少し、昔の話をしようか。
 どうしようもない愚かな罪を犯した青年と、どうしようもないほどに優しい女性のお話。
 ただ、その青年は彼女に二度と会うことは出来ない。
 彼女はこの世界に、もういないのだから…
 そう。これは僕の原罪。
 償うことや、謝ることさえもできない罪。




『帰郷〜犯した罪と再会と〜』






 真っ黒な空に、白い星が点々と輝いている。
 綺麗な夜空。
 僕の隣で彼女が、その星空を眺めていた。
 おだやかに、ただただ笑顔で。
 この時が終わりまでずっと続くだろうと、そう信じているように。

「……」

 想いが繋がったあの日。
 偶然にも流れ星が見えた。
 その流れ星に僕と彼女は誓いをたてた。
 最後まで一緒に居ると。
 絶対に離れることはないと。
 けど、僕は――

「……君に、話さなきゃいけないことがある」

 彼女に対して。

「僕は……」

 裏切りの、そして離別の言葉を。

「僕は……この町を離れる」

 告げた。







「……ん」

 何かが揺れて、眠りから覚めた。
 目を開ける。
 まだ視界がはっきりしていないのか、辺りは一面ぼやけていた。

「……ここは」

 また揺れた。
 僕の身体がというよりは、視界全体が揺れているような感じがした。
 微かに見えるのは窓。
 そして、まるで早送りのように流れていく景色。
 香ってくるのは古びた木の匂い。

「……」

 揺れる。
 目を擦り、視界をはっきりとさせた。
 そう。ここは列車の中だ。
 一定のリズムで、まるでゆりかごの様な心地良い揺れ。
 この気持ちよさで僕は眠ってしまったみたいだ。
 改めて流れていく景色を見る。
 窓の外には一面に稲穂が広がっていた。
 懐かしい気持ち、だけどそれと同時に辛い気持ちが蘇ってくる。
 直前に見ていた夢。

「優日(ゆうび)」

 別れを告げた夜。その日の夢。
 彼女から離れて、何度も見ていた夢。
 僕はその夢の場所に向かっている。
 彼女から逃げてしまった場所に、僕は帰ってきたんだ。

「ふぅ……」

 彼女になんて言えばいい? どうしたらいい?
 もう謝っても、どうしようもないんだ。
 僕はこの町に帰って来る資格がない、彼女に対しても考える資格はない。
 僕は彼女を見捨てて、裏切り、逃げ出した男だ。
 最低な人間なんだ。
 最後を看取ってやることも出来なかった。
 いや、違う。しなかったんだ。
 彼女の死を看取るのが、怖かった。
 彼女を失うと実感することが、どうしようもなく怖かったんだ。
 僕は、自分勝手だった。
 自分が悲しい思いをしたくないから、彼女の元に戻らなかった。
 これは償い……彼女に対する。
 資格がなくても、償いはしなくちゃならない。
 だから戻ってきたんだ。この場所に。

『終点――穂波町。穂波町』

 アナウンスが流れる。
 引っ張られるような感覚の後、列車は完全に停止した。

「……着いたか」

 けど、下りる人は誰も居ない。
 というより、乗客は僕一人しかいないのだ。
 荷物を持ち、列車を下りる。
 静かだった。
 誰も居ない駅。
 目の前に咲き誇る、一面の稲穂。
 そして、遠くに見える町というより、村にしか見えない住居の集落。

「変わらないな。ここは」

 本当に変わらない。
 穏やかで、ゆっくりと時間が流れていく感覚。
 僕はこの感覚が大好きだった。
 ずっと、この場所で暮らしていたいと思った。

「行くか」

 暗くなりそうな思考を押し込め、町へと歩き始めた。







 歩き始めてニ十分。
 町の入り口、商店街に着いた。
 左右に三十軒程度の店がずらっと並んでいる。
 肉・野菜・果物・パン・米の食料関係や、文房具・生活、台所、建築器具などの物品関係も大体揃ってしまうという田舎町にしては妙に品揃えがいい商店街。
 僕はここで生まれ育ったが、この品揃えの良さ未だに謎だった。
 懐かしさに包まれながら、商店街を歩いていく。
 そこを抜けると、ちらほらと家が見え始めた。
 五十数戸の家がそれぞれ思い思いに散らばっている。
 町というよりも村に近いのだ。
 そして、一番奥には山がある。
 山の手前で二手に道が分かれていて、右に学校があり、左には僕が目指している場所…『穂波診療所』がある。

「着いた……な」

 本当に久しぶりに見る場所。
 記憶より古くなっただろうか……一年という短く長い年月を感じた。
 外観は白く、少し黄ばみがかっている。
 上を見上げると『穂波診療所』と書かれている看板。

「また……今日からこの看板を背負うんだ」

 小さな町の小さな診療所ではすまないのがこの場所。
 ここは重傷患者――特に病気により、寿命が残り少なくなった患者が、最後の時を過ごす為に来る場所。
 少し違うがサナトリウム(療養所)のような場所。
 ここで医者が出来ることは、ただ患者が楽に穏やかに死ねるようにする。
 ただ、それだけ。
 ここでの医者はただの無力な人間。
 患者を治すことも出来なければ、助けてあげることも出来ない。
 なんの為に居るのか分からなくなる。
 けど、どの患者もかならず最後に「ありがとう」と僕らに言ってくれた。
 それが、どうしても納得が出来なかった。
 自分は何も出来なかったのに……どうしてお礼なんて言われるんだ?
 昔、ある患者さんにそう聞いてみた事があった。

