どうしたらいいのでしょう。
 先生は、姉さんの様子にまったく気が付いていませんでした。
 本当ならすぐにでも病院に連れて行きたいのに……。
 姉さんも姉さんです。
 どうしてそんなに先生の前で平気な顔をするのでしょうか。
 無理に笑って、苦しんでいるところを見せないで。
 誰も喜ぶはずがないのに……。

 心配させたくないのも分かります。
 足枷になりたくないっていうのも分かります。
 ですが……やりすぎだと思うのです。
 自分を苦しめて、我慢して。
 そんなのは絶対に間違っています。

 だから話し合ってもらわないといけません。
 先生と姉さんは話し合うべきなのです。
 じゃないと本当に手遅れになってしまう気がして……。

                                8月24日





「昔語(十五)〜彼女の発作と犠牲と〜」






 優日の部屋へと向かう道。
 日はいつのまにか落ち始めていて、歩いていく道は橙で染まっていた。
 踏みしめる土の音は常に一定で、一歩一歩確かに歩を進めている。
 不思議と、心は落ち着いているようだった。

 今日は色々なことがあったと思う。
 紗衣香ちゃんに優日について聞かれ、もう一度自分の行動を考え直して。
 今まで避け続けてきた父さんと、話をすることが出来て。
 きっと良い事なのだと、そう思っている。
 だからこうして、もう一度優日と話し合おうと思ったのだから。
 紗衣香ちゃんが僕に言ってくれなければ、僕はずっと勘違いしていただろう。

「だけどそうじゃないこと気付けた」

 優日が僕の前で、ひたすらに何かを隠し続けているのか。
 それとも、紗衣香ちゃんが気にしすぎなのか。
 正直なところまだ掴めていなかった。
 だけど、重要な事はそうじゃないのだ。
 確かに、離れ離れになるのは辛い。
 だけど、連絡手段が無いわけじゃない。

「僕はきっと間違っていた」

 なにも突き放すことなんてないのだ。
 無理矢理、納得させるようなことなんてしなくてもいいのだ。
 そのことに気付くことが出来たのだから。
 僕はまだ、間違いを正すことが出来るかもしれない。
 話さないと。それよりもまず謝らないと。
 きっと僕の所為でたくさん苦しんだだろうから。







 優日のアパートに付いて、二階へと上がっていく。
 古い建物だから、歩くたびに階段は悲鳴をあげていた。
 そして、突き当たりの部屋、八号室の前まで来た。
 ――コンコン。

「俊也だけど、ちょっと話したいことがあるんだ」

 ……応答がない。
 部屋にいないのだろうか。
 もしかして診療所に?

「……こほっ……ごほっごほっ!」

 そう思った矢先、扉の奥から苦しそうな咳の音が聞こえた。
 喘息の発作?

「優日? いるの?」

 ドアノブに手をかけ、回す。
 だけど、途中で何かが突っかかり、ドアを開けることが出来なかった。

「くそっ」

 鍵が掛かっている。
 中に入れない。

「ごほっ……っ……ごほっ! ごほっ!」

 その間も優日の咳は止まっていなく、くぐもった苦しそうな声は絶え間なく聞こえてくる。

「優日! 早く吸入器で薬を吸って!」

 聞いていられなかった。
 こんなに辛そうに……いつの間になったのだろう。
 もしかして紗衣香ちゃんはこの発作を間近で見たのだろうか。
 だからあんなにも心配しているのではないだろうか。

「ごほっ……こほ、こほっ」

 ダメだ。聞いている限り、止まりそうにない。
 扉の向こうが、今どういう状況なのか、まったく分からなかった。
 ドアをぶち破ってしまおうか、本気でそう考える。

「と……俊也、さん」

 小さく。僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「ゆ、優日!?」
「大丈……夫ですから……こほっ…ごほっ……」

