今日、浩介さんが帰ってきました。
 私は一週間前から知っていたので、気持ちとしては落ち着いていました。
 そわそわするということもなく。
 先生のように、直前に知らされて気持ちの整理が付かない、なんてこともありませんでした。

 お昼頃、浩介さんは穂波診療所を訪れました。
 再会の挨拶もそこそこに。
 私は、これまでにあった出来事を全て浩介さんにお話しました。
 事故のこと、私の両親が亡くなったこと、姉さんが記憶障害に掛かったこと。
 全てです。
 浩介さんは静かに私の話を聞いてくれました。
 そして全部聞き終わったあと、優しい手で私の頭を撫で、「お疲れさま」と一言こぼしました。

 その言葉を聞いて、少しだけ涙が出てきました。
 私の中で、ようやく終わったのかもしれません。
 お母さんのこと、お父さんのこと、姉さんのこと、先生のこと。
 他にも色々あったあの日々のことを、思い出としてしまい込んでしまえるのではないかと、そう思えます。

 浩介さんも、自分が経験してきたことを、本当に嬉しそうに私に話してくれました。
 そしてその話の最後に、隣町の医療大学に誘われていること、その誘いに乗ろうと思っていると、おっしゃいました。

 その話を聞いて、私は止める気はありませんでした。
 私にはそういう権利はありませんし、後押しをするのが私の役割だと思いましたから。
 それに、浩介さんと連絡を取っていた時、よくあちらのお話は聞いていました。
 その時の浩介さんはとても満ち足りた声で、楽しそうでした。
 だから、特別驚くこともありませんでしたし、理由を聞こうとも思いませんでした。
 浩介さんにはそれが合っていると思いましたから。

 たとえ、先生が診療所を継ぐ事になったとしても、私はついて行くだけです。
 私はそういうふうに決めていたのですから。
 隣にいれないのなら、せめて――。

8月18日

 

「昔語(十三)〜皆の言葉と決断と」

 

「俊也さん。大丈夫ですか」

 浩介さんとの話が終わり、診療所へと戻ってきて、開口一番がそれだった。
 優日の気遣うような優しい声。
 どうやら僕は目に見えるほどに動揺しているみたいだ。
 ……当然か。
 あれだけ浩介さんの家で騒いだんだ。
 まだ、気持ちが落ち着いてこない。

「ちょっと、大丈夫じゃないかな」

 分かっている。
 僕は駄々をこねている子どものようなものだ。
 浩介さんが離れて行ってしまうのが嫌で。
 ただ、騒いでいただけ。
 僕にそんな権利なんてないのに「辞めないでほしい」と懇願していた。

「あの、どうしてですか? 浩介さんは素晴らしいことをしようとしています。俊也さんも言い方悪いかもしれませんが、出世のようなものなのでは?」

 その通りだ。
 浩介さんは、医者の卵に自分の医療の全てを教えに行くのだ。
 誰かを救う事が出来る人を、増やすために。
 そして僕は院長に昇進する。二十五歳という若さで。
 それは珍しいなんてものじゃない。

「情けない限りだよ。僕はどうやら……親離れが出来ないらしい」

 要はそういうことなんだろう。
 僕に医療を教えてくれた人は浩介さん。
 先生が僕の近くから離れて行ってしまう……それだけが不安なのだ。
 僕に出来る事はたかが知れている。
 浩介さんの方が腕はいいし、正確だ。
 だからこそ、僕なんかに任せられるのが怖いのだ。

「親離れ……。ですけど俊也さんだって、いつかは診療所を継ぎたいって思っていたんじゃないんですか?」
「そうだけど……僕はまだ二十五だ。こんな若造が一人で、この町の人たちを全て診る。そんな責任、僕は背負いきれない」

 情けない。
 怖い。
 責任が自分に圧し掛かってくるかと思うと、どうしようもないほどに。

「でも、俊也さん一人ではありませんよ。私の妹はそんなに頼りないですか?」

 いたずらっ子のように笑う優日。
 そうだ。僕は一人じゃない。
 紗衣香ちゃんがちゃんと僕をサポートしてくれるはずだ。
 だけど……。

「分かってる。紗衣香ちゃんは信頼しているよ。でも彼女は看護士で、僕は医者だ」

 決断下すのは僕。
 どうしてだろう。
 今まで当然のように出来ていたことが、不安に思える。
 全てに自信がなくなっていく。
 それでも、僕に浩介さんを止める力なんてない、資格もない。
 なら僕は、決心しないといけないのだろう。

