分かってはいました。
 理解もしていました。
 ただ……認めたくなかった。
 事故が起きてしまったことに理由なんてないということを。
 偶然が重なってしまっただけで、誰のせいでもないということをです。

 そうでもしなければ……私は、壊れてしまっていたかもしれません。
 姉さんのように、全てを忘れてしまっていたかもしれません。
 だから、誰かのせいにしたかったのです。
 なんでもいい。
 ただ、責められる対象が欲しかったのです。

 でもそれは……何も意味のないことでした。

 誰かのせいにしても、なにを責めても、何も変わりはしませんでした。
 ただ悲しい気持ちが増えただけです。
 私はどうしたらいいのか…分かりません。

 どれだけ悲しめば、悲しみがなくなるのでしょうか?
 どれだけ怒れば、怒りがなくなるのでしょうか?
 どれだけ恨めば、恨みがなくなるのでしょうか?

                                    5月17日





「昔語(十)〜姉妹の想いと再会と〜」






 いつも通りの奇麗な青空と生え広がっている緑の中。
 気分転換を兼ねて、車椅子に乗った優日さんと学校へと行く道のりを歩いていた。

「女の子?」

 記憶の夢ではないけど、優日さんは思い出を話してくれていた。
 自分が教育実習の時に出会った少女のお話を。

「はい。学校の先生達や生徒達を遠ざけていて……ずっと一人で居ようとしている。そんな女の子でした」

 自分の初めての教え子。
 まだ先生ではなかったけれど、自分を先生と慕ってくれたらしい。

「なんでその子は、人を遠ざけていたんだい?」

 人間は本能的に、他人を欲している。
 どんなことがあろうと、他人を――人を恋しがるのだ。

「家庭の事情で、です。その子に親はいたのですが、その関係がものすごく希薄だったのです。無かったと言ってもいいのかもしれません」

 普通、親は自分の子を愛してくれるものだ。
 例外は多々あるけれど、一番多い事実だと思う。
 だけど、その子は希薄だった。
 つまりは親に愛されていなかった。

「そこまで話してくれるまでだいぶ時間が掛かりました。その子の孤独は予想以上に大きかったので」
「そっか。よくそれで実習が出来たね。その子に掛かりっきりだったの?」
「なんというか……"その子の担当"でした。彼女の面倒を見る。そんな感じの実習です」

 どういうことだろうか?
 普通、教育実習というものは一クラスないしは二クラスを担当し、その科目の先生の授業補佐をしたり、実際に授業をしてみたり。
 要は学校の先生は普段どういうことをしているのか、というものを学ぶもののはずだ。

「あははは。私もワケが分かりませんでした。常識じゃ考えられないですしね。ですけど、その子も"特別"だったんです」

 特別?
 まだ中学生の少女が特別だった?
 家の事情と関係しているのだろうか?

「一人の教室。一人の先生。クラスメイトなんて誰もいなく。まるで、"檻"のような……」

 確立された空間。
 その中で、一人授業を受けさせる。
 そんなのいったい何の役に立つというのだろうか。

「なんて言うか……異常だね」

 異質と言ってもいい。
 とにかくおかしい。
 学校という多人数が住まう空間で、個の空間が作られてしまっている。

「私はとにかく話しかけました。どんなに無視されても、見ていて悲しくなるような冷たい目を向けられても、話しかけました」

 学校の先生、生徒はその少女をどんな目で見ていたのだろう。
 きっと、自分とは住む次元の違う人間だと、そんな遠い目で見ていたんじゃないだろうか。

「そして、朝の挨拶。授業の挨拶。帰りの挨拶。そんな本当に小さなことから、だんだんと喋ってくれるようになっていったんです」

 それはどんな日々だったのだろう。
 彼女はどれだけ頑張ってきたのだろう。
 僕にはわからない。
 でもそれは、尊い日々。

「それから、自分のことを話してくれるようになって。私のことを聞いてくるようになって……気が付けば三ヵ月が経っていました」

 三ヶ月という数字に驚く。
 普通の実習期間を超過してでも、優日さんにその子と接させることを選んでいる。
 特別。
 その言葉が、やけに胸に残っていた。

「そして突然、終わりを告げられました。彼女ともっと思い出を作ろうとしていたその矢先にです。彼女は諦めにも似たような表情を見せて私に言いました『ありがとうございました』って」

