ある晴れの日。
一つの終わりと、一つの始まり。
数日後。
だいぶ遅いお葬式を執り行われた。
来てくれた人たちは百人を超えていて、個人でこんなに集まるだなんて、異常なくらいだった。
式の最中はどこからともなく、すすり泣く声が聞こえて。
優日さん達の両親は本当に多くの人に慕われていたんだってことが身に染みて分かった。
一番泣いていたのは、友人代表で最後のお別れをしていた人だろう。
柚華さんの話で聞いていた美冬っていう人だった。
こんなことを思うのは不謹慎かもしれないけれど、この光景は奇麗だなって思えた。
たった一組の夫婦の為に、大勢が涙を流し、死を悼んでいる。
その夫婦にとって、これほど幸せな光景はないだろう。
もし……もし見ているのであれば、あなた達は自分を誇っていい。
あなた達の姿は、こんなにも多くの人間の瞳に映っていたのだから。
「とりあえずは、だいたい終わったな」
「うん。お疲れ様」
「おう。お前もな」
お葬式は終わり、後片付けもだいたい終わりに近づいていた。
空はもう青から橙へと移り変わっている。
「なんか、すごかったな」
なんとも抽象的な感想を漏らす浩司。
「まぁ、確かにね」
僕もなんて返したらいいのか分からず、適当な返事を返す。
「そういえばどうしてあの日、家に来たの?」
ふと、思い立ったことを聞いた。
忙しさにかまけて、すっかり忘れていた事。
「ん? あの日って優日ちゃんの記憶が戻った時か?」
あの時は、どうして来たのか理由を聞いてなかった。
「あれは……母さんがどうしても行きたいって駄々こねたんだよ」
「柚華さんが?」
「なんだろうな。いきなり学校に電話してきてよ。今すぐ出たいから戻ってきてって」
柚華さんは今日、記憶が戻るんじゃないかって分かったのかもしれない。
「んで、俺はガキ供の相手しなきゃならなかったし、しょうがないから昼から上がらせてもらって、お前ん家に行ったってわけ」
「そっか」
それで家に来た時に、柚華さんの機嫌が良くなかったのだろうか。
あの時は、少しピリピリしていたように見えた。
もう遅いって思っていたのかもしれない。
まぁ、想像でしかないのだけど。
「それに、会わせたい人が行たんだけど……まぁ、もう少しで来るさ」
「会わせたい人?」
「あの、少しよろしいでしょうか?」
突然声をかけられた。
振り返ると、見知らぬ女性が一人。
「坂上さん。篠又さんはどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「たぶん、お堂の方じゃないかな」
「そうですか、ありがとうございます」
たんたんと話を進めていく。
浩司の苗字を知っているってことは、浩司の知り合いなのか?
それに篠又って、どっちのことだろう。
「浩司……誰なの?」
「ああ、悪い。前に家に来たっていう隣町の看護士さんだ」
「あぁ。そっか、あの人か」
優日さんのお母さんと最後に話したという看護士さんか。
その女性は僕を見て、頭を下げた。
慌てて僕も礼を返して、遠慮がちに聞く。
「えーっと、篠又さんに何か用があるんですか?」
「はい。伝えなければいけないことがあるんです」
「おっ。ちょうど来たぞ」
お寺の方から松葉杖を使いつつ、紗衣香ちゃんと歩いてくる優日さんの姿があった。
「俊也さん、浩司さん。今日はありがとうございました」
「いや、いいよ。それより」
「優日ちゃんに会いたいって人がいるんだよ」
「会いたい人……ですか?」
すっと、看護士さんが二人の前に出て一礼する。
「えっと、あの…」
「初めまして。篠又 優日さん、紗衣香さん」
いきなりなことで、対処できない篠又姉妹。
いや、僕もなんだけれど。
「私は、あなた達のお母様の最後を看取った者です」
「……え」
「お母さんの、ですか?」
看護士さんは、ゆっくりと、でも確実に頷いた。
優日さんたちは相変わらず戸惑っている。
その人がいったい何をしにここへ来たというのだろう。
「今日は、直接伝えて欲しいと言われたことを伝えに来ました」
「「「え?」」」
僕と優日さんと紗衣香ちゃんの声が重なる。
浩司を見てみると、したり顔で笑っていた。
また、やられた。
看護士さんは、目を瞑る。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「『優日、紗衣香。私は幸せだった。きっと、この世界に居る誰よりも幸せだった』」
その最後の言葉は。
「『だって、あなた達のような、本当にいい子に恵まれて、共に頼っていける人がいて、これほど幸せなことはないでしょう?』」
自分が幸せだった、と。
「『だから……あなた達も幸せになってね。共に幸せになれる人を、この人だって思える人を見つけてね』」
娘に伝えるための言葉で。
「『優日、ありがとう。助けに来てくれて嬉しかった。本当にそれだけで充分幸せだったよ。だから、もう離れてって言ったのに……あなたは言うことを聞かないんだもの』」
喋るのも辛かっただろうと思うのに。
「『紗衣香、あなたは優しい子だよね。よくお姉ちゃんの為にって、頑張ったり、我慢をしていたりしたよね。でも、あなたは妹なのだから、お姉ちゃんにもっと甘えていいんだよ』」
こんなにも優しい言葉が。
「『私達が死んでも、少しだけ悲しんでくれれば、それでいいから。だから、笑っていてね。お母さんも笑っているから。幸せだったって、感謝して、笑っているから』」
溢れてくる。
「『ありがとう。いつまでも、ずっと元気でいてね。それだけを願っているよ』」
最後に出てきた感謝の言葉。
……涙が、出てきた。
それは、遠い日の自分の母親と同じだったから。
どうして最後に、「ありがとう」って……言えるのだろうか?
