「今日はここまで。晩ご飯にしようか」
「あ……うん。そうだな」

 窓の外を見てみると、いつの間にか真っ暗になっていた。
 時計を見ると時刻は八時。
 話を聞き始めたのは夕方になる少し前だから四、五時間あいつの昔の話を聞いていたっていうことか。

「まだ、続きがあるんだよな?」

 上月はこちらを見ないで「うん」とだけ返事をした。
 正直これからどうなるのかはまったく想像できない。
 あたしが知っている事実は、先生はもう死んでいるっていうことだけだ。
 まぁ、事は望み通りに進んでいる。
 あたしは元々、あたし自身が知ることが出来なかったことを知りに来たのだから。
 それが思わぬ時に叶っただけ。

「ああ、そうだ。紗衣香ちゃんを呼んできてくれるかな」
「ああ。分かった」

 席を立ち上がる。
 ずっと座っていたせいか尻が痛かった。
 天井に向けて手を伸ばし、背伸びをする。

「あははは、ごめんね、やっぱり長かったか」

 アタシが伸びをしているの気がついたのか、少しだけ申し訳なさそうに言う。

「気にすんな。アンタの話は中々興味深いよ」
「そう。それはよかった」

 ふっと笑みを漏らす。
 ……こいつの笑顔って、なんか胸の奥に響くっていうか、時々泣きたくなる。
 よくは分からないけれど、そんな感情にさせる。

「ん? どうかした?」

 気が付くとずっと上月を見ていたみたいだ。
 不思議顔でこっちを見ている。

「あ、いや、なんでもない」

 少し焦ってドアに手をかける。

「あれ?」

 ……軽い。
 見れば少し隙間が開いていた。
 ドアは上月がちゃんと閉めたはずだけど……。
 まぁ、いいや。んなことより、今は優先すべきことをしよう。
 ドアを開け、紗衣香さんの部屋へと歩き出した。





「幕間〜彼女の檻と本音と〜」






 ◇◇◇




 ドアの隙間から聞いた話は、懐かしい記憶を思い出せました。
 パラッと一枚一枚目を通して、あの事故の時の日記を見ます。
 今でも手に取るように思い出せる記憶。
 だって、いつもいつも思い出していますから。
 ……姉さんの記憶を。
 楽しかった、悲しかった……なんでもいいんです。
 ただ、姉さんとの時間の記憶が……頭の中でずっと回っていました。
 私は、なにをしたいのでしょう。
 私は、姉さんが思い残したことを、叶えてあげなければならないのに、全てを先生に押し付けています。

「私は……なんて卑怯者なのでしょう」

 日記に挿めてある封筒……二通。
 一つは私。そして、もう一つは……。
 ――コンコン。

「紗衣香さん? 居る?」

 現実に思考が戻されました。
 私は暗い部屋で暗い思考に陥っていたみたいです。

「紗衣香さん?」
「あ……はい。いますよ」

 そう言うと、ドアを開けて秋亜さんが入ってきました。

「うわっ。暗っ! 紗衣香さん、もしかして寝てた?」

 電灯のスイッチを入れ、私の姿を確認します。
 彼女の明るい声は、なんとなく寂しさを和らげてくれます。

「いいえ。違いますよ」

 フッと笑顔を作ったつもりでしたけど、何故か秋亜さんの顔は少し驚いているようでした。
 ポケットをごそごそとして、ハンカチを私の頬にスッと当てました。

「秋亜……さん?」
「どうしたの? なんか悲しいことでもあった?」

 悲しいこと?
 それは……姉さんのこと?
 だけど、どうしてそれが秋亜さんに?

「だって、泣いてる。紗衣香さん」
「あ……え?」

 自分の頬に手を当てると、生暖かい水滴が触れました。
 私は……・知らないうちに、泣いていたのですか。

「ご、ごめんなさいっ」

 すぐに両手で涙を拭いました。
 年下の方にこんな姿を見せてしまって、恥ずかしいというか、申し訳ない気持ちになります。

「謝る事じゃないけど、本当にどうかした? 大丈夫?」
「はい。大丈夫ですよ」

 心配ないと、いつもより少し声を大きめに、そして顔は笑顔を作って言いました。
 本当は大丈夫じゃない。
 だけど、それは私の問題。

「……ならいいけど。上月が晩ご飯にしようってさ」

 納得していない感じでしたが、しぶしぶと了承する秋亜さん。
 彼女にはもっと大変な事がこれから起こるでしょう。
 私は、そろそろ立ち直らないといけません。
 自分の力で、誰の力も借りずに。