 彼女にはそれが当然だった。
 孤独が日常だった。
 束の間の人の肌。
 それは、彼女に大切なものを教えてくれたのだろうか。

「助けてあげたかったです。ですけど、助けられなかった。彼女は私には想像のつかないとても大きな力で"保護"されていたんです。だから、もう一度会いたいって今でも思っています」
「……それは、何をするため?」
「その子の"先生"になる為にです。あの頃は何もわからなくて、とても未熟で、彼女の孤独に気付いてあげれなかった。もっともっと深いところにあった彼女の孤独に」

 それは、とても僕の気持ちに似ていた。
 僕が医者を目指した理由に。

「……大切な人がある日、病気になったんだ。だけど、何も出来なかった」

 それは当然のことだった。
 まだ何も知らない子供だったのだから。
 無力なのは当り前。
 無知なのは当り前。
 だけど、そんな自分がどうしても許せなかった。
 嘆いた。恨んだ。
 そんな子供の日の記憶。

「だからもう、そんな事を起こしたくないから、お医者さんを目指したのですか?」

 あまり、思い出したいことではない。
 蓋をした記憶。
 辛い思い出から逃げて、忘れようとしている。
 優日さんと同じ。忘却。
 けど、その時に思ったことは、確実に胸の中に存在していた。
 今の自分を形成する、確固たる意志として。

「そんな立派なものじゃないさ。もうあんな気持ちを味わいたくなかったんだよ。だから医者になった。自分の為にね」

 今あの時の場面を思い出そうとすると、頭が痛くなる。
 脳が悲鳴をあげているのだ。
 耐えられない、と。
 乗り越えたはずだった。
 だけど、あの轢き逃げの事件で、また思い出してしまったのだ。
 あの時に味わった無力感を。

「……私はただ、漠然と先生というものに憧れていました。生徒たちのことを一生懸命考えて、色々なことを教えてくれて、時には怒ったり、褒めたりしてくれる。そんな先生に」

 ドラマとかで見る、熱血教師。
 生徒のことを第一に考えて、生徒の為ならどんな難題でも立ち向かっていく、勇敢な人たち。
 だけど、所詮は偶像。
 そんな先生なんて居るわけがない。

「僕はそんな先生に会ったことがないから、わからないな。僕たちが見慣れている先生像ってのは、もっといい加減だと思うけどね」

 それが普通なのだろう。
 大人の心が分からない子供達。
 子供の時の心を忘れてしまった大人達。
 だからこそ、分かり合えるはずが無いのだ。
 ある程度、いい加減であったほうが付き合い易い。

「どうやったって差は出てきますよね。私は大人。彼ら彼女らは子供なのですから。だけど、対等でありたかったんです。間違った事は間違ってるって。正しい事は褒め合って。笑いあったり、一緒に泣いたり」

 彼女が目指すものは教師の中でも、理想に属するもの。
 きっと、目指しても目指しても、手の届かないほどの場所にあるものだと思う。

「生徒には結構迷惑がられる考えだとは思うんですけどね」

 苦笑しながら、彼女は言った。
 それでも、その意思は曲げる事はないように思える。
 それが彼女の中の教師――先生なのだろうから。

「難しいですよね。昔思い描いていた自分とは全然違うみたいです。先生にはなれました。けど私は、生徒たちのことを真剣に考えているかと聞かれると、自信がありません」

 目指している自分という未来の想像図。
 僕は今、想い描いていた未来像になれているのだろうか?
 ……なれてはいないだろうな、と思う。
 医者になって僕は、すぐに穂波診療所に来た。
 小さい頃から生まれ育った場所だから、この場所を守りたいと思った。
 だけど、現実はもの凄く厳しかった。
 何度も助けられない患者に出会った。
 そして、その倍くらいに僕と同じ思いをした人を見てきた。
 だけど――

「僕はこれでいいと思うんだ」

 何も知らなかったからこそ、目指す理想は高かった。

「色々なこと経験し、色々な想いを受け継いできた今の自分は。思い描いていた自分よりも、きっと素敵でかっこいいんじゃないかな」

 助けることが出来なかった。
 だからその人の分まで、たくさんの命を助けて、たくさんの死を見よう。
 たくさんの楽しいことを、辛いことを受け入れていこう。
 それが、今を生きている自分の出来ることだと思うから。

「そうですね」

 そう言って、彼女はふっと表情を和らげる。
 朝の日差しに囲まれて見る彼女の笑顔は、まさに太陽のように、明るくて眩しくて、全てを優しく包んでくれる。
 ホッと安心できる笑顔だった。

