あの頃は、相手を大切に思えば、全ては良い方向へと向かう。
 そう思っていた。
 なんて浅はかだったのだろう。
 まだ知らなかったのだ。
 相手を思い遣るからこそ、優しくするからこそ、泥沼にはまってしまうことがあるのだと。

 どちらも相手の事を愛しているのに、別れなければならない。
 それを選択したくないのに、それが正しいと感じてしまう。

 あの時の僕と優日は、まさにそんな泥沼に溺れていたのだ。
 互いが互いを大切に思いすぎて、別離という道を選んでしまった。
 それが間違っていたのか、正しかったのか、今でもよく分からなかった。
 確かに僕は後悔をした。一緒に居てあげられなかった自分を、心底恨んだ。
 だけど、間違っていたとも思えないのだ。
 あの場所での出会いも、あの時間でしか得られなかったものも全てが大事だと思うから。
 僕はそれを否定したくはなかった。

 さぁ、そろそろ話そうか。
 一つの大きな大きな終わりの物語を。
 そして、始まりへと続く物語を。







「…也さ……、俊也さ…………」

 声が聞こえる。
 優しい声。
 愛しい声。
 まどろみの中から、包み込むように聞こえてくる。

「俊也さん……俊也さん」

 僕がこの世界で最も大切な人の声。
 まるで、子守唄のよう。
 このまま、夢の中へと吸い込まれていきそうだ。

「起きてください。朝ですよ」

 カーテンを開く音。
 瞬間、強烈な白い光が僕に突き刺さる。

「……っ眩しい」
「今日は、院長さんが帰ってくるんですよね。早く起きて出迎えてあげましょうっ」

 朝の光に負けないくらいに明るい声が、僕を呼んでいる。
 院長がなんだというのだろう。
 院長と言えば……浩介さん、いつ帰ってくるのかな。

「ほら、起きてくださいってば。朝食冷めちゃいますよ?」

 優日が学校に行く前に、ここに寄ってくれるようになってから、いつの間にか優日が朝食担当になっていた。
 いつもは紗衣香ちゃんが用意してくれるのだけれど、優日が作りたがったのだ。
 「花嫁修業ですから」とか言っていた気がするけど、恥ずかしいから聞かなかった事にしておく。
 そうしてそれがずっと続き、いつの間にか優日の朝の仕事になっていた。

「俊也さんっ! 起きてくださいってば」

 声質が優しい声から少し厳しい感じに変わる。
 そろそろ本気モードで起しに来るな。
 もう少し優日の声を聞いて、まどろんで居たかったけど……仕方がない。

「ん……おはよう。優日」

 身体を起こし、窓際に立っている人に声を掛けた。
 くるりと振り返える。
 その瞬間、彼女の身体は光に包まれて、触れてはいけないような神々しさを感じた。
 ……綺麗だな、と本当にそう思う。

「どうかしましたか?」

 って、朝から何を考えているんだろう、僕は。

「いや。なんでもないよ」
「そうですか? じっと見ていたから何かあったのかと」

 「それは君に魅入っていたからだよ」とか言ってしまったらどうなるんだろう?
 そんな歯が浮くようなセリフ言えるわけがない。
 そもそも僕のキャラじゃないし。

「そういえば、さっき院長がどうこう言ってなかった?」

 なんか言っていた気がする。
 半分夢の中に居たので、はっきりと思い出せない。

「院長さんが帰ってくるって言いましたけど……それがどうかしましたか?」
「へぇー浩介さんが帰って……くる?」

 浩介さんって……ここの院長の浩介さんだよな?
 それ以外に知らないし。
 ……帰ってくる? 誰が? 浩介さんが?

「え……あ、あの……もしかして……」

 優日が僕の表情で察したのか、気まずそうに口を開く。
 初耳だ。
 聞いてない。
 今日までの色々な人たちの会話を思い出してみても、浩介さんが帰ってくるっていうような大ニュースを聞かされた覚えがない。

「い、いつ? いつ帰ってくるの?」
「えっと……今日のお昼ぐら」
「昼ぐらいになるって言ってたわ」
「!!」

 いつの間にか会話に入り込んできた女性。
 話題の中心の人物の妻である、坂上 柚華さん。

「……いきなり人の寝室に入ってこないでください」
「へぇ、優日ちゃんは良くて私はダメなの?」

 そういう問題ではないのですが。

「俊也くんって恋人が出来ると、母親に冷たくなる子だったのね……ちょっとショックだわ」
「なんでそんな話になってるんですかっ。それより、浩介さんが帰ってくるって本当ですか?」

 明らかにこの状況を企んでいたであろう人に追求する。

「ええ。本当よ。一週間前に電話があってね。戻れるようになったって」
「へぇ。そうなんですか。それじゃあっちはあらかた終わったんですね」

 っていけない。何を流されているんだ僕は!?

