことは、いつ起こってもおかしくない。
彼女はそう言う。
「だから…………私と居ることが、幸せだとは限りません」
あの時は途中で遮った。
嬉しかったから、彼女の口から確認させるような言葉を聞きたくなかった。
でも今回は、聞かなくちゃいけないのだと思う。
「それでも……それでも……私を、好きでいてくれますか? ずっと隣に居てくれますか?」
泣きそうな、いや少し泣いているのかもしれない。
そんな懇願だった。
あの頃は即答できたのかもしれない。
でも、その苦しみを知った今、少しの空白が出来てしまった。
たったそれだけで彼女が傷つくと知っていたのに。
今の優日にとって残酷だと分かっていたのに。
「……」
この言葉の重さを、僕は受け止めなければならない。
彼女を好きでいつづけるということ。
それは全然難しいことなんかじゃない。僕は優日に以外に考えられないのだから。
ただ、隣に居続けるということは、もちろん彼女もそこにいないといけない。
彼女が欠けたら絶対にダメなんだ。
だから、決心する。
「僕は君が好きだよ。それだけは絶対に変わらない」
ここで言う言葉は、後になって冗談でしたじゃ済まない。
それだけの重さを持つ言葉。
「だからさ優日」
彼女に目を向ける。
これは遊びや冗談なんかじゃない。
真剣な言葉。
「結婚、しようか?」
「……え?」
だから、形にしよう。
いつかはしたいと思っていたこと。
それが早まっただけ。
「……私と……ですか?」
「もちろん。優日以外居るわけ無いだろ?」
話が飛躍しすぎてしまったからか、彼女が想像していた言葉と違ったからか。
優日は惚けた顔をしていた。
「すぐにってわけにはいかないけど。僕が研修から戻ってきたら、しよう」
「……ぁ、……ぅ」
恥ずかしいのか。
彼女の視線は僕の目を見ずに、彷徨っている。
「まだ信じられない? 何度も言うよ。一年後、結婚しよう? 僕と一緒になろう?」
「……こ、こんなに嬉しい言葉でいいのかなって……思って……しまって」
彼女の顔は俯く。
耳まで赤くなっていて、顔が真っ赤になっているのが見て取れた。
「いいに決まってるよ。僕は君が居るだけで幸せだから。二人で幸せになろう?」
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女は僕の胸に飛び込んできた。
そして涙を流す。
ひさびさに見た、彼女の涙だった。
「私も……俊也さんが居るだけで幸せですっ」
「……ありがとう」
離さないことを確認するように。
彼女の小さな身体を精一杯抱きしめた。
「返事、してもらえるかな?」
「……はい……はいっ。よろしくお願いします!」
彼女の言葉は。
本当に幸せそうで。
僕は必ずこの約束を形にしようと思った。
まだ、時間掛かるけれど。
それでも、この約束の為に。
頑張ろうと、そう決心をした。
「よぉ、俊也さん。朝からお熱い事で」
部屋から出ると、浩二が目の前に居た。
それは見なかったことにして。
朝食の準備をしているだろう紗衣香ちゃんに合うために、台所へと向かった。
「待てやコラ!」
ため息一つ吐き、相手をしてやることにする。
「いきなり意味不明なこと言うなって」
「意味不明とはなんだ。見たままをそのまま生放送の如く伝えたまでだ」
「だったら放送禁止にしといてくれ」
いつから見ていたんだか……というよりまったく気配を感じなかったのはなぜか。
「仲は戻ったみたいだな」
「おかげさまでね」
二人っきりにしてくれたことはありがたかった。
邪魔が入らなかったという事は、きっとそういうことなのだろう。
「なんだかお前らは二人っきりになると唐突にイチャイチャするよな。聞いてて恥ずかしくなってくるわ」
そういうことを本人に言わないで欲しい。
恥ずかしくなるから。
「意識してしてないよ。そんなの」
無意識にそうなるのだ。
というか普通はそういうものな気がするけど。
他の人がいる前で、することではないと思うし。
「それにしても結婚……ね。お前に先を越されるなんてな」
「確かに。学生時代じゃ考えられないかな」
僕はどちらかというと静かな方だった。
文科系と言えばいいのだろうか。
浩二は見ての通り体育会系。
こうも性格が違う二人が親友やってるんだから不思議なもんだった。