「さぁ、早く学校に戻らないとね。君を待っている生徒はたくさん居るんだから。その生徒たちの為にも一日でも早く元気にならなきゃ」
「そうでしょうか? 私はそんな立派な先生じゃないですよ」
「君は、君が思っているよりずっと真剣に生徒たちのことを考えていて、生徒たちに慕われているよ。僕が保障する」
「は、はい。ありがとうございます」

 そうして、照れて笑う。
 そんな彼女の笑顔もいいな、と感じた。







 朝の散歩を終え、診療所に入ろうとしている時、クラクションが聞こえた。
 診療所の横に車がある。
 浩司のだった。
 降りてきて、車に腰掛ける。

「よっ。お二人さん」
「浩司さん。どうかしたのですか? 学校は?」
「学校はね。今日は休業。創立記念日だからね」

 嘘だ。
 創立記念日は七月。今は五月だぞ。
 今日、学校は普通通りにやっているはずだ。

「実はね。優日ちゃんに会いたいっていう人が居るんだよ」
「って、浩司?」

 どういうことだ? 何も聞いてないぞ?
 紗衣香ちゃんが会う決心を固めたというのだろうか。
 それは別にいいのだけど、どうして僕に何も知らせないのだろうか。

「え? 私にですか?」
「ああ。今もう来てるんだ。いいかな?」
「はい。いいですけど……」

 浩司が一方的に事を進めていく。
 僕は浩司に目で問い掛けてみる。
 いったいどういうことなんだ? と。

「いいってさ」

 浩司は、僕と目線を合わせないように、後ろを振り向き客人である誰かに言った。
 そして、それに続くように車を降りる音。
 浩司が壁になっていて、まだ誰かは分からない。
 いったい何だって言うのだろう。

 そして……その人は姿を現した。

「チャオ♪」

 明るい声。
 さわやかな笑顔。
 顔の横で手をひらひらと振っている柚華さん。

「って紛らわしいわっ!」

 紗衣香ちゃんかと思ってびっくりしたじゃないか!!

「はっはっはっ。何をそんなに驚いているんだ?」
「普通に出てくればいいだろっ! ふつーに!」
「「楽しくないじゃないか(の)」」

 見事なまでに二人の意見が重なっていた。
 ……さすがは親子。

「あはははは。いつも面白いですね。お二人とも」
「喜んでもらえて嬉しいわ」
「やっぱ笑ってる時が一番だな」
「そうね。それが見たいから頑張れるのよ、ね?」

 そう言って僕にウィンクをする。
 はぁ。やっぱこの人たちには適わないな。……色々な意味で。

「え? なんの話ですか?」
「さて、朝食はまだでしょ? おばさん腕によりをかけて作ったげるから待っててね」
「へ? あ、はい。ありがとうございます」

 柚華さんは優日さんの車イスを押して診療所の中へと入っていった。

「ったく。驚くだろ、普通」
「ははっ。悪い悪い。母さんがこんなこと思いついちまってな。悪気はないんだ」

 人をおちょくるというのは、悪気じゃないのだろうか。

「……学校は?」
「これから行くさ。お前に伝えたいことがあったからな。ついでに母さんを送ったんだよ」

 ついでに騙された僕はなんなのだろう。
 浩司は先ほどまでの冗談を言うような顔ではなく、真剣な顔つきで。

「紗衣香ちゃんが優日さんと会う決心を固めた。まだ早いかもしれないけど、会わせてあげたい」

 そう。言ってきた。

「分かったよ」

 本来は僕の了解なんていらないんだ。
 会いたい時に会ってくれればいい。
 それで彼女の記憶が戻ってしまっても、僕たちが支えてあげればいいだけなのだから。

「じゃあ、夕方に紗衣香ちゃんを連れてきてあげて」
「いいのか?」
「良いも悪いも無いさ。会いたいと言ってくれているんだ。会わせてあげるのが普通だろ?」
「そっか。そうだな。そんじゃ、また夕方に連れてくるな」

 日差しが眩しい。
 白の線が熱を持って、僕を照らしていた。
 目を細めながら、見上げる一面青だけの世界。
 今日も暑くなりそうな予感がした。







 昼。優日さんの部屋を訪れていた。
 夕方ごろに紗衣香ちゃんが会いに来るということを、伝えるためだ。
 彼女にとって、訪問者というのは初めてだ。
 それに、少しは疑問に思ってきているはずだ。
 自分を見舞いに来る人間が居ないことを。
 柚華さんや浩司がそんな考えを紛らわすほど、明るく接してくれてはいるけど、もうそんなもたないだろう。
 現に彼女は最近、考えに耽(ふけ)っている時がけっこうあった。