「ごめん。なんでもない。とにかく僕がちゃんとしなくちゃいけないんだ。それで済む話だ」
「えっと……浩介さんと、もう一度話してみたらいかがですか?」

 優日は僕の前にしゃがみこんだ。
 そして、手を重ねる。
 僕がこれ以上混乱しないように、導くように提案をしてくれている。
 包んでいてくれているのは手だけなのに、全身を優しく抱き締められている感じがした。

「うん。そうだね。落ち着いて、よく話してみるよ」

 これは僕の問題。
 これ以上優日に心配は掛けられない。

「それじゃ、私は紗衣香ちゃんの所に……こほっ……ごほっ」

 突然、優日は咳をしだした。
 それもすぐ終わるものではなく、数回に及んでいた。
 口を押さえ、身体をくの字に曲げている。

「優日、大丈夫か?」

 ここまで顕著に喘息が現れた所は見たことがなかった。
 近寄ろうとしたけど、優日は僕を手で制する。
 心配はしなくていい、という意味なのだろう。

「こほっ……こほっ……慣れて…ごほっ…いますから」

 優日はポケットからノズルが下についた道具を取り出す。
 吸入薬、というもの。
 それを口に持っていき、目を閉じて呼吸をする。
 その間にも咳はやってきていたが、静かに落ち着いて呼吸をする。
 やがて咳は収まり、苦しい感じが見られなくなった。

「はい。もう大丈夫です」

 最後にゆっくりと深呼吸をして、優日は笑った。

「どうしたんだ? 今までこんなに苦しそうな場面は見たことがなかったんだけど」
「そうですね。俊也さんの前では初めてかもしれないです。最近はこんな感じなんです。今までが逆に不思議なくらいで」

 確か、紗衣香ちゃんもそんなことを言っていた気がする。
 最近は収まっていたって。
 何が理由かは分からないけれど、優日は調子が悪くなっている。
 なら余計に、無用な心配はさけないと。

「俊也さん?」

 僕が考え込んでいたからか、いつも間にか優日が顔を覗き込んでいた。
 優日の瞳には僕しか映っておらず、こんなに顔を近づけるのもひさびさだった。
 キスをしたい衝動に駆られる。けど脈絡もなくそんなことは出来ない、と押しとどめた。

「いや、なんでもないよ。でも、あんまり酷いようだとちゃんと病院に行ってきたほうがいい。って医者の僕が言うのもなんだけどね」

 本当は自分が診てあげれたら一番いいのだろうけど、分類が違う。
 僕は外科の人間、風邪程度は診ることが出来るけど、内科の方は詳しくない。

「心配しなくても大丈夫ですよ。こんなのはいつものことですから」
「いいから。言うこと聞く」

 僕からは何も出来ない。
 なら、こういう心配しか出来ないのだ。
 だから素直に聞いてほしい。

 懇願するような僕の視線に、優日は少し驚いたようだった。
 そしてくすっと笑い、そのまま顔を近づけてきた。

「ん……」

 別に避ける必要も無かった。
 したいと思っていたのは僕も一緒だったのだから。
 でも、抑えた僕と抑えなかった優日。
 この関係はいいのだろうか。
 なんだか微妙な気分。

「ありがとうございます。私が酷いなって感じたら行きますから。安心してください」

 そうして、顔を赤くしながら笑ってくれた。
 その仕草も、可愛いすぎて僕は反応に困ってしまう。
 どうしても、もう一度してみたくなるから。

「まぁ……いいか」

 深く考えないようにしよう。
 愛したいと思ったら愛せばいいのだ。
 僕達は恋人同士。互いに想い合っているのだから。
 気持ちを確かめる行為は必要だと思う。
 そりゃ時と場所は考えなくてはいけないけれど、こうやって二人きりの時は抑える必要なんかない。