「学生ん時はどっちが多くモテたか争ってたもんだよな」
「ナチュラルに嘘を吐かないこと」
浩二のモテ度合いといったら凄いものだった記憶がある。
高校までしか知らないけれど、三年間でフった女の子の数はクラス一つ分は余裕に越すだろう。
「……これだから鈍感は困るよな。それで泣かした女がどれだけ居たことやら」
「はい? なんの話?」
「なんのって、お前がモテたって話だよ。俺とお前で学校を二分するくらいの人気を持ってたんだぜ? 俊也クン」
そんなことを言っていたような気がする。
いつもの冗談だと思っていたけど。
「僕が? それはないよ。僕は地味だったし。モテるような顔でもない」
「あら? そんなことないと思うわよ?」
「!」
横からいきなり女性の声が聞こえた。
「ゆ、柚華さん……いつの間に?」
「実は最初から」
「……すみません。まったく気がつきませんでした」
何処に居たんだろうか。まったく気配を感じなかった。
というかなんなのだこの親子は。
「そうでしょうね。嘘だし」
「……」
なんかどっと疲れた気がする。
「まぁ、私のことは置いといて。俊也くんの顔立ちはけっこう良いと思うわよ。なんていうか優男って感じで」
「それって褒められてるんですかね?」
「褒めてるわよ。微妙に」
なんかもう会話がワンパターンになってきている気がする。
「あぁ……まぁ、前向きに受け止める事にします」
「優日ちゃんに聞けばすぐ分かる事じゃない」
「それはダメだ母さん。恋人フィルターが掛かっているから、なんでもカッコよく映っちゃうから」
「あら、それもそうね」
なんだその妙な名前のフィルターは。
「それで、なんでまたカッコイイとかワルイとかの話になっていたの?」
「それは――もがっ」
喋ろうとしていた浩二の口を塞ぐ。
"あんなこと"が柚華さんの耳に入ってしまったら、恐ろしいことになりそうな気がする。
からかわれるどころの騒ぎじゃないぞ。
「なんでもないですよ。ただ高校時代の時を思い出していただけでっ」
「……へぇー。私には内緒にするわけ?」
「な、内緒もなにも隠し事なんてあるわけないじゃないですか」
やばい。あからさまにバレてる。
やっぱり柚華さん相手に嘘は吐けない。
「そう。ふぅーん」
じと目で僕を見てくる。
このプレッシャーに負けてはいけない。
負けたらもっと恐ろしい目に合う。
「ま、いいけどね」
絶対に諦めていない目で言う。
これは浩二に口止めをしとかないといけないな。
「それより、紗衣香ちゃんが朝食できたって言ってたわよ。俊也くんたち、今日隣町行くんでしょ? さっさと食べちゃいなさい」
そう言って、柚華さんは台所へと向かうため背を向けた。
「俊也。別に内緒にしとく理由なんかないだろ?」
僕に気を使ったのか、柚華さんに聞こえないようにぼそりと言った。
「それは分かるけど……なんか気恥ずかしくて。まだ約束しただけだから」
「おまえ、それを破るつもりなんてないんだろ?」
「もちろん」
そんなことあるわけがない。
破ってしまったとしたら、そこで僕と優日の関係は終わってしまう。
それだけは、絶対に嫌だから。
「なら別にいいじゃねーか。既成事実だろうが、なんだろうが。言っちまえば」
「まぁ、そう……なんだけどね」
不思議とまだ言うべきではない気がした。
それはまだ試練を越えていないからだろうか。
ずっと近くに居た僕たち。
離されたとしてもまだ、通い続ける想いなのかどうか。
それを、試されている気がする。
誰にというわけではないけれど。
今は、そんな気持ちで一杯だった。
僕は試されている。
優日を想い続けることが出来るかどうかを。
「俊也、もう一度聞くぞ。あんだけの約束をしたんだ……守れよ?」
「男として、当然」
強く頷く。
まだ先の話だけれども。
必ず形にすることを。
……誓おう。
優日の主治医がいる病院へと向かうために、浩二の車に乗っている。
運転席にはもちろん浩二が、助手席には浩二の強い要望により紗衣香ちゃん。
そして後ろには僕と優日が座っていた。
浩二は機嫌がよく、鼻歌を歌いながら運転をしていた。
その音以外は静かなもので、とても四人が乗っている雰囲気には見えない。
「優日? 大丈夫?」