「それにしても、浩司さんと柚華さんってどうしてあんなに面白いのでしょうかね?」
「ホントにね。人をからかう為に生きている気がするよ。あの二人は」
「俊也さんはずっとここに暮らしていたのでしょう? 毎日が楽しかったんじゃないですか?」
「うーん、楽しいっていうか……まぁ、飽きはしなかったかな」

 浩司の家に遊びに行っていた時、何度もからかわれていた。
 というか、会ったら必ずからかわれていた気がする。
 ホントに人をいじるのが好きというか、自分のペースに巻き込むのが上手いんだよな……柚華さんは。
 だから悩みとか、素直になれない時、柚華さんには正直に話すことが出来た。
 僕にとってもう一人の母親のような存在なのだ。

「私の周りには柚華さんや浩司さんみたいな人は居ませんでしたから、もの凄く新鮮ですよ」
「あははは。それは新鮮だろうね」

 長い間いじられていると耐性も出来てくるというもの。
 つっこみもなかなか大変なのだ。

「あ、優日さん。夕方ごろになると思うんだけど、君に会いたいって人がいるんだ」

 そうだ。紗衣香ちゃんのことを話さなければならない。
 とは言っても、その直前までは誰かは言わないようにするけど。

「私に……ですか?」

 嬉しいという感情と、誰だろうという興味。
 その両方が混ざり合っているような微妙な表情。
 彼女に浩司や柚華さん以外のお客さんは来なかったのだから。

「うん。今までちょっと事情で会いに来れなかったんだけど、会えるようになったから、会いたいってね」
「うわぁ、ホントですか? 楽しみですっ」

 本当に嬉しそうに、顔をほころばせている。
 うん。やっぱり笑ってる時が一番だな。
 だって、きっと彼女にとっては嬉しい再会となるはずだから。
 それに彼女の記憶が、ちょっと前に進むことができる。
 僕だって嬉しいことは嬉しいのだ。

「うん、楽しみにしてていいよ。きっと、君が会いたい人だから」
「私が会いたい人。本当に……そうだといいですね」

 笑っていた顔が、一瞬にして暗くなる。
 ここに最初来た時のように、頼りなさげで……寂しがっている感じがした。

「優日さん?」
「あ、いえ……その、ちょっとだけ、思うところがありまして……今まで誰もお見舞いに来なかったじゃないですか?」

 家族を思い出していくから、家族を恋しがる。
 そんな簡単な事に、僕は気付いていなかった。
 思い出していくから、ほんの少しでも気付いているのではないだろうか。優日さんは。

「だから、私の…その……家族はどうして会いに来てくれないのかなって……少しだけ寂しくなってしまったのです」

 そう。疑問に思って当り前なのだ。
 家族が何故、見舞いに来ないのか。
 自分がこんな怪我をしているのなら、すぐに駆けつけて心配してくれるであろう家族の夢を記憶を今まで彼女は見てきたんだ。
 けど、もう事故から二週間は経っているのに、彼女の元に家族は来ない。
 いや、来れなかった。来ることが出来なかった。

 彼女の手は震えていた。
 耐えられなくなるように、布団を握り締める。
 今日会いに来てくれたのが家族であるならばいい。
 だけど、もし家族でなかったら、今までおぼろげながらに思っていた不安が、急に現実味を帯びてくるから。
 もう家族は、この世に居ないのではないだろうか……自分だけがこんな怪我だけで助かってしまったのではないだろうか、という考えが。

「優日さん…」

 近づき、自分の手を彼女の手に重ねる。
 少しでも、その不安を和らげるように…。

「ごめん。……僕からは、何も言うことは出来ない。けど、大丈夫。君が思っているようなことはないから」

 なんて無責任なのだろう、僕は。
 彼女の不安は的を得ている。
 彼女の父親、母親は事故で亡くなってしまった。
 そして、彼女だけがその事故から生還することが出来た。
 この事実は決して間違いなどではないし、揺らぐものでもない。
 君が思っているようなことではない。だけど、その考えは間違いではないんだ。
 ただ、少しだけ違うだけ。
 紗衣香ちゃんが死んでいるかもしれないっていう不安だけが、間違いなだけ。

「……くすっ」
「え?」
「いえ。俊也さんの手って温かいなぁって…」
 ぎゅっと、彼女はもう片方の手を重ねた。
 そして目をつぶる。
 安心したのだろうか、彼女の震えは止まっていた。
 …………ごめん。
 心の中で、何度も謝る。
 彼女の不安を、少しでも和らぐために…僕は嘘をついてしまったのだから。