「そうなんですか。言ってくだされば私が作りましたのに」
「……あいつは何でも自分一人でしようとするヤツに見える」
「そんなことはないですよ。私に気をつかってくれたんですよ」

 先生は元々、そういう人です。
 お医者さんという事もあるのでしょうけど、こちらの調子の悪さというものを見抜いてしまう人。

「気ぃ? 分かんないけどねぇ……あたしには」
「あははは。直に分かると思いますよ。それじゃあ、行きましょうか」

 秋亜さんの背中を押して、部屋を出ました。







 ◇◇◇







「…ふぅ」

 湯船に入りながら息を吐く。
 温かい……ホッとする。
 なんだか長い一日だった気がした。
 それだけあいつの話は、あたしに対して重いものだったという事なのだろうか。

「先生」

 思い出す懐かしい日々。
 あたしが、あたしで居ることが出来た貴重な日々。
 ……先生。あんたの最初の教え子はまだ生きているよ。
 あんたは死んじゃったみたいだけどな。
 あたしに死ぬなって言っておいて……そりゃないだろう。

「もう一度、会いたかったな」

 無理だって分かっていたけど、その姿を追い求めた。
 だからあたしは今、ここに居る。

「……はぁ」

 天井を見上げる。
 あの人の"檻"はどこまで広がってるんだろう。
 突きつけられる。
 お前はずっと独りなんだって。

「っく!」

 バシャンと水飛沫が上がる。
 水面に映った自分の今にも泣きそうな顔を叩いた。

「挫けるもんか! あたしにはまだ知らなくちゃならない事があるっ!」

 だから、泣いちゃダメだ。
 泣く、ということは自分の弱さを認めることになる。
 そんなことする訳にはいかない。
 もう絶望にも慣れた。
 ならちょっとしたことになら、耐えていける。

「そうだろ? 先生」

 あんたは教えてくれた。
 簡単に挫けちゃいけないって。
 自分を信じて自分の身体で突き進めって。
 なら、耐えていける。
 どんな悲しいことも、辛いことも、耐えていける。

「……」

 そっと右胸を撫でる。
 自分の性別を疑いたくなるほどに、女として在るべきものが無い胸。
 片方だけ平らな、男みたいな胸。
 命の……代償。

「耐えて……いける」

 分かっていた結果。
 納得の上でやったこと。
 それでも、辛いものは辛い。
 ズキっと、右胸……それよりもっと深いところが痛んだ。

「ふっ……あ、あははは」

 無理矢理笑った。
 色々なものを拭い去るように。

「はははははは……はは…………っ」

 立ち上がる。
 もう何も考えたくない。
 それに頭がボーっとしてきていた。
 身体が熱く、顔が赤い。

「あ」

 視界が揺らいだ。
 足元がふらつき、湯船に手をつく。
 だけど、力が全然出なかった。

「あれ……?」

 手が滑った、と分かった時は腹に衝撃がきた。

「……っ」

 身体が言うことを聞かない。
 湯船から出なきゃいけないのに……身体が動かない。
 そして、視界が霞んでいく。







 ◇◇◇







「あの、それはどういうことですか?」

 食後に聞きたいことがあり、柚華さんに電話をしました。
 聞きたいことは、ある程度の確認を込めたこと。
 確かにそれは当たっていました。
 ですが……。

『なんて言ったらいいか……つまりね、あの娘は母親に会ったことがないのよ。本人同士はただの一度も、ね』

 分かりません。
 どんなに忙しくても、会う時間くらいは絶対あるはずです。

「どうして……」
『異常でしょう? どう考えてもおかしいわよね』
「……何かあったのですか? 彼女の過去に」
『彼女に問題はないわ。問題があるのは先輩の方』

 つまりは、母親の過去に何かがあったということ。

『ねぇ? もしも、自分の周りの人が誰も居なくなってしまったら……どうする?』
「……え?」
『自分が信頼していて……心を許すことが出来る存在が誰も居なくなってしまったら?』
「あ……ぅ」

 思考が停止しました。
 まるで、私の事のような気がして……。

『だけど自分は、死なずにずっとそこにいる。どんなに寂しくても、辛くてもね』

 お父さんを失った。お母さんを失った。そして……姉さんを失った。

『自分を中心として、自分の周りが居なくなる。これって……どういうことか分かる?』

 怖い……まるで、自分のせいで、大切な人が消えてしまったかのように……錯覚してしまう。
 私の所為で……私が何も出来なかったから?