 そんなことを、とても大丈夫には聞こえない声で言う。

「何言ってるんだっ! 早くここを開けて!」

 助けたい。様子を見たい。
 でもドアが阻んで、僕に何もさせない。
 まるでこのドアが、優日を守っているみたい。

「本当に……大丈夫です……こほっ……落ち着いてきましたから……」

 確かにさっきよりは、咳は聞こえなくなっている。
 だけど、こんなの大丈夫に思えるはずがない。

「いいから。とりあえず開けて。もっと落ち着いてからでもいい。顔を見せて?」

 そうじゃなければ、安心出来ない。
 紗衣香ちゃんの話、そして今のこの状況。
 なんだか、胸がざわつく。

「……はい」

 軽い音が聞こえた。あっけなく。
 僕をあれだけ阻んでいた扉が簡単に開いた。
 ……優日の行動、一つで。

「……優日」

 扉の奥には、吸入器を口に付け、ゆっくりと息を吸う優日の姿ではなく。
 何故か、僕に対して微笑んでいる優日の姿だった。
 いや、微笑んでいるなんて適切じゃない。
 引きつっていて、出てくる咳に顔をしかめていて、見ている方が辛くなりそうな、造られた笑顔。

「……っ」

 思わず顔を背けてしまった。
 見たくなかった。
 様々な言葉が頭を駆け巡る。
 怒ればいいのか。悲しめばいいのか。
 いやきっと……誰でもない。僕は僕自身を責めなければならない。
 こんな彼女にしてしまったことを。

「こほっ……どうしたんですか……? ほら私は、もう大丈夫ですよ?」

 声が掠れていた。
 ずっと咳をしているからだろう。
 話すのも辛そうで、今の言葉だって「大丈夫」くらいしかはっきりと聞こえなかった。

「……何が大丈夫なんだよ?」

 視線を顔に合わせる。
 彼女の顔はこんなにも白かっただろうか。
 顔は異様なくらいに白く、目の下には薄く隈があり、汗がにじみ出ていた。
 ……大丈夫じゃないことなんて、誰にでも分かってしまう。

「……なんでっ」

 なんでそんなことに今気付いているんだ僕は!!

「俊也さん?」

 優日は変わらずに微笑もうとしてくれている。
 僕を心配させないように。
 彼女の性格を考えれば、そんなこと簡単に分かるはずなのに。

  思わず、拳を握っていた。
 怒鳴りたかった。
 彼女は悪い事を何一つしていない。むしろ悪かったのは僕だ。
 だけど、それ以上に自分を捨ててまで、僕に尽くす彼女を許せなかった。

「……っく」

 それでも、今何をすべきなのかを考える。
 ここで、上月俊也を出したってどうしようもない。
 僕は医者だ。
 医者として、何が最善の方法なのかを考えなければならない。
 だからこそ。

「……行こう」
「え?」

 握っていた拳を緩め、彼女の腕を掴む。
 逃がさないように。きつく。

「とりあえず、浩介さんの所へ行かないと。本格的に見てもらったほうがいいのかもしれない。隣町の病院に連絡を取らないと」

 頭を回す。
 冷静に。とにかく冷静に。

「あの……こほっごほっごほっ」

 優日は何か言おうとしているのに、咳が邪魔をしていた。
 丁度いい。
 何も言わせない。
 さっさと連れて行くだけだ。

「やめてください。どうして……やめてくださいっ」

 優日は僕の手を解こうとしている。
 だけど離すわけにはいかない。
 どうして解こうとしているのかは分からないけれど、今は僕の言う事を聞いてもらう。

「私は……大丈夫ですから」
「大丈夫なわけ無いだろ!! そんなの優日が一番分かってることじゃないか! もういい。もう嘘を吐かないで……お願いだから」
「……」

 思わず叫んでいた。
 「大丈夫ですから」という言葉を、もう聞きたくなかった。
 気付かなくて、ごめん。
 別れを押し付けて、ごめん。
 辛くさせて、ごめん。
 苦しませて、ごめん。
 何度でも謝るから……だから、もうそんなことを言わないでほしかった。

「とりあえず、浩介さん見てもらおう? ちゃんと見てもらわないとダメだ」
「……」

 優日は何も答えない。
 でも、抵抗する力はなかった。
 顔は俯いていて表情はまったく掴めない。
 分かってくれたのだろうか?
 とりあえず今は、浩介さんの元へと急いだ。