「違いますよ! 僕が聞きたいのはそこじゃなくて!」
「びっくりした?」

 いたずらが成功した子供のように無邪気に微笑む柚華さん。
「大変だったわよー。町の皆が知っているから、口止めをお願いするのは」

 どうしてこの人は、くだらない事ばかりに力を注ぐのだろう。
 あぁ、考えても無駄か。

「朝からプチドッキリしかけないでください……」
「何言ってるの、その顔が見たいからしかけてるんじゃない」

 当然のように言ってのける柚華さん。
 ……この人には一生勝てない気がした。

「そ、それじゃ早くご飯食べちゃいましょ。ね?」

 半ば放心状態の僕を哀れに思ったのか、無理矢理話題を変える優日。

「優日ちゃんは俊也くんの味方だからね。騙す以前に話を通さない注意を払ったわ」

 もの凄く自信満々で嬉々として語るその姿を、尊敬できるかと言えば否なワケだが、それでも母親代わりなのは変わりない。
 とりあえず、朝の恒例行事を済まさなければ。

「柚華さん、おはようございます」

 柚華さんの茶化した雰囲気が変わった。
 そして柔らかに微笑んだ。

「ええ。おはよう」

 こうやって、こっちが真面目な態度に出ると、柚華さんは必ず同じ態度で接してくれる。
 空気が読めているといった方がいいのだろうか。
 からかう時はからかい。
 真面目な時はとことん真面目で。
 自分の気持ちの切り替えがとても上手いのだ。
 それは尊敬できるところで、羨ましいものだった。

「それじゃ、学校が終わったら家に来なさい。浩介さんも帰って来ているはずだから」

 浩介さんが帰ってくる。
 院長の代わりという大役から開放される安心感。
 自分はちゃんと出来ていたかを判断される緊張感。
 改めて考えると、そんな様々な感情が入り混じってくる。

「……はい。必ず」

 どんなことを言われるのか。
 久しぶりの再会なのだから、きちっとしなければならない。
 起きた様々なことを、そして優日のことを紹介しないと。
 浩介さん。
 あなたが離れていた一年の間、色々なことが起きました。
 僕は、様々の事を感じ、勉強しました。
 それを伝えます。伝えたいです。
 僕の恩師である。坂上 浩介さん。あなたに。







 昼。
 学校の保健室。
 僕と優日は、一緒に昼食を取り、雑談をしていた。
 いつもなら浩司もこの雑談メンバーに入るのだけど、今日は学校を休んでいた。
 浩介さんの迎えにでも行っているのだろう。

「それにしても、学校の生徒まで僕を騙すのに加担してたとは……」

 柚華さんは僕の想像以上に手を込んだ事をしていたようだった。
 というのも、保健室に来る生徒みんなが「先生今日はびっくりしたでしょ?」って言ってきたのだ。
 つまりは今日、朝ピックリ計画を決行したということを町の人がほとんど知っているということ。
 どういう情報網が敷かれているのだろう、この町は。

「すごいですよね。一致団結の心というか、イタズラ心の結集というか……」

 優日も同じ様に呆れている。
 無論、それを先導した柚華さんに対してはもう言葉も無いわけだけど。

「この町は面白いことが少ないからね。面白そうな事にはすぐに飛びつくさ」

 と言っている僕も、騙す側になったとしたら率先して手伝うのだろう。
 相手が浩司となったら、自分が先導して騙しそうな感じがする。
 ……僕も人の事言えないな。

「ふふっ。でも良いと思いますよ。こういう心って。なんか他のみんなと気持ちを共有しているって嬉しいですし」

 人間は連帯感というものを心地良く思う。
 僕もその部類に入る人間だ。
 みんなで一つの目標、目的に進むことは、なんだか心が楽しくなってくる。

「紗衣ちゃんも、こうやって町の人と一緒に俊也さんを騙したりして、ほんとこの町に馴染んでいるんですね」

 優日は柔らかく微笑んでいた。
 だけど、その笑顔には寂しさが少し混じっている。
 そんな気がした。

「君もこの町の一員だよ。優日先生」

 彼女だって立派な穂並町の一員なのだ。
 昼休みは邪魔しちゃ悪いからと暗黙の了解がなされていて生徒は来ないけど、休み時間のたびに優日は生徒に相談されたり、生徒がお話に来たりなど大人気だ。
 唯一の若い女の先生だってこともあるのかもしれないけど。
 こんなに人気のある先生は珍しいと思う。

