何故か懐かしい夢を見ました。
あれはもう十年ほど前、姉さんの高校受験の時です。
あの時の姉さんは……何故か笑顔を失っていました。
私は姉さんの笑顔がどうしても見たくなり、人形を贈りました。
そして、姉さんは笑ってくれたのです。
私は、あの時の笑顔を決して忘れません。
大好きな姉さんの今まで見た中で、一番の笑顔でしたから。
今また、姉さんは笑顔を失っています。
そして私もです。私も笑えなくなってしまったのです。
姉さん。私が笑えば、あなたは笑ってくれますか?
私は、姉さんが笑っていてくれたら笑えるんです。
事故の傷はきっと、時間が癒してくれます。
今は無理でも、ゆっくりとゆっくりと悲しみが癒えていくでしょう。
私は、今を生きています。
お父さんとお母さんは死んでしまったけれど、私も姉さんも今を生きているんです。
だとしたら、このままではいけないって思うのです。
何があったのかは分かりません。
どうしてこうなってしまったのかも分かりません。
ですが、私たちは笑っていかなければなりません。
お父さんとお母さんはきっと、そう望んでくれている。
ですから、私は笑いたい。姉さんにも笑っていてほしい。
私は…姉さんの笑顔が、また見たいのです。
5月18日
「昔語(十一)〜幸せの言葉と希求と〜」
次の日。
窓から空を見上げる。
いつも眩しく輝いている太陽は顔を出していない。
空はいつ雫を落としてもおかしくはなかった。
「先生」
ふと、呼びかけられる。
紗衣香ちゃんだ。
僕は振り返ったけど、目線を合わすことが出来なかった。
昨日のこともあって、気まずい。
どうしたらいいんだろうか。
「ど、どうかした?」
とりあえず思い切って話をかける。
「あ、はい……あの、姉さんなのですけど、今朝少しおかしかったのです」
一瞬で気まずさなんか吹き飛んだ。
紗衣香ちゃんが話そうとすることを一字一句逃さないように、聞く体勢に入る。
「おかしかったって……詳しく教えて」
「はい。その……」
言い淀む。
そして、側に誰も居ないことを確認して
「泣いていたのです。でも、どうして泣いてしまったのか分からないって言っていまして」
泣いて……いた?
「たぶんですけれど、事故の時の夢を見たのではないでしょうか?」
確かにその可能性はあるのかもしれない。
夢に見て覚えていないなんてことは、今までなかった。
ということはつまり、"あの事故の記憶を夢で見て、それに耐え切れなくて忘れている"ということが考えられるのだ。
「それからずっと考え事をしていまして……落ち込んでいるのです」
当然だろう。
大切な人が目の前で死んでいく悪夢なんて、一回だけでも十分なのだ。
それが夢として、まさに悪夢として、優日さんに思い出させた。
優日さんはきっと、忘れているわけじゃない。
思い出したくないだけなんだ。
それでも夢を見て、思い出してしまった事で、おぼろげながらにも頭に残ってしまった。
だからこそ、それがジレンマになっているんではないだろうか。
「先生?」
「あ、ごめん。そっか」
予感がする。
それが良いものなのか悪いのものなのかは分からないけれど。
それでも、確かな予感が。
彼女は今日、全ての記憶を思い出すだろう。
窓の外を眺めた。
ポツ、ポツと窓ガラスに水滴が当たる。
そう。
今日は、あの事故と同じ、雨の日なんだ。
優日さんの部屋を目指して廊下を歩いていた。
窓を壊そうとしているような音が聞こえる。
雨はどんどんと強さを増していっているようだ。
窓の外を見る。
一瞬、光が走った。そして叩きつけるような轟音。
「……近い、な」
本当にあの事故の日みたいな天気だ。
なんの因果なのだろうか。
まるでこの日に記憶を戻させるように、全てが整っていたかのように思える。
「運命、なのかな」
使い勝手のいい言葉だけど、そんな言葉を連想させる。
不思議な気分だった。
――コンコン。
「……はい。どうぞ、俊也さん」
誰かと確認しなくても、僕だと分かったのだろうか。
いつものように落ち着いた声が聞こえた。
