眩しい光が射してきた。
 目を開ける――朝だった。
 カーテンを閉めずに寝た所為だろうか、太陽の光は直接あたしを照らしていた。
 枕のすぐ近くにある時計を見る。
 時刻は七時。
 なんだ、まだ早いじゃないか。

「……」

 なんだか起きるのが勿体無く、ボーっと天井を見続ける。
 目は覚めたが、気だるい感じが抜けない。
 昨日のぼせたからでもあるのだろう、頭に霞がかかったような感じがあり、はっきりとしない。
 少しだけ気持ち悪い。
 だから、動かなかった。
 まだ、このまどろみの中をずっとさ迷っていたかったから。





「幕間二〜吐露する想いと二人と〜」






 台所に下りて、紗衣香さんと挨拶を交わす。

「……?」

 なんだか、しっくりとこない感覚があった。
 全てが揃っているのに、何かを忘れているような、そんな物足りなさ。
 なんだ?
 椅子に座り、台所を眺めてみる。
 テーブルや椅子。食器や戸棚。あたしが記憶している物の配置は何も変わっていない。
 紗衣香さんはどうだろうか?
 朝ご飯を作っている。後ろ姿しか見えないから表情は分からない。
 けど、あたしみたいな感覚は感じていないようだ。
 いたって普通に料理をしている。

「どうかしましたか?」

 あたしの視線を感じたのか、紗衣香さんが振り向いて聞いてきた。

「いや……なんかいつもと違う感じがする」

 もやもやした感じを、そのまま聞いてみた。
 言葉が足りていなかっただろうか。
 紗衣香さんは、頭に疑問符が浮かんでいるように見えた。
 どういうことか計りかねている。

「なんて言ったら、いいかな……何かが"ない"気がするんだよ」

 自分でも分からないから、言葉にしようがなかった。
 これで精一杯。
 やがて、紗衣香さんは、胸の前で両の手の平を合わせ、自信を持った声で言ってきた。

「それは、先生ではないでしょうか?」

 言われて、もう一度台所を見回す。

「……あぁ」

 分かってみると、なんでもないものだ。
 なんとなく安心。
 足りないものが戻ってきたワケではないけれど、それでもホッとする。
 だけど、居るはずの人間が居ないって、こんなにも喪失感っていうか、違和感がもの凄くあるものなんだ。
 いつもあたしの前に座り、人懐っこい笑顔を浮かべて、話しかけてくるここの主が居ない。
 それだけだというのに。

「先生は今朝早くに、出掛けられましたよ」
「出掛けた?」

 聞いてない。

「ええ。帰るのは夕方になるそうです。私は昨日の夜に話されていましたけど、秋亜さんには言っていなかったようですね」

 別に言われなくても一向に構わないけど、なんとなく悔しいのはなんでだろう。
 ……深く考えないようにしよう。
 だけど、いっきに夕方まで暇になった。
 まぁ、たまにはゆっくりとするのもいいか。

「秋亜さんは何処かに行くとかはないのですか?」

 相変わらずこの人は、こっちの心の中を読んでいるのだろうか。
 と、いうわけでもないか。
 話の流れ的にはそう聞いてきてもおかしくないし。

「うーん……特にないかな」

 ゆっくりしようと考えていたし。
 あたしは、今までこんなにゆったりとした時間は過ごしてこれなかったし。

「私は、姉さんの所にでも行こうかと」
「でも、ここ病院だろ? 誰か居なくちゃいけないんじゃないのか?」

 急患だって考えられるし、学校で怪我するガキだって居るだろうに。
 紗衣香さんはゆっくりと笑う。

「ええ。実はそうなのですよ」

 いや、当然ですよって感じて言われても。

「それじゃ、行けないじゃん」
「そうですね。じゃあ、代わりに秋亜さんが行って頂けますか?」
「へ? あたしが?」

 間の抜けた声を出してしまう。
 なんでアタシに矛先が向くのだろうか?

「はいっ」

 いや、すごく良い笑顔なんだけど。
 だから、どうしてあたしが?