『どうしたって、壊れちゃうわよね。心が。色々なものが自分を苛んでいってしまう。考えたくなくても……孤独に蝕(むしば)まれていく』
「あ……でも、それは」

 それは、大事なものが見えていないだけ、なのではないでしょうか。
 死んでしまった事実より、その人が残していってくれたものが絶対あるはずです。
 その人が……、姉さんが……?

『今はまだ詳しくは言えないけれど、そういうことなのよ。ごめんね。こんな中途半端なことしか言えなくて…………紗衣香ちゃん?』

 柚華さんが、心配そうな声で私の名前呼びました。

「あ……いえ、大丈夫です」

 客観的に私の状態というものが見えた気がしました。

『そう……ならいいのだけど』
「紗衣香ちゃんっ!」
「え?」

 なにか慌てた様子で、私の名前を呼ぶ先生の声が聞こえました。

『どうかした?』
「いえ、先生が呼んでいるみたいなので、切りますね」

 なにやらただ事ではない様子であるのが分かります。

『そう。じゃあね』
「紗衣香ちゃんっ!」

 電話を切るのと同時に、先生が私の前に現れました。
 その様子は声と同じで、焦っています。

「どうかしましたか?」

 とりあえず落ち着いて先生のお話を聞かないと。

「ちょっと来て!」
「へ?」

 お話を聞く間がなく、私の手を取って走り出しました。

「あ、あの」
「秋亜ちゃんがのぼせて、倒れたんだ。お風呂場で」
「頭とかは打ってないのですか?」

 私はこういう時にはいやに冷静でいられます。
 というより、冷静でいられなければ、看護士としてやっていけません。

「見た限りでは外傷はないと思う。ちゃんと見てないから分からないけど。それに、このままでは風邪も引いてしまうし……だから探してたんだ」
「あの、それはつまり」

 先生の部屋の前まで来ました。
 扉を開けて、ベットの上にいる秋亜さんの姿を見ます。

「裸のままで、先生の部屋まで連れてきた、ということですか?」

 もちろん毛布は掛けられてはいますが。

「いや、一番部屋が近かったから…ね。あははは」

 早く身体を拭いてあげないと、風邪を引いてしまう。
 ですが、先生のベットがびちゃびちゃになっています。
 これでは、ここで拭いてあげても意味が無いです。

「私の力では無理ですから、毛布にくるんだままで秋亜さんのお部屋に運んでもらっていいですか?」
「あ、うん」
「くれぐれも変な場所を触らないようにしてくださいね」

 先生なら無用な心配ですけどね。







 ◇◇◇







「ぅん…」

 額が冷たい……。
 それに風が吹いているみたいだ。
 ポーっと熱くなっている身体に風が一定に吹いている。
 気持ちがいい。
 ホッと安心できるような……そんな感じがする。

「……ん」

 薄く目を開けた。
 人が居る。
 私の横に一人。
 そして他に覗き込んでいる人が一人。

「あ、気が付いたみたいですね。良かったです」
「そっか。良かった。一安心だ」

 今度は声が聞こえた。
 男と女。
 どちらも聞き覚えがある声。
 そうだ。
 あたしはどっちも知っているじゃないか。

「……あ、あれ」

 視界にあるのは白い天井。
 そして、こちらを覗き込んでいる紗衣香さんと上月の顔だった。
 起き上がる。
 ポトっと何かが腹の上に落ちた……タオル?

「ここ、は?」
「君の部屋だよ」

 どうしてあたしは布団なんかに?
 要領を得ない。
 確かあたしは、風呂に入ってて……

「お風呂場でのぼせて倒れてしまったのですよ」

 諭すようにあたしに語りかける紗衣香さん。
 あぁ、そうだ。
 あたし、風呂を出ようとした時にボーっとなって……どうなったんだっけ?