部屋に入る。
「おはよう。どう、気分は?」
「いい、とはあまり言えないのかもしれません」
少しだけ俯き彼女は言った。
やっぱり僕から見ても、落ち込んでいる感じがした。
考えても考えても分からないから、落ち込んでいるんだろう。
「……夢を見ました。いつも通り、私の思い出の夢です。ですが……分からないのです。頭の中がごちゃごちゃになってしまっていて……何も思い出せないのです」
やっぱり、事故の夢だった。
優日さんは思い出したいと思っている。
だから夢に見た。
だけど本能が、拒絶してるんだ。
優日さんの意思とは無関係の所でリセットをしてしまっている。
一度、壊れてしまいそうだったから、それを恐れて。
「それに……雨の音が、とても怖いです。何故だか分からないけど、聞いていたくないのです」
「……どうしてだって、思う?」
「……え?」
だから、誰かが背中を押してあげるしかないんだ。
いや、僕が背中を押してあげたいのかもしれない。
例えそれが、一時でも優日さんを傷つけるとしても。
「本当は、分かってきているんじゃないのかい?」
「……なにをですか? 俊也さん、もっとはっきり言ってください」
「それは……」
伝えるべきなのか、まだ伝えないべきなのか、迷ってしまう。
思い出させてあげたい。背中を押してあげたい。
だけど、その一歩がなかなか踏み出せない。
優日さんを少しでも傷つけることを、僕自身が怖がっている。
「俊也さん。いったい何を知って――」
一瞬、光が部屋を包んだ。
その直後、聞き取れないくらいの大きな音、そして振動。
「「え?」」
二人の声が重なった。
静かだった。
窓の外から雫が滴る音しか聞こえてこない。
「ちょっと待ってて、様子を見てくるから」
「……イヤ」
か細く、とても聞き取れないような拒絶の言葉だった。
「優日さん?」
様子がおかしい。
彼女は震えていた。
自分を守るかのように、身体を固く抱いて震えていた。
「……イヤ……イヤ……お母……さん……お父さん……イヤ……嫌ぁーーーーー!」
癇癪(かんしゃく)を起こしたかのように、近くにあるものを投げ始める。
まくら、毛布、温度計、コップ。
ついには掴むものもなくなって、ただ腕を降り続けている。
「嫌だっ! お母さん!! どうして!! 開いて!! イヤ! 開いてよぉ!!」
また、遠くで音が鳴る。
雷、光、音……もしかして!
「優日さん!」
フラッシュバック!?
重なったのか!? 事故の直前の光景と!
「優日さん! 落ち着いて!」
肩に両腕を置き、押さえつける。
「どうして……! 開いて!! お願いだから……!! 開いて!! お母さん! お母さん!!」
「落ち着くんだ! 優日さん!」
邪魔なものを振り払うかのように、僕の腕を握り押し出そうとした。
「イヤ! 放して!! お母さんを助けないといけないんです!! だってお母さんが助けてって言ってる!! 放して!!!」
「っ!」
鋭い痛みが腕に走る。
優日さんは僕の腕に爪を立てていた。
「なんでですか! どうして邪魔をするんですか!! あなたには関係ないでしょう!? お願いですから放して下さい!! お母さんを助けないといけないんです!!」
悲痛なその叫びは、閉じていた記憶を思い出させる。
いかに自分が無力なのか。
助けたい。
どうしても助けたかった。
大好きだったから。
「私は! 誓ったんです!! お父さんとお母さんの味方だって!! どんなことがあっても助けるって!! だから! だから助けないといけないんです!! 邪魔をしないで!!!」
ダメだ……。
もう、これ以上は見ていたくない。
優日さんのこの姿も。
自分の閉じていた記憶も。
「優日さん!」
手の平を彼女の頬に打ち据えた。
パァン、と軽い音が聞こえる。
「……あ」
動きが止まる。
僕の腕を突き立てていた爪が徐々に離れていく。
「……私、は」
彼女は信じられないものを見るような目で、自分の手の平を見つめていた。
「どうして……俊也さん。私は……俊也さん! 俊也さん!!」