「でも、あたしは上月のヤローに一人で出歩くことは止められてるよ?」
「ああ……でも大丈夫ですよ」

 いったい何が大丈夫だと言うのだろうか。
 紗衣香さんは表情を崩さない。
 その溢れんばかりの笑顔は、断ることを許そうとしていない。

「それに、墓参りって本人が行くべきものじゃないの?」
「そうですね。ですけど、ただ渡したいものがあっただけですから。それさえ届けてくれればいいのです」
「……んー」

 あたしは本来、外に出歩いて良い人間では無い。
 いつ、誰に、どこで、あたしのことを知られるかまったく分からない。
 あの人に情報が行ってしまっては、まだダメだ。
 連れ戻されるに決まってる。
 あの"檻"へと。
 あたしは知りたいことを、まだ知れていないんだ。
 だから戻るわけには行かない。

 ……こうやって、閉じこもっていくのだろうか?
 あたしはこうして自由を得たというのに、ずっとあの人の影を恐れるのだろうか。
 バカバカしい。
 本当にバカバカしい。
 来たら来たで、追い返してやればいいのだ。
 元々戻る気なんてないのだから。
 それに、今は一人じゃない。
 紗衣香さんも上月のヤローも、きっと助けてくれる。

「分かった。行くよ」
「ふふっ。ありがとうございます」

 なーんか最初から仕組まれている気がする。
 相変わらず、この人は読めない。
 けど、昨日とは違う雰囲気だ。
 あたしの部屋を出て行った後、何があったんだか。

「ねぇ、紗衣香さん」
「はい?」

 振り返る。
 いつも通りの笑顔。
 だけれど、違う。
 なんというか……ふっ切れたように感じる。

「いや。なんでもない」

 聞くのも悪いか。
 朝ご飯が目の前に置かれる。
 さぁ、今日も元気に行こう。







 ◇◇◇







「はい。手筈どおりにしました。……はい。それじゃ、付き添いの方宜しくお願いしますね」

 電話を切り、自分の部屋に戻ります。
 私は、学校の方へ行かなくてはなりません。
 先生が研修へ行っている間、私は保険医の仕事を引き継いでいました。
 私にも多少の怪我は手当て出来ますし、調子が良い悪いぐらいは判断出来ます。
 それに男の方が保健医というのは、少々問題がありますしね。

「それでも、それを勤めていた先生はすごいですが」

 どうやら先生は、女子生徒に人気があったらしく、そういう問題は無かったみたいです。
 ……それもどうかとは思いますが。

「ふふっ。でも先生らしいですね」

 部屋に入り、秋亜さんに渡して欲しいもの取り出します。
 それは、二通の手紙。そのうちの一通。
 私宛ての姉さんからの手紙。

「……」

 そこに書かれている"本当の事"。
 姉さんの素性。本当の家族。
 姉さんの気持ち。
 そして、姉さんからの願い。

「いいですよね? 姉さん」

 問い掛けても返ってこない答え。
 当り前です。
 姉さんはもういないのですから。
 私はただ、自分に言い聞かせたかっただけ。
 これは、私の決意表明。
 もう逃げずに、立ち向かっていく。
 そして、私がちゃんと一人で前を向けるようになったら。

「きっと、最後まで……見れますから」

 だからそれまで、姉さんに預かってもらいたかったのです。
 この手紙があると、私は姉さんに頼ってしまいますから。

「姉さんが死んでしまってから……もう半年」

 今も立ち直れないでいます。
 認めています。もうこの世には姉さんが居ないのだと。
 だから、手紙という形で姉さんが残していった想いを全て受け止めたい。
 だけど、最後の一枚だけはどうしても、拒否してしまう。
 読むのがとても怖くなって……目を背けてしまう。

「それも、もう終わりです」

 いつになるかは判らないけれど、姉さんの全てを、見届ける事が出来るまで、姉さんに返します。
 私は弱い。
 だけど、強くありたい。姉さんのように、強く。
 だから姉さんに預けます。もう甘えることがないように。







 ◇◇◇







 裏山に行くことになったのは昼近くだった。
 暑さはどんどん増してきている。
 暑いのは嫌いじゃないから、いいのだけど。

「それじゃ、お願いしますね」

 渡されたのは封筒だった。
 もう封が開いてる?
 裏を見てみると「紗衣ちゃんへ」と書かれていた。

「これは……優日さんの?」

 その字は先生の字に似ていた。
 昔、この人の字で色々なことを教えてもらったのだから。

「ええ。姉さんが亡くなる前に、私に残しておいてくれた手紙です」

 やっぱり先生のか。
 先生の……妹に宛てて送ったもの。

「小物が入る場所がありますから、その中に入れておいてください」
「これって、紗衣香さんだけ? 手紙を残されたのって」

 気になってしまう。
 自分には残されていないのだろうかと期待してしまう。
 私に残してくれた言葉は、あるのだろうか?