 ――夕方。
 今日もいつも通りに、時間が過ぎていった。
 柚華さんが優日さんの世話をして、また散歩に出掛ける。
 ずっと、こんなことをしてきた。
 それが今日、少しだけ変わるのかもしれない。

「……来た、な」

 車の音が聞こえた。
 浩司の車。
 その車には紗衣香ちゃんが乗っているのだろう。
 今日でひとつ、区切りが出来る。
 もしかして、全てが終わってしまうのかもしれない。
 こんなことこそ、きっと運命というものに委ねるしかないものなのだろう。
 車が止まる。

「先生。こんばんは」
「ありがとう。決心をしてくれて」

 事件からまだそんなに日付は経っていない。
 自分を拒絶されたのは、そんなに遠い日々のことではない。
 だけど、彼女は前に進んでくれた。

「それじゃ、行こうか。浩司、送ってくれてありがとう」
「おう。紗衣香ちゃん。今日はなにもかも忘れて、甘えて来い。君は妹なんだから、甘えていいんだ」
「……はい!」

 浩司の言葉は優しかった。
 紗衣香ちゃんの緊張を
 そんな姿に満足したのか、浩司は親指を立てて去っていった。

「行こうか」

 診療所に入り、優日さんの部屋に向かう。
 久しぶりの診療所に、紗衣香ちゃんは落ち着きがなく、常に視線をさ迷わせている。
 自分がいなかった間に、なにか変わったことがないか、確かめているのだろう。
 それに、紗衣香ちゃんにはやっぱり懐かしいんだと思う。
 なにしろ二週間ぶりになるのだから。

「先生……私はここに戻ってきてもいいのでしょうか?」
「当り前だよ。ここは君の家で、君の居場所なんだから。それにこれからは優日さんのお世話もしてもらうよ?」
「はいっ。ぜひさせてください」

 そう、全てが上手くいけば、また以前のような日々が訪れる。
 そりゃまったく同じってわけではないけれど、それでも……彼女たちの仲の良い姿が見れる。

 そして、優日さんの部屋の前まで来た。
 もう何度も見てきただろう彼女の部屋のドア。
 今日は少しだけ、重く感じてしまう。
 本当に今、この扉を開けてしまっていいのだろうか。
 優日さんと紗衣香ちゃんを会わせてしまっていいのだろうか。
 いや……考えるまでもないだろう。
 僕の役目はこの扉を開け、紗衣香ちゃんと会わせてやること。
 それが優日さんの背を押すことにきっとなる。
 なら、迷うことなんてなにもない。
 ――コンコン。

 少しの間が空く。それから、小さな声で「どうぞ」と聞こえた。
 優日さんも緊張しているのだろう。それに不安もある。
 なら、その不安を少しでも和らげてあげなければ。

「入るよ」

 僕だけが彼女の部屋に入る。
 その様子を見て、優日さんはちょっと安心したような、でも残念がっているような、微妙な表情を見せた。

「大丈夫? 緊張してない?」
「緊張はありますよ。どんな人なんだろうって、とても興味があります」

 彼女にとっては、心地良い緊張なのだろう。
 僕が気を回すほどでもなかったようだ。

「それに、覚悟もしていますから。どんな人が来ても、私は笑顔で迎えてあげるんです」
「そうだね。ぜひそうしてあげてほしい」

 笑顔で迎えてあげてほしい。
 そうすれば、きっと紗衣香ちゃんも笑顔で優日さんと向かい合う事が出来るだろうから。

「それじゃ、入ってもらおうかな」

 ドアノブを握り、手前に引く。
 ガチャっと小さな音、ドアが徐々に開いていく。

「………………え?」

 ドアが完全に開いた。
 優日さんは、ただ呆然とその先を見つめている。
 誰か分かっていないのだろうか。
 そこに現れたのは、誰よりも愛しいはずの妹。
 やや緊張していて、今にも泣きだしそうなくらいに、瞳に涙を溜めた紗衣香ちゃんの姿。
 紗衣香ちゃんは、一歩一歩、たどたどしく、優日さんのベットへと近づいていく。

 優日さんはまだ、停止したままだ。
 彼女はどんなことを今、思っているのだろう。思い出しているのだろう。
 自分の目の前に居る人。
 どこか懐かしくて、大好きな人。
 とても大切で、何よりも大事な人。
 自分の記憶から呼び起こされる――名前、声、容姿、思い出、そして……顔。