僕の胸に顔を押し付ける。
「私は……助けることが出来ませんでした! 私のせいで、お母さんは……! どうして黙っていたんですか!? すぐに思い出させてくれればよかったのにっ!」
僕の胸を両手で叩く。
「私は、幸せだなんて思っちゃいけなかったんです! 私は結局なにも出来なかった。お父さんとお母さんに恩返ししたいって、幸せにしたいって思っていたのに……なにも!」
空いていた両腕で、彼女の身体を抱きしめた。
「ごめん……どうしても教えることが出来なかった」
「……ごめんなさい。分かっています。全部、私の所為なんです。全部、全部っ! 私が弱い所為だったんです!!」
「そんなことない。そんなことないんだ!」
仕方がなかった。
そうとしか言いようが無いんだ。
無力な自分。
なにも出来なかった自分。
大好きな人が死んでいくのをただ見ているだけだった自分。
遠い記憶の中の自分。
「……俊也さん……俊也さんっ……俊也さぁんっ……うわぁあぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁ」
僕を必死に放さないように抱きしめる。
どうしようもない想いを叫んだ。
雨の音は止まない。
ただ……悲しさだけが、この部屋を包んでいた。
「あの……叫び声が聞こえて」
僕がちょうど部屋を出たときに、紗衣香ちゃんが走ってきた。
「もしかして、姉さんが……」
「……うん。思い出した、全部ね。それで、今は一人にして欲しいって」
「そう、ですか」
ようやく分かった。
彼女があんなにも自分を責めている理由が。
彼女は勘違いをしていたんだ。
母親が助けて、と言っていると。
だから、助けられなかった自分を責めている。
「あの……先生。姉さんは、大丈夫なのですか?」
「……なんとも言えない。僕だって今は一人にさせたくはないけど、ね」
優日さんは僕の腕を振りほどいて、小さく呟くように言ったんだ。
本当に今は一人にして欲しかったのだろう。
「やっぱり、私たちは何も出来ないのですね」
「いや、出来る。出来ることが絶対ある」
そう信じてる。
だって、彼女は言ったんだ。
幸せだと思っちゃいけなかったって。
この診療所にいた日々は、紛れもなく彼女にとって幸せな日々だった。
それは間違いないんだ。
ただ……それよりも。
「思い出してしまった」
遠い記憶。
幼い日の苦い思い出。
自分が無力だと言うことを思い知らされた日の記憶。
――ただ、しんでいくおかあさんをみて、なにもできないんだっておもいしった――
――おかあさんのよこで、ぼくはなきさけんでいた――
――だからぼくは、めざしたんだ――
――なんでもなおすことができるようになりたくて――
――またおなじようなことがおこっても、ぼくのようなおもいをするひとをなくしたくて――
――もう、こんなおもいをしたくなくて――
終わりから始まった夢。
それを今でも追いかけている。
それでも、想いだけはずっと生き続けていた。
悲しい記憶だけを封じ込めて蓋をして。
「先生……?」
「いや、僕も一緒に思い出してしまったみたいだ……蓋をしていた記憶をね」
頭の中にどんどんと流れてくる、あの時の風景。
弱っていく母親の横で、泣きながらずっと叫んでいた。
――きっと、おかあさんをなおせるようなおいしゃさんになるから、しなないで!――
母さんは最後に僕の頭に手を乗せ、微笑んだ。
そして最後に。
――ありがとう――
そう言って、笑顔のまま死んだ。
「僕はね。どうしても救いたい人がいた。だけどその時、僕は何も出来なかった。だから、僕は医者になったんだ。僕のように大切な人を失って悲しい思いをする人を、少しでも少なくしたいと思ったから」
それ以上に、自分が役に立たないという歯痒さを無くしたかった。
だけど、現実はどうだっただろう。
「だけど僕は、結局同じだった。笑顔で死んでいく人たちの傍らで見ていることしか出来なかった」
成長をしているとは思う。
それだけの死を見てきたから。