「……先生に宛てたものが一通、それだけです」

 紗衣香さんは目を背けながら言った。
 私が失望する顔を見たくなかったのだろうか。

「そっか」

 気を落とさないと言えば嘘だけど、それしきで揺らいだりしない。
 大丈夫。
 あたしは大丈夫だ。

「じゃあ、行ってくるよ」

 ドアを開け、外へと出る。
 眩しい光に目を細めながら、空へと目を向けた。
 太陽が燦々(さんさん)と輝いていて、あたしの肌に熱を与えている。
 肌を焼く、という行為がここでは自然に出来るのだろうな。
 不快ではもちろん無い。むしろ清々しいくらいだった。
 ちょっと前にあった嫌なことだって、簡単に吹き飛んでしまうような。

「大丈夫だ」

 裏山へと足を踏み出す。
 とは言っても、本当にすぐ裏にあるので、あっという間に緑の中へと入っていってしまう。
 木陰が地面を覆っており、太陽が遮られていた。
 今度は涼しい。
 ひんやりとした空気が、あたしを包んでいた。
 暑いけれど、涼しさを感じられる。
 本当に不思議な町だ。

「だから、飽きない」

 もう、夏が始まる。
 この場所で過ごす初めての夏。
 このまま、何も起こらずにずっとこんな時が続けばいい。
 あたしはそう思っている。
 何の変化も無く。ゆっくりとこの場所で過ごしたい。
 それがあたしの……幸せだ。

「さ、行くか」

 ただ、頂上付近の先生のお墓に行って、この手紙を置くだけ。
 往復二時間も掛からないだろう。
 ガキのおつかいだ。
 こんな簡単なことにも、誰かの見張りがないといけないだなんて、自分が情けなくなる。

「秋亜ちゃん」

 耳に突然、透き通るような綺麗な声が響いた。
 自分の内から、外に向けて意識を戻す。
 目の前に立っていたのは、ジーンズに白のTシャツを着、髪を後ろで一本に纏めている女性だった。

「久しぶりね。秋亜ちゃん」
「秋亜"ちゃん"?」

 背中がむず痒くなるような呼び方。
 誰だろう、こいつは。
 妙に馴れ馴れしい。

「あー、どっかで会ったことありましたっけ?」
「……覚えてない? 私、坂上 柚華よ?」

 坂上 柚華。
 確か、上月の話に出てきたやつだ。
 最後に優日先生に親が悲しむとかって言っていた。
 いかにも優しそうな"母親"。

「……記憶に無い」

 あまり喋りたくない。
 あたしは、この人が苦手だ。
 そんな気がする。

「……そう」

 坂上さんはあたしの顔をじっくり見つめている。
 あたしの表情から何かを見極めるかのように。
 気になる視線。

「それじゃ、"初めまして"。私は坂上 柚華って言うの。よろしくね」

 そう言って手を差し出してきた。
 坂上さんは、今まで見せていた親しげな雰囲気をまったく感じさせない。
 本当に初対面のような、まったく知らない人に挨拶をするように。

「ああ、ヨロシク」

 差し出された手を握らないで、歩き出した。
 この人とは関わりを持たない方がいい。
 いや、持ちたくない。
 だから、冷たくすることにした。
 この人を意識から外すんだ。

「ずいぶん嫌われたものね。まだ会ったばっかりだというのに」

 何を言っているのだろう、この人は。
 どうしてこんなにも切り替えが早い?
 こいつはあたしの事を知っている。
 あたしは覚えていないけど、きっと昔会った事があるのだろう。

「……え?」

 ちょっと待て。
 背中に氷のように冷たい何かが通り過ぎていった。
 考えてみたらおかしい。
 昔?
 昔って"いつ"会ったんだ?

 あたしは物心ついた時から、あの檻の中に居た。
 学校だって、ほぼ隔離されていたようなものだから、他の誰かと接する機会なんてほとんどなかった。
 "先生"以外は。
 だとしたら、何処で会ったというのだろう。
 あたしが言う前から、なんであたしの名前を知っていた?

「秋亜ちゃん?」
「なんだよ。まだ居たのか。さっさと消えてくんない?」

 嫌な予感がする。
 この人は……あたしを乱す。
 今ようやく手に入れかけている幸せを、乱す。
 そんな気がする。
 離れたい。一刻も早く。

「そうもいかないわ。だって私はあなたのお目付け役だしね」

 心の中で舌打ちをする。
 紗衣香さんはどうしてこの人に頼んだのだろう。
 ……嫌だ。
 率直な感想。
 あたしはこの人が嫌いだ。
 あたしの中で、そういう答えが出ている。

「……なら勝手についてくるんだな」

 だから、素っ気無い態度を貫き通すことにした。
 頂上に向けて歩き出す。
 早いところ目的を達成してこの人から離れたい。
 それだけしか頭に無かった。







 ◇◇◇







 お昼を過ぎて、五時間目の時間。
 私はやることもなく、暇を持て余していました。
 私の向かいでお茶を啜っている浩司さんも、同じくやる事が無いらしく、保健室に来ています。
 こうやって、どちらも時間に暇が出来た時、保健室でおしゃべりをする、ということはいつの間にか決まりごとのようになっていて。
 今回も自然な形でおしゃべりの時間となっていました。