優日は朝こそ調子が良かったけれども、日が昇るにつれてどんどんと熱が出てきていた。
朝食もそんなに食べることが出来ず、立とうとすると貧血を起していた。
昨日の今日なので、まだ身体が万全ではないのだろう。
風邪を引いているのかもしれない。
朝とは違う優日の表情が、僕の不安を掻き立てる。
「……はい」
優日はゆっくりと頷く。
頭がぼーっとしてきているのだろうか。
呼吸も安定していない。喘息の発作が出かけているみたいだ。
こういう時は横になっていた方がいい。
だけどここは車内。
それだけの広さがなかった。
「優日。僕によしかかってきていいよ。無理して座ろうとしなくていいから」
「……いえ。大丈夫です」
と、そう言っても無駄なことに気付く。
こういう時は行動に出るしかない。
彼女の頭を強引に僕の肩に乗せる。
優日は文句を言わない。
自分の性格を分かっているから。
「……すみません」
そう言って完全に身体を預けてくる。
きっかけさえ与えれば優日はちゃんとそれに甘える。
この一連の動作さえ、この前までは分からなくて悩んでいたのだ。
やっぱり、会話は大事なものだと改めて気付かされる。
「先生。姉さんの熱は全然下がっていませんか?」
紗衣香ちゃんが僕の方を向いて、そう聞いてきた。
紗衣香ちゃんとは朝からあまり話していない。
こういう事務的な事柄は話をするけど、会話らしい会話はまったくなかった。
「全然下がってない。むしろ上がってるんじゃないかな」
「そう、ですか」
先に浩介さんに進めてもらった病院に行ってみた方がいいかもしれない。
喘息の方も確かに酷いけれど、現状として現れているのは熱だ。
そっちを先に対処した方がいいんじゃないだろうか。
そう思い、浩二に伝えようとした。
「浩二さん。先に浩介さんが仰っていた方に向かってはくれませんか?」
僕が言う前に。
紗衣香ちゃんは、僕と同じ考えを浩二に言った。
「それは別に構わないけど、大丈夫なのか? 喘息の方が酷いんだろ?」
「そうなんですけど……今の姉さんを見てられないので……」
「本人の意思は? 優日ちゃんはどうなんだ?」
優日の返事をする雰囲気が感じられなかった。
顔は見れないけれど、規則正しい寝息が感じられる。
「優日ちゃん?」
「静かに。寝ちゃってるよ」
「そうか」とだけ浩二は言って車内は沈黙した。
「浩二」
ボリュームを小さくして言う。
「僕も紗衣香ちゃんに賛成。先にそっちで見てもらった方がいいと思う」
「ん……まぁ、お医者様が言うんだから間違いはないか」
浩二は納得し、浩介さんに書いてもらった住所を見る。
「少し、遠回りか」
そんなことを呟く。
とりあえず、急ごう。
熱は一向に下がっていない。
不安だった。
なにより、浩介さんが風邪と断言しないことが不安を掻き立てていた。
病院に着いた。
紗衣香ちゃんに、浩介さんが書いてくれた紹介状を渡し、優日を起こす。
「……優日?」
呼びかけても返事がない。
起きてはいるようだけど、応える元気が無いのだろうか。
おでこに手を当ててみる。
……熱い。
離してみてもはっきりと手に熱さが残る。
「優日。もう着いたから、ここで見てもらおう?」
「…………はい」
反応が鈍い。
気が付けば呼吸も一定じゃなくなってきている。
「……俺も手伝うか?」
浩二が降りて、優日側のドアを開けた。
「お願い。僕がこっちから支えるから」
優日は自分で動く力が出ないみたいだ。
まるで、人形のように動かなかった。
「……すみません」
こういう時でさえ、彼女は謝罪の言葉を述べた。
「先生っ。すぐに見てくれるそうです。診療室の方へお願いします」
紗衣香ちゃんが走ってくる。
「分かった。浩二、もう大丈夫。僕が運んでいくよ」
ゆっくりと優日を抱き、診療室へと急ぐ。
ずいぶん重い風邪に見える。
解熱剤を飲ませた方がいい。それに点滴も。
診療室へ着くと、そこには浩介さんより年齢を重ねているだろう老人風の医者が居た。
隣には、四十代くらいの穏やかそうな女性の看護士さんが立っている。
どちらも、ベテランと言っていいくらいの雰囲気が漂っていた。
「そこへ、座らせなさい」
言われた通りに、その先生の前の椅子に座らせる。
先生は、優日に聴診器を当てようとして、動きを止めた。
そして、僕を見る。
……どうしたんだろうか?
