「ごほっ……っ……こほっこほっ……」
朝。
私が台所に下りると姉さんが、苦しそうにうずくまっていました。
「姉さん! 落ち着いて。ゆっくりと息を吸ってください」
姉さんは、私の言葉に頷き、呼吸をしようとします。
ですが、咳がそれを邪魔し、上手く呼吸できない状態でした。
いけません。
これは私が記憶している中でも危ないほうに入る症状。
「姉さん、お薬は? 持っていないのですか?」
私の声に、辛そうに腕を上げ、机の方を指差しました。
見てみると、そこには姉さんのポーチ。
急いで立ち上がり、ポーチを開けました。
吸入器がすぐ置いてあり、姉さんに渡しました。
「……あ、ありが」
「喋らないでいいですから、早く受け取ってください!」
焦れた私は姉さんの口元へと吸入器を持っていき、姉さんに渡しました。
ゆっくりと息を吸い、乱れた呼吸が落ち着いていきます。
「こほっ……紗衣ちゃん、ありがとう」
「お礼を言うのなら身の安全を守ってからにしてください」
「う……ごめん。こほっこほっ」
「ほら。そこに座っててください。それだけで落ち着きますから」
本当に、この人はどうして自分の事をないがしろにするのでしょうか。
こういう所はお父さんとお母さんに似ているのですから……。
「ううん。俊也さんの所にいかないと」
「……私が行きます。姉さんは休んでいてください」
「それは出来ない。ごめんね」
きっぱりとした、拒絶。
最初からその考えなんてなかったかというような、完璧な拒否でした。
「なにかあったのですか?」
私が姉さんの為にそうすると言ったことは絶対に曲げません。
ですからいつも、しぶしぶ姉さんは納得するのです。
それさえも許さないような……そんな空気を感じました。
「そういうわけじゃないよ。ただ俊也さんが心配するといけないから」
「心配するって、実際に姉さんは危なかったじゃないですか!」
実際はもう病院に行っていないといけない症状。
それなのに、姉さんはそれをよしとしません。
「大丈夫だから」とそれを繰り返して、私を避けていました。
「俊也さんの事だから心配しすぎて、先延ばしにすることだってあるから……」
「先延ばし? 東京行きのことですか?」
姉さんは答えません。
ですがそれは、肯定していると同じことです。
「それなら自分で分かっているのですよね? 自分の体調なのですから。自分を大切にしてください!」
「俊也さんが東京に行ったら行くよ。心配掛けたくないから……」
何がそんなに姉さんを意固地にさせているのでしょうか。
言っているのは先生のことばかり。
まるで邪魔してしまうことが全部いけない事みたいに聞こえます。
「……わかりました、姉さん。行ってきてください」
姉さんにはこれ以上言っても無駄でしょう。
一度決めたことは曲げない人ですから。
……やっぱり、何かあったんのしょう。
まずそれを、先生に聞かないと。
東京へ行く準備が着々と進んでいた。
一度行こうと覚悟を決めたら、時間は早いもので。
浩介さんが診療所へと戻ってきて、いつもの空気の中に、慌しさが紛れていた。
「俊也くん。あっちにいる間どこに住もうと思っているんだい? 今は使っていない宿直室があっちにはあるらしいけど……」
この慌しさで、優日ともゆっくり話ができていなかった。
寂しいという気持ちは当然あるけど、少し安心した。
こう忙しければ、反対を言う気にもならないだろうと。
優日に反対されてしまったら、きっと僕はそれを受け入れてしまうかもしれない。
だから、それだけは回避したかった。
浩介さんに迷惑は掛けたくなかったから。
「俊也くん?」
「あ、はい。すみません。なんですか?」
いけない。まったく聞いていなかった。
「住む所。どうしようと思ってる?」
「あ……はい。その、父さんに電話しようかと思っています」
前から考えていた事だった。
浩介さんは動きを止めて、僕の方を見る。
「渉くんに、かい?」
上月 渉(わたる)。