「あっ。はい。そうですよね。ありがとうございます」

 照れ臭そうに笑う。
 彼女は自信を持っていいのだ。
 優日を頼りにしてくれている人はたくさんいるのだから。

「そ、そういえば朝から気になっていたのですけど。浩介さんってどういう方なんですか?」

 優日は自分が褒められることに慣れていない。
 空気で分かったのか、無理矢理な話題変更をした。

「確か私、まだ聞いてないと思うんですけれど」

 僕に話した記憶は無い。
 だけど、柚華さんも話していないっていうのは珍しい気がする。
 浩介さんに惚れ込んでいるあの柚華さんが、のろけ話をしないなんて。
 まぁ、そんな状況じゃなかったのだから、かもしれないけれど。
 ちょっと引っかかる。

「そうだね。会う前に教えておこうか。坂上 浩介さんについて」

 今は詮索する時じゃない。
 優日が知りたがっているのなら、そちらに集中すべきだろう。

「浩介さんは僕に医学を。そしてその道を教えてくれた恩師なんだ」

 お礼をいくら言っても足りないくらいにお世話になった人。
 そして、父親代わりになってくれた人。
 僕がまったくと言っていいほど、頭の上がらない人物だ。

「医療の難しさ、厳しさ、そして素晴らしさ。どうしようもないこと。どうにかできること。自分の力を見極めること。……本当に色々なことを教えてもらった」
「……凄い人、なんですね」

 なんてコメントしていいか分からなかったのだろう。
 優日はずいぶんと抽象的な言い方をした。

「そうだね。凄い人。僕が唯一、全てにおいて尊敬できる人だから」

 そんな浩介さんが親だなんて、何度浩司を羨んだだろう。
 だけど、浩司も負けないくらいにイイ奴だったから、いつかそんな考えも無くなっていたけど。

「えっと、柚華さんは浩司さんの本当の母親ではないのですよね?」
「うん。そう。誰かから聞いたの?」

 浩司は浩介さんと前の奥さんである楓さんとの間に生まれた子供。
 柚華さんは浩司にとって血の繋がっていない義理の母となる。

「柚華さんのお年を考えるとだいぶ若い時だったので、一度柚華さんに聞いた事があるんです」
「それじゃ、あのコトは聞いて……はいないか」

 ぺらぺら喋るようなものでもないし。
 今では大丈夫だろうけど、昔は相当辛かったと思うから。

「柚華さんと浩介さんの間には、ある約束事があるんだ」

 姿勢を正す。
 そして、声を小さくする。
 誰にでも話していいような内容じゃない。
 これは優日だから話すこと。

「"二人の間に子供は作らない"っていうね」

 息を呑む雰囲気が、目の前から伝わってくる。

「え……ど、どうして」

 当然の疑問。
 優日は悲しそうな目をしながら聞いてくる。

「そんな、だって……結婚したのなら、好きな人の子供を欲しいって思います……」
「だけど浩介さんは、その結果楓さんを失った。だから……怖いんだと思う。たとえ柚華さんが楓さんと違って、丈夫な身体の人だったとしても」

 大切な人を失う恐怖。
 もし優日が居なくなってしまうと考えたら……?

 そう考えようとして、右手が震えていることに気づいた。
 左手で抑えようとする。だけど意味がなかった。
 両手が震えていたから。
 怖い。どうしようもないほどに怖い。
 考えようとするだけで、こんなにも身体が震えてしまっている。
 無理だ。想像なんて出来るわけが無い。