「優日」

 小さく彼女の名前を呼ぶ。
 自分の前に座らせ、同じ高さになった彼女の頭を自分の方へと引き寄せた。
 そして、キスをする。

「どうしたんですか? いきなり」
「優日には言われたくないな。したくなったからした。それだけだよ」
「ふふっ。そうですね」

 優日はまた自分から顔を近づけて、キスをしてきた。
 三回目。
 そして、そのまま僕の胸に顔を埋める。

「こういうの最近なかったんで、ちょっと寂しかったんです。だから咳も出ているのかもしれませんね」

 そう言って、いたずらっ子のように無邪気に笑った。
 ホント、そんな理由ならどれだけ安心できるか。
 でも、今はただこの触れ合いを大切にしよう。

 

 次の日。
 今日は紗衣香ちゃんが朝食を作ってくれた。
 優日はなんというか、朝まではいたのだが、支度をすると言って自分の家へ帰っていった。

「先生。院長先生から聞きました。先生のこと」
「紗衣香ちゃんとしてはどう? 賛成? 反対?」

 僕の前。
 紗衣香ちゃんは特に表情を変えるでもなく、お味噌汁をすする。
 そして、ゆっくりと息を吐き。

「私には何の権限もありませんから。診療所をやめるつもりもないですし、先生が院長になったとしても私の仕事は変わりありません」

 落ち着いて、冷静に、自分の立場をわきまえた。
 とても紗衣香ちゃんらしい答えだった。

「だけど、もし僕が責任者になれば、迷惑を掛けることになると思う」
「そうですね。今は実感が無いだけで、とても苦労する事になるかもしれません」

 そう。どんな負担を紗衣香ちゃんに掛けてしまうか、分からない。
 もっと色んな事を知ってからでもいいんじゃないだろうか。
 そんなことがずっと頭を掠めている。

「ですけど、私は所詮ここに勤めさせてもらっている身の人間です。院長である浩介さんがそうしたいと仰っているのなら、私には止める権利はありません」

 それは僕も同じだ。
 確かに、浩介さんがやろうとしていることは凄いことだと思う。
 次の世代の育成。
 これから僕の後輩になるであろう人間達に、自分が得てきたものを全て教えて、そしてまだ見ぬ患者の為に貢献してほしいという思い。
 それは決して間違いなんかじゃなく、むしろとても良い事だ。

「遅かれ早かれこうなってしまうのなら、覚悟を決めてしまってもいいんじゃないでしょうか?」

 いつかはいなくなってしまう。
 いつまでも同じ場所に居るわけが無い。
 それが少し早まっただけというのは理解してる。

「以上が、私の意見です。あとは先生次第ですよ。私はついて行くだけですから」

 信頼しきった目。
 まるで親に寄せるような、そんな無条件の信頼。

「分かった。もう少し時間が掛かるかもしれないけど、待っていてほしい」

「はい」と頷く。
 時間はまだある。
 ゆっくりと答えを出そう。

「……それにしても、昨日姉さんが泊まっていきませんでしたか? 先生のお部屋に」
「え?」

 信頼しきった目が、一瞬光ったように見えたのはなんだろうか。

「いえ。声がしたものですから。少し気になりまして」

 やばい。小悪魔モードに切り替わってる。

「あ、い、いや……確かに泊まっていったけど……」

 何もしてない。
 いや、ホントに。

「別に隠さなくていいんですよ? 姉さんと先生は恋人同士なのですから」
「いや。何も無かったんだってば!」

 だいいち、目の前であんなに苦しそうにしていた直後に、そんなことが出来るわけない。

「まぁ、そうでしょうね。そんな物音しませんでしたし」
「……」

 今、すごい言葉を聞いたような……。
 
「あ、あははは。信じてくれてなにより」

 き、気にしないでおこう。
 追求するとこっちのダメージが深くなる。

「それでは、学校には浩司さんもいらっしゃいますし、相談してみたらいかがですか?」
「返ってくる言葉は予想できるけどね」

 うじうじ悩むな。
 そんなことは知らない。
 そんな感じの言葉だろう。

 時計を見てみる。
 時間は八時を過ぎていた。
 まだ少し早いかもしれないけれど、悪い事はないだろう。

「それじゃ、そろそろ行くよ」

 外は晴れ。
 真っ青で雲ひとつ無い空。
 この空には悩みが無いのだろうか。
 僕の心は曇っていて、普段見えている青空なんて見えなかった。、
 悩めば悩むほど、心は曇っていく。覆われていく。
 だけど、足を止めるわけには行かないのだ。

 