僕にはまだ分からない。
きっと、いつの日か知る時が来るのだと思う。
誰かと付き合って、結婚して、子供が生まれて……。
今はまだ想像できないけれど、そんな遠くて近い未来に。
「……ありがとう。私こそありがとう、だよ。お母さん」
さやかさん。あなたの言葉は、ちゃんと伝わりました。
それも、最高の形で。
幸せだったなら。
笑顔で逝けたのなら。
終わりはあなたにとって、優しいものであったなら。
それで良かった。
「ふぅ…」
後片づけも終わり、帰り支度を始めていた。
「俊也。帰るのか? だったら一緒に帰るか」
「うん、そうだね」
浩司と外に出る。
空には太陽の代わりに月が輝いていた。
陽が当たるという訳ではないけれど、銀色の穏やかな輝きが僕らを照らしていた。
「今日は疲れたなぁ。ひさしぶりに一緒に飲むか?」
「うーん……そうだね。いいかも」
酒を飲みたい気分、という訳でもなかったけれど、少しだけ騒ぎたかった。
「お。珍しいな。お前が乗ってくるなんて」
「そう?」
「そうそう、いつもは俺が無理矢理飲ますんだから」
そういえばそうだったような……。
っていうか記憶が無い。
朝、二日酔いで起きている記憶しか。
「俊也さんっ!」
「え?」
お寺の敷地を出ようとした時、後ろから聞きなれた声がした。
振り返る。
サンダルを履いて、松葉杖を付いて、息を切らしている優日さんの姿があった。
「ど、どうかした?」
なにをそんなに急いでいるんだろうか?
「い、いえ……その」
何故か浩司を見る。
「くくっ。そういう事か」
「なんだよ、そういう事って」
二人だけで分かっているみたいだけど、なんかムカつくな。
「俺はお邪魔みたいだから、先に帰ってるよ」
「え、なんで?」
「いいから。後で報告しろよ〜」
浩司が後ろ向きで手を振っているのを見送る。
「あの…俊也さん」
もう一度、僕の名前を呼ぶ。
その声は少しだけ硬くて、緊張しているように感じた。
「うん? どうしたの?」
優日さんに近づいた。
その緊張を和らげようと、出来るだけ優しく言う。
「あの、私……まだ返事をしていませんでしたよね」
「返事?」
なんの返事だろう?
「あ、その……」
僕の疑問顔を見て、優日さんの顔がさっと赤くなる。
「……私を、その……好きって言ってくれた事です」
「あ、ああ……そう言えばそうだったね」
優日さんにつられて僕も顔が熱くなる。
というか、まだ返事をしてもらってないのに、こんなに恥ずかしがってどうするんだよ!
「……俊也さん」
「はい」
なんだか雰囲気に呑まれて、かしこまった返事をしてしまう。
「もう一度、言ってくれませんか?」
「……はい?」
「お願いです。もう一度、言ってください」
思いも寄らない言葉に身体が硬直する。
そう来るとは思わなかった。
「ダメ、ですか?」
顔をほんのり赤くさせ、潤んだ瞳で僕を見上げる。
…………………。
後ずさる。
顔がすごい熱を持っているのが分かった。
「俊也さん?」
計算なのか、天然なのか……いや、後者の方が大きいだろうけど。
これで言わなきゃ男じゃない、か。
覚悟を決めよう。
「僕は、優日さんのことが好きだよ。大好きだ。どうしたらいいのか分からないくらいに、愛してる」
今まで育ててきた想いを。
ありったけの気持ちを込めて、伝えた。
「……っ!」
パタッとサンダルの音が聞こえて、温もりが僕の身体を包む。
「私も、好きです。ずっと、ずっと好きでした」
「優日さん」
ぎゅっと、腰にある手に力が篭った。
「俊也さんは知らないでしょうけれど、私はずっと好きだったんですよ。ほとんど一目惚れだったんです」
「え?」
身体全体で僕を抱きしめてくる。
「愛しています。好きな気持ちが溢れすぎてて、どうしたらいいのか……分からないよぉ」
また、ぎゅっと身体全体を押し付けてくる。
合わさった部分は熱を持っていて…だけど、それ以上に顔が熱い。
恥ずかくて…でも、嬉しくて。
瞬間、僕の中で何かの糸が切れた。
「ぁう……」
可愛くて……愛しくて……。
その柔らかさをもっともっと、感じたい。
僕に抱きついているその華奢な身体を壊してしまう程に強く抱きしめたい。
ここは外だとか、誰かが見ているかもしれないだとか、そんな感覚はもうなく。
ただ、篠又 優日という存在を確かめたい。
手が動く。
自分でも、もう何が何だか分からない。