「へぇ。それじゃ、母さんがそう言い出したんだ?」
「はい。昨日の夜、電話した時に頼まれたんです」
「そっか。まぁ、親友の娘だもんな。会ってみたいのも当然か」

 柚華さんには昨日「どうしても秋亜ちゃんと話がしたい」と頼まれました。
 私も最初は、お友達の娘さんですから、会ってみたいのかなとは思いましたが。
 なんとなく、それだけではない気もします。

「浩司さん、今日の体育は何をするのですか?」

 体育の時間は一番怪我人が多いです。
 浩司さんの授業の場合は特にですが。

「本当は今日は陸上でもやらないといけないんだけど、この暑さで走ると救護者続出だしな」
「それは困りますね」

 結局のところ、暇が一番いいのです。
 私が暇だということは、大きな怪我が無く、いつも通りの日常を送っているということなのですから。

「だから、サッカーにでもしようかな」
「サッカー、ですか?」
「ああ。走ることには違いないしな」

 確かに走ることには走りますが。
 本質が変わってきているような。

「なんなら、見学するか?」
「え?」

 突然のお誘いに、ちょっとびっくりしました。
 ……どうせ暇なのだし、それもいいかもしれませんね。

「そうですね。一番怪我人が出そうですし、見学してみるのもいいですね」
「ははは。よし、じゃあ気合入れていくかな」
「気合、ですか?」
「ああ。俺がキーパーをやる気だったからな」

 確かキーパーってゴールを守る人ですよね。
 運動系は苦手なので、あんまり知らないのですが……。

「へぇ、そうなんですか」
「それでさ……俺がガキ共から一点も取られなかったらさ」

 いきなり浩司さんの雰囲気が変わりました。
 何故か少し言い辛そうな顔をしています。

「俺と……その、デートしてくんない?」
「え?」

 思いもよらない言葉が出てきました。
 デート、ですか?
 デートって……私と?
 わけがわからず、ただ疑問だけが押し寄せてきます。

「あの……どうしたのです? 突然」
「と、突然と来たか……」

 がっかりしている様子の浩司さん。
 まったく掴めません。
 なんで、私なんかと?

「まぁ、あえて理由を付けるなら、最近元気がなさそうだったから。それと、俺がしたいから」
「は、はぁ……」

 とりあえず、励ましてくれていることは分かりました。
 それより、そんなに元気が無いように見えたのでしょうか。

「もう大丈夫ですよ。気を遣っていただいてありがとうございます」

 とりあえず、昨日ふっ切れましたしね。

「あぁ、そうだろうな」

 浩司さんはまったく驚いた様子が無く、肯定します。
 あれ? 元気がなさそうだったから誘ってくれたのではなかったですか?

「昨日、何があったか知らないけどさ。とりあえず元気になって良かった。その理由が俊也なら、ぶっ飛ばすけどな」
「え? どうしてですか?」
「なに、醜い嫉妬さ。ま、もう慣れたんだけどな」

 嫉妬? 私が元気になると、浩司さんが先生に?
 どういうことなのでしょう。
 なんか……分からないことばかりです。

「だけど、言わなかったか? 俺が君を誘っているのは俺が行きたいからだ」
「は、はい」
「……ダメか?」
「いいえ、その……ダメってことはないのですが……」
「そんじゃ、決まり。よしっ! 守りきって、小僧共に世の中ってものを教えてやる」

 子供のように喜んでいる浩司さん。
 ……どうやら決まりのようですね。
 なんだか、今日の浩司さんは強引だったような。
 ですが、不思議と悪い気はしませんね。







 ◇◇◇







 あれしばらく歩いただろうか。
 特に会話も無く、淡々と山道を登っていく。
 さっきまでは、色鮮やかで新鮮だった景色が、まったく綺麗に見えない。
 風が吹いても、気持ちいいと感じない。
 真上からくる眩しい日差しも、今はうっとうしいだけ。
 ……最悪の気分だった。  そういう気分にさせているのは、あたしの後ろに張り付くようにして歩いているこの人の所為だろう。
「……っち」

 この人はあたしを知っている。だけどあたしはこの人を知らない。
 何か、ぽっかりと穴が空いているようで、嫌な感覚だった。
 あたしは何を忘れている? この人はあたしの何を知っているんだろうか?