「そんなこと知るかよ」
「……」

 時間は流れて、昼。
 浩司は暇だったのか、保健室に来て、いきなりそんなことを言い出した。

「……え?」
「いやだから、そんなこと知るかよ」

 何を言っているんだろう、この体育教師は。

「どうかしたんですか?」

 僕が哀れんだ目で見ていると、優日が助け舟を出してくれる。
 とりあえず、なんでこんなことを言い出したのか理由を知りたい。

「なんとなく、そんな顔してたから言ってみた」

 さらに理解不能だった。

「まぁ、先に言われたと思えばいいか。浩司はどう思ってる? 浩介さんのこと」

 意見を聞きたい。
 その上で答えを出したかった。

「そうだな……親父のやりたいことをさせてやればいいんじゃないか? それをサポートしてやるのが家族ってもんだ。止める気なんてさらさらないぜ?」

 思ったより、まともな答えが帰ってきた。
 ちゃんと考えていたんだ。浩司も。

「俺よりお前はどうなんだ? さんざん家で喚(わめ)き散らしておいて、まだ覚悟が決まってませんとか言うんじゃないだろうな?」
「う……」

 その通りだった。

「俊也さんは今、その覚悟を決めている最中なんです。昨日の今日なんですから、仕方がないですよ」
「……ちっ。甘やかすのは良くないぜ。なぁ、俊也。自分が一番分かってんだろ? お前がしていることがどんなに幼稚か」
「……」

 そうだ。
 元から反対なんてする気はない。
 ただ、どうしていいか分からないだけ。
 未来にある漠然とした不安に耐えきれないだけ。
 だから、駄々をこねているにすぎないのだ。僕の行動は。

「もう少し親父の気持ちを汲み取ってやれ。別に他のヤツに任せる事だって出来るんだぜ? むしろそれをするのが普通だ。だけど、それでもお前に継いでほしいって言ってるんだ」
「……分かってる」
「だったらうじうじ悩むな。見ていて腹が立つ」

 浩介さんにとって、穂波診療所とは答え。
 大切な人を失い、たくさんの人を救い、たくさんの救えない人を見てきて、そして得た答えの一つ
 そして、たくさんの患者さんたちの想いが宿る場所。
 その全てを、僕に背負ってほしいと言ってくれている。
 そんな大事なものを、全て。

「重い……それは、すごく重いんだよ」

 押し潰されそうになる。
 責任という文字に。
 果たして僕に、あの診療所を守るだけの力があるだろうか?
 そんなの……あるわけない。

「それが、人の上に立つってことだろ」

 穂波診療所の一番偉い人。決定権を所持している役職。
 だから、僕が守っていかないといけない。
 僕以外に守れる人間はいなくなるのだから。

「お前は自分を追い込みすぎなんだよ。いいじゃねーか。何もお前にあの診療所をでっかくしろって言ってるわけじゃない。今までどおりでいいんだ」
「……今までどおり?」
「町の人間を診て、ガキどもを診て、それで怪我してたら手当てしてやって、悪いところがあったら薬を出してお大事に〜って帰ってもらって、お前がしてきたのはそういうことだろ?」

 確かに、そういうことだった。
 特別なことなんて何もない。
 僕は僕なりに、患者さんの為に努力してきた。
 だけど、それだけではないのが穂波診療所なんだ。

「……でも、診療所はサナトリウムでもある。本当に時々だけど、そういう患者さんだって来るんだ。そんな時、どうしたらいいかなんて……僕には分からない」
「はぁ? そんなの誰にも分からねーだろ」

 ばっさりと、なんだか当り前のことを言われた気がした。

「あの俊也さん。私は実際に会ったことがないから、よくは分かりませんけど……そういうのって一人一人違うもので、正解なんてないんじゃないでしょうか?」

 今までずっと黙っていた優日が、おずおずと僕に話しかける。

「優日ちゃんの言うとおり。お前さ、今悩むんじゃなくてそういう時に悩めよ。そしてお前が考えられる中で最高の仕事をすればいい」
「あ……そう、か」

 なんて当り前のこと。
 僕の心なかで見えなかった青空が、少しだけ見えた気がした。
 こんなの曇ってて当然じゃないか。
 僕は今まで何をしてきたのか。

「まぁ、こういうふうに言ってやればこいつも少しはマシになるさ。優日ちゃんは甘やかし過ぎ。言ってやらないといけない時に言わないでどうするんだ?」
「でも私は俊也さんを信じていましたし、こういうことは自分で決めた方がいいのかと……」