「とりあえず今日は休みなさい。明日には君の行きつけ病院に行くこと。私じゃ正確には分からないからね。ちゃんと診てもらってきなさい」

 浩介さんは優日の診断が終わると、そう言った。

「すぐ、というわけには行かないんですか? 今から連絡をして……今日中に診て貰った方がいいと思うんですが」

 紗衣香ちゃんは、不安そうな顔で浩介さんに申し出る。
 そうだろう。
 優日の体調は見て取れるほど悪かった。

「優日さんはどう思う? 今すぐにでも見て欲しいかい?」
「……そこまで迷惑をかけるつもりはありません」
「本人がこう言っているからね。彼女の意見を尊重するよ。自分の身体のことは自分が一番分かっているからね」

 それが安心出来ないのが優日なのだ。
 どうして頑なまでに隠し続けたのか、僕には理解出来なかった。
 こうなんだろうという考えはある。だけどそれはあまりにもバカバカしかったから。
 考える事を放棄した。

「優日。とりあえず寝よ? ゆっくり休めば、少しは良くなるかもしれないからさ」
「……俊也さん」

 悲しそうな顔。
 自分を追い詰めているようなそんな表情。
 思い出す。
 あの時の……あの事故の時と、同じ感覚。

「……紗衣香ちゃん、連れてってもらっていいかな。それと出来る限り付いていてほしい」

 独りにさせてはいけない。
 僕が付いていてあげたいけれど、僕が居ると逆効果な気がした。

「はい。分かりました。姉さん、行きましょう?」

 優日はもう一度僕の方を見ると、また俯いて紗衣香ちゃんと一緒に出て行った。

「……ちゃんと話していたんじゃなかったのかい?」

 浩介さんは低く、僕を責めるような声でそう言った。

「喘息が発作が重くなっているのもあるだろうけど、あの目の下の隈はそれだけじゃない気がするよ。……彼女を追い込んだのは、君じゃないのか?」

 事実だった。
 僕の勘違いで情けない行動の所為で、優日はこうなってしまった。
 追い詰めたのは、間違いなく僕。

「……すみません」

 謝るしかなかった。

「私に謝っても仕方がないのだがね……まさか東京行きの件でこうまでなってしまうとは、随分君たちは好き合っているのだね?」

 浩介さんは苦笑していた。

「……はい」

 二人が二人ともお互いのことが大切だから、離れたくないから、こうなってしまった。
 全部が裏目に出てしまったのだ。
 なにをしているのだろう。僕は。
 初めから話し合っていれば、こんなことにはならなかったのに……。

「こじれてってわけではなさそうだね。彼女は自分の意見よりも、他人の意見を尊重するタイプに見える。自分の気持ちを抑え付けてでも、ね」

 そうだ。そういう性格なんだ。
 だから、落ち着いて考えれば分かる事だった。この結果は。
 僕は自分の気持ちだけで精一杯で、優日のことを気遣ってやれなかった。

「……まぁ、ここで君を責めてもどうしようもないか。無論、彼女にも非はある。何事にも限度はあるからね。ここまで我慢するなんて、彼女は死ぬ気だったんだろうか」

 それも、一時間前にしか気付けなかった自分に、虫唾が走った。
 チャンスはいくらでもあった。
 今日の朝だって、優日が起こしに来てくれていた。
 それを寝ぼけていて、見逃していた。
 紗衣香ちゃんが、優日の様子がおかしいと言ってくれなければ、ずっと気付かなかったんじゃないだろうか。
 そして、僕の知らない間に、優日は苦しむ。
 ……腹が立った。

「俊也くん」

 呼ばれる。
 浩介さんは僕の目を真っ直ぐに見た。
 そして一言。

「その気持ちを、忘れないように」

 そうだけ言って、部屋を出て行った。

「……忘れません」

 忘れられるはずがなかった。
 優日の苦しそうな声、辛そうな顔が、頭から離れない。
 もう二度とあんなことを起こらせないように。
 固く、刻み込む。
 誰よりも、何よりも、優日を大切にしようと。
 もう一度、深く自分自身へと誓った。