『この場所は私を暗闇から救ってくれたんだよ』

 その人は、僕の疑問なんてどうってことないように笑顔で答えてくれた。

『死への恐怖とか生きられる人への妬みとか嫉妬とか……そういう暗い感情を優しく包み込んでくれる。もちろん先生や看護婦さんもみんな優しい……本当に私のことを考えてくれてるって伝わってくる』

 僕はその時に知ったのだ。

『最後が……この場所で良かったって、そう思えるんだよ。この優しい場所で良かったってね。他の人もきっとそうだと思う』

 ここで生きていた日々を誇りに思ってくれた、この人のように。

『だから、先生がそんなことで悩まなくても良いんだよ』

 自分がしてきた事にも、誇りを持てるんだという事を。
 そして、この人も数日後、「ありがとう」と呟き、僕の目の前で亡くなった。
 でも、この時はいつもと同じ様な自責の感情は出てこなかった。
 患者さんが「ありがとう」と言ってくれたことを、誇りに。
 そしてここは、心が救える優しく暖かい場所なんだ、とそう思うようになった。
 そんな昔を思い出しながら、診療所のドアを開けた。







 ドアを開けると診療室があり、診療台や僕が使っていた机があった。
 そして、診療台を覆う白いカーテンの奥にドアがある。
 そのドアは僕たち――医者や看護婦、そして患者が住む場所へと続くドアだ。
 ここの診療所にいる間は奥にある、ちょっとしたお屋敷みたいな家に住む事になる。
 そのドアを開けようと手を伸ばす。
 だけど、突然そのドアが開き、僕が知っている懐かしい人が現れた。

「紗衣香……ちゃん」
「……先生」

 なんて言ったらいいか分からない。
 気持ちの整理が付く前に、会ってしまった。

「その、ひさしぶりだね」

 口を出たのは、月日を感じさせる言葉。

「……はい。おひさしぶりです」

 彼女はぎこちないながらも、僕に頭を下げる。
 僕の目の前に居る人……『篠又 紗衣香(しのまた さいか)』。
 ある人の妹にあたる人。

「変わってないね、ここも」

 部屋の中を見まわしながら呟く。

「……姉さんのお墓には行きましたか?」

 僕の感想などどうでも言いように、問いただす。
 そう。この人は僕がここで最後に診た患者の妹。

「いや、まだ。これから行こうと思ってる」
「そうですか」

 会話の最中、彼女はずっと無表情だった。
 まるで能面のような顔で、じっと僕を見つめている。
 押し隠しているのか、決して感情を見せようとしない。

「あの、さ」

 彼女の目が僕を見る。
 その目には何も感じない、憎悪も嫌悪も…何も。
 ただ無機質に黒く輝いているだけ。

「……ごめん」

 会ったら絶対に言おうと思っていた言葉。
 いや、言わなければならない言葉。
 自分には謝ることしか出来ないから。
 恨まれて当然。家族なら、なおさら。

「……どうして、謝られるのですか?」
「僕は、彼女を見捨てた、裏切った……謝っても、どうしようもないことだって分かってる。けど、どうしても言いたかった」
「それは、先生が罪から逃れていたいだけなのでは?」

 彼女の瞳に感情が宿り始めた。
 それは怒り。たぶんそうだ。そう感じた。

「……そうなのかもしれない。確かに償いたいとは思っている。それが到底出来ないってことも。だから、僕にはこれしか言えない」
「……」

 彼女は目を閉じ、静かに口を開いた。

「……私は先生を、許すことは出来ません」

 明らかな拒絶の言葉を、僕に向ける。

「先生は言いましたよね? 『絶対に帰って来る』って」

 今まで、ぶつけたくてもぶつけられなかった想いを。

「でも帰って来なかったっ。姉さんの……最後の日でさえも」

 僕が犯してしまった罪を、突きつける。

「姉さんは、最後まで先生を信じていました。必ず会いに来てくれるんだとっ……でも、先生は……結局、帰ってきませんでした!」

 怒りの次は悲しみの瞳。
 それは最大級の力で僕の心を締め付けた。

「でも最後の最後までっ。姉さんは『きっと来てくれる』って…そうっ…言ってっ――」

 その先は言葉にならなかった。
 目の前には、泣き崩れた女の子。
 何かを言ってあげたい。
 でも今、何を言ってあげられる?
 彼女がこんなに泣いているのは僕のせいだ。
 そんな僕が今、何を言ってあげられる?
 どんな慰めの言葉も、償いの言葉も今は意味をなさない。
 何を言っても彼女を傷つけるだけだ。
 言葉を掛けることすら、僕には出来ないんだ。
 それだけの事をしてしまったんだ。
 僕は、自分の犯した罪の大きさを改めて思い知り、ただ立ち尽くしていた。






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