「ねぇ。変なことを聞くけれど、いいかしら?」

 突然、後ろから声が響いた。
 跳ねるように反応する。
 心臓の音がだんだんと速度を上げてきているのが分かった。
「……なんだよ」

 声を聞くのも怖かった。
 この人の声は、長く聞いていていいもんじゃない。
 あたしには不利益しか被らない気がする。

「あなたは今、幸せ?」

 そんな、妙な質問を投げかけてきた。
 速度を上げてきていた心臓の音が急激に落ち着いていく。
 この突拍子のない質問のおかげだろうか。
 緊張していた思考を、冷静に戻す事が出来た。

「あんたには関係ないだろ」

 こうなったら、徹底的に拒絶してやる。
 取り付く島もないくらいに。
 そうすれば、この人だって諦める。
 あたしと話をしようって気を失くすに違いない。

「そ。あなたに一言、言っておくことがある」
「別にいい」
「それはね」

 あたしの言葉を聞かずに、どんどん踏み込んでくる。
 甘かった。
 この人はあたし聞いていようが、聞いていなかろうが関係ない。
 ただ、あたしが居れさえすればいいのだ。この場に。

「逃げてばかりで得られ」
「うるさいんだよ」

 最後まで言わせない。
 絶対に。
 その言葉はあたしにとって危険なモノの気がする。

「あんたは一体何がしたいんだ。無理矢理あたしに着いてきて、あたしを揺さぶるような事ばかり言って……何がしたいんだ!」

 いい加減にしてほしい。
 紗衣香さん。今日はあんたの所為で、最悪な一日だ。

「……幸せを知って欲しい。思い出して欲しい。それだけよ」

 幸せ?
 そんなの、もう知っている。
 あたしはここにいる。
 あの人に捕まることなく、こうやってここにいる。
 これが幸せなんだ。
 それを壊そうとしているのは、おまえじゃないか!

「勝手なことを言うなっ。勝手なことをするなっ! あんたに何が分かる? あたしは"今"が幸せなんだ!! 邪魔をするな!!」

 気が付いたら、何かが切れたように吼えていた。

「邪魔じゃないわ。あなたが忘れているというのなら、それを思い出させるだけ」
「何を忘れてるって? あたしは何も忘れてない。あんたに会った事はない!」

 それが真実。
 これ以外の真実なんて必要ない。
 嫌だ。
 もう何も聞きたくない。
 そうして、耳を塞いでいた。

「……そう。それならいいわ。まだ思い出す時ではないのなら。だけど、これだけ言っておくわ」

 だけど、その言葉は容赦なく塞いでいた指を通り抜けていく。

「逃げてばかりで得られる幸せなんて、すぐに壊れるわよ」

 うずくまる。
 力が抜けていくのが分かった。
 自分の身体を抱く。
 寒い。どうしようもないほどに寒い。
 絶望を、知っている。
 手を伸ばして求めても、その手を掴んではくれなかった。
 見向きもされなくなった。
 あの時の拒絶感。孤独感。
 あたしは、いらない子なんだと思った。
 だから、恨む事にしたのだ。気持ちを偽って。
 そうしないと、心が折れてしまいそうだったから。

「……逃げてなにが悪い」

 この人に対する怒りなのか。
 過去に対する恐怖なのか。
 それとも、もっと別の何かなのか、分からない。
 だけど、手が震えていた。

 どうしてこの人は深く深くあたしに入り込んでくるんだろう。
 思い出さなくてもいいようなことを思い出させて……。

「逃げて何が悪いんだよ!! じゃあ、あんたが変わりとやらになってくれるのか!? あんたがあの人の代わりに母親をやってくれるっていうのか!?」

 そんなこと出来るわけがない。
 信じたくなくても。認めたくなくても。あの人が……あたしの母親なんだ。
 その代わりなんて、いるわけがないのだから。

「あたし何かしたか? いけないことでもしたっていうのか?」

 何か理由があるのだとしたら教えて欲しい。
 どうしてあたしは、今独りなんだ?
 どうしてあの人は、あたしの前に現れないんだ?
 どうしてあの"檻"のような家に……あたしを閉じ込めた?

「教えてくれよ! なぁ? なんであたしを産んだんだよ? 育てる気がないなら、なんであたしを産んだんだよ!?」

 ずっとずっと聞きたかった。
 あたしから自由を奪い、束縛を与え。
 温もりを奪い、孤独を与え。
 死を奪い、生を与え。

 ……何のために、あたしは生きている?
 いや、生かされている?