 優日の言葉を聞いて、浩司は苦笑した。
 どうしようもないか、とそんな感じに。

「こいつ、大事な事柄だけはとことん悩んで深みに嵌(はま)るんだよ。だからキリがいい所で頭を整理してやらないといけない。そういうヤツが近くに居ないとダメなんだよ」

 ははは……さすがは浩司。
 付き合いの長さは伊達じゃないか。

「まぁ、直に分かるようになるさ。なんたって一番近くに居る人だからな。優日ちゃんは」
「はい……」

 優日の返事は少し暗かった。
 分からなかったことが悔しいのだろうか。
 そんなの、こっちがちゃんとすればいいだけの話なのに。
 ……くそ。
 僕は何をしているんだ。

「……優日。帰りに付き合ってくれないかな?」

 悩む必要なんてない。
 皆からさんざん背中を押されたじゃないか。
 これ以上悩む必要なんて無い。

「え、はい。いいですけど、どこかに行くんですか?」
「浩司の家。浩介さんと話をしに行く」

 不安はある。
 だけどそれ以上に、気持ちを見せないと。
 昨日は騒いだだけで終わってしまったから。
 冷静に。冷静に。

 

 放課後。
 浩司さんの家へと続く道を、優日と一緒に歩いていた。
 昨日の巻き戻しのように、手を繋いで。
 もう八月。残暑というのか、まだまだ暑い日は続いていた。
 手の平の間は、当然のように汗を掻いている。
 それでも、どちらも離す気なんてなかった。

「あの、俊也さん。浩司さんが言ったことですけど……私、力になれなかったみたいで」

 そんな気持ちを抱かせる僕がいけないというのに。
 優日がすまなそうな顔をしている。
 ……くそ。
 全部、僕が悪い。

「違うよ。僕がちゃんとしていれば良かったんだ。優日が後悔することなんて一つもない」
「ですけど、私は俊也さんの恋人です。そういうことでサポートしたいって思うのはいけませんか?」
「いや……そういうわけじゃないけど」

 今回の件に関して、やっぱり浩司が凄いのだと思う。
 長年の付き合いだからこそ分かるのか。
 心の機微というものを、浩司は敏感に感じ取ってしまう。

「私は俊也さんのことを全然知らないんだなって痛いくらいに分かりました。本当に……情けないです」
「ありがとう。でも、お互い様だよ。僕だって優日のことを分からない時はある。まだ出会って一年も経ってないんだ。だから、時間を掛けて二人で分かり合っていこう?」

 例えば、優日の本当の両親のこと。
 ここに来る前に何をしていたのか。
 学生の頃のこと。
 優日の癖。
 どんなことが好きなのか。
 どんなものが好きなのか。
 まだまだ知らない事がたくさんあった。

「……はい」

 握る手に力を込めて。
 優日は、小さく頷いた。

 

 浩介さんの家の前。
 インターホンを押すと、柚華さんが出迎えてくれた。

「今日来るかもしれないとは思ったけど、まさか二人でとはね……結婚のお願いでもしに行くの?」

 どうしてそうなるのか。

「まぁ、これを機会に身を固めるのもいいんじゃないかしら。私としては大歓迎よ」
「まだ早いですよ」

 何しろ本格的に付き合いだして三ヶ月。
 別れる気なんて毛頭ないけど、それでも早すぎる気がする。
 って、そんな話をしに来たわけじゃない!

「浩介さん居ますか?」
「いるわよ。奥でちょっと……ね」

 ちょっとの後に続く言葉はなんだろうか。
 とても気になる。

「優日ちゃんは私と話してよっか? 男二人で話させた方がいいと思うし」
「あ、はい。分かりました」

 そうして、すっと僕から手を離す優日。
 ……なんだかちょっと寂しい気分になった。

「ふふっ。俊也くん? あからさまに物欲しそうな顔しないの」
「俊也さん?」
「あ、あぁ、いや。なんでもないなんでもない」

 なんか、最近の自分はよっぽど顔に心情を出しているみたいだ。
 気をつけないと。

「それじゃ、行ってきます」
「あ、俊也くん。浩介さんのお話をちゃんと聞いてあげてね。そしてその上で答えを出して。このお話は強制ではないのだから」

 柚華さんにはもう全てを話しているのだろう。
 当然か。夫婦だもんな。

「……はい。ありがとうございます」

 浩介さんの部屋へと歩いていく。
 今日は色々な人に僕の話を聞いてもらった。僕の悩みを聞いてもらった。
 そして僕は、ちゃんと話さなきゃいけない人物の元へと行く。
 入ったらなんて言おう。
 まず謝ることが先だろうか。