それが僕の父親の名前。
そして、もう二十年近く会っていない人の名前。
「はい。ちょうど良い機会かなって思って。もう随分顔を見てないですし……」
「そうか。東京に居るのだったっけ」
「少し外れの方ですが、通勤に問題ないかと」
「……ふむ。そうだね。親子、というには少し離れすぎているから。君たちの関係は」
本当に遠い遠い距離。
昔どんな顔で、どんな仕草をしていたのか、どんな声だったのか、まったく思い出せない。
それに今がどんなふうになっているのかすら、想像できなかった。
それくらいに遠い距離。
だけど、僕がこうやってこの町にいるのは、間違いなく父さんのおかげだった。
「どんなに離れていても親ですから。僕の我が儘をなんだかんだで一番聞いてくれた人なんで」
成人するまで誰がお金を払ってくれていたかというと、父さんだった。
僕が医者になりたいという夢を、何にも心配がないようにしてくれた。
そして実際何の心配もなく僕は夢を追う事が出来た。
それに関して、僕はお礼を言わなくちゃいけない。
親にお礼というのも照れ臭い話だけど。
「分かった。じゃああっちにはそう伝えておくよ。これで、ある程度の準備は終わったのかな?」
「はい。連絡さえ付けば、すぐにでも行けると思います」
学校のことは紗衣香ちゃんに頼んである。
優日の事は心配だけど、浩司と紗衣香ちゃんが居れば大丈夫だろう。
――コンコン。
控えめに扉が叩く音が聞こえた。
「あの、先生。少しよろしいですか?」
ドアから顔を出したのは紗衣香ちゃんだった。
その目は僕を見ている。
って当然か。紗衣香ちゃんが僕を呼ぶときは「先生」と言うのだから。
「少し聞きたい事があるんです。こっちに来てもらえませんか?」
ここで聞いてこないということは、二人だけで話したいことらしい。
そういえば、朝は考えるような素振りが多かった気がする。
何か気になることでもあったのだろうか。
「分かった。いいよ。それじゃ浩介さん。連絡が付き次第教えますから」
浩介さんに一礼して、診療室を出て行く。
居間へと移動すると、紗衣香ちゃんはキッチンに立ち、飲み物の用意をしているようだった。
「すみません。先に掛けてもらっててよろしいですか?」
了承をして、椅子に座る。
紗衣香ちゃんはすぐに麦茶を二つ持ってきて、僕の前に掛けた。
「ん。ありがと。それで聞きたいことってなにかな?」
わざわざ二人きりになったんだ。
聞きづらいことに違いない。
「はい……姉さんと、なにかありましたか?」
そんな要領を得ない質問をしてきた。
「なにかってどういうこと?」
別に何も無いと思う。
確か、最近はゆっくり会ってはいない。
けどこんな小さな町だ。いくらでも機会はあった。
だから、話していないなんてことはないし、一日だって会わなかったこともない。
「いえ。少し気になることがありまして……」
紗衣香ちゃんは視線を外し、言い淀んでいる。
明らかにそう見て取れた。
何か話したくない事情があるのだろうか。
優日に関係した何かが。
「的を得ないな。僕としては何もしてないけれど……それに優日だっていつもと変わりない」
少なくとも、僕が見ている優日はいつもの優日だ。
「質問を返すようで悪いけど、なにかあったの? 優日に」
「え……あ、いえ…………」
まだ視線を外している紗衣香ちゃん。
どうしたのだろう。
肩が震えている気がした。
「紗衣香ちゃん? 本当にどうかした?」
「あ……いえ。なんでもないんです……本当に、何も」
そう言って紗衣香ちゃんは頭を下げる。
そして顔を上げ、再度聞いてきた。
僕の目を見て、真実を確かめるように。
「ですが、本当に何もなかったのですか? 例えば、東京に行って離れるのが辛いからって口論しただとか……」
例えばという割には随分と詳しい内容だな。
「それは、無いかな。優日も納得してくれている」
正確に言えば納得させている。
これは僕の我が儘。