 ◇◇◇







「姉さん……姉さんが我慢した結果が……こういうことなんですよ」

 私は、姉さんに問い詰めるように言いました。

「いくら先生の為とはいえ、その先生本人をこんなに悲しませてしまったら、本末転倒ですよ」

 姉さんはずっと黙ったままです。
 私と目を合わせようとしません。
 まだ、呼吸が上手くいかないのか、息切れをしていました。

「ですから、これから体調が悪くなったりしたら、素直に先生に言いましょう? ね?」

 反応がありません。
 心此処に在らずという感じです。
 でも私は、このことを言っておかなければいけません。
 もう、こんなことが起こらないためにも。

「……私は」

 酷く掠れた声で、姉さんは黙っていた口を開きました。

「俊也さんの足枷になりたくはなかったの」
「……どういうことですか?」

 私が聞き返しても、反応がありません。
 聞こえていないのか、それとも聞こえているのに応えたくないのか。
 姉さんのその態度は、嫌な事を思い出してしまいそうになります。

 あの雨の日。
 初対面の人にするような、怯えた眼差しで。
 小さい頃から聞いてた私の大好きな声で。
 「誰ですか?」と聞かれた……あの――

「紗衣ちゃん」
「え、あ……は、はい。なんですか?」

 いけません。
 アレはもう過ぎ去ったこと。
 もうあんなことはないのですから。
 ……アレに囚われてはいけません。

「一人に、してもらえるかな? 私もう寝たいんだ」

 本当に辛そうに、気だるい感じの声で、そう言われました。
 姉さんの顔を見ると、少し汗を掻いているように見えます。

「そうですね。寝てください。でも一人には出来ません。先生に言われたことですから、私も一緒についています」

 今の姉さんを一人には出来ません。
 この状態を見ると、おそらく夜も咳で眠れていない気がします。
 また発作が起こったことを考えると、ついていた安心出来ますから。

「……そっか。私、信用されてないんだねぇ…………当然か」

 姉さんは、私に無理に笑いかけると、ベットへと横になりました。

「そういうわけではないのですが……とりあえず、もう寝てください」

 ダルくなっているのか、行動の一つ一つが遅い気がします。
 風邪? でもそういう症状は見られないのですが。
 ……単に疲れているだけですね。きっと。

「……私ね。俊也さんのお荷物でしかないって、気付いたんだ」

 姉さんは目を瞑ったまま、そんなことを言い出しました。

「何を言ってるんですか。早く寝てください」
「ねぇ、紗衣ちゃん。今回の東京行きの件。俊也さんにとっては良い話だと思わなかった?」

 喋ること事態が辛そうなのに、どうして姉さんはこんなことを言っているのでしょうか。

「……良い話だとは思っています」
「だよね。だけど私は……嫌だった。離れたくなかった。一年間も離れてしまうなんて、それだけで凄く寂しくなった。行かせたくない、行って欲しくないって思ったんだ」

 それは、当然のことだと思います。
 好きな人とは一緒に居たいという、普通の感情。

「だから私は、俊也さんが成長するのを妨げる"足枷"でしかなかったんだよ」
「……どうしてですか? 誰だってそう思うじゃないですか。そうやって駄々をこねてもいいじゃないですか」

 姉さんは、私の言葉を聞いて、目を開きました。
 いつもの力強さは無く、弱々しい視線。

「そう気付いたとき、私は自己嫌悪をした。俊也さんの邪魔になっている自分が、たまらなく嫌だった」
「……どうしてそうなるんですか。どうしてそれをぶつけなかったんですか」

 姉さんは首を振りました。

「……こんな私は嫌われるかもしれないと思ったら、言えなかった」

 不安な時は、ネガティブなことしか浮かばないものです。
 いつもの姉さんなら、素直にぶつけていたはずなのに。

「そんなことあるわけないじゃないですか」

 本当に、そんなことあるわけないです。
 先生が姉さんを嫌いになるなんて……絶対に。

「だから私は、ひたすら平気なフリをした。どんなことがあっても"いつもの私"でいようと思った。俊也さんが不安なく、東京へと行けるように」

 だから、体調が悪くなる身体を我慢して。
 先生が迷わないように、自分を犠牲にしたんですか……?