 部屋の前。ノックする。

「はい」

 低く落ち着いた浩介さんの声が聞こえた。

「失礼します」

 ドアを開ける。
 浩介さんは机に向かっていた身体をこちらに向け、僕の方を見た。

「あ、あの……」

 浩司さんはじっと僕を見ている。
 怒っているのだろうか。
 当然か。
 僕は話をほとんど聞かないまま、ここを出て行ったんだ。
 謝らないと……。

「すみませんでした!」「ごめん」

 僕が頭を下げた直後。
 同じ様な言葉が僕に投げ掛けられた。

「……え?」

 ごめんって……どうして?

「本当はもう少し後でもよかったんじゃないかって、柚華に言われてね。昨日、俊也くんはだいぶ混乱していたみたいだし」
「……すみませんでした。僕が子ども過ぎたんです」

 こんなにもたくさんの人に迷惑をかけて、心配をかけて。
 いい年して、駄々をこねて。
 本当に何をしているんだろう。

「いや。もともとは私の我が儘なのだから」

 浩介さんの行動はとても誠実だ。
 自分勝手なんかじゃない。
 そういうことをしていいかどうか。ちゃんと周りに聞いている。
 そして、全員の納得と同意を得ることが出来たら、行動しようとしている。
 これの、どこが我が儘なものか。

「浩介さん。詳しくお話を聞かせてもらえますか?」

 覚悟はしてきた。
 だから詳しく聞こうと思う。
 あの時は、本当に少しの事しか聞いていないから。

「あぁ。えっと……どこまで話しただろうか?」
「僕が覚えているのは、隣町で教師をしないかという誘いが来ているという所までです」

「そうか」とゆっくりと息を吸い、浩介さんは膝の上に手を置き、姿勢を正した。
 浩介さんが真剣な話をする時の、いつもの姿勢。

「私はね。その誘いに乗ろうと思っているんだ」
「理由を、聞いてもいいですか?」

 僕はただ、冷静に聞くだけ。
 最終的な決断を、全て僕に任せてくれている皆の為に。
 そしてなによりも、こんな僕を評価してくれている、浩介さんの為に。

「今回のことで私はたくさんのことを学んできた。そして、俊也くんみたいにだんだんと成長していく生徒の姿を見ていると、とても嬉しくてね」
「僕みたいに、ですか?」
「私の一番弟子だからね、俊也くんは。最初なにをどう教えたらいいのか、まったく分からなかった。けど教える側、教えられる側、それぞれが色々なことを学んできた。そして俊也くんはこんなにも立派に成長してくれた」

 立派、なんかじゃない。
 それは自分で痛いほどに理解してる。

「私はね。自分の力に限界を感じていた。これ以上成長する事はきっとないと思う」
「そんなことないですよ」

 はっきりと、否定の言葉を口にした。
 浩介さんは少し驚いて、苦笑する。

「ありがとう。だけどね? 今まで得てきたもの、見てきたもの、学んできたものを、次の世代に教えていくのもいいんじゃないかと、今はそう思っているんだよ」

 そう思わせたのは、心配しないで行って来てくださいと送り出した、僕たちだ。
 出張先で得てきたものは、浩介さんにとって素晴らしいものだったのだろう。

「浩介さんって。本当に立派な人ですよね」

 自分一人の力で診療所を建て、それは普通とは違った特殊な場所だったけど、一人で切り盛りした。
 そして、次の自分の目標を見つけた。
 どうしてこの人は、こんなにも尊敬できる人なのだろうか。

「そんなことないよ。君がこんなにも悩んでいるのに、君に対して受け取ってほしいと我が儘を言っている」
「……そんな大事なものを、僕に預けていいんですか?」

 浩介さんが生きてきて得た答えの一つ。
 それが穂波診療所。
 もちろんそれだけじゃない。
 その診療所の中で、今までいろんな人が生きてきて、そして亡くなった。
 そんな人たちの思いが宿る場所。