それを何も言わずに受け止めてくれた。
彼女だって離れるのが辛いのに、僕がその辛さを確認するのが嫌だから。
何も言わせないような、態度で示した。
「……そうでしょうか。好きな人を、しかも現在付き合っている人が一年も自分の側から離れてしまうのに……簡単に納得できるものですか?」
できない。できるわけ無い。
僕だって納得していないのだから。
だけどダメなんだ。
離れるのが辛くたって、寂しくてどうしようもなくても。
その弱さだけは、見せてはいけない。
「……それでもそれが仕事だから。仕方がないさ」
「でも!」
「でもじゃないさ。浩介さんに優日と離れるのが嫌だから、研修は出来ませんって言えるかい?」
「そ、それは……」
紗衣香ちゃんは言い淀んだ。
言い返したいのだろうけど、言葉が見つからないのだろう。
当然だ。
いくら寂しいと喚いても結果は変わらない。
浩介さんは僕に東京へ行ってほしいと言っている。
そこにはきっと、僕を成長させる何かがあるのだろう。
僕が騒いだって、浩介さんを困らせるだけ。
そんなみっともないマネなんて出来るわけがないのだから。
「ごめん。いじわるな言い方をした。でも、言えるわけないだろ? いい大人がそんな子どもみたいな言い訳を」
「……はい」
紗衣香ちゃんは悔しそうに唇を噛む。
僕は正論を言っている。
感情を……・気持ちをまったく考えない、機械のような正論を。
「なら、姉さんと話し合ってくれませんか?」
僕の目を力強く見て、そう言った。
そして、その視線をそらすことなく、真っ直ぐ。
「私から見て、姉さんは納得しているように見えません。もっとちゃんと話してみてください」
お願いしますと、頭を下げた。
「あ……うん」
頷くしかなかった。
紗衣香ちゃんがここまで言ってくるなんて。
優日の様子はそんなにおかしいのだろうか。
「優日は、そんなに落ち込んでいた?」
「……そういう素振りは見せませんが、姉妹ですから。なんとなく分かります」
なんだろう。
少しはぐらかすような感じがした。
本当のことを言っていないような、そんな感覚。
「……そっか」
まぁ、深く考えないでいいか。
僕が優日ときちんと話せばいいこと。
……怖い。
自分の弱さが……みっともない部分が露呈するような気がして。
だけど、優日の悲しい顔はできるだけ見たくない。
「……僕は馬鹿か?」
そこまで考えて、あまりの自分勝手さに自嘲する。
浩介さんの為だと言い訳をして、離れたくないという気持ちを偽って。
それを無理矢理、優日に押し付けた。
その傲慢さ。
なんて最低な男なのだろう。
「先生?」
「……いや、もしかして僕は」
話を重くしすぎていたのではないだろうか。
確かに寂しい。離れたくない。
だけど、一年間ずっと会えないというわけではない。
もっと、ほんの少しだけ気軽に考えてもいいのではないだろうか。
「紗衣香ちゃん」
「はい?」
「僕は……謝らないといけない」
寂しさなんて分かち合えばいい。
寂しくなったら電話でいい。
どうしようも無くなったら、会えばいい。
そんな簡単なことだったのだ。
「話すよ。ちゃんと」
もともと無理だった。
離れる事を納得しようなんて。
寂しいものは寂しい。
ずっと一緒に居たいと思うのは普通のことなのだから。
だからこそ、慰め合えばいいじゃないか。
寂しいと触れ合ったっていい。
離れたくないと泣いたっていい。
その上で、少しの間の別れを待とう。
紗衣香ちゃんとの話が終わり、僕は坂上家へと足を運んでいた。
優日と話をする前に、一区切りを付けないといけないから。
父さんへの電話。
そして、同居の了承を得る。
それだけでも、かなりの勇気が必要だった。
こうしてずっと離れてしまえば、血は繋がっていても他人と同じ。
そして、そんな関係を親と子に戻そうとしているんだ。
「……なんで今更こんなことをしようと思ったんだろう」
実際、よく分からなかった。
本当に今更だと思う。