「どこか痛いところはないかい?」

 痛いところ?
 そうか。私は倒れたのか。
 全然覚えていないけど。
 とりあえず、身体を動かしてみる。
 手、足、頭……痛いところは無かった。

「ない」
「そう。良かった。…まったくどれだけ湯船に入っていたの? 今度からは気をつけないと」
「そうですよ。今回は先生がすぐに発見してくれたから良かったですけど…」

 ……ん? 今聞き捨てならない事を聞いた気がする。

「あの……もう一回言ってくれない?」
「はい。今回は先生がすぐに発見してくれたから良かったですけど」

 ご丁寧に一字一句間違えないで答えてくれる紗衣香さん。
 って、先生が?
 …………。

「あ、秋亜ちゃん? 言っておくけど何も見てないからね? ホントに、ホントホント」

 もの凄く慌てた感じで上月があたしに弁解している。
 ってことはだ。こいつがあたしを部屋まで運んだってことかぁ…!

「いや、ホントに見てないよ? それにパジャマに着替えさせたのは紗衣香ちゃんだからね」
「当り前だぁーー!」

 後ろに手を回して、枕をオーバースローで投げつける。
 たいして威力も無いからさらっと避けられた。

「ふふっ。秋亜さん。先生の行動は紳士でしたから、安心してください。そりゃ、ちょっとは見たかも知れませんけどね」
「フォローになってないよ!?」

 ああっくそっ! とんだ失態だ!
 よりによってこいつに見られるなんて!

「こ、怖い。顔が怖いって。秋亜ちゃん」
「っくそ! さっさと出て行けぇ」

 ドアを指差す。
 とりあえずもう出て行ってほしい、ホントに。
 冷静になれない。

「だそうですよ、先生」
「わ、分かったよ」

 そそくさとドアを開け、出て行く。

「はぁ……」
「ふふっ。お顔が真っ赤ですよ、秋亜さん」

 自覚してる。顔が熱い。こんな気持ち初めてだ。
 そりゃ、こんな事態に遭遇することの方が珍しいけど。
 これでも男と付き合ったことなんてない。
 だから身体を見せたこともないし、キスとかだって当然ない。

「紗衣香さん。あんただって女だろーに、あたしの気持ちを汲んでくれてもいいんじゃない?」
「残念。私はおちょくる方が好きなんですよ」
「……いい性格してるね、あんた」
「ありがとうございます」

 褒めてないっての。

「そういや、ありがとね。着替えさせてもらって。紗衣香さんが居なかったと考えるとぞっとする」
「ふふふっ。大丈夫ですよ。先生ならちゃんと拭いて、着替えさせてくれますから」
「そっちじゃない!」
「分かってます。でも先生はちゃーんと紳士に対応してくれますよ」

 信じきった目で、自信たっぷりに言う。

「ふーん」

 未だに良く分からないのが、この紗衣香さんだったりする。
 なんていうか……複雑なんだ。この人は。
 まったく読めないというか、本心が見えない。

「紗衣香さんは……なんていうか……上月の事どう思ってるの?」

 思い切って聞いてみた。
 瞬間……紗衣香さんから微笑みが消えた。
 まずいことだったのだろうか?
 聞いてはいけなかったのだろうか?

「秋亜さんは?」
「へ?」
「秋亜さん。あなたは、先生の事をどう思っていらっしゃるのですか?」
「……え?」

 予想外のことを聞かれた。
 質問したのは私なのに、私が答える羽目になってる。

「ちょ、ちょっと。質問したのはあたしだって」
「お願いします。聞かせてください」

 真っ直ぐにこっちを見つめる。
 表情の無い瞳だけど、逃げる事を許してくれそうもなかった。
 でも……上月の事をどう思うって。

「分からない。ただ、知りたいだけ」
「先生の事を、ですか?」
「……いや。正確には先――優日さんの事を」
「そうですか」

 あたしの目的はそれだけ。
 リハビリっていうのはほとんど嘘。
 篠又 優日という人物を追ってこの町に来たのだから。
 これは私がここにいる上で、ギリギリの言葉だった。
 これ以上は私の素性を明かさないといけなくなる。
 私がどこから来て、どういう人間なのかを。

「やはり姉さんを追ってきたのですね。あなたは」

 だけど、この人には分かっているみたいだった。
 それはそうだろう。
 紗衣香さんは、あの人にとってとても大切な友達の、娘なのだから。
 事情を聞いていたって、不思議ではない。