だけど、結局は助ける事は出来なかったのだ。
今まで。
"救い"を与える事は出来なかった。
「それは違うと思います」
その声は、何もためらいも無かった。
紗衣香ちゃんは、真っ直ぐに僕を見据える。
「先生は、多くの人たちを救ってきたと思います」
「そんなことないよ。何も出来なかった。生きさせることが出来なかった」
静かにゆっくりと、紗衣香ちゃんは首を横に振る。
「確かに……生きさせるということは、死んでいく人にとって幸せなことなのかもしれません」
僕の右手を取り、両手で柔らかく包んだ。
「ですけど、生き続けることが……幸せとは限らないと思うのです」
僕はただ聞き入っていた。
彼女の言葉がとても大切なものに思えたから。
「その、死んでしまうその時に"幸せだった"って思えるのなら、それは」
言葉を探しながら、選びながら、少しずつ伝えてくれる。
「"救い"なんじゃないでしょうか?」
「……幸せだった?」
「自分はこんなにも幸せだったんだって思えるのなら、それは生き続けることよりも素晴らしいことだと思えるのです。……私たちの仕事はそういうものだと思うのです」
医師とは普通、病気や傷の治療をする職業。
僕たちは、人の死を見ることが仕事の一つだった。
救えないと分かっていても、死んでしまうって分かっていても、残りの期間を精一杯生きてもらう為に奉仕する。それが僕たちの仕事であり、願いだった。
「自分が幸せなんだって思える瞬間って、ものすごく少ないと思います。私だってそうです。今が幸せだなんて決して思えません」
それはそうだろう。
紗衣香ちゃんは両親を失い、優日さんもあんな状態だ。
それを幸せだなんて思えるはずがない。
「ですけど、それは同じだと思うのです。死んでしまうような病気に掛かって、自分が幸せなんだって思える人なんて絶対居ません」
やっぱり、彼女は大切な何かを気付かせてくれようとしている。
僕が今、忘れてしまっているものを。
「患者さんが最後に笑ってくれたのは、自分が幸せだったんだって思ってくれたからではないでしょうか」
それは一番、僕が分かっていた事じゃなかっただろうか。
「私たちは決して見ているだけじゃありませんでした」
"見ているだけ"が辛かったから、僕はそれを誇りにしていたのではなかっただろうか。
「患者さんが幸せだと思ってくれるように最大限の努力をしてきました」
僕は何の為に医者になったのか。
人の笑顔を守りたかった。
僕のような人を少なくしたかった。
「先生の大切な人は、どんな顔で亡くなりましたか? 泣いていましたか? 怒っていましたか? それとも……笑っていましたか?」
紗衣香ちゃんが僕に微笑みかける。
それは、あの遠い日の笑顔を思い出させた。
「笑っていたのでしたら、先生は何も出来なかったなんて悔やむことはありません」
そうだ。
そうだったんだ。
母さんは笑顔で死んでいったんだ。
笑って、ありがとうって言って。
「だって、幸せなんだって思ってくれたのですから。先生がそう思わせてあげたのですから。何も出来なかったなんてことはありません」
同じじゃないか。
僕と優日さんが止まっている所は同じじゃないか。
「……ありがとう」
都合のいい言い訳かもしれない。
でも紗衣香ちゃんの言葉は、僕にとてつもない救いをもたらしてくれた。
「あ、いえ……その、すみません。生意気を言ってしまって」
「ううん、そんなことないよ。本当にありがとう」
死んでいく母に何も出来なかったという負い目。
優日さんも同じ負い目を背負っている。
でも、それは間違いだった。何も出来ないだなんて事は無かったんだ。
なにより僕は、この場所でそれしか出来なかったのだから。
それを誇りに思い、今までやってきたのだから。
「……はい」
照れ臭そうに、僕のお礼を受け止める。
さぁ、答えは得た。
なら行動すべき事は一つ。
「紗衣香ちゃん。優日さんを救おう」
あの時の僕は無力だった。どうしようもないほどに無力だった。
だからこそ、人は成長するんだ。
出来なかったことを、出来るようにしていくんだ。