学生の時にお金のことで迷惑をかけて、でもお礼なんて一言も言わなかった。
「ありがとう、か」
こうして考えてみると、僕は酷い息子だ。
学生の頃、父さんは毎月お金を入れてくれていた。
きっと、僕のことを忘れていたなんてことは無かったのだろう。
だけど僕は……思い出そうとすらしなかった。
「自分勝手だな。僕は」
最近、そう思うことが多い。
嫌な事から逃げ続けてきたくせに、その問題に直面して戸惑うだなんて。
「だからこそ、もう逃げるわけにはいかない」
なにより、自分の為に。
片親だけど、家族がいる僕は恵まれている。
優日の一件で本当にそう思った。
だからというわけではないけれど、仲良くしないのは損な気がする。
頻繁に会う関係じゃなくていい。
ただ年に数回でいいから、少し会って一緒にお酒を飲むくらいの関係でいいんだ。
「それを目指して頑張らないと」
父さんは僕に会いたいと思ってくれているだろうか。
僕と一緒に住むことを喜んでくれるだろうか。
母さんが死んだときから、止まってしまった僕たちの関係をどう思っているのだろうか。
「いや、もう悩むのはいい」
不安は当然ある。
だけど、進むと決めた。
停滞する事は無く、進みながら悩むと決めたのだ。
とにかく今は歩こう。
「……それで、渉さんの電話番号が知りたいの?」
坂上家へ着き、柚華さんに事情を話した。
父さんのところへ行くと言ったとき、柚華さんは呆気に取られていた。
それもそうだろう。
会った方がいいと、何回も僕に勧めていたのは、他ならぬ柚華さんだったから。
「はい。柚華さんは連絡を取り合っていたと記憶していたんですが……」
「それは確かにそうだけど……もう三年前のものだから、繋がるかは分からないわよ」
それは考えていなかった。
もし繋がらなかったら、探すだけでも時間が取られてしまう。
それに見つかるかどうかの保障も無い。
結構な賭けだ。
「まぁ、掛けてみれば分かりますし。その三年前のでいいです。教えてもらえませんか?」
「いいけど、いきなりどうしたの?」
柚華さんにしてみたら当然の質問か。
「よくは分かりません。ですが、このままじゃいけないって思ったんですよ」
遅いのは理解している。
それでも、行動したいと思った。
「そう。なら頑張りなさい。前向きに行動できるようになったのは、私にとってはとても喜ばしいことだからね」
少し微笑んで、そう言った。
前向きに、か。
それはきっと、彼女のおかげだろう。
何が大切かをちゃんと分かっている優日のおかげ。
「ちょっと待ってなさい。今探してくるから」
そう言って、柚華さんは居間から出て行く。
入れ替わるように、浩司が入ってきた。
「そっか。まぁ、いい事だよな」
僕と柚華さんの話を聞いていたのだろうか、浩司は笑いながら僕の肩に手を置いた。
「どうして今更って感じもするけどな。それでもお前の親だ。仲良くするにこしたことはないぞ」
浩司は僕と同じ考えらしい。
そう。仲良くするにこしたことはない。
正真正銘、血の繋がった親子なのだから。
「それに、お前と優日ちゃんが結婚したら、どうせ会うことになるんだ。今のうちに会っといた方がいいさ」
浩司は僕と同じ考えではないらしい。
いや、まぁそういうこともありえるのか。
「くくくくっ。ちゃんと親父さんに言うんだぜ。心に決めた人がいるって。結婚を前提に付き合っているってな」
からかうような声。
すごい馬鹿にされている感があるな。
「言うよ。言います。そういうことまで話せれたらだけど」
そう遠くない将来にお嫁さんを連れて行きますっていう感じなのだろうか。
でも、一年も離れるんだ。
帰ってきたら言ってもいいのかもしれない。
優日に。
「ふふふ。そうなった場合はちゃんと呼んでよね。私も」
いきなり柚華さんが会話に入り込んでくる。
なんだろう。この絶妙な会話の入り方は。
っていうか柚華さん、あなたは今まで探し物をしていたのに、どうして話の内容が分かるんですか!