「すみませんが、出て行ってもらってよろしいですか?」
看護士さんは、少し困った顔をしてそう言った。
……そうか。
服をはだけさせるため、男の僕が居るのはマズい。
そんな当然の事にも気づかないくらいに動転していたのか僕は。
「す、すみません」
急いで出て行く。
「……少し時間が掛かりそうだ。結果が出たら呼ぶから、それまで待っていてくれ」
先生が、しわがれていても、よく通る声で言った。
僕は頷き、その場を出て行く。
後は……任せよう。
浩介さんが紹介してくれた、この先生達を信じて。
診療室を出ると、心配そうに見つめる紗衣香ちゃんの姿があった。
「先生。あの、姉さんは……?」
「ん。今診てもらっているよ。ちょっと時間が掛かりそうだって。そこの待合室で、待ってようか」
「……はい」
紗衣香ちゃんの表情は変わらない。
……当然か。
結果が出るまでは安心できない。
僕だってそうだ。
冷静でいようとすればするほど、心が不安定になっていく。
「……」
「……」
二人して無言で、診察結果を待つ。
紗衣香ちゃんは俯いたまま、ずっと自分の腕を握り締めているようだった。
「……大丈夫。ただの風邪だって」
僕は医者なのに、そんな嘘を付いた。
紗衣香ちゃんを安心させるためだけなのに。
そんな、気休めにもならない嘘を。
あれはただの風邪じゃない。
そんなことは、経験で分かっていた。
「……無理しないでいいんです。先生だって分かっているのでしょう?」
それは、紗衣香ちゃんも同じだった。
馬鹿だ。
なんて無意味な嘘を付いてしまったのだろう。
「私たちが見てきた患者さん達に同じ様な症状の方が居られました。もしかしたら、そういうことだって考えられるんです」
言葉にしない。したくなかった。
そういう可能性があることも、考えたくはなかった。
だって、そうだろ?
どこの世界に、恋人が家族が病気になっているかもしれないといって、素直に受け止めることが出来るだろうか。
医者だからこそ、その現実を受け止めなくちゃいけないけれど、誰だってそうであって欲しくないのだ。
いや、医者だからこそ、信じたくないのだ。それだけのものを見てきたのだから。
大切な人がそうなってしまうことを、考えたくない。
「強いね。紗衣香ちゃんは」
だからこそ、それを言った紗衣香ちゃんに対して、素直にそう思う。
だけど、紗衣香ちゃんは静かに首を左右に振った。
「……不安で不安でしょうがないんです。最悪なことしか浮かんでこないんです」
紗衣香ちゃんの声は、震えていた。
「起きてからずっと、頭に不安が纏わり付いていて、振り払っても、全然消えなくて……」
腕を締め付ける手も、震えていた。
彼女は、怖がっている。
不安が現実になることを。
言えない。
「大丈夫だよ」なんて。
そんな自分に言い聞かせるような都合のいい言葉なんて、言えるわけがない。
僕は、無言でいるしかなかった。
◇◇◇
目を開けると、真っ暗な場所に居ました。
ここは……待合室だったはずです。
いえ、それ以外の場所だなんてあるわけありません。
隣に居るはずの先生や浩二さんの姿が見えません。
座っているはずの椅子ですら、何も見えないのです。
私はどうやって座っているのか、それさえも分からない。
何処にも、何も、誰もいない空間。
……怖い。
何かを失ってしまうような感覚。
これは、お父さんやお母さんの時と似ているのです。
事故だと聞いて、雨に打たれ放心していた……あの時と。
怖い……結果を聞くのが怖い。
この予感を、確かにすることが怖い。
嫌です。
一人になりたくなんかない。
こんな暗闇に、陥りたくない。
姉さんまでもが居なくなってしまったら……私は、どうやってここから抜け出すことができるのでしょうか。
きっと、一人じゃ無理です。
あの時だって、姉さんが居てくれたから、私はこの暗闇から抜け出すことが出来たのですから。
嫌だよ。
怖い。
こんな世界に居続けるなんて、想像したくない。
だけど……この不安は、拭えない。
きっと、現実になってしまうから。
この寂しさも。
喪失感も。
きっと……。
「…………ちゃん…………紗衣香ちゃん」
「っ!」
先生の声に、現実に引き戻されました。
さっきみたいな、暗闇ではなく。
普通の待合室。
先生が居て、浩二さんが居て。
私がこれからも、ずっと居たい場所。
「大丈夫? 呼ばれたよ」
「あ……はい。分かりました」
なんとか、声を振り絞ります。
「……大丈夫? 僕だけが行こうか?」
……そうです。混乱している場合ではありません。
呼ばれたということは、結果が出たということ。
それを、聞かなくてはいけないということ。
「……」
……この不安を確かにする。
そんなことが、私に……出来るわけが……。
「紗衣香ちゃん」
戸惑っている私を、諭すような浩二さんの声。
「聞いて来い。それが、優日ちゃんの大切な人であるお前たちの権利だ」
……家族として、姉の問題を受け止めなくては。
怖い。
怖いけど、それを聞くのが、家族。
浩二さんに頭を下げ、先生に向き直りました。
「……行きましょう」
先生も頷き、私たちは診療所へと向かいました。
◇◇◇
診療室に入ると、老人の先生と、看護士さんが僕たちを待っていた。
……優日は?