なら、今度こそは救えるように、僕の大切な人を救えるように。
大切な人――優日さんを。
昼が過ぎていた。
相変わらず雨は降り続いている。
優日さんの部屋にはあれから行っていなかった。
「……そんなことって」
テーブルで正面に座っている紗衣香ちゃんが、小さく呟くように言った。
話したのは優日さんが自分を責めているという理由。
「誰も悪くないんだ。誰も。助けられなかったとしても仕方がなかった」
あの状況、そして女性である優日さんの力では、きっと無理だった。
そして、優日さんのお母さんも無理だと悟っていたのだろう。
だから「離れて」って言ったんだ。
娘の身を案じて。
「……お父さんとお母さんは、自分たちを犠牲にしてでも、他人の幸せを願うような人たちでした」
突然、紗衣香ちゃんがそんなことを言い出した。
それは、優日さんの夢の記憶を聞いていたから分かる。
本当に優しいんだ。果てが無いくらいに。
「口では色々なことを言っていましたけど、結局は助けちゃうんですよ。どんな酷いことをされても、どんな危険な目にあっても」
だからこそ、幸せな家庭だった。
家族で一緒に笑って、泣いて…。
「姉さんはそんな両親をずっと心配していました。だから『今まで両親が背負ってきたものを自分が背負いたい』って、私に話していたことがありました」
確かに親を心配するのは当然だろう。
親に憧れる事もあると思う。
だけど、それは余りにも過ぎていることにも思えた。
「……私が言っていい事かは分かりませんが……その、姉さんは養子なのです」
「え……養子?」
「はい。私が生まれる前に訳があって預かった子だそうです」
初耳だった。
記憶を無くしていたのだから当然なのだけど、夢の話には出てこなかった。
話すのを避けていたのだろうか。
「『育ててくれた恩があるんだ。それを返したい、それが私の夢なんだ』って言っていたことがあるんです」
「だから、助けられなかった事を責めている。自分を壊すくらいに」
あんなに必死だったのも。
あんなに責めているのも。
本当の子供ではない自分を育ててくれた恩を、返せなかったから。
そんなの……そんなの……悲しすぎる。
「姉さんの性格も両親と似ているのです。なんでも自分一人で背負い込んでしてしまうんです」
それは分かる。
この数週間、誰よりも近くに居たから知ってる。
「だからこそ、余計に自分を責めてしまっているのだと思うんです」
何が僕たちが居る、だ。
それだけじゃ、決して救えないものじゃないか。
どうしたらいいのか。
どうすればいいのか。
「ですが……お母さんが『離れて』って言っていたことぐらい、姉さんは分かっていたと思うのです」
紗衣香ちゃんは、とても自信を持った瞳で僕を見つめてくる。
僕よりずっと優日さんを見てきた人。
今、この町にいる中で、誰よりも優日さんを理解しているだろう。
「私と姉さんは、誰よりも両親の性格を知っています。だから、自分を助けてくれだなんて言うはずがないって分かっているのです」
どうしてとか、そんなことを聞くのが無粋に思えた。
彼女の両親は、自分より他人を優先するのだから。
自分の娘ならなおさら、自分より助かって欲しいと思うはずだから。
「じゃあ、どうして優日さんは『助けて』って聞こえたのだろう?」
「それは……分かりません。でも、なんとなくですけど姉さんは自分を故意に責めている気がするんです」
確かにそういう感じがする。
自分をワザと悪い方へと向けている様な節がある。
「もしかして……」
それが"償い"だと思っているのだろうか?
助けられなかった自分を責めて、自分を陥れて。
だとしたら、それは絶対に間違っている。
「先生。姉さんと少し話してみませんか?」
「……うん。確かにその方がいいかもしれないね」
その時、来訪者を知らせる音が鳴った。
「僕が行くよ。紗衣香ちゃんは先に行ってて」
「はい」
診療室の方へと、小走りで急ぐ。
ドアを叩く音が聞こえた。
急ぎの用事なのだろうか、もしかして急患?