「まぁ、呼ばなきゃ呼ばないで押し掛けるけどな。そりゃもう盛大に」
「当然よね」
「……」
絶対に呼ぼう。
いや、本当にそういうことになったらだけど。
この二人が組んでしまうと、それはもう大変なことになりそうな気がする。
「柚華さん、電話番号はありましたか?」
「あ。ええ。あったわよ」
今思い出したように小さな紙を渡された。
「ありがとうございます。これで連絡が取れます」
「ええ。変わってなかったらいいわね」
「親父さんだって変わっているなら知らせてくるさ。それが無いってことは、まだ変わってないんだろうさ」
そう願いたい。
向かい合うと決めたのだから、最初から躓きたくは無いな。
「それじゃ、電話を借りますね」
診療所に帰ってからでもいいのだけど、早いに越した事は無い。
というより気になるのだ。
この番号が本当に繋がるのかどうか。
父さんと会話する戸惑いよりも、会話が出来ない不安の方が強かった。
「ええ。いいわよ。そこにあるから自由に使ってちょうだい」
「緊張して喋れないなんてことはないようにな」
「うん。努力する」
実際はそうなってしまうのかもしれない。
なにしろ、もし繋がったとしても、どんな話をしたらいいのか分からない。
いきなり住まわせてくれっていうのもおかしな話だから、何か話題でも探さないと……。
電話の前に立つ。
紙に書かれた番号を一つ一つ押していく。
その間、何も考えないようにした。
とにかく押すだけ。
そして最後の番号を押し、受話器を耳に当てる。
少しの無音の後、呼び出し音が鳴る。
一回。
……二回。
………三回。
…………四
『もしもし、上月ですが』
「っ!」
繋がった……のか?
「あ、あの……上月さんですか?」
『……? ええ。そちらは?』
分からない。
この声は父さんのものだという実感が無い。
おぼろげながらに覚えている声よりも、低く掠れた様に聞こえた。
『あの?』
いけない。不審に思っている。
父さんも僕の声なんて分からないだろうから。
「えっと……僕です。俊也です」
『俊也……?』
僕の名前を呼んだ後、父さんは暫く何も喋らなかった。
僕のことを覚えているだろうか。
僕のことをどう思っているのだろうか。
こうして会話が出来る今、父さんのことが気になって仕方がなかった。
「あの……父さん?」
今度は逆だった。
僕が父さんの反応を急かしている。
『そうか……俊也か。久しぶりだな』
「うん。久しぶり」
……会話が続かない。
いや、話したいことが多すぎるのか。
お互い今までどうしてきたのかを、互いに知りたがっている。
『もう、何年くらいになる?』
「二十年くらい、じゃないかな」
母さんが死んでそのくらいになる。
それ以来会っていないのだから、相当な時間が経っていた。
『そうか。もう、そんなになるのか……』
父さんの声は酷く寂しそうに聞こえた。
ダメだ。こんな雰囲気じゃ。
もっと話したいことが合ったはずだ。
言いたいことが合ったはずだ。
「父さん……ごめん。僕の我が儘で父さんに苦労を掛けた」
考えに考えて口から出た言葉は謝罪だった。
本当に……僕という人間はどうしてこうなのか。
それでも、きっかけを掴むために。
今は話していこう。
『我が儘? そんなのあったか?』
「ほら、医者になりたいって。お金大変だったよね?」
これは本当に僕の我が儘。
どっかで働いてそれでお金を貯めて、もっと長い時間を掛けて自分一人でやっていくべきだったのだ。
これは僕の夢なのだから。
『息子がなりたいっていうことを、止めるつもりは無かったし、そもそもそんな権利なんて無かったさ。特に母さんと一緒にいた場所から逃げた俺にはな』
言葉が出なかった。
父さんはずっと責めていたのかもしれない。自分を。
『医者になりたいって聞いたときはびっくりしたよ。母さんの死は、それだけお前に強い感情を植え付けていたんだってな』
母さんの死後、自分にはそれしかないとさえ思えた。
そして、それを目指す事が当然のように、ただただ夢の為に邁進した。
脇目を振らずに。
『俺は、自分が立ち直るためにお前を育てることを放棄して、ずっと働いていた。そうやって忘れようとした。働いてさえいれば忘れることが出来たから。俺にとって大切だった人の死を』
僕は夢を目指し続ける事で、立ち直る事が出来た。
父さんは?
働き続ける事で立ち直る事が……出来た?