「俊也……さん?」

 心配そうな声が頭を巡った。
 いつも聞いているその声に、震えが徐々に収まってくる。
 目を瞑り、ゆっくりと息を吐いた。
 大丈夫、傍に居る。優日は目の前に居る。

「優日が居なくなるかもしれないって想像したら……とても怖かった。想像するだけでこうなんだから……実際失ってしまった浩介さんの気持ちを想像するなんて……出来ない」

 想像するだけでも、おこがましい気がした。

「私だって俊也さんが居なくなってしまうなんて怖いです。というかそんなこと考えたくもないです!」

 優日は顔を辛そうに歪ませている。
 彼女にこんな表情をさせてしまうのなら、簡単に口に出してはいけない。
 もう二度と考えないようにしないと。

「でも……! 今、生きているのは柚華さんです。今の奥さんは柚華さんです! そんなの……絶対可哀想で、ごほっ……っ」
「優日っ」

 優日の言葉が咳で途絶えた。
 興奮して怒鳴った所為だろう。
 優日は喘息を持っているから、大声を張り上げる事は出来ない。
 とは言っても最近になってから出始めたのだけど。

「優日、落ち着いて。ね?」
「……ふぅ、はい」
「可哀想なのかは本人が決めること。実際、柚華さんはその約束をずっと守っている。それに、その約束でも一緒になりたいと願ったんだ」

 浩介さんと夫婦になりたかったから。
 家族を作ることを諦めた。

「ですけど……そんなのって……」

 優日は納得できないようだった。
 当然だろう。
 僕だってそれに関しては納得できてない。
 だけど、子供を産んで育てることだけが夫婦の幸せとも限らないのだ。
 柚華さんと浩介さんを見ていると、そう感じる。

「優日もすぐに分かると思うよ。学校が終わったら会いに行こう。浩介さんに」
「……はい」
「それじゃ、この話はもう終わり。そろそろ昼休みが終わるよ?」

 空気を仕切りなおす。
 休憩は終わり。仕事に戻らないと。

「俊也さん。一つお聞きしていいですか?」

 優日は俯いたまま、静かな声で。

「私は喘息を患っています。このことで俊也さんに何度か迷惑をかけたこともあります」
「そんなこと……」

 考えてもいなかった。
 優日のことに関して迷惑だなんて一欠けらも思った事はない。

「もし、私と俊也さんの間に子供が出来て、喘息で出産するのが難しく、私の命のが危ないってわかったら、俊也さんは私が子供を産もうとするのを、止めますか?」
「……それは」

 どういうことだろうか。
 "もし"とか使っているわりには、思い詰めているような気がする。

「だいぶ話を大きくしちゃってますけどね。私、出産は難しい方なのだそうです。だけど難しいだけであって死んでしまうということはないので、本当に"もし"のお話です」

 そう言われて考えようとする。
 だけど、頭がまったく働かなかった。
 出来るわけがないのだ。さっきだって怖くて怖くてたまらなかったのだから。

「僕はきっと、優日に生きて欲しいって願うと思う。もちろん僕との子供を産んで欲しいとは思うけど、君の方が大事だ」

 実感が湧かないせいもあるのかもしれないけど、僕にとって優日よりも大切なものは無かった。
 優日は僕の答えを聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
 そして、小さく頷き。

「……その差、なのかもしれませんね」

と、何かを含む言い方をした。
表情からは読み取れない。

「優日?」
「いえ、なんでもありません」

 優日の様子が気になる。
 僕の答えはいけなかったのだろうか。
 間違った事を言ってしまったのだろうか。

「それじゃ、終わったらここに来ればいいんですね。俊也さん」

 優日はこれ以上話をする気はないようだった。
 なんだろう。
 何か一波乱ありそうな気がする。

「うん。そうしてもらえると助かる」

 優日は浩介さんと柚華さんの約束については、納得していない。
 もしかしたら、浩介さんに何か言うつもりなのかもしれない。
 ……少し注意しとかないといけないな。
 あの二人が今が幸せだというのなら、それを変える必要なんてないのだから。







 五時が過ぎた。
 太陽はまだまだ傾き始める様子を見せていなかった。
 この町の夏は長い
 八月の中旬に入るというのに、七時ぐらいでやっと夕焼けが見えるくらいだ。

「よう。俊也」

 帰宅準備をしている時、今まで学校に現れなかった不良教師が声を掛けてきた。

「……いいご身分だね」
「なんだよ、その冷たい目は」

 言わなくても分かるだろうに。

「言っとくけど、用事があったんだからな。ちゃんと校長の許しも出てるんだからな」
「偉そうに言っているけど、当り前の事だからね」

 無断欠勤なんてしたら、大人として失格だ。
 それにしても何を今頃ノコノコと来ているのだろう?