「君だからこそ、任せたいと思った。この場所を誰よりも大切に思ってくれている君だからこそ」
「……っ」

 なんてありがたい言葉なのだろう。
 そんなに信頼を置いてくれている人に対して、僕はなんて応えたらいいのだろう。
 決まってる。
 その人の望むとおりに、してあげればいい。
 なんだ。分かってるじゃないか、僕は。
 悩むのはその後でいい。
 それよりもまず、安心させてやるべきじゃないか。

「わかりました。浩介さんの後を継がさせてもらいます」

 浩介さんの目を見ながら言った。
 逸らさずに、真っ直ぐと。
 それが、浩介さんの“誠意”に対する応え。

「……うん。ありがとう」

 その言葉は達成感に満ちていて。
 この人の診療所への思いが、たった今、僕に受け継がれたんだとそう思った。

「本当に……本当にありがとう」

 嬉しそうに顔を綻ばせて喜ぶ浩介さん。
 それだけで、僕の選択は正しかったんだと分かる。

「まだまだ未熟すぎて、どうすればいいのか分かりませんけど、浩介さんが行ってしまうまでの間に、色々なことを教えてほしいです」

 色々なことを覚えていけば、きっと自信だって付いてくる。
 今はまだ悩む時じゃない。
 立ち止まって悩むのではなく、歩き始めてから悩めばいい。
 それはきっと、大きな違いだから。

「うん。それで、一つ提案があるんだ」
「提案、ですか?」
「東京に行ってみる気はないかい?」

 ……東京?
 どうしてそんな話が今出てくるのだろう。
 要領を得ない。

「そうだね。簡単に言うと、東京に行って勉強をしてみる気はないかい?」
「えっと、よく分からないんですが……どうして今なんですか?」

 分からない。
 色々なことを教えてもらうと言ったばかりなのに、どうして他所の土地が出てくるのか。

「今だからこそというか、私がここを離れるまでもう少し時間はある。色々とやることがあるからね。だから、その間に研修のようなものしてほしいんだ」

 ようやく話が繋がった。
 僕がここを継ぐ前に、最後の勉強をしてこいと言っているのか。

「行けと言うなら行きますが、どれくらいの期間なんですか?」
「今考えているのは一年くらいかな」

 ……一年?

「えっと、浩介さんはいつあちらに移る気なんですか?」
「その研修が終わって、君に色々と教えてから、かな」

 どういうことだ?
 そんなに東京に行くことが大切だというのだろうか。

「詳しく聞かせてもらっていいですか?」
「そうだね。東京に私の友人が開いている病院があるんだ。そこに行って研修をしてきてほしいんだよ。信頼できる人だし、学べる事がたくさんあると思う」

 いけない。
 いきなり話が展開しすぎて、よく分からなくなってきた。
 冷静に、冷静に。落ち着くんだ。

「何度も言うように、行けと言うのなら行きます。ただ……」

 ふと、優日の笑顔がよぎった。
 僕の大好きな、あの優しい笑顔が。

「……」

 少しの間離れるだけ。
 それに仕事だ。
 そんな女々しい理由で、何を先伸ばそうとしているのか。

「いえ、なんでもありません。いつぐらいから行きますか?」
「もしかして、優日ちゃんかな?」
「……」

 簡単に見破られてしまった。
 そんなに分かりやすい顔をしていたのだろうか。

「いえ、大丈夫ですよ。優日なら分かってくれると思いますし。なにより、僕が我慢すればいいだけですから」

 会えなくなるのは嫌だ。
 だけど、これは仕事。
 それに浩司さんを安心させるため。
 私情を挟んでなんかいられない。

「そんなことないさ。よく話し合ってみるといい。まだ時間はあるのだから」

 だめです。浩介さん。
 そんなことをしてしまうと、ただ離れづらくするだけで。
 寂しさを上乗せしてしまう行為になってしまう。
 一年。たった一年なんだ。

「いえ。ただ事実を言うだけです。もう弱気なことは言ってられません」

 話して、理解してもらうだけ。
 それだけだから。
 優日ならきっと納得してくれる。

「まぁ、君がそれでいいというのならいいんだけど……じゃあ、段取りが出来たら教えてくれ。あっちにもそう言っておくから」
「わかりました」

 礼をし、部屋を出て行く。
 これで、僕は歩き出せたのだ。
 不安はある。自信だってない。
 だけど無理矢理にでも歩き出してしまえば、きっと考える時間なんてなく過ぎていくだろう。
 そして僕はいつのまにか、あの診療所の院長に相応しい人物になっているはず。
 変化を怖がらずに、それを仕方のないものと受け入れて。
 その先に、成長した僕がいることを信じよう。