「……それが、この結果なんですよ?」

 先生が悲しんで。
 私を心配させて。
 浩二さんや浩介さん、柚華さんにも迷惑をかけて。
 そしてなによりも……自分自身をこんなに傷つけました。

「……なんかね。よく分からないんだ。こんな結果を望んでいたわけじゃないのに……嬉しいって気持ちも、確かにあるんだよ」
「それは……普通なことだと思います」

 好きな人にこうして、本気で心配してもらえて、怒ってもらえて。
 とても幸せなことだと思います。
 そして、私には得られなかった、とてもとても……羨ましいもの。

「……一人になることが多くて、とても寂しかった。こんな時間がずっと続くんだと思ったら、不安で不安でどうしようもなかった」
「姉さんは、独りが苦手な人ですからね」

 昔からずっと苦手でした。
 いつも誰かと一緒に居て、一人で居ることを見ることは本当にありませんでした。
 孤独が嫌いなのではなく、孤独が苦手。
 それはきっと、血の繋がりというものが、姉さんに孤独を植え付けているからなのだと私は思っています。

「でも、耐えようって思ったんだ。それが俊也さんの為になるって信じてたから」

 姉さんにとって、先生がどれほど大切な存在なのか、全てを見せ付けられた気がしました。
 本能的に苦手としていることに立ち向かい、耐え続けた姉さん。
 自分のことを省みず、先生のことだけを考えて。
 それだけ強い想い。

「何回も言います。だからこうなったんです。反省してください。これからは自分の身体の事を第一に考えてください」
「それは……約束できそうにないかな。私の性格だから」

 こういうところは、本当にお父さんに似ています。
 本心を言えば、家族といえでもあまり嬉しいものではありません。
 心配する方にとっては、堪ったものではないですから。

「先生だってそう望んでいますよ」

 今回のことで、一番辛い思いをしたのは先生だと思います。
 何も知らなかったのですから。
 何も気付くことが出来なかったのですから。
 本当に最後の最後まで。

「……それは……うん。本当に伝わってきた」

 姉さんは申し訳なさそうに、言葉が小さくなりました。
 姉さんにとっては、今回のことはいい薬になりそうです。

「とりあえず今日はもう寝てください。そして、明日はちゃんと検査を受けること。これ以上酷くならないために」

 様子がおかしいのもあります。
 ただ疲れているだけならいいのですが……。

「……うん。考えるのは明日にしようか。明日はちゃんと俊也さんに謝らないとね」

 姉さんはもう一度目を閉じました。

 ……自己犠牲。
 そうやって、自分を削って他人を助けるのでしょう。姉さんは。
 どこまでも優しく。
 どこまでも慈悲深く。
 ただ自分ではない誰かの為に。
 そうして、一緒に居て欲しい人を追い詰めてしまうとも知らずに。







 ◇◇◇







 優日がいる部屋の前に行くと、ちょうど紗衣香ちゃんが出てきたところだった。

「どう? 優日は」

 紗衣香ちゃんは少し困ったような顔をして。

「つい先ほど、眠りました」
「そう。ごめんね。押し付けたみたいで」

 優日と一緒にいたかった。
 でも僕はきっとどうしてあんなになるまで我慢したのか、それを問い詰めてしまうだろう。
 だからダメだと思った。

「何を言っているのですか。私は篠又 優日の家族ですよ。家族の面倒をみるのは、当然のことです」

 謝る事ではないと、紗衣香ちゃんは当然のように言った。
 そうだ。
 謝るよりもまず僕がしなくてはいけないことがあったはずだ。
 誰のおかげで優日の異変に気づく事が出来たのか。
 こうして、無理をさせることのない状況に出来たのか。

「紗衣香ちゃん。ありがとう。優日の事を教えてくれて」
「……私がお礼を言われるようなことではないです。私は気付くことが出来ましたが、姉さんを説得する事は出来ませんでした。先生だからこそ、今こうして姉さんは診療所にいるのだと思います」