少し焦ってドアを押した。
「はいっ。どうかしましたか?」
「痛っ」
開けてすぐ、何かに当たったようだった。
「いきなり開けんなよっ! 痛ってーな」
「ドアを叩いたりするからね、急かす方が悪いわよ」
「浩司? 柚華さん?」
そこには、衣服の肩口を少しだけ濡らしていた二人が居た。
「だって濡れちまうじゃねーか」
「雨の日に外に出れば、そりゃあ濡れるでしょうね」
「ったく、はいはい! 俺が悪かったです! 俊也、とりあえず中に入れてくれ、濡れるから。っていうか濡れてるから」
「ああ、うん」
二人を部屋に通して、タオルを渡した。
「それで、どうかしたの? 二人して家に来るだなんて」
先ほどから疑問に思っていたことを尋ねる。
「あのな、母さ」
「姉さん! 止めてください!」
「私はもういいの!」
突然、浩司の声を遮るように叫び声が聞こえた。
「……え?」
今のは紗衣香ちゃんの声だった。
それに続くように、優日さんの声。
思考が働かない。
嫌な予感が頭を掠める。
最悪の予感が。
踏み出した足は、ただ声の元へと駆けた。
走って走って、躓(つまづ)きそうになりながら優日さんの部屋へと辿り着いた。
「姉さん! そんなことお母さん達が喜ぶはずないです!! やめてください!」
「分かってるよ! そんなこと分かってるけどっ!!」
言い合いは先ほどからずっと続いていた。
体当たりするように、ドアを開ける。
「……っ」
目の前に広がったのは、優日さんの両手を必死に押さえている紗衣香ちゃんの姿。
優日さんの右手には、はさみが開いた状態で握られていた。
「俊也……さん!」
驚いて目を見開く。
瞬間、優日さんは紗衣香ちゃんを振り払った。
「優日さん…?」
そして、僕に見せ付けるように鋭く輝く鉄を、手首に押し当てていた。
「姉さん!!」
「っ!」
言葉にならない。
やめろとか、だめだとか、そういうことを言いたいけど、上手く言葉に出来なかった。
苛立ちや焦り、怒り……そんな感情が渦巻くだけ。
「俊也……さん」
か細く僕の名前を呼ぶ。
「なんだよ! いったいどうしたって言うんだ!」
廊下から走ってくる二つの足音と浩司の声が聞こえた。
「俊也! ちゃんと説明し――ゆ、優日ちゃん!」
そして部屋に入り、この光景を見つめる。
さぁっと、血の気が引いていくのが分かった。
「なにやってんだよっ!」
「ちょっとどいて」
浩司を押しのけて入ってくる柚華さん。
「優日ちゃん……」
悲しそうに、目の前に居る人の名前を呼んだ。
「優日さん。それを放して。お願いだから」
怒りや焦りを押し殺して、冷静に優しく言った。
「出来ません。……もうどうしようもないんです」
ゆっくりと首を振る。
力を込めて、刃を手首に押し付けた。
赤い筋が走る。
「……私は助けられませんでした。お母さんたちを見殺しにしてしまいました。誰よりも感謝していたのに」
手が震えていた。
彼女にはまだ迷いがあるんだ。
それにどうしていいのか分からないのかもしれない。
それでも、近づけない。
今、興奮している彼女に近づくわけにはいかなかった。
ただ、彼女に傷が付いて行くのを見ているだけ。
「優日さんっ!」
悔しい。
握っていた拳からは血が滲み出してきていた。
かまうもんか。
彼女はもっと痛いんだ。
なら、耐えられる。
「紗衣ちゃんから聞いたんですよね? 私が養子だって」
「……聞いたよ」
「養子!?」
「……」
浩司が驚く中、柚華さんはなんの反応もなかった。
それも当然か。
友人の娘のことだし、よく会っていたというのだから、知っていてもおかしくない。
「……私は物心がつく前から、篠又夫妻に預けられていました。私が見てきた両親は、強くて優しい人たちでした。他人の娘である私を、ここまで育ててくれたように…」
知っている。
今まで優日さんの記憶を聞いていたから、知っている。
「……他人の幸せを願って、いらない苦労まで背負い込んで、……私はそんなお母さん達が誇りでしたし、心配もしていました。だから……」
「だから……変わりに背負いたいって思った」
代わりに言う。
紗衣香ちゃんが言っていた、彼女の夢を。
「……。そう思っていた矢先に、あの事故が起こりました」
「だからって! 助けられなかったからって、どうしてそんなことするんですか!」
「……紗衣ちゃん。私は卑怯者なんだよ」
「え?」
優日さんは顔を歪める。
まだ力は弛めていない、ずっと刃を押し当てている。
今にも泣き出しそうな顔で、ずっと。