もう数分前から、僕の身体は僕の意志とは関係なく動いているようだった。
「でも……私は俊也さんに言わなければならないことがあります」
僕の動きが止まった。
「なに?」
喉の奥から搾り出すように聞いた。
自分の身体が戻ってくる。
スッと、優日さんが僕から離れ、じっと見つめた。
「私の夢は、お父さんとお母さんでした」
「……うん」
「それが私の生きる目的で、目標でもありました」
「うん」
「だから……それを失ってしまった時、私という存在は一度、消えてしまいました」
分かる気がする。
人が生きていくには、理由が必要なんだ。
例えば、家族の為、恋人の為、場所の為、物の為、信念の為、想いの為……。
僕の場合は優日さんの為。
誰だって、何かの理由を持っている。
優日さんの言うとおり、それが無くなってしまえば生きている意味も同時に無くなる。
「私は、紗衣香ちゃんや浩司さん、柚華さん。そして何より俊也さんのおかげで、今ここに居るんです」
それは、僕も同じだ。
優日さんが居るから、今の僕は頑張れる。
「私は……私の大切な人たちを守りたい。今度こそ、守りたいんです。それが、今の私の夢です」
それは、ずっと抱いていたものだろう。
一度は砕かれたもの。
だからこそ、また抱かずにはいられないのだ。
それは、彼女の憧れ。彼女の目標なのだから。
「だから私は、その夢の為にどんな事でもするつもりでいます。どんなに罵られようと、蔑まされようと、貶されようと……色々なものを背負っていきたいと思っています」
「……それは、君にとって幸せなの?」
僕の目を見て、ふっと笑顔を漏らす。
「はい。他の人には不幸だって言われるかもしれませんけど、私は幸せです」
優しい、全てを包むような笑顔。
「だって……そう思われるほど、私は大切な人を守っているっていうことですから」
その笑顔は……遠い幼い日の笑顔を思い出させた。
優日さんは少しずつ近づいていっているのだろう。
彼女の目標である母親に。
「だけど……その、私と一緒に居ることが、幸せとは限りません。だから――」
彼女の言いたい事が分かった。
だから言わせなかった。
「君が僕の幸せだよ」
「あ……」
抱きしめる。
今度は僕から、力強く、彼女を逃がさないように。
「……はいっ」
これから僕たちは、どんなことを経験していくのだろう。
どんな物を見て、聞いて、触って、感じて……。
その結果、どんな事を得るのだろう。
分からない。
だけど、願わくば……ずっと彼女と一緒に。
「優日さん」
呼びかける。
答えるように彼女は顔を少し上げ、目を瞑(つむ)る。
顔を近づける。
唇と唇が合わさった。
柔らかくて……気持ちが良い。
自分の気持ちと相手の気持ちを確かめ合う、最も簡単な行為。
とても心地がよかった。
どちらともなく離れ、どちらともなく笑う。
「それじゃ、優日さん、僕は行くから」
「はい。でも、一つだけお願いがあります」
「ん? なに?」
「"さん"付けしないでください。彼女なんですから」
今さら変えるのもなんなのだけど……。
これはきっかけなのだろうか。
今日という日から、僕と優日さんの……いや、優日との関係が変わるという、きっかけ。
「そうだね。分かったよ。じゃあ、僕のことも」
「いーえ。私は変えませんよ。私は年下なんですから」
「……」
まぁ、そう呼びたいのならいいんだけど。
「それじゃ、優日。僕は行くか」
「ん……」
言葉が遮られた。
彼女の顔がすぐ近くにあり、唇には柔らかな感触があった。
え? え?
突然のことで、頭が回らない。
「ふふっ」
感触が無くなり、目の前にはしたり顔で笑っている優日。
「俊也さん。ありがとうございます」
「……どうして?」
「言いたくなったんですよ。意味なんかありません」
「そっか。じゃあ、僕もありがとう」
「はいっ」
僕も同じ、意味なんてない。
ただ、言いたくなっただけ。
幸せだ。
僕は今、最高に幸せだ。
だから……だから………願わずにはいられないんだ。
大切な人を守って来れなかった僕だから。
もう二度と、大切な人を失いたくないから。
願う。
僕は願う。
彼女のこれからは幸せであって欲しいと。
僕は願う。
遠い未来、彼女の傍に居るのが自分であって欲しいと。
僕は願う。
もう、誰にもいなくならないで欲しいと。
僕は願う。
今は……切に願う。
どうか彼女の夢を、壊さないでください、と。