「紗衣香さん。あたしの事を知ってるの?」
「知ってる、とはどういう意味でですか?」
「あたしが何処から来て、どういう人間なのか……」

 よくよく考えてみて、心が騒ぎ出した。
 あたしの事情を知っているのなら、あの人にも連絡がいっているはず。
 だとしたら、もうここには居れなくなる。
 先生のことを最後まで聞けないで。
 それだけは絶対に嫌だ。

「私が知っているのはほんの少しだけです。ただ、お母様のことは存じて居ます」
「あ……そう」

「如月 美冬さんですよね」

 ひさびさにあの人の名前を聞いた。
 テレビの中ではよく聞こえてきた名前だったけどな。

「如月製薬のご令嬢……ですよね。秋亜さん」
「……いつから知ってた?」
「私は、初めてお会いした時に気付いていました」
「へぇ、苗字だって変えてたのにどうして分かったの?」

 "霧宮"と、そう苗字を偽った。
 そういうふうに全て手配したのだから、私の本当の姓がバレることなんて、そうないと思うんだけど。
 誰かに聞いた?
 だとしたら、この町にはあたしを知っている誰かがいるのか?
 それは……もの凄く危険な気がした。

「秘密です。秋亜さんが思っているようなことではないですから、心配なさらずに」

 紗衣香さんは教えてくれそうにない。
 こういう時の紗衣香さんは頑固だ。
 こっちが諦めるしかない。
 ……とりあえずは紗衣香さんを信じよう。嘘を吐くような人ではないことは分かっているから。

「ご実家に連絡する気もありません。事情はほとんど知りませんが、私は家出娘さんの味方ですよ?」

 紗衣香さんは微笑んでくれた。
 あたしを安心させようとしているのだろう。
 あたしは戻りたくなんかない。
 まだ来て間もないけど、あたしはこの場所が好きになっている。
 だからまた、あの"檻"に戻るなんて絶対に嫌だ。

「……ありがとう」

 信じよう。紗衣香さんを。
 この優しい雰囲気になれる町に住んでいるこの人を。
 それに、連絡する気だとしたら、もうあたしはここに居ないだろう。
 だから、信じよう。

「それじゃ、風邪を引かない様にして下さいね」

 席から立つ紗衣香さん。
 って、あたしの質問は?

「紗衣香さん。質問に答えてない」
「……ふふっ。残念。このまま逃げようと思ってましたのに」

 ドアを開けたまま、こちらに振り返る。
 ホント、この人いい性格してる。

「私は、尊敬しています。一人の人間として先生の事を尊敬しています。ですけど……私は、先生の事を恨んでもいました」
「え……恨んで?」
「……昔のことですよ。何も知らなかった私が、勝手に先生を悪者にして、自分は何もしていないくせに、散々罵って……」
「ど、どういう……こと?」

 分からない。
 紗衣香さんがなんのことを言ってるのか、分からない。
 恨んでる? 罵った? 紗衣香には想像出来ない言葉ばかり。

「私がした。最低の行動です」

 困惑している私を余所に、紗衣香さんはふっと微笑みを投げかけた。

「まだ聞いていないのですね。でしたら、近いうちに分かります」

 その微笑みは、無性に胸を締め付けた。
 予感がする。
 これから聞く話は……絶対に幸せな話ではないと。
 この人たちを包んでいる、悲しい空気の全て。
 それを明日、あたしは聞くんだ。

「それでは、おやすみなさい」

 パタンと、扉は静かに閉まる。
 シーンと静まり返る部屋。

「先生……あんたは何を残していってたんだ?」

 この町に住む人に。
 いったいどれだけのものを残していったんだ?
 悲しみ……それを上回る絶望。
 この人たちは、それと闘っていた。
 いや、今も闘っているんだろう。