 紗衣香ちゃんが説得できなかった?
 優日は紗衣香ちゃんの言うことはよく聞くはずなのに。
 それだけ譲れないものだったってことだろうか。

「私から逆にお礼を言いたいくらいなのです。先生、ありがとうございました」

 紗衣香ちゃんは深く頭を下げる。
 そんなことされる資格など、僕にはないのに……。

「……」

 紗衣香ちゃんは頭を上げたあと、僕の顔を探るように見つめていた。

「どうかした?」
「いえ……もしかして先生は今回の事でご自分を責めになっているのですか?」

 僕はそんな顔をしていたのだろうか。
 いけないな。紗衣香ちゃんに気を使わせるようなマネをしちゃ。

「ごめん。顔に出てたみたいだね」
「……先生が謝るようなことはありません。今回の事は姉さんが勝手に無茶をしてこうなったのですから」

 そうじゃない。
 僕が悪い。
 僕が責任を持つべきだ。

「違うよ。僕が無理矢理納得させたから、優日はこういうふうに反応するしかなかったんだと思う」

 あの時は、僕も優日もまったく東京行きのことには触れなかった。
 今思い返せば、まるで優日は僕に合わせているようだった。
 僕がそう望んだから、優日もこんな無茶をした。

「……姉さんは、離れるのが辛かったんです」
「え?」
「だけど、先生を止めてしまうかも知れない自分を、姉さんは怖がったんです」

 紗衣香ちゃんは俯いたまま、とつとつと話し始めた。
 優日の気持ちを。
 どうして紗衣香ちゃんが知っているのかは分からないけれど。
 僕にそれを話してくれている。

「ですから、姉さんは平気なフリをしました。先生が心配すること無く、心をおきなく東京に行けるように」
「……」

 それが後になって分かったら、どれだけ僕が自分のことを責めるのか。
 優日は分かっていなかったのだろうか。
 ……いや。きっと、後のことなんて考えていなかっただろう。
 "今"それが最善なんだと、きっとそう考えた。
 そうして、僕と同じ間違いをしてたんだ。

「……そっか」

 話し合わなきゃダメだ。
 そう思った。
 そして、そう思えるきっかけを作ってくれたのは、ここにいる紗衣香ちゃんだった。

「やっぱり、君に礼を言われる資格なんか無い。僕が言うべきなんだと思う」
「……え?」

 僕は紗衣香ちゃんの肩を掴んだ。
 紗衣香ちゃんは跳ねたように、僕の顔を見上げる。

「ありがとう。間違いに気付かせてくれてありがとう。あの時言ってくれなければ、今以上に……もっと深く後悔することになっていたと思う」

 視線を合わせた。

「……いえ」

 だけど、すぐに外されてしまった。
 そしてまた俯いてしまう。
 なんでだろう。
 様子が少しおかしい気がした。

「……優日は? もう寝た?」
「はい。さきほど」

 返事が短い。
 まるで、僕と話したくないような雰囲気を感じた。
 どうかしたんだろうか?

「……先生が姉さんについていてあげてください」

 何かに追い詰められているようなか細い声で、そう言った。

「その方が、姉さんは喜ぶと思いますから」

 そう言って、僕から離れる。
 肩に掛けていた手は所在をなくし、ゆっくりと下ろすしかなかった。
 ……なんでだろう。
 拒絶されたような感覚がした。

「あ……うん。分かった」

 呆気に取られ、紗衣香ちゃんを見る。
 変わらずに、俯いたまま。
 僕の方を見ようとしなかった。

「……それでは失礼します」

 紗衣香ちゃんは、止める間もなく去っていった。
 いや、どのみち止めることは出来なかっただろう。
 あの態度は僕を拒絶していたのだから。
 ……僕は何かしただろうか。
 気に障ることでもしてしまったのだろうか。
 覚えがない。
 僕はただ唖然として、そこに立ち止まっていることしか出来なかった。







 僕はその後、優日の部屋へと行って、ずっと手を握っていた。
 静かに寝息を立てている優日の姿に安心しながら。
 眠ることも忘れ……ずっと。

 色々な一日だった。
 父親と話すことが出来て、本当に良かったと思う。
 一歩進む事が出来た大切な日だったと思う。
 だけど、最後に最悪なことが待っていた。
 舞い上がっていた自分を、殴りたくなるほどの最低なことが。

 僕は逃げていた。
 向き合おうとしなかった。
 別れの寂しさ、悲しさを考えないようにしていた。
 だからその代償として、優日の心も身体も傷つけることになった。
 ……最低だ。
 本当に、僕はどこまでも最低なヤツだ。