「……辛い事が重なれば、人は壊れてしまう。あなたはその事を、いつか知る日が来る」

 坂上さんは、あたしをじっと見つめながら、説得するように言ってくる。
 それは、懇願に近いものが、見えた。

「だからその時に、よく考えて欲しいのよ。あなたの事を。そして、あなたの母親である如月 美冬の事を」

 久々に聞いたあの人の名前。
 記憶がある。
 温もりの記憶。
 あたしを抱く、母親の感触。
 あたしの頭を撫でてくれる、父親の感触。
 確かに、あった。
 泣きたくなってしまうような、無償の愛情が。
 でも今は、どれだけ焦がれても、得られることの無いもの。

「……何も変わらない。あたしはあの人を恨む。あの人の元には戻らない」

 気付いてしまった気持ち。
 あたしは、あの人を憎んでいると言いながら、あの人を求めている。
 あたしにだって……温もりはあった。
 生まれたときからずっと一人だったわけじゃなく、いつの日かを境にあたしは独りになったのだ。
 それを、思い出してしまった。

 ただ、いつからなのか。
 それは、思い出せなかった。
 いや、それで良かったのだ。
 それを思い出してしまうと、あたしを保っているもの全てが壊れしまいそうな。
 そんな予感がした。

「……」

 坂上さんは何かを言いたそうにしていた。
 言えばいいのに、あたしにあれだけのことを言ってきたのだ。
 今さら、何を遠慮するというのだろう。

「なんだよ」
「なんでもないわ。さぁ、行きましょうか」

 ずっとあたしの後ろについていた坂上さんが、先に歩き出す。
 気に食わない。
 ズカズカとあたしの中に入ってきたくせに、何を押し留まっているのだろう。
 吐き出すのなら、全てを吐き出せ。

「なんか言いたいことが、あるんじゃないのかよ」
「今は何もないわ。それに、あなたには先に知ることがあるから」
 そう言って、どんどんあたしより先を歩いていく。
 先に知ること……先生のこと。
 つまり、知った後に何かがあるということ。

「……っち」

 坂上さんの後を追い、歩き出す。
 あたしはこの先、何を知っていくのだろうか。
 何を知ったとしても、あたしの想いは変わらない。
 変えるわけにはいかない。
 今さら、どうしろっていうんだ。
 ずっとずっと一人にしておいて、それなのに監視のように自分の足元に置いて。
 あたしは物じゃない。
 あの人の人形なんかじゃない。
 それを、あの人に分からせてやる。

 だから知る。
 自分の周りの事を。
 あの人と対等に闘うために。







 ◇◇◇







 私は今、校庭のベンチに座っています。

「いったー」

 私の横で、浩司さんはくぐもった声でそう叫びました。
 顔は真っ赤に腫れていて、もの凄く痛そうです。
 というのも、中学生の男の子がおもいっきり蹴ったボールを顔面にぶつけられてしまったからなのですが。
 冷やしたタオルを当てているのですが……大丈夫でしょうか?

「ちくしょう。小林のヤロー、手加減無しで蹴りやがった」

 手加減するなと言ったのは浩司さんなのですが。

「鼻血は止まりましたか?」
「ん? ああ、大丈夫。悪いな」
「いいえ。私の仕事ですから。まさか先生の方を相手にするとは思いませんでしたが」

 浩司さんだからこそ、っていうのもあるかもしれませんが。
 子供っぽいというか、子供の時の気持ちを忘れていないっていうか。
 こういう性格は羨ましいものです。

「あ、あはははははは。いや、面目ない。つい熱くなっちまった」
「熱くなるのは構わないのですが、結果がこれではどうしようもないですよ」
「まったくだな。直さないと」

 そう言って、直ったためしなどないのですけど。
 そこが浩司さんの良い所でもあり、悪い所でもあります。

「それでも、約束は約束だからな」
「え?」
「忘れたわけじゃないよな? 俺が一点も取られなかったらデートするって」
「……あ」

 正直、忘れていました。
 だけど、確かに一点も取られませんでしたね。
 生徒達にだいぶ文句を言われていましたが……。
 それでも、ただゴールを守り続けたのは……私との約束があったから?