「あれ、浩司さん? どうかしたんですか?」

 浩司の後ろから優日の声が聞こえた。

「優日ちゃん、お疲れ様。大変だっただろ? 俺がいなくて」
「いえ、特には」

 あ、浩司が薄くなった。

「それじゃ、行こうか。優日」
「あ、はい。浩司さんの実家に行かれるんですよね? 何処にあるんですか?」
「ここから歩いて十分くらいかな。そんなに遠くないよ」

 この町でも裕福の部類に入る家だから、家は結構大きい。
 小さい頃はよくあそこの庭で遊んだもんだ。
 ブランコやミニサイズのジャングルジムやすべり台があり、公園に近い感じがある。
 もちろん公園ほど広くはなく、一般家庭の庭にそういうアトラクションを付けたという感じだ。
 まぁ、付けたことに少しの疑問を感じるけど。

「詳しく聞いたことなかったんですけど、俊也さんのご両親はどこにいらっしゃるのですか?」

 ……そういえば、言っていなかった気がした。
 母親のことを知っているのは紗衣香ちゃんだし。
 僕は優日のことばかり知っていて、自分の事はそんなに喋っていなかったのか。
 不公平、だな。

「母親はもう亡くなってる。僕が子供の時にね。父親とは……もうずっと会っていないかな。それから疎遠なんだ」

 連絡は時々取っていた。
 未成年だった僕が、自分一人の力で生きられるわけがない。
 父さんがお金を送ってくれて、浩司の家で暮らしていたというわけ。

「ずっと、ですか……? えっと何か理由でも……」
「父さんは、母さんと暮らしていたこの場所に留まれなかった。だけど、僕は留まる事を選んだ。だからじゃないかな」

 父さんが嫌いというわけでもない。
 ただ、どう接していいか分からない。
 だから会わなかった。いや、会えなかった。

「……そうでしたか。すいません。不躾に」

 優日は俯いて、不安そうに呟いた。
 僕はちょうど胸の辺りにあった優日の頭を撫でてやる。

「何を言ってるんだよ。優日が知るのは当り前のこと。僕達は恋人同士なんだから」

 そう。今まで話していなかったのがおかしかったのだ。
 ただただ幸せだったから、その日々に耽っていた。
 ちゃんと話し合う時がくるだろう。これからのことを。
 その為に知っておいてほしいのだから。

「いつか会わせてあげる。そして紹介しないとね、優日の事を」
「……はいっ。よろしくお願いします。私は俊也さんについて行くだけですから」

 そう言って、僕の手をそっと繋ぐ。
 優日は少し顔を赤くしながら、微笑んだ。
 そう。誰よりもまず優日の為にも、会わないとな。父さんと。

「……お前ら、こうも見事に無視されると逆に気持ちいいぞ」

 後ろから、浅く息を切らした変態の声が聞こえた。

「浩司か。遅かったね」
「ああ遅いだろうさ。あまりのショックに保健室で泣き崩れていたからな」

 誰かに見つかってないだろうか。
 生徒にそんな気持ち悪い姿は見せられない。

「まぁ、それは冗談として。お前ら、よく道の真ん中でいちゃつけるな」

 浩司の指は、僕達の握り合っている手を指していた。
 あれ、いつの間に……。

「手を繋ぐのは……普通だと思うんだが、それは見るにたえないからなぁ」
「は?」

 繋いでいる手を見てみる。
 僕と優日の指は一本一本交互に相手の指の間に収まって、手の平と手の平を合わせていた。
 いわゆる"恋人繋ぎ"というもの。

「ま、まぁいいんじゃないかな。恋人なわけだし」

 人前ではあまりしたくはないけど。
 というより、いつの間にこんなに密着していたのだろう。

「……ふーん。なら親父の前でも当然できるよな? 恋人なわけだし」
「い、いや! それは無理!」

 どんな羞恥プレイだそれは!

「え……ダ、ダメなんですか?」

 と、不安そうに僕を見上げる優日。
 やばい。浩司の挑発に優日が乗ってしまっている。
 どうにか諭さないと、大変な目に合ってしまう。
 主に僕が。

「あ、あのね優日。浩介さんは僕にとって父さんみたいな存在で、親の前でさすがにこれは……」
「出来ないんですか?」

 いや、そりゃ出来ないだろ!
 って、なんでそこで目をウルウルするかなぁ!