「さい、か?」

 その発音を口にした。
 あぁ、本当に久しぶりだ。
 優日さんの口から、その名前を聞けるなんて。

「はい。紗衣香です。優日姉さん」

 紗衣香ちゃんも優日さんを名前で呼ぶ。
 いつもは姉さんと呼んでいるのに。
 そんな風に確かめ合っている気がした。
 相手は自分にとってどういう存在なのかを。
 紗衣香ちゃんが、優日さんの目の前に立った。
 そして、恥ずかしそうに少しだけ微笑んで。

「お久しぶりです。姉さ」

 紗衣香ちゃんの言葉は遮られた。
 それは、懐かしい温もりが自分の胸に飛び込んできたから。

「え? あの……姉さん?」
「……紗衣ちゃん……紗衣ちゃん……紗衣ちゃんっ!」
「あ、あの……姉さん……ちょっと重――きゃっ」

 耐え切れなくなり、その場に尻餅をつく。
 そのまま優日さんも倒れ込んだ。

「……会いたかった……会いたかったよ………紗衣ちゃんっ」

 そうやって妹の名前を呼ぶ。
 今まで、ずっと聞いたことが無かった。
 優日さんの口から紗衣ちゃんという言葉を。
 それを補うかのように、紗衣ちゃん、紗衣ちゃんと絶え間なく繰り返している。

「……っ。姉さん!」

 紗衣香ちゃんも抱き返す。
 そして……泣いた。
 大声をあげて、誰にも隠すことなく、ただただ泣いた。
 悲しみでなく、喜びの涙。
 もう長い間流していないだろう、幸せの雫。

 どこにも行かないでほしい、決して手放したくはない、確かな温もり。
 それを確かめ合う。
 姉妹の再会。
 それがこれほどまでに美しいものだろうか。
 お互いのことが、こんなにも大事だってことが、見てるだけで伝わってくる。
 言葉なんて多くはいらなかった。
 ただ、お互いの温もりがそこにあり、確かめることができれば、それでいいのだ。
 僕は部屋を出、ゆっくりとドアを閉めた。







 ――プルルルルルル プルルルルルル

「はい。穂波診療所です」
『あ、俺。…どうだった?』
「大丈夫。今は姉妹水入らずで話してるよ」

 あれから一時間は経っているだろうか。
 紗衣香ちゃんはずっと優日さんの部屋に居る。
 今は邪魔をしたくないし、する気はない。
 だから僕は大人しくしているのだ。
 たとえ気になっているとしても。

『そっか。良かったな』
「本当に。なんか一気に脱力したよ」
『はははは。違いない』

 ただ良かった、ってことしか思い浮かばない。
 本当に安心した。
 それだけ。

『これで、一段落だな』
「うん。……目処が着いた感じがするよ。優日さんの記憶はきっと、もうすぐ思い出すことができると思う」

 電話の奥で、浩司が黙っている。
 何かを考えているのだろうか?
 いつもの浩司なら、皮肉を混ぜながら、僕を励ましてくるはずなのだけど。

『なぁ、俊也……それは、幸せなのか?』

 そんな、最初の頃に問い掛けていたことを、聞かれた。

『彼女の記憶を思い出させる事が、彼女にとって幸せなことなのか?』

 辛い記憶。忘れたいと思ってしまうほどの。
 それを思い出したとしても、彼女は一生笑えないのでないか。

『あの事故に耐え切れなくて、彼女は自分で忘れたんだぞ。それを思い出させることは、彼女の為になるのか?』

 忘れていた方がいい記憶。
 知らない方が良かった真実。
 そんなもの、たくさんあると思う。
 優日さんの記憶が、どの程度なのかは、僕には分からないけど。
 だけど、それはきっと間違っていると思うから。

「優日さんの為になるさ。大丈夫、彼女は強くなった。それに僕たちもいる」

 そう自信を持って言える。
 今度は独りじゃない。なら、乗り越えられるはず。受け止められるはず。
 それに、浩司は分かっているはずだ。
 彼女が記憶を失ったことは、ただの逃避だということを。
 その記憶を思い出さないことは、その事実から逃げることになる。
 ずっと……一生。

 それで幸せになれるはずがない。
 彼女が心から笑ってくれるはずがないのだ。
 それに、両親の死を背負っていくのは、紗衣香ちゃんだけになってしまう。
 そんなの、紗衣香ちゃんが可哀想過ぎるから。