「おいおい」
「だ、大丈夫ですよ。覚えてます」
「よしっ! じゃあ行こうな! 近いうちに」

 浩司さんは本当に嬉しそうに、笑っています。
 どうして、そこまでしてくれるのでしょう?
 私は一応、元気になりました。
 色々なものがふっ切れた気がします。
 それなのに、どうして浩司さんはここまで私の元気を出そうとしてくれるのでしょう?
 優しく、してくれるのでしょう。

 思えば、浩司さんはいつも私に気を遣っていてくれていた気がします。
 私が落ち込んでいたり、ちょっと憂鬱になっているときも、いつの間にか私の側に来て、話を聞いてくれたりしました。

「あの……どうして、私にこんなにも優しくしてくれるんですか?」

 気がついた時は、そう質問していました。
 不思議だったから。
 私は浩司さんに対して、特別何かをした記憶はありません。
 いくら私が妹のように見られていたとしても、なんだかおかしい感じがしました。

「どうしてって……」

 浩司さんは困っているようでした。
 それは、やがて苦笑に変わり、しょうがないなぁという雰囲気で。

「それは、簡単だって」

 浩司さんは私の目を真っ直ぐに見つめて言いました。

「俺は紗衣香ちゃんのことが好きだからさ」
「……え?」

 その言葉を理解するまで、数秒かかりました。
 思いがけない言葉。

「もう、何度言ったか分からないけど、ずっとずっと好きだった。付き合ってくれとかそういうことを言う気はないけどな」

 浩司さんは、少し緊張しているようでした。
 私の反応を待っています。
 その様子からは、まるで懇願に近いものを感じました。

 ……あれ?
 私は知っています。
 こういう雰囲気を……私は知っています。
 だけど私は、浩司さんに対して、その時にどういうふうに返したんでしょうか?
 思い出せません。

 だから、応えなくては。
 どんなことでもいいから。
 浩司さんが言ってくれたことに対して、反応を返さないと……。

「……どうして、ですか?」

 何故か私は、疑問を口にしていました。

「あ、いえ。ち、違うんです!」

 何をやっているんですか私は!
 どうしてその言葉になるのですか!
 もっと他の事、他の事を言わないと!!

「ははっ、あははははははは」
「え?」

 浩司さんは突然笑い出しました。
 すでに混乱している私は、状況に追いつけなくなってきています。

「気付いてもらえた。やっと……本当にやっとだ。知ってもらえるまで何年掛かっただろうか」

 その言葉からは、本当に嬉しさがにじみ出ていました。
 そうだ。
 私は知っているんです。
 浩司さんが、こういうふうに私を好きだって言ってくれたことは、何回かありました。
 どれも全部、私は浩司さんの真剣な想いを違うふうに捉えて、応えていました。

 浩司さんは私にとってお兄さんのような存在です。
 だから、浩司さんも私の事を妹のように思っていて、それで「好きだ」って言ってくれていたのだと……自分勝手な勘違いをしていました。

「私は今まで、ずっと気が付かないできたのですよね? どうしてそこまで私を……」

 酷い女です。
 鈍感にも程があります。
 そんな私を……どうして今まで。

「理由なんてない。ただ、伝えたかった。紗衣香ちゃんが俊也のことを好きだったってことは知ってたし、俊也が優日ちゃんを選んでも、ずっと想っていたことも知ってた」

 ……浩司さんには全部バレているようです。
 私は、執念深い女なのです。
 手に入らないって分かっていたとしても、振り向いてはくれないって分かっていても。
 どうしても諦めきれませんでした。

 ですが、私は先生に気付いてもらえました。
 先生のことが好きだって、気付いてもらうことが出来ました。
 私はどこまで鈍感なのでしょう。
 どこまで残酷なことを、今までしていたのでしょう。

「すみません。その、私……今まで……知りませんでした。浩司さんが私に好意を寄せてくださっていたなんて……まったく、気付きませんでした……すみません。本当に、すみません」
「ははっ。鈍感過ぎ。だけど、その全部が君で、その全部が好きだった。謝る必要なんてない」
「――っ。はい」
「さ、帰ろっか」

 私の横で、すっと立ち上がる雰囲気を感じます。
 私も一緒に立ち上がりました。
 けれど私は、浩司さんの顔をまともに見れません。
 だけど、私は答えなくては。
 伝えてくれた想いに報いなければいけない。

「あ、返事はいつでもいいぞ。元々期待なんてしてないしな。なんなら返事自体しなくてもいい」
「そっ、そんなこと!」

 答えよう。
 そう思っても上手く言葉に出来ませんでした。
 私はいったい浩司さんのことをどう思っているのでしょうか?
 お兄さんのような存在。
 だけど、それだけではないような気もします。
 絶対に嫌いではありません。むしろ好きです。
 それは偽り無い事実。

「混乱するだろ? そう思っていなかった人に突然言われたんだ。答えてくれるのなら、よく考えてほしい。俺はいつまでも待ってるから」
「……はい」
「おっと、恋敵が帰ってきたようだな」