「浩司……これは仕返し?」
「さぁ、なんのことやら」

 浩司はニヤニヤと笑いながら目を逸らした。
 優日のお願いを僕が断れるわけない。
 なんでこんな恥ずかしい責めを受けなくちゃいけないんだろうか。
 そもそも優日は恥ずかしくないのか?

「俊也……さん?」
「い、いや……」

 あぁ、恥ずかしくないんだろうなぁ。
 むしろ認めてもらおうって気がひしひし伝わってくる。

「うぅ……ずっとはしていないからね。最初だけだからね」
「あ、はいっ」

 嬉しそうな優日の声。
 それだけで嬉しいし、まぁいいかという気分にはなるのだけど……。
 浩司が笑いを堪えている仕草が非常にムカついた。

「後で覚えておけ、浩司」
「くくっ。俺は何もしていないぞ? 色男さん」

 言ってろ。







 こうして、ずっと手を繋いだまま浩司の家の前まで来ていた。
 ずっと育ててもらっていた家。
 僕にとっては実家と変わりない。
 見慣れたはずなんだけど、不思議と緊張する。

「俊也さん。大丈夫ですよ」

 僕の緊張が伝わったのだろうか、優日は優しい声で微笑んだ。
 握っている手に力を込める。
 優日も返すように僕の手を握ってくれた。

「……」

 気分が落ち着いていくのが分かる。
 久しぶりに会うからって、僕は何を緊張しているのだろうか。
 そうだ。堂々と会えばいい。
 何も恥ずかしい事など無い。
 自分が見てきたものを、真っ直ぐ伝えるのだ。

 呼び鈴を鳴らす。
 そして、すぐに柚華さんの声が聞こえた。

「おかえりなさい。俊也くん」
「ただいま。柚華さん」

 浩司の家に来た時、必ず柚華さんは「おかえり」と言ってくれる。
 実家が無い僕は、これに結構ありがたみを感じている。
 僕をこの家の子供として見てくれているんだなって心底感じるから。

「浩介さん、帰ってきてるわよ。早く会いたがってる。俊也くんに。行ってやりなさいな」
「はい。居間にいるんですか?」
「ええ。優日ちゃんも会ってきなさい。というより……」

 柚華さんは繋いでいる手を見て。

「見せ付けてやりなさい」

 イタズラな笑顔を見せて言った。
 そこで親指を立てないでください。

「これには少々理由が……」
「度胸あるわね。さすがに真似できないわ」
「いや、理由があるんですって」
「先制攻撃は大事よ。あっけにとられる隙を見て、納得させちゃうの」

 なんか柚華さんは何か違う事を言っている気がするのだけど……。
 というより、普通に言えばいい話だと思うのは僕だけだろうか。

「はぁ……とりあえず行ってきます」
「がんばれー」

 何を頑張れって言うんですか。

「俊也さん、私余計な事しました?」
「まぁ、そうだね。でも、おかげで緊張が吹っ飛んだし。そんなに気にする事でもないよ」

 居間の扉に着いた。
 この向こうに浩介さんがいる。
 だからといって、緊張する事なんか無い。
 今は逆に会いたく仕方がないくらいだった。

「……失礼します。浩介さん」

 扉を引く。
 目の前には、一年前とあまり変わらない、浩介さんの姿があった。

「おかえり、俊也くん。そして……ただいま」

 低く、けどよく通る声で、僕に笑いかける。
 久しぶりの声。
 聞いていて、何故か泣きそうになった。

「ただいま。浩介さん。そして……おかえりなさい、院長先生」

 色々なことがありました。
 次にそう言おうと思っていた。
 けど、言葉が後に続かない。
 ただただ嬉しかった。

「えっと、隣に居るお嬢さんは?」
「あ。し、篠又 優日って言います! 俊也さんとはその」
「あー付き合っているんだね? その様子じゃあ」

 繋いでいる手をまじまじと見ている浩介さん。
 瞬間、僕は顔が赤くなっていくのを自覚した。

「あ! い、いや。これは……その!」
「あ、あはははは……なんか若い頃の自分を見ているみたいで、恥ずかしいね」
「へ?」

 ということは、こういう事をしていたことがあるのか?
 浩介さんが?