「……大丈夫。耐えていける。聞いてみせる」

 あたしは、先生を追ってきたんだ。
 ほんの短い時間だったけれど、それでもあたしにとって最高の先生だった。
 そして、あたしにとってかけがえのない……。

「先生……あんたはこの場所で死んだ。この場所で最期を過ごしていた。この場所で生きていた」

 かけがえの無い場所。
 優しくて……ただ、ゆっくりと時間が過ぎてゆくこの場所で。

「あたしも生きたい」

 もう、あの"檻"になんか戻りたくない。
 一人はもう嫌だ。







 ◇◇◇







 ――バタン。
 部屋を出、扉に背中を預ける。
 秋亜さんに言った事は、嘘偽りのない事。
 私は……それに向き合わないといけません。
 認めなくてはいけません。
 私がした最低の行動を、きちんと受け止めなければ。

「私には、託された想いがあります」

 姉さんからの二通の手紙。
 それは、両方とも妹に当てたもの。
 一通は私。
 そしてもう一通は、会う事が叶わなかった、姉さんの"本当"の妹に当てたもの。
 それを渡さなければいけない。

「姉さん……もう少し待っていてください」

 私は、私自身を見つめ直さないといけません。
 自分がしたことを認めないといけません。
 先生が戻ってきた時は、とても怖かったです。
 認めるのが怖かったのです。
 何もしなかった私、ただ嘆いて、先生を罵っていただけの私。

「最低だった。それだけの話です」

 姉さんに対して、何も出来なかった自分。
 姉さんが望んだ事を叶えてあげることが出来なかった。
 だから私は、託された事をするだけ。
 ですが、それが終わったら私はどうなるのでしょう?

 これは所詮借り物の意思。
 私が生きていくには、私の意志が必要なのです。
 人が生きていくには、理由が必要です。
 それがなければ、例え身体が動いていても、生きていないのと同じなのです。
 言うなれば人形。
 手は動く、足も動く、話す事が出来る、笑うこと泣くことも出来ます。
 ですが私には理由が、目標がありません。
 私ではない意思が、私の身体を操っているだけ。

「……それも、もう終わりにしないといけません」

 私の身体には私の意思がなければならない。
 それは当然の事。
 そして、見つけなければなりません。
 生きる理由を、生きる目標を。

「……紗衣香ちゃん?」

 一瞬、身体が硬直しました。
 居ては困る人の声が、聞こえてしまったから……。

「せ、先生」

 自分でも声が上ずっている事が分かりました。
 今の私は、あまりにも自分自身を曝け出し過ぎています。
 まだ、誰にも知られたくないのです。

「どうかした? なんか辛そうな顔をしていたけど」
「……あ、いえ……大丈夫です」

 いつもの自分を取り戻していかないと……。

「あ、そうだ。紗衣香ちゃんに話さないといけない事があったんだ」
「え? 私に、ですか?」
「そう。ちょっと来てもらっていいかな」
「あ、はい」

 乱したまま、先生の後に付いていく私。
 それでも、私の頭は必死で訴えてきます。
 今変わらないで、いつ変わると言うんだ、と。
 だから……。

「先生」
「ん?」

 呼び止めて、真っ直ぐに頭を下げた。

「すみませんでした」

 それは、今までの自分との決別の言葉。
 情けない自分。弱い自分。最低だった自分への決別の言葉。
 そして何より、私の生きる理由を見つけ出す為に必要な言葉。

「……どうして?」

 先生はとても困った顔で、私を見つめていました。
 だけど、私は答える気なんてありません。

  「さぁ、先生。お話、聞かせてください」

 先生の横を通り抜け、振り返りながら笑います。

「あ、あぁ」

 先生は狼狽しているようです。
 それはそうでしょう。
 私の態度がいきなり変わったのですから。
 そんな先生がおかしくて、また私は笑ってしまいます。

「ちょ、本当にどうしたの。紗衣香ちゃん」
「いいえー。なんでもありません」

 先生のお話はどんなものなのか、想像が付きません。
 ですが、どんなものであろうと、私は秋亜さんに本当の事を話すつもりです。
 私が知っている篠又 優日という人物の事を。
 秋亜さんは事情は分かりません。
 ただ姉さんに会いに来てくれたということが、とても嬉しかったのです。
 それにきっかけを与えてくれました。
 認めるきっかけ。
 立ち直るためのきっかけ。
 もうこれ以上後ろを向いていられません。
 悲しんでいるのではなく、姉さんが残していったものを叶えてあげなければ。
 それが終わった後のことを考えるのは確かに怖いです。
 ですが、それでも前に進まなければ、何も変わりません。
 だから、進んでいかなければ。
 先生のように、前を向いて。






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