『だけどな。意味が無かったんだよ。そんな気持ちで働いてお金を得て、一体なんの為に使うのかって。自分で遊ぶために使ったって虚しいだけだった。何一つ楽しくなんかない。そして虚しさや寂しさを忘れるために、結局また働いた』
「……辛かった?」
聞かなくても分かることを聞いた。
辛いのは当り前。
『そうだな、辛かった。だけどお前のおかげでその悪循環から逃れる事が出来た』
「僕の、おかげ?」
『お前の為に使えばいいって分かったからだよ。お前はずっと示してくれていた。俺が気付かなかっただけでな』
……何のために働くのか
人は目標が無ければ生きていけない。
僕の場合は自分の夢。父さんは……いや、父さんも僕の夢?
『俺にはその方法しかなかった。今更俺が育てるって出て行くのは、坂上先生にも柚華さんにも申し訳が無かったから』
「……そんなことないさ。浩介さんや柚華さんはいつだって僕に父さんと会えって言ってきていたよ」
親は大切だって、いつも言っていた。
ちゃんと話し合わないと後悔するって。
それは本当だった。
『だけどな、俺はお金の面だけはお前に苦労を掛けさせたくないと思った。だから我が儘なんて思わなかったし、逆に嬉しかった』
だけど、それを拒否し続けたのは……僕だ。
初めて父さんの本音を聞いて、自分がどれだけ子どもだったのかを痛感する。
なぜ今まで話し合おうとしなかったのか。
なぜ今まで会おうと思わなかったのか。
「……ごめん」
遅すぎた。
本当に今更過ぎたのだ。
『謝るべきなのは俺の方だと思うけどな』
受話器の奥から苦笑する声が聞こえる。
『だから、すまなかった。俺の方こそ……本当にすまなかった』
長く会っていなかった期間。
ずっと離れていた心の距離。
これから取り戻せるように。
ゆっくりとお互いのことを知っていこうと思う。
そうやって、親と子の関係を築き直していけばいい。
「父さん。お願いがあるんだけど……いいかな?」
『お願い? ああ。俺に出来る事ならなんでも言ってみろ』
だから。
その為の一歩を。
踏み出さないと……。
「今度、東京に行く事になったんだ」
踏み出さないと……いけないのに。
何故か、回りくどい言葉を選んでしまった。
『こっちに? なにか用事でもあるのか?』
「研修で。僕、こっちの診療所に勤めているんだけど、一年間だけ研修に行く事になったんだ」
まただ。
また直接的な言葉を回避している。
『そうか。なら会える機会はあるのかもな。いつからだ?』
言わなきゃダメだろ。
何を逃げているんだ。
「まだ決まってないんだ。実は住む先が決まってなくて……」
心臓が脈を打っているのが聞こえてくる。
ただ、住まわせてほしいと言うだけなのに。
こんなにも緊張している。
「父さんの所に、僕を住まわせてくれないかな?」
言った。
きっかけとなる言葉を。
僕と父さんが、親子として踏み出すための言葉を。
『……』
父さんは何も喋らない。
僕のお願いを聞いて、ずっと黙り続けている。
「いきなりでごめん。だけど、ちょうどいい機会だと思って」
沈黙に耐え切れなくなり、言葉を進める。
父さんは、僕と同じ気持ちでいてくれているのだろうか。
「……どうかな?」
ずっと黙り続けていた父さんが、苦笑しつつ、返事をする。
『正直、話が見えてこないな。東京に居るならいくらでも会う機会はあるだろう。だが、俺の家にっていうのはどうしてだ?』
困惑、というのが正しいだろう。
迷っている雰囲気が感じられた。
当然かもしれない。
今まで、他人のように暮らしてきたんだ。
「取り戻したいから。親と子の関係を。今更かもしれないけど、それが一番いいと思ったんだ」
二十年近く離れていた親子。
その関係は、一年という短い時間では決して埋まらないだろう。
だけど、何もしないよりはマシだと思う。
会うだけじゃ分からないことがたくさんあるから。
『……いいのか? 結果はどうであれ、一度はお前を見捨てた親なんだぞ』
「関係ない。僕だって父さんを見捨てた。父さんの気持ちなんて考えずに、会うことを拒否し続けた。同罪だよ。どう考えても」