『ああ。けどな、優日ちゃんは思い出しても……ずっと自分を責め続けてしまう。自分を許すことは……きっとないだろう』
「浩司? どうしてそんなことが分かるんだよ」

 現状ではただの事故。
 そこで何が起こったのか、未だに僕たちには分かっていない。
 分かっていない……はずなのに。
 浩司には確信に近いものを感じた。

『今日な。隣町の病院の看護婦が、家を訪ねてきた。それで教えてくれたんだよ。あの事故のことを』

 ずっと触れることの出来なかったもの。
 あの雨の日の出来事。
 ただ、黙って耳を傾けていた。

『救急車の中で、優日ちゃんのお母さんが全部話してくれたそうなんだ。自分は娘を責めてなんかいないって、だからそれを伝えてくれってな』

 娘を恨みながら死んでいく親なんていない。
 それが分かっただけでも、ホッとした。
 たとえ、優日さんが自分を責めているとしても、両親は許してくれているのだから。

『優日ちゃんはな。何度も助けようとしていたらしい。自分の足が折れているのが分かっても、ドアを何度も開けようとした。だけど、事故の衝撃でドアが歪んでいて、人の……ましてや女の子の力じゃ決して開かなかった』

 助けたかった。
 でも、助けることが出来なかった。

『彼女は大声をあげて泣いていた。それを、ずっとおふくろさんは見ていたんだ。私のことはいいから早く逃げて、って何度も口にしたそうだ。だけど、優日ちゃんには聞こえていなかった』

 大切な人が目の前で死ぬ。
 死んでいく様を、ただ見続けることしか出来ない自分。
 僕も味わったことがある地獄。
 小さい頃、自分がこんなにも無力だという事を思い知った。

 ――どうしてぼくは、なにもできないのだろう――
 ――ぼくはただ、ないていることしかできないのだろう――
 ――だいすきだった、こんなにもだいすきなのに――

 遠い記憶。
 思い出したくない……記憶。
 やめろ、思い出すな。
 もう乗り越えたはずだろ?
 だから思い出すな。
 今の自分は"誰かを救える力があるんだ"と。
 そう、思い込むんだ。
 そうしなければ、今の自分の存在が簡単に薄れてしまいそうで――――。

『…也? おい、俊也っ!』

 浩司の声で、嫌な記憶から開放される。
 そう。思い出さなくていいんだ。
 あんな想いは。
 今は、自分のことなんてどうでもいい。
 彼女のことだけを考えていればいい。
 落ち着け……落ち着くんだ。
 この想いに囚われてはいけない。
 もう終わったことなのだから。

「大丈夫。ごめん、話の腰を折って」
『……いや、大丈夫ならいいんだが』

 思考が落ち着いていく。
 幼いときの想いは、蓋をしておけばいい。
 今はまだ、それでいいんだ。

「大切な人を助けられなかった。だから優日さんは、自分を追い詰めた」
『ああ。そういうことなんだろう』
「……確かに浩司の言うとおり、だろうね」

 優日さんの性格なら、助けることが出来なかったことをずっと責め続けるのだろう。
 それをお母さんが許してくれているって、自分を責めていないって分かっても、きっと彼女は納得しない。
 そういう人なんだ。
 そして、どんどん自分を責めて責めて責め抜いて……そしていつかは壊れてしまう。
 確かに、そんな気がする。
 だけど……。

「だけどね浩司。忘れ続けていくことが幸せだなんて事は絶対にないんだよ。忘れるなんて都合のいい事が認められるはずないんだ。いつかは必ず、その問題と向き合うことになる」

 忘れていたら、もしまた同じ事態が起きてしまったときに、何も出来ないから。
 それは、絶対にしちゃいけないことだと思うから。
 だから、大切な人をまた失ってしまうかもしれない時に、何かが出来るように、自分を変えていく。成長させていく。

『……そうだったな。わりぃ。お前が一番分かっているんだよな。お前は、乗り越えてきたんだもんな』
「……」
『とりあえず、伝えたいことは伝えたぞ』
「うん、ありがとう」

 解決するのは彼女自身。
 だけど、僕は隣で支えていきたい。
 彼女が例え、自分を責め続けてしまうとしても。
 僕は、彼女を許してあげよう。
 少しでも、彼女の心を軽く出来るように。







 電話が終わり、診療室へと移動した。
 もう、太陽は顔を出していなく、空はゆっくりと眠りに着こうとしている。

「……ふぅ」

 今日はなんか色々あって疲れた。
 とりあえず、うまく行ってくれたみたいで、一安心だ。
 もう、そんな遠くない日に、優日さんは記憶を思い出すだろう。
 その時に……僕は―――ぼくは、ふさいでいたおもいとちょくめんすることになるのだろうか。