 

「優日、帰ろうか」

 リビングに出てみると、柚華さんと優日がお茶をしていた。
 二人の話は進んでいるらしく、中央に合ったと思われるお茶請けは、もう袋だけになっていた。
 そんなに長い間話していたのだろうか。

「どう……なりましたか?」

 優日が心配そうに問い掛けてくる。
 そうだ。結果を話さないと。

「うん。帰りにでも話そう」
「そうしなさいな。一通りは聞いたのでしょう?」

 柚華さんはもう聞いているのだろう。
 寂しそうな表情を隠さないで、僕を見つめてくる。

「ええ。行こうとは思っています。それが浩介さんの願いですから」
「あの人、詳しく教えてくれなくてね。でも俊也くんにはそれがいいだろうって聞かないのよ」

 東京、か。
 確か父さんがいるはずだ。
 あの人には母さんが死んで以来、会ったことがない。
 そろそろ、けじめをつけるべきなのだろうか。

「俊也さん? 行くって何処にですか?」

 先ほどの心配そうな顔に、さらに不安が上乗せれていた。
 話さないと。

「それじゃ、柚華さん。失礼します」
「ええ。決意が固まったらまたいらっしゃい」
「と、俊也さん?」

 戸惑う優日の手を引いて、坂上家を後にする。
 そのまま手を繋ぎ、優日のアパートへと歩き出した。
 僕の顔色を伺う優日。
 でも、僕は話し出すきっかけが掴めず、ただ無言でいた。

「俊也さん……? 何か言いづらいことなんですか?」

 沈黙に耐え切れなくなったのか、優日はおずおずと切り出した。

「あ、いや……そうだね。けっこう」
「それは、浩介さんのお話に関係があるのですよね?」
「うん。浩介さんと話をして、僕は診療所を継ぐことを決めたんだ」

 優日に分かりやすいように。
 だけど、事実だけをゆっくりと伝える。
 決して僕の気持ちが表に出ないように。

「そうなんですか。おめでとうございます」

 少々的外れな気がするけど、優日は僕の出世を祝ってくれた。

「ありがとう。それで、浩介さんから最後の研修ということで、東京に行くことを進められた」
「……え?」
「そして、僕はそれを受け入れた」

 無言。
 僕はもう喋る気はなかった。
 これ以上言葉に出してしまうと、僕の気持ちが吐き出てしまう。

「あ、あの……えっと……期間は、どのくらいでしょうか?」
「一年」

 その言葉を言った瞬間、僕の横から、彼女の気配が消えた。
 後ろを振り返る。
 優日は下を向いたまま立ち止まっている。

「その間は……会うことは出来ないのですか?」
「なんとも言えないけど、たぶん」
「……っ」

 遠目から見ても、優日はショックを受けていることが分かった。
 当然だ。
 僕だって、そうなんだから。

「……寂しく…………なりますね」

 本当に、寂しそうな声で、そう言ってきた。

「でも、仕事だから」
「……はい」

 それで打ち切る。
 このお話は、もうこれで終わり。
 僕は行くことを決意し、優日はここで待っているという決意をさせる。
 たとえ双方が寂しいと、離れたくないと思っていても。
 これは浩介さんの願いなのだから。
 そんな自分勝手な思いで、それを壊すことなんて出来ない。

 それからどちらも話すことはなく。
 僕は優日を部屋まで送り、そのまま帰路へと着いた。

 

 彼女の性格を分かっているはずだった。
 優日は僕の負担になりたくないから、心配をさせたくないから、この時を境に、色々なことを隠し始めた。
 それが表に出て、目に見えるようになって、僕が気付いた時には……もうどうしようもないくらいに遅かった。
 だからきっと僕の決断は、この時から間違えはじめていたのだろう。







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