もうどれだけ歩いただろう。
 足には既に痛いという感覚すらまったく無かった。
 病院から抜け出して、走って、歩いて、とりあえずここまで来た。
 もう少し、後もう少しで目指していた場所に着くんだ。
 大丈夫。上手くいく。
 自分でも最低だと思う手を使って、準備をしてきたんだ。失敗するはずが無い。
 それに諦めてなんかいられない。
 "先生"が住んでいた町まで、後もう少しなんだ。
 そこにはきっと、あたしが求めているものがあると信じている。
 不意に錆びた鉄の匂いを感じた。
 目の前には電車が一両止まっている。
 あたしは急いで乗り込み、誰一人として乗っていない寂しい空間を眺めた。
 ……まるでここは"檻"だ。あたしの家とよく似てる。
 席に座り一息つく。いけない。暗い事を考えちゃダメだ。
 さぁ、もう少しだ。
 もうすぐだよ。先生。『穂波町』まで、あともうすぐ。




『責任〜伝えるべき想いと手紙と〜』






 あの後、僕は見ていることが出来ず、元自分が使っていた部屋に来ていた。
 一年前と変わらない部屋。
 ベットの配置、机の配置、テレビの配置。何もかもが。
 まるで、僕が必ず帰ってくると、変わらずにここで暮らせるようにと、準備されているようだった。
 部屋に埃一つたまっていない。ちゃんと整理されている。
 これは紗衣香ちゃんがしてくれたのだろうか。
 僕を恨んでいる紗衣香ちゃんが、僕の部屋を掃除してくれている?
 そんなことがあるのだろうか。
――――コンコン。
 不意にドアを叩く音が聞こえた。
 誰だろう? といっても、この診療所には彼女以外いない。

「遅くにすいません。私です。紗衣香です」
「あ、うん。ちょっと待って、今開けるから」

 扉を開けると、パジャマの上にカーディガンを羽織った姿で紗衣香ちゃんが立っている。
 先ほどまで泣いていた事もあり、目は真っ赤に充血していた。

「あ、その……先ほどは見苦しい所をお見せしてすみませんでした」

 少し慌てた調子で、頭を下げる。
 僕に頭を下げる必要なんて無いというのに。

「もう落ち着きました。大丈夫です」
「そんなことしないで。君には僕を責める権利がある」

 謝られてはダメなんだ。
 僕が謝らなくちゃいけないのだから。

「……仕方なかったって分かってますから」
「え?」
「あの時は仕方なかったんだって思ってます。だから先生を恨んでなんかいません」

 首を振って、僕の目をまっすぐに見据える。

「ですけど、例え仕方がなかったんだとしても、あの時の先生の行動は間違っていたものだと思っています」

 その瞳には僕が映っている。感情は一つもない。
 まるで、全てを閉じ込めているかのように、何も感じられない。

「だから、許せないと言ったのです」
「うん。そうだよね。あの時、僕は間違った。確かに間違った行動をした」

 気づくのが遅過ぎたんだ。
 だからもう、なにも取り返せなくなってしまった。

「……これを」

 そう言うと、手に持っていた物を僕に手渡した。
 なんだろう。この茶色の封筒は。中に何か入っているみたいだけど。

「手紙です」
「手紙?」
「はい。姉さんが生前に書いたものです」

 裏を見てみると、小さく「俊也さんへ」と書かれてあった。
 彼女の……懐かしい字で。

「姉さんの部屋を片付けている時に見つけたんです」
「僕宛て……」
「お好きなときにお読みください」

 彼女からの手紙を、僕は受けとめる事が出来るだろうか。
 見ないという選択肢はない。
 もちろん見る。どんなに辛いことが書いてあったとしても……必ず。
 それが僕の責任だから。

「わかったよ。ありがとう」
「あの…」

 紗衣香ちゃんがおずおずと聞いてきた。
 少しだけ顔を引き締めて、真剣に問うように。

「どうして、ここに戻ってこようと思ったのですか?」

 彼女からたくさん聞いていくだろう言葉。――「どうして?」
 それが彼女の聞きたいことの全てだと思った。
 "どうして"姉の元から居なくなったのか?
 "どうして"あの時、あの誘いを受けたのか?
 "どうして"最後を看取りに来なかったのか?
 "どうして"葬儀に来なかったのか?
 "どうして"今頃になって戻ってきたのか?
 どうして、どうして、どうして…彼女の頭の中には疑問がたくさんあるはずだ。
 これから、少しづつでもいいから答えていこうと思う。
 それが責任でもあり、自分に誓ったこと。