「先生?」

 ふと、この場所で聞くのが、懐かしい声が聞こえた。

「……どうかしたのですか? 電気も点けないで」
「いや、ちょっとね」

 ったく、また昔のことに囚われていた。
 思い出すなって言っているのに。

「どうだった? 優日さんと会って」
「……会ったときに、何を話そうか、どんな顔で会えばいいのか、どんな風に話そうか、とか…そんなことを、ずっと考えていたのですよ。ですけど、姉さんに全部壊されましたよ」
「ははは。本当にね。でも、おかげでだいぶ打ち解けたでしょ?」
「はいっ。泣いて笑って、何もかも吹き飛びました」

 そうだろう。
 いい意味で優日さんは緊張をぶち破ってくれた。
 本当に嬉しかったのだろう。
 何も考えずに抱き付いてしまうほど。

「……でも、やっぱり忘れているんだなって実感しました」
「紗衣香ちゃんと会っても……ダメだった?」
「最近のことは何も、覚えていないみたいです」

 まだ彼女の中で、決定的なことが起きていないのだろう。
 それが何かまでは分からないけれど。
 そんな遠い日のことではないと思う。

「先生……あの、ありがとうございます」

 紗衣香ちゃんは、僕にお辞儀をした。
 とても丁寧に。深く、深く。

「姉さんの為にここまでしてくれて、ありがとうございます。先生には……本当に感謝しきれないくらい、感謝しています」
「あ、いや……そんなの全然いいよ。だって」
「姉さんのことが……好きだからですよね?」
「……うん」

 今さら迷うことなんて無い。
 僕は優日さんのことが好きだ。
 隠すこともないし、胸張って言うこととは少し違う気がするけど、紗衣香ちゃんには隠したくなかった。

「お願いします」
「……紗衣香ちゃん?」

 様子がおかしい。
 何かを堪えている。抑えている。

「お願いします。姉さんのこと、大事にしてあげてください。姉さんは不器用なのです。一人じゃどうしようもないほどダメなくせに、周りに遠慮して一人になってしまうような人なんです」

 優日さんをよく知っている紗衣香ちゃんだからこそ。
 認めてくれるのは嬉しい事。
 なのに、紗衣香ちゃんはどうして辛そうなのだろう。

「ですけど、やっと頼れる人。弱さを見せられる人を見つけることが出来ました。それが、上月先生……貴方なのです。どうか、姉さんを…………大切にしてください」

 どこか思い詰めたように、僕の顔を見る。
 その顔は……今にも泣き出しそうなほどに、酷く歪んでいた。
 どうして? どうしてそんな顔をするんだ?

「……もちろんだよ。僕は優日さんが必要だ。誰よりも、何よりも大切にしたい。その為なら、どんな犠牲も厭(いと)わない。彼女の笑顔を守るって、僕は誓ったんだから」

 どうして、そんなに辛そうに話すんだろう?
 どうして、そんなに泣きそうになってまで……優日さんのことを頼んでいるんだろう?

「それなら安心して任せることが出来ます。……姉さんも先生を必要としています。……これからもずっと…………ずっと支えてあげてください」

 自惚れなのかもしれない。
 だけど、この状況がそうだと伝えてくる。
 もしかしたら、紗衣香ちゃんは……僕の……ことを?

「……紗衣香ちゃん」

 紗衣香ちゃんに近づこうとする。
 僕自身何がしたかったのか分からない。
 だけど、紗衣香ちゃんは僕を避けるように、身体を後ろに向けた。

「そ、それじゃ、私。姉さんのところに言ってますね」
「あ、紗衣香ちゃん!」

 そして、呼び止める間もなく、紗衣香ちゃんは走り出して行った。

 優日さんを支えるために、その他の全てのものを犠牲にする。
 それが、どんなに辛いものかを……僕は今、経験したのかもしれない。
 僕はきっと、紗衣香ちゃんを傷つけてしまったのだろう。
 たぶん、言葉には絶対してくれないだろう、彼女の想い。
 それが垣間見えた気がした。
 そっか……だからあの時、浩司は「紗衣香ちゃんには言うな」って言ったのか。
 僕は、どうして気付かなかったのだろう。
 ……紗衣香ちゃんは僕が知らない間にたくさん傷ついていたかもしれないというのに。
 気付いた。
 遅すぎるくらいに、遠回りをして気付いた。
 僕は、紗衣香ちゃんの想いを犠牲にして……優日さんを支えていたんだ。






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