「こうやって手を握って、柚華の親のところに挨拶に行ったよ。先制攻撃が肝心だって柚華に言われてね。僕と柚華の場合はかなり年が離れていたから、納得させるのは難しかった」

 あれは実体験から来る言葉だったのか。
 というより、状況が違うでしょ状況が。

「そうそう。これのおかげで私たちは晴れて結婚できたのよ」

 後ろから柚華さんの声の嬉しそうな声が聞こえた。

「これ、というよりは君がしてきたキスだったと思うんだが……」
「細かい事は気にしないの。浩介さん」

 この人たちはなんて事をしているのだろう。
 結婚を親に受け入れてもらう場面で、キスをかますなんて。
 僕には出来ない。やれと言われても絶対出来ない。

「それより、あっちでの仕事片付いたんですね?」
「あぁ、一段落といった所だよ。私の教え子達は卒業したよ。一年間という短い時間だったけど、本当に慕ってくれた」

 浩介さんは今まで、東京の医大で臨時の講師を勤めていた。
 昔からの友人の頼みだったらしく、断れ無かったらしい。
 それに浩介さん本人も、自分が得てきたものを教えてみたいって気持ちがあったらしく、とりあえず少しの間だけということで、出張していた。
 まぁ、その"少しの間"がいつの間にか一年という長さになったのだけど。

「そうですか。楽しかったですか?」
「ああ。こっちも色々学ばさせてもらったからね。教えると言う事は難しいもんだよ」

 充実した日々を送っていたのだろうか。
 浩介さんの笑顔は、本当に自信に満ちていた。
 医大で教えてきた日々を、誇りに思っている。

「こっちも色々あったみたいだね。お疲れ様、俊也くん」
「……僕はまだまだ未熟なんだなって、思い知りました。一つの命を救えなくて……きっとたくさんの人に不幸な思いをさせた」

 あの人には、どれだけ大切な人がいたのだろうか。
 最低でも二人。
 しかも一番、悲しい思いをしている人がいた。
 あの二人は今、どこに居るだろうか。

「私たちは他人の命を使って、大切なものを知る。自分の未熟さを思い知る。それはとても申し訳ないことだ。自分は何も失っていないのだからね」

 そうだ。僕は何も失っていない。
 ただ悲しんだだけ。
 自分の未熟さを呪っただけ。
 ただ……それだけ。

「だから、ずっと胸に刻んでおきなさい。他の誰が忘れてもいい。君だけはずっと覚えていなさい」

 それは経験からくる言葉だった。
 こういう思いをして、浩介さんは立派になっていった。
 そうだ。
 僕達は人の死を糧にし、成長する。
 それを……忘れちゃいけない。

「分かりました。絶対に忘れません」

 元々忘れる気なんてなかった。
 それこそ、失礼な気がしたから。
 亡くなった人に対しての侮辱に思えたから。

「お話は一段落? それじゃお茶にでもしましょ。ほら、俊也くんも優日ちゃんも座って、ね?」

 あ、僕達はずっと立ちっぱなしだったのか。

「ごめん、優日。辛くなかった?」
「ふふっ。大丈夫ですよ。大切なお話でしたから、逆に聞き入っちゃいました」

 そうして、すっと手を離した。
 もう必要ないと思ったのだろう。
 僕の緊張はもう完全に無くなっていたから。

「ふむ。本当に仲がいいみたいだね。柚華からは色々聞いていたけど、二人とも幸せそうだ」
「まあ。それなりに」

 仲がいいです!と言うのは少々恥ずかしかった。

「あの……浩介さん、って呼んでもいいですか?」
「構わないよ。優日さん。俊也くんがお世話になっているみたいだね。これからよろしく頼むよ」
「は、はい。それで聞きたいことが一つあるんですけれど……」

 この時、僕は優日への注意を怠っていた。
 ひさびさに会ったからなのか、真面目な話ばかりをしていたから気が抜けたのか。
 浩介さんと会う前に、優日に話したことの全てを忘れていたのだ。

「柚華さんとの間に、子どもが欲しいって思ったことは無いんですか?」

 そう。この話を優日は納得なんてしていなかったのだ。
 柚華さんの動きが止まった。
 そして、ゆっくりと優日を見た。

「ゆ、優日!」
「俊也さんから話は聞きました。どうしてでしょうか? なんでそんな約束を持ちかけたんですか? 夫婦が子どもを欲しがるのは当然の事だと思うんでけど」

 優日は譲る気がないようだった。
 ただ固く自分の信念を問い掛ける。
 だけど、いけない。
 とても失礼な事を、優日はしている。

「どうして今、そんなことを聞くんだよ。今はこんな話必要ない」
「ごめんなさい俊也さん。それでも聞いておきたいんです。俊也さんが尊敬する人が、たった一つだけ間違っていると思うことをしている。その理由を」