「私はね」
彼女はまるで懺悔をするかのように、自分の気持ちを語りだした。
「私は……お母さんやお父さん達より先に……逃げました。ただ自分が助かるためだけに、車から離れたんです」
苦しそうに……言葉を吐き出す。
「……足を引きずりながら、やっとの思いで、車から離れました。側にあった物に身体を預けて、『私は助かったんだ』ってホッとしていたんです」
手は相変わらず震えていた。
それは、自分のした事を認める怖さからなのだろうか。
誰もが、優日さんの言葉に耳を傾ける。
今、誰かが言葉を発することは、優日さんに失礼な気がした。
「誰かが私に『大丈夫か? 他に人は?』って声を掛けてきました」
嘲笑する。
本当に自分はどうしようもないって、諦めの言葉を紡ぐ。
「その時に初めて気付いたんですよ。お母さん達のことを」
「……っ」
隣で紗衣香ちゃんの息を呑む音が聞こえた。
「私は結局……自分の命が一番大切だったんです!」
心から搾り出すように、自分の気持ちを叫んでいた。
震えながら。
今の自分が信じられないって、そう言っているようにも思えた。
「お父さんよりっ、お母さんよりっ……自分だったんです!」
泣いている。
表面上に見えるものじゃなくて、もっと内側。
心が泣いているんだ。
辛いって、苦しいって悲鳴をあげているんだ。
だって彼女の夢は、他でもない……彼女自身に潰されたんだから。
他の誰かを責めることなんて出来るわけない。
自分の弱さを、呪うことしか出来ないんだ。
「私はお母さんを助けようと、急いで車まで戻りました。ドアを力一杯引いても、全然開かなくて、危ないって止めてくる人たちを振り払って……」
その時の彼女はただ、必死だったのだと思う。
自分の信念を、守ろうとしていたんだから。
「……忘れてしまっていたことを振り切るために、ただ必死に……ドアを開けようとしました。私の……為に……」
誰も何も言わない。
いや、言えないのだろう。
誰もが口をつぐんで、目を伏せた。
「……穢(きたな)いですよね……醜(みにく)いですよね。こんなにも私は……最低な人間だったんです」
僕はそんなこと思わない。
誰だって、自分が一番大事だ。
他人に働く感情というものは、必ず自分に返って来なくてはいけないものだと思う。
自分の為だと誰か喜ばせても、悲しませても、それは間違いじゃない。
だからそれが、最低だとは思わない。
問題は、その事実に本人が耐え切れるかどうかなのだ。
優日さんは……耐え切れなかった。
「姉さん、そんなことない。そんなことないですよ」
紗衣香ちゃんは泣いている。
自分を傷つけて、責めて……どうしようもないほどに落ち込んでいる姉を見て、泣いている。
優日さんは小声で「ありがとう」って言って、首を振った。
「でもね、紗衣ちゃん。私は……分かってるんだよ。私の夢は理想でしかなかった。自分を知らなかった私が言っていた、バカな夢物語だったんだって」
「そんな、バカなんかじゃないです! 理想だっていいじゃないですか!」
「助けられなかった!! 私の理想ではお母さん達を助けられなかったんだよっ!」
「……それでも、助けに行った」
目の前で震えている女性に、微笑みかけた。
心も、身体も。
このまま、ただ傷ついていくのを見ていたくなかった。
だから、僕は――
「僕は優日さんが好きだ。これ以上ないってくらいに愛している」
「……え?」
僕の気持ちを告げた。
「……事故の話を聞いた時、優日さんのお父さんとお母さんの事なんて、正直どうでも良かった。ただ優日さんの事だけを心配していた。ほら、僕だってそうだ。同じだろ」
優日さんは、呆然と僕を見つめる。
「優日さんの気持ちよりも、自分の気持ちだけを考えた。あの時は、優日さんはどんな気持ちで居るんだろうなんて、少しも考えなかったんだから」
人間、誰だってそうなんだ。
だから。
「受け止めよう。誰だって醜いところや穢いところ、卑怯なところがある。その全部が自分なんだって受け止めよう」
必要なのは勇気なんだ。
そんな部分を全部ひっくるめて自分なんだ、って受け止めることが出来る勇気。
「それに、君は戻ってきたんだ。助けに行ったんだろ? なら、理由はなんだっていい。お母さんを助けるために、必死で戻ってきたんだ。だったらそれは」
「それは、とても尊いものだと思うわ」
ずっと黙っていた柚華さんが僕の言葉を遮った。
そして、優日さんに一歩一歩、近づいていく。
自分の子供に言い聞かせるように、ゆっくりと。