父さんはまた黙ってしまう。
親は息子を見捨てた。
息子は親を顧みなかった。
「父さん。僕たちは親子だろ? どんな事があってもそれは変わらない」
『……』
だけど、親と息子は互いに謝りあったのだ。
もう遮るものなど何も無い。
「だから戻ろう。親子に」
『……そう、だな。お前がそう言ってくれているんだ。断る理由なんて何一つない』
静かな声で。
決心を固めたような声で。
迷いなど振り切って。
『やり直そう。親子を』
父さんは、そう言ってくれた。
時間は掛かるだろう。
すれ違いはたくさんあるはずだ。
それでも、僕にとって帰ることができる場所が、もう一つ増えたのだ。
それが、とても嬉しく思える。
『まずは家に招待してやらんとな。休みは取れないのか? 一度会っておこう』
そうと決まれば、なんてぐらいにどんどん話を進めていく父さん。
一度決めたことに関しては行動が早くなるのだろうか。
こんな些細なことでも、僕にとっては新鮮だった。
それから、次に会う日を決めて、その日の会話は終わった。
「渉さんはどうだった?」
受話器を置いたところで、タイミングよく柚華さんが現れた。
僕と父さんの会話を聞いていたのだろうか。
「なんていうか、こんな感じなんだなぁって感じです」
おぼろげながらにある記憶。
思い出せないけれど、それでもこの人が父さんなんだってすんなり受け入れることができたと思う。
「そう。それで、あっちには住まわせてくれるって?」
「はい。早ければ一週間後くらいには出発できます」
正確には決まっていないけど、父さんがあの調子ならばあっという間に決まる気がする。
「……寂しくなるわね」
柚華さんは、気が抜けたようなそんな表情をした。
「たった一年ですよ。少しの間です」
そう。たった一年。
そう思いこむんだ。
辛いのは今だけ。
あっちに行ってしまえば、忙しくてそんなこと考える暇さえなくなるはずだ。
「まぁ、俊也くんが東京に行ってしまうのは二回目だからね。しかも今度は一年間なのだから、そんなに寂しくなるって言ってられないわね」
一回目は大学の時。
僕は東京近辺の大学に入学したため、この町を出ていた。
その時は、柚華さんにだいぶ泣かれた気がする。
「私は送り出してやるつもりよ。私はね。でも……優日ちゃんはどうなの?」
……柚華さんにはあまり触れて欲しくないことだった。
「今度話してみようと思っています。僕はすこし強引過ぎたようだったので」
もし、僕が見ていた優日が、僕の前だからと明るく振舞っていたのだとすると。
それは間違っているから。
だからちゃんと話さないといけない。
「なにも一年間ずっと会えないってわけじゃない。電話もあるし、手紙もあるし、少し距離はあるけれど、会うことだってできる」
それを僕は悲観として捉えすぎていたのだ。
話をもっと重くしてしまった。
気軽で良かったのだ。
ちゃんと優日に話して、寂しいって言い合って良かったのだ。
「よく分からないけれど、どうやら大丈夫なようね。これで私も一段落。ずっと気に病んでいた俊也くんと渉さんの関係もどうにかなりそうだしね」
「……ご迷惑をおかけしました」
本当に頭を下げることしかできない。
「お土産話、期待しているわ。渉さんには私もしばらく会っていないし。会いたいって言っておいてね」
「分かりました」
これで、なんとか目処が立った。
たぶん一週間後には、この町を離れて東京へと行くだろう。
新しい研修先はどんなところなのか。
父さんとちゃんとやっていけるだろうか。
不安はたくさんあるけれど。
なんとか、やっていけると思う。
「それじゃ、行きますね」
「ええ。良かったわね。この調子で仲良くするのよ」
「はい」と返事をして、坂上家を出る。
そして、優日のアパートへと歩き出した。
僕はまだ知らない。
すでにどれだけ遅かったのかということを。
こうして、色んなものを見落として、見逃して、後になって思い知るのだ。
こんなことを今さら分かったって、気付いたってどうしようもないと。
そして、後悔する。
何故この時に気付くことが出来なかったのかと。