大切な人を失うこと。
 私は今までそんな経験をしたことがありませんでした。
 友達にせよ、近所の人にせよ。今まで自分の身近な人の死を知りませんでした。
 ほんの……つい最近まで。
 今まで自分がどんなに幸せだったのかが……身に染みて分かりました。
 死というものを感じることなく、大好きな人たちと一緒に居られたのですから。
 そう、私は幸せだったのです。

 ……幸せだった。

 誰が……奪ったのでしょう?
 私たちの幸せを、誰が奪ったのでしょう?
 私は、誰を恨めばいいのでしょう?
 私は、誰に怒りをぶつければいいのでしょう?
 私は、誰に悲しみを訴えればいいのでしょう?
 どうして……こんなことになったのでしょう?
 どうして……こんなことをされなければならなかったのでしょう?
 誰でもいいです。
 誰でもいいですから……教えてください。

                                    5月16日





「昔語(九)〜心の在処と模索と」






 紗衣香ちゃんに会いに行くために、柚華さんの家へと向かっていた。
 浩司の実家だ。
 柚華さんに「優日ちゃんを診ているから、会いに行ってほしい」と頼まれたのだ。
 それに、柚華さんに頼まれなくても、自分から行くつもりではあった。
 紗衣香ちゃんのことが心配だ。それに、聞きたいこともある。
 紗衣香ちゃんなら分かるかもしれない。
 優日さんの記憶を思い出させることができるきっかけを。

 チャイムを押す。
 少ししてから、ドアが開いた。

「はい〜す。どなたですかぁ〜」
「……浩司?」

 時計を見る。
 現在時刻、十時二十七分。
 ……学校は?

「あれ? 俊也。どした?」
「……ちょっと紗衣香ちゃんに話があってね」
「優日ちゃんはいいのか?」
「柚華さんに頼んである。それより浩司、学校はどうしたの?」

 今日は平日。
 別に特別な休業日ってわけでもない。
 なんで浩司がここにいるんだ?

「学校? あぁ……そういえば、そんなのあったなぁ」
「はぁ?」
「いんや。最近行ってなかったんでね」

 ということは今日だけじゃないんだ。
 浩司が実家に戻ってきているっていうことは、きっと紗衣香ちゃんが関係しているのだろう。

「紗衣香ちゃんが心配で?」
「そんなとこだ。行く気分じゃないんでね」

 僕が少しでも優日さんの近くに居たいのと同じように。
 浩司は浩司で色々なものを犠牲にして、紗衣香ちゃんの側に居ようとしているのだ。

「……まぁ、ちょうど良かった。お前にヘルプしようかと思っていたところだ。来いよ」

 家の中に案内される。
 ふと、懐かしさが頭を掠めた。
 昔はよくこの家に来ていた。
 本当に変わっていない。
 テレビやその横に置いてある電話機、そしてテレビを囲むようにして並んでいるソファー、その左手にあるキッチンやテーブル。
 全てが当時のままだった。

「それで、紗衣香ちゃんはどこに?」
「俺の部屋。今はそこに寝泊りしてる」

 浩司の部屋は階段を上がって、そのまま真っ直ぐ行った突き当りの部屋になっている。
 よく浩司と二人で遊んだところだ。

「わかった。じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「ああ。頼む。少しだけ元気を……いや、希望を与えてやってくれ」

 そう言ってソファーに座り、目頭を押さえ、天井を仰ぐ。
 きっと、浩司はそんなに眠っていないのだ。
 紗衣香ちゃんのことが心配で。

「話してみる。それだけしかできないよ。僕は」
「へっ。十分だ。行って来い」

 今、僕が紗衣香ちゃんに言えることは"優日さんが記憶を取り戻し始めた"ということだけ。
 それが紗衣香ちゃんにとっての希望になるのかはわからない。
 ただ、そうなればいいと……願うだけ。

 ――コンコン。

「紗衣香ちゃん? 俊也だけど……いいかな?」
「先生? ……はい。どうぞ」
「失礼するよ」

 ドアを開けて中に入る。
 普段と変わらないはずの紗衣香ちゃんの身体が、一回りくらい小さくなって見えた。
 その姿は今にも壊れてしまいそうな程に、儚く見える。

「先生……どうしてここに?」
「紗衣香ちゃんに話があったんだよ」
「そう、ですか」

 彼女の顔に明るさは一欠けらも見えなかった。
 もう疲れた……そんな顔をしている。

「それで……話というのは、なんですか?」
「そうだね。先に話しておこうか。優日さんが記憶を思い出し始めた」
「……そうですか。良かった」

 影を射した表情に少しだけ光が宿った。
 やっぱり、希望は優日さんなのだ。

「それで、家族のことも徐々に思い出してきた。紗衣香ちゃんのことや両親のことをね。昔、どんなところに言ったとか、家族はこんな人たちだったとか。少しずつね。だけど……」

 きっと一人では思い出せないだろう。
 全ての歯車が狂ってしまった時の事。
 あの、雨の日の出来事を。

「記憶を忘れる原因となった事故のことは……きっと自分からは思い出せないと思うんだ」
「……それで、私にどうしろと言うのですか?」

 表情が陰った。
 紗衣香ちゃんは今、自信を持っていない。
 自分は姉にとってなんなのかということに、答えを出し切れていない。
 だからこそ、嫌なのだろう。
 また拒絶されるのが、辛いから。どうしようもないほどに辛いから。

「紗衣香ちゃんに何かしてほしいってわけじゃない。だけど、きっかけが欲しいんだ」
「きっかけ、ですか?」
「思い出すきっかけ。何かがあるはずなんだ」

 優日さんが、大切にしていた何か。

「なにか知らないかなって思ってね。優日さんが両親や君に対して大事にしていたものとか」

 少しの間、沈黙がこの場所を支配した。
 僕は大切なものを忘れている気がしている。
 僕は知っているはずなんだ。
 でも、思い出せない。
 まだ思い出すべきではないと、何かに遮られている気がした。

「……すみません。ちょっと分かりません」
「そう……」

 紗衣香ちゃんなら、とは思ったのだけど……。
 霞がかった記憶の中を、手探りで探っている。
 分かりかけているのに、やはり分からないというもどかしさに似ていた。
 手が届く場所にあるのだ。絶対に。

「姉さんはそういうものがあったとしても……言わないのです。だからどんなものを大切にしているのかは、よく分からないのですよ」
「……そっか。ありがとう」

 僕は知っている。知っているんだ。
 最近。本当に最近のこと。
 なんだ? 
 僕は何を忘れている?

「姉さんは元気ですか?」
「怪我の方は順調かな。記憶のことで苦しんでいる時もあるけれど、元気だよ」
「そう……ですか」

 ほっとしたような感じで、どこか遠くを見つめる。
 まるで、自分には手の届かない場所にいるかのように。

「先生。私は……とても怖いです」

 そうやって、紗衣香ちゃんは震える