 優日の言葉を聞いて、浩介さんは静かに足を組んだ。
 そして、柚華さんの方を見て、反応を見ている。
 柚華さんも浩介さんを見て、ゆっくりと頷いて、隣に座った。

「そうだね。それに関して言えば、柚華には申し訳ないことをしたと思っているよ。僕の勝手なお願いを聞いてくれてね」
「だけど、私は別に後悔なんてしてないわよ? 私にはもう子どもが二人も居るんだから」

 そうして、柚華さんは僕を見た。

「浩司くんに俊也くん。血は繋がっていないけど、私にとっては大切な大切な私の子ども」
「……っ」

 泣きそうなくらい優しい言葉だった。
 こうやって直接言われたことが無かったから。
 とても嬉しかった。

「それにね、優日ちゃん。私は自分で選んだの。結婚するために必ずその約束が必要だったわけじゃない。拒否する事も出来た」

 浩介さんは柚華さんの手を取った。

「私は、楓さんには勝てないなって思ったの。浩介さんを好きだって思う気持ちも、大切に思う気持ちも。全てにおいて、ね」

 柚華さんの表情は晴れ晴れとしている。
 むしろ、その行動を誇りに思っている気がした。

「だから私は、楓さんの想いを受け継ごうって思ったのよ。楓さんが残していったものを大切にしようって。だから浩介さんの約束を受け入れた。そして浩二くんをちゃんとした大人になるまで育てようってね」

 絶対に消える事がない姿として、浩介さんの中にいる楓さん。
 小さい頃からずっと一緒だったって聞いたことがある。
 浩介さんにとっては身体の一部と同じだったんじゃないだろうか。
 それを忘れる事なんて出来るわけない。
 だから、柚華さんは勝てないって思ったのだろう。

「私が自分で選んだのだから後悔なんてしていない。そりゃ子どもが欲しいなぁとは思ったことあるけど、行動に移そうとは思わなかった」

 柚華さんは優日を真っ直ぐと見て、軽く微笑んだ。
 それは、僕がずっと見てきた"母親"の笑顔だった。

「ありがとう、優日ちゃん。私の為に言ってくれて。でも、私は自分の事が可哀想だとか、そんなことは思っていないから、安心してね」

 それは紛れも無く、真実の言葉。
 これ以上、言葉を重ねるのはとても失礼なことのような気がした。
 ここまで真面目に応えてくれたんだ。
 何も疑問に思うことなんてない。
 そうだろ? 優日。

「……はい。すみませんでした。出過ぎた真似をして」

 優日は目を伏せ、そして静かに頭を下げた。
 表情は分からない。だけど手は震えていた。
 泣いて……いるのだろうか。

「優日?」

 優日の手を握る。
 悲しむ必要なんてない。
 誰も君のことを怒っているわけでも、責めているわけでもないのだから。

「そんなことない。逆に安心できた。他人の為にこんなに一生懸命になってくれる娘が、俊也くんの恋人なんだって。だから、お願いね。俊也くんのこと。私たちの大事な自慢の息子なんだから」

 そう言って、浩介さんと柚華さんは一緒に頭を下げた。

「……はいっ」

 顔を上げた優日は、目を潤ませていた。
 僕も思わず泣きそうになる。
 母親が死んでしまって、父親とは疎遠になって。
 それでも僕には、こうして父親と母親が居た。
 こんなにも僕を思ってくれる人たちがいるんだ。
 なんて幸せなんだろう。

「それで、俊也くんにお願いしたい事がある」

 今まで黙っていた浩介さんが、急に話を振る。

「俊也くん。穂波診療所を継いで見る気はないかい?」
「……え?」

 一瞬、言われた事が分からなかった。
 継ぐ? それは……え?
 頭が理解しようとして、それでも信じることが出来なかった。
 いや、信じたくないだろうか。
 今の言葉の意味を理解したくない。
 なのに、浩介さんは。
 僕の理解したくない感情をぶち壊すように、ただただ諭すように言った。

「つまり、私は医者を引退して、君に穂波診療所を譲りたいんだ」







 浩介さんが帰ってきたことで、何かが動き始めた。
 それも、とても凄い早さで。
 この時の僕は、ただただ戸惑うばかりで。
 くずくずと悩むことになる。
 それが、後に大切なものを失う原因になるとも知らずに。






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