「俊也くんの言う通りよ。誰だって、信じられないほど醜い部分を持っているわ」
優日さんの目の前に立つ。
手首に当てていたはさみを、そっと離した。
力はもう入っていなかったのだろう。
ポケットからハンカチを取り出し、赤くなっていた手首に巻き付けた。
「だけどあなたは今、その気持ちに負けずに、こういう部分があるんだって認めることが出来たじゃない。それは、素晴らしいことだと思うわ」
僕が言いたかったことを代弁してくれている。
「それを感謝しなさい」
「感謝……?」
助けられなかったことを悔やむのではなく。
自分というものを教えてくれたことに感謝する。
「あなたのお母さんやお父さんだって、色々なことに悩み、色々なことに絶望して、あなたの知っている、素晴らしい人たちになったの」
「……でも」
優日さんの言葉を遮り、優しく首を振った。
「私は誠人先輩やさやか先輩の事はよく知っているわ。あなた達よりも付き合いが長いんだからね」
優日さんの手首を優しく握る。
「あの人たちは決して娘にこんなことをして欲しいなんて思ってないわ」
「あ……」
言われて、気付いたのだろう。
自分はなんてことをしていたのか。
「……そうですよ、姉さん。お父さんとお母さんは、今の姉さんを見たら、きっと怒ります」
頬に流れていた涙を拭って、笑顔で姉に話しかける。
その笑顔はぎこちなく、無理していることが見て取れた。
「だけど私は……育ててくれた恩を、返すことが出来ませんでした」
そう言った優日さんを、柚華さんは柔らかく、抱きしめた。
「バカね。親がそんなものを返して欲しい、なんて思ってるわけ無いでしょ。それに、お礼なら先輩たちはずっと前から貰っているわよ」
「え?」
「紗衣香ちゃんも優日ちゃんもこんなにも可愛く美人に育ってくれて先輩達はとても嬉しかっただろうし、誇りに思っていると思うわ」
僕と浩司を見る。
「子供の成長っていうのはね、親にとっては本当に嬉しいものなのよ」
「……はい」
「だからね」
パンッと乾いた音を聞こえた。
優日さんが自分の頬を抑える。
この痛みを噛み締めるように。
「もう絶対にこんなことをしちゃダメ。自分で自分を傷つけるなんて絶対にダメ」
「……はい」
「親が、一番悲しむ事なんだから」
「はい」
そう言って、静かに目を閉じた。
頬に真っ直ぐに伝う涙。
それを純粋に奇麗だと思った。
「……姉さん」
紗衣香ちゃんの呼びかけに、顔を上げ、涙を拭う。
「忘れ物です。お返しします」
そう言って、あの人形が付いた財布を渡した。
「これ、は…」
最初からこの人形があったのなら、全ては変わっていたのかもしれない。
優日さんは記憶を失うことなく、紗衣香ちゃんに希望を見出していたのかもしれない。
もう、全ては終わったこと。
「……どうして、私は気付くことが出来なかったんだろう。ごめんね、紗衣ちゃん。また、叱られちゃうね。『姉さんは何でも勝手に一人で抱え込む!』って」
「はい。怒りたい気持ちで一杯です。どうして話してくれなかったんですか? 私達は姉妹なのですから、たった二人の」
遠い日の思い出。
いつかあった姉妹の絆の形。
取り戻すように、人形を胸に抱く。
「姉さんはもっと頼ってください。もっと甘えてください。我慢なんかしなくていいんですよ」
「……うん。ごめんね。どうしても頼ることが出来なかった」
「でも今は、頼るべき人を見つけているでしょう? 弱さを見せられる相手がいるでしょう?」
「……紗衣ちゃん。私は」
「私の事なんて気にしないでいいんです。その人に思う存分甘えてください」
優日さんは両手を広げて、紗衣香ちゃんに抱きついた。
「うん……うん……ありがとう」
これからが大変なのだろう。
優日さんはきっと、まだ自分を許すことは出来ない。
それほど傷は深い。
僕だって、紗衣香ちゃんに言われるまでは、ずっと引きずっていた。
「優日さん」
「……はい」
紗衣香ちゃんからゆっくりと離れ、僕を見つめる。
「ゆっくりでいいから、時間を掛けて自分を許していこう」
なら、その日が来るまで。
「僕でよければ、支えるから。支えたいから」
「……はいっ」
そう言って、まだぎこちないながらも笑顔を見せてくれた。
久しぶりに見た笑顔。
ああ……やっぱりこの人には笑顔が似合うんだ。
改めて、そう思う。
この笑顔が見たかった。
これから、彼女を支えていくのだ。
だから、この笑顔を忘れないように。
ずっとずっと、いつまでも忘れないように。失わないように。