「俊也。優日ちゃんの調子はどうだ?」

 いつから居たのか、浩二が後ろから声を掛けてきた。

「……どうだろうね。今は落ち着いている。よく眠っているよ」

 「そっか」と、浩二は少し安心したような感じで返事をした。

「なんていうか、優日ちゃんはある意味すごいぜ。こんなに何人も騙す事が出来たんだから。先生なんかより女優の方が向いてるんじゃないか?」

 後ろから、苦笑した様子が伝わってきた。
 僕を慰めようとしてくれているのだろうか。
 僕になんか気を使わなくったっていいのに。

「結局、紗衣香ちゃん以外は誰も気づく事が出来なかった。なんとも情けないな俺ら」
「……浩二は情けなくないよ。情けないのは僕だ」

 恋人である僕が。
 優日をここにいる誰よりも、見ていたはずの僕が。
 最初に気付くべきだった。

「アホか。なんでも自分だけで背負い込むな。みんな思ってるんだよ。こうなる前になんで気付いてあげれなかったのかってな」
「……」
「親父から話を聞いたけど、今回のことで反省するのは勝手だ。だけどな、優日ちゃんも反省しなくちゃいけないことがある」

 言っていることは分かる。
 優日だって悪いところはあったと思う。
 だけど、そうじゃないのだ。
 守ると決めた。
 何を犠牲にしても、一番に守ると決めたのだ。
 その誓いが……酷く滑稽に思えた。

「……僕は、甘く見ていたんだ」
「は?」

 言葉に出してみると、余計に思い知らされた。
 僕の誓いは、まだ何も分かっていない幼稚なものだったと。

「あの事故……優日の記憶が無くなったとき。僕は守るって決めたんだ」

 自分を犠牲にする彼女だからこそ、僕が守ってやるんだと、そう息巻いていた。
 分かっていた。
 分かっていたはずだった。
 彼女の性格を、分かっていたはずだったんだ。
 だからこその誓いだった。

「それが、こんなにも脆いものだったなんて……思わなかった。だから僕は自分が情けない。簡単に守るとか考えていた自分を許せない」

 僕は僕自身を殴りたかった。
 思い切り、力いっぱいに。

「……そんだけ強い想いだったんなら、守り通せ。貫き通せよ。たった一回こうなっただけで後ろなんて向いてんじゃねーよ」

 後ろから、浩二の低い声が響いた。

「後ろなんて向いてないさ。ただ悔しいだけ。全てのことを軽く見ていた自分が許せないんだ」

 優日が苦しんでいた時、まったく気付かずにのうのうとしてきた。
 紗衣香ちゃんに言われるまで気付くことが出来なかった。
 そして、優日がここまで傷ついたのは自分の行動のせいだった。
 全てのことに、腹が立った。

「……なぁ、俊也。ちょっとこっち向いてくんねーか」
「え?」

 いきなりなんだろう。
 よく分からなかったけど、浩二の言葉は拒否を許さない声だった。
 優日の手を離し、後ろを振り向く。

「お前は自分を許せないんだろ?」

 浩二はじっと僕の目を見据える。
 何をしようとしているのか、まったく読めなかった。

「ああ」

 僕も浩二に視線を合わせながら、答えた。

「なら、これで本当に"おあいこ"だ」

 浩二がそう言った瞬間、右側から衝撃が走った。
 まるで、鈍器のような固いもので殴られたような衝撃が。
 それに身体が耐え切れずに、床に転がる。

「な……浩二?」

 右の頬は熱を持ち始めていた。
 それと同時にゆっくりと確かめるように、痛さが増してくる。
 口の中には鉄の味が広がっていて、浩二がどれくらい強く殴ってきたのか、それが分かった気がした。
 本気で僕のことを殴ったんだ。

「優日ちゃんは身体も心も傷ついた。だけどお前は心だけ。不公平だろ? だから殴った」

 浩二は薄く笑みを作りながら言った。
 僕が悩んでいたり、塞いでいたりすると、いつも励ましてくれる笑顔で。
 結局、また浩二に頼っている自分。
 本当に、適わないなと思う。