「このままじゃいけないって思ったんだ」

 素直に打ち明ける。
 自分勝手だったあの時の感情を。

「僕は彼女から逃げた。彼女の死が怖くて、見たくなくて、認めたくなくて……どうしようもなくて、彼女から逃げ出した」

 その時はそれが正しいのだと信じた。
 自分の気持ちを正当化した。

「この町から離れても、ずっと彼女の事が頭から離れなくて、逃げ出した事への罪悪感だけが募って……そして、彼女が死んだことを聞いた」

 それを聞いた時、僕の中の全てが壊れた。

「……何も分からなくなって、どうしようもなく落ち込んで……自分がした事への後悔とか罪悪感とか……そういった負の感情ばかりが湧き上がってきて……自分を責め続けた」

 自分で自分を殺そうとまでした。

「その時、ある先輩が僕にこう言ってくれたんだ」

 僕がここに来た理由の根本
 一歩を。たった一歩すら、踏み出せなかった僕に与えてくれた言葉。

「『お前がお前を責め続けて、その人やその人の家族は救われるのか? 良く考えろ。お前が本当にするべき事は自分を責め続けることなのか?』」

 部屋に引き篭もっていた僕を殴り、諭すように語ってくれた言葉。

「『違うだろ? お前が最低の行動をしたとしても、自分がした事を相手の為に伝えなきゃ行けない』」

 また生きようと、この世界で生きていこうと、そう思えた言葉。

「『だから、伝えに行け。必至に自分の想いを伝えろよ。それがお前の責任だろうが』ってね」

 紗衣香ちゃんは静かに、僕の……いや、先輩の言葉を聞いてた。

「僕は……僕のした事に、ケジメをつけなくちゃいけない。たとえ許されなくても、恨まれても僕のするべき事は、残された人に僕の気持ちを伝えることなんだ」

 僕の心を窺うような、彼女の視線。

「だから……ここに戻ってこようと思った。拒絶されることなんて分かっていたけど、償うため、君や僕が前へ進むために……必要だから」

 だからこそ、しっかりと目を逸らさずに答える。
 この意思は僕の本当の気持ちだと、伝えるために。

「……わかりました。ありがとうございます。教えていただいて」

 紗衣香ちゃんはふっと表情を崩し、お辞儀をした。

「それが自分にした誓いだから」
「誓い、ですか?」

 そう。ここに来る前に自分に誓った。
 当り前だけれど、とても難しいこと。

「何を聞かれても全部、正直に話そうってね」

 紗衣香ちゃんは僕の言葉を聞き、少し考えているようだった。
 やがて考えを否定するように首を振り、口を開いた。

「……では、私はもう失礼します。こんな遅くにすみませんでした」
「いや。紗衣香ちゃんと話せて良かった」
「……はい。それでは、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

 彼女を見送り、ベットに横になる。
 明日は彼女のお墓へ行く。
 そして、そこで手紙も見るつもりだ。
 何が書いてあるんだろう? 彼女の手紙には。
 僕を責める言葉が書かれているだろうか?
 そうであってもおかしくない。
 いや、その確率の方が高いのかもしれない。
 もう償えないのだから…なにがあっても背負う。
 彼女の言葉、全てを。

「大丈夫。受け止められるさ」

 そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。







――――朝。
 朝の陽射しが窓から射し込み、眩しくて目を開ける。
 変わらない日差し、一年前もこうして起きていた。
 目覚ましを使わずとも、ここの太陽は皆を起こしてくれる。
 朝だ、と知らせてくれるのだ。

「九時、か」

 ベットから起き上がり、窓を開ける。
 土の匂いをはらんだ風が僕を包み込んだ。
 気持ちいい。素直にそう思った。
 一つ一つが新鮮で、一つ一つが皆懐かしい。
 この町に、この場所に帰ってきたんだと改めて感じた。

「頑張ろう。今日も」

 窓から見える全ての景色にそう誓い、部屋を出た。







 朝の準備をすまし、ここに住む人が使う、共有の台所に来ていた。
 茶の間みたいなものだ。
 朝食の用意をしていると、紗衣香ちゃんが入ってきた。
 朝の挨拶を交わし、彼女に聞くことがあることを思い出す。

「紗衣香ちゃんに頼みたい事があるんだけれど」
「なんでしょうか?」
「優日のお墓はどこにあるんだろう。教えて欲しいんだ」

 昨日のうちに行きたかったけれど、あの事もあり、聞けなかった。
 だからこそ今日、絶対に行きたい。
 僕の罪がそこにあるのだから。
 それを真正面から受け止めたい。

「そうですね……それじゃ、私も一緒に行きます」
「そう。ありがとう」

 案内してもらうだけにしよう。
 もしかしたら僕は泣いてしまうかもしれないから。
 そんな情けない姿を見せたくは無い。

「それじゃあ、お昼頃には出ますから、それまでに準備をしておいてくださいね」
「ん。わかったよ」
「じゃあ、お願いします」

 いよいよ、彼女のお墓へ行く。
 たぶん、今日は自分にとっての一つの区切りとなる日だろう。
 そして、手紙のこともある。
 何が書かれているのか……。
 もう償うことが出来ない人からの手紙。
 読むことへの恐れは確かにある。

「でも、僕はもう……逃げるわけにはいかない。絶対に」

 逃げ続けて、結局は失敗した。
 何も救う事が出来ず、彼女をも苦しめてしまった。
 何が書いてあっても受け止める。
 受け止めなきゃいけないんだ。僕は。
 例えそこに僕を責める言葉が書かれていようと。
 僕を拒絶する言葉が書かれていようと。
 僕を否定する言葉が書かれていようと。
 逃げない。絶対に。






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