 校庭を出て、診療所に続く道に先生の姿が見えました。

「恋敵って、どういうことですか?」
「その通りだよ。俺のライバル。最高のな」
「……浩司さん、何か勘違いしていませんか?」

 浩司さんは、まだ私が先生のことを好きだと、思っているようです。
 私の想いはとっくの間に終わっています。
 先生と姉さんの想いがどれだけ強かったか、すぐ近くで見ていましたから。

「私は今、先生に対して恋愛感情は抱いてません」
「……」
「だから、真剣に考えさせてください。本当に申し訳ありませんが、もう少し時間をください」
「……ああ」

 それが、今の私に出来る精一杯の答え、でした。

「ま、脈ありって考えるとするよ」
「ふふっ。はいっ」

 私が笑って浩司さんを見上げると、浩司さんも緩やかに笑ってくださいました。
 すみませんでした。
 心の中でもう一度謝ります。
 嬉しかった。私を好きだと言ってくれて、とても嬉しかったのです。
 だから、真剣に考えたい。
 まだ分からないですけど、考えて、考えて……浩司さんを苦しめてしまった何倍も考えて、きっと答えを……出します。







 ◇◇◇







 テーブルにうつ伏せになって、ウトウトしていた。
 寝てしまっていたのだろうか、窓から射している光はオレンジ色をしていて、テーブルから、椅子から、冷蔵庫から、何から何までオレンジ色で包まれていた。

「ん……」

 あの後、家に戻ってきたのは二時を過ぎた頃だった。
 椅子に座っても何もする気が起こらず、テーブルに突っ伏してしまった。
 そのまま知らず知らずのうちに……寝ていたんだろうな。

「ただいまー」
「ただいま帰りましたー」

 霞がかった頭の中に、明るい声が響いてきた。

「ねぇ、紗衣香ちゃん。なんで僕は殴られたんだろう?」
「きっと、お会いできたのが嬉れしかったのですよ」
「いちいち会うたびに殴られてたら、僕の身体が持たないよ」
「ふふっ。大丈夫ですよ」

 殴るだの、身体が持たないのだの、物騒な話が聞こえる。
 会話の内容にしては楽しそうだけど。

「いや、絶対大丈夫じゃないから……痛いなぁ、ホント」
「はいはい、今、手当てしてあげますから」

 もうそろそろここに来るだろうか?
 起きないと。
 目を擦り、ぼやけていた頭を活動させる。
 ちょうど、その時にドアが開いた。

「あれ? 秋亜ちゃん?」
「ふわぁ……っ。待ってたよ。ったく、どこに行ってたんだよ。あんたは…」
「ごめん。ちょっと急な用事が出来てね」

 なるほど、教える気はないってか。
 まぁいいや。そんなに聞きたいってわけじゃないし。

「じゃあ、夕食を作っちゃいますね」
「ああ。そうだね。お願い」
「……なぁ、大体メシ作ってるのって紗衣香さんじゃないか?」

 上月が作っている姿は一切見たことない。

「うん? まぁ、一番上手だからね」

 確かにおいしい。
 人に出せるレベルとしては、上級の腕前だ。
 この人よりも上手いって言うのだから、先生は本当に料理が上手だったんだ。

「さてと、じゃあ、確認をしたい」

 そう言って、あたしの真正面の椅子に座る。
 今までとは違う雰囲気。
 真面目でいて、何かもの悲しい雰囲気。

「もちろん僕が話したいから話すのだけど、これから話すものはとても辛いものだから、聞くのが嫌になったらいつでも止めて良い」

 それは分かっている
 この人たちを包んでいる空気がそれを証明している。
 だけど、あたしは知りたいんだ。
 こっちも、簡単な感情で言ってるわけじゃない。

 それに全てを知ろうと、覚悟を決めた。
 なら、立ち止まるわけにはいかない。
 この話から得られるものは、きっと尊いものだから。
 あたしが追い求めている先生の姿が、やっと掴める。

「分かってる。なんでも来い。あんたが見てきたものをあたしに教えてくれ」

 上月は少し黙った。
 静かに、あたしを確かめるように、あたしの瞳を真っ直ぐに見つめてくる。

「分かったよ。全部教える。嘘偽りなく全部。だから、全てを受け止めて欲しい」

 先生。
 あなたは最期にどんなことを想った?
 上月の事? 紗衣香さんの事? それとも、もっと他のこと?
 これから、あなたの最期の話を聞きます。
 他ならぬあなたの恋人の口から、全てを聞きます。

 この場所にいる人たちを蝕んでいる、先生の死。
 先生。
 あなたはこの場所に、何を残して逝ってしまったんだろう。

 上月は目を閉じて、語りだす。

「これは、僕の原罪。もう償うことも、謝ることさえも出来ない罪」

 それは一つの、大きな大きな、終わりの物語。






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