彼女を確認したくて、辺りを見回してみる。
だけど、優日の姿はそこにはなかった。
「あの……優日は?」
「篠又さんは、別室で点滴を打っています」
「そう、ですか」
点滴……熱が酷かったからな。
少しは良くなってくれるといいんだけど……。
「それではご家族の方はこちらに座ってください」
看護士さんが、先生の正面にある椅子を指した
僕は、紗衣香ちゃんの肩に手を乗せ、座ってと小声で言った。
紗衣香ちゃんは、小さく頷き、椅子へと座る。
僕はその横に立って、先生の話を待った。
「……」
「……」
先生は何も言わない。
ただ、カルテを静かにじっと見つめていた。
「それで……その……姉さんは……」
おずおずと、紗衣香ちゃんが切り出した。
声は震えていて。
身体も震えている。
聞くことを怖がっていることが、見て取れた。
僕も、聞くのが怖かった。
この不安にも似た予感はなんなのか。
それを確かめるのが、嫌だから。
結果は知りたい、だけど聞きたくない。
そんな、心の矛盾。
「……まず、発熱が酷かったのでな。解熱剤を投与した」
この先生も、あまり話したくないかのように、ゆっくりと話し始めた。
「それで小田さんが言ったとおり、今は点滴を受けてもらっていて、隣の部屋で寝てもらっている」
小田と呼ばれた看護士が、頭を下げた。
「そう、ですか……それじゃ、ただの風邪なんですね?」
紗衣香ちゃんの声は、それを希望するかのような意味が感じ取られた。
そうであってほしいという願望。
でもそれは、ただの風邪じゃないということを感じてしまっているからこその、願いだった。
「……浩介くんから、何か聞いておるか?」
浩介さんから?
何も聞いてない。何も教えてくれなかった。
ただ、診てもらった方がいいということだけ。
「いえ……なにも」
紗衣香ちゃんの言葉に、僕は頷く。
「そう……か」
その一言だけで、何か重いことを伝えるのだと、そう感じた。
そして、浩介さんはそれを知っていた。
それでも自分からは言わずに、この先生に全てを託した。
「……率直に言おう」
先生は何かを決心し、息を吸い込んだ。
……嫌な予感がする。
怖い。
それを、聞きたくない。
絶対に、それは、僕たちにとって、悪いことだから。
「彼女」
紗衣香ちゃんの手は震えている。
自分の腕をぎゅっと握って……ただただ震えている。
耳を塞ぎたいけど、我慢しているかのように。
力を込めて、腕を握っていた。
「篠又 優日さんは」
やめてくれ。
目を瞑る。
耳を塞ぎたくなる。
その先を、言わないで欲しい。
お願いだから……
「白血病に掛かっている恐れがある」
それを……嘘だと、言って欲しかった。
この日からのことを、どんなに忘れたいと願っただろうか。
無かったことにしたいと思っただろうか。
何が悪かったのか、何を間違えてしまったのか。
考えて、考えて、自分が悪いのだと気付いた。
全てを自分の所為だと、そう責めた。
「しょうがなかった」
「誰にもどうすることが出来なかった」
そんなのは都合のいい言い訳に過ぎない。
"彼女"を傷つけた。
深く。埋めることなんて出来ないほどに深く。
大切な人のはずなのに。
お互いがお互いを大切に想っていたはずなのに。
傷つけて……しまった。
誰か、教えてください。
あの時、僕はどうすればよかったのかを。
正解はあったのでしょうか?
僕の行動は間違っていたのでしょうか。
教えて……ください。