「これであおいこだ。優日ちゃんもお前も自分を責める必要は無い。二人とも傷ついたんだから」

 浩二は、僕の代わりに僕を殴ってくれた。
 それだけで心が少しだけすっきりとした

「重かったろ? ひさびさに本気出したからな」
「……ああ」

 心の中で呟く。ありがとうと。
 面と向かったって聞きはしないだろうから。

「さて、別にお前を殴るために来たわけじゃなくて、伝言があったから来たんだ」

 浩二は仕切りなおしとでも言うのか、明るい声でそう言ってきた。

「伝言? 誰から?」
「親父。気になる事があったんだと」

 なんだろう。優日の事だろうか?

「喘息の症状とは別のものがある。他の検査も受けておいた方がいいかもしれない、だと」
「……なんで今?」

 浩介さんとは直接会っているのだから、しかも優日を診てもらった後に。
 どうして今、思い出したように言ってくるのだろうか。

「よくは分からんが、喘息の本でも読んだんじゃないか? 親父が出来るのはあくまでもその場での処置だけだからな。それはお前も同じだろ?」

 浩介さんほどの人なら、経験で分かりそうなものだけど。
 ……深く考えてもしょうがないか。

「浩介さんがそう言ったのなら、診てもらわないとダメかな」
「そうだな。まぁ、俺が伝えたかったのはそれだけだ。なんかひさびさに力使ったな、俺」

 浩二がうんと伸びをする。
 なんかその姿がおかしく、少し笑ってしまった。

「お。やっと笑ったか。そうしてろ。そしたら誰も不安がらないから」
「……ああ。そうだね」

 優日も不安がったりしない。
 紗衣香ちゃんだって。

「……あ」

 紗衣香ちゃんのことが頭を掠める。
 そうだ。
 浩二なら何か知ってるかもしれない。

「そういえば、浩二。紗衣香ちゃんの様子、なんかおかしくなかった?」
「いや、今日は見てないけど……なんか、あったのか?」
「それが……」

 今日、ついさっきあったことを話す。
 紗衣香ちゃんの態度が急に変わったことを。

「あー……まぁ気にするな」

 浩二は明らかに困った顔をしながら言った。

「気にするなって、気になるに決まってるじゃないか」

 あんな態度を取られたら、誰でも気になる。

「気にしなくていいんだよ。別に大した問題じゃないさ」
「でも、もし僕の所為だったとしたら」

 僕が何か傷つけるようなことをしたのではないだろうか。
 だとしたら、謝らないと。

「お前のせいじゃないし、お前が気にするようなことでもないさ。きっと、これは紗衣香ちゃん自身の問題なんだと思うぜ」
「……よく分からないな」

 ただ浩二が言っていることは分かった。
 紗衣香ちゃんにこれ以上踏み込むな、とそう言っているのだ。
 僕が踏み込んでしまえば、彼女を傷つけてしまうみたいだ。

「よく分からなくて結構。気にしなくていい。明日になればいつもの紗衣香ちゃんに戻ってるさ」
「……ん。分かった」

 紗衣香ちゃんを一番見ている浩二の言葉だ。
 黙って聞いておいた方がいいだろう。
 明日になれば分かる。

「さて、それじゃ俺は帰るわ。お前はずっと優日ちゃんについてるだろ?」
「うん。そのつもり」
「なら、後は任せた」

 そう言って、手を上げて浩二は出て行った。
 そういえば、いつの間にか居てすぐに帰ってしまったような気がする。
 僕を励ますために来たんだろうか?
 まぁ、本人は否定するだろうけど。

 ひさびさに殴られた頬に手を当てる。
 まだ熱を持っているようだった。

「……"おあいこ"か。軽すぎるよ。こんなの」

 僕はたった一発だけ。
 優日の苦しみに比べたら、全然優しいものだろう。
 だから、僕は気をつけよう。
 もうこんなことがないように。
 優日はもっと痛いんだ、苦しいんだと思えば、そんなのなんでもないから。

 明日……僕はちゃんと優日と話せるだろうか。
 話さないといけない。
 これ以上、お互いが傷つかないために。
 全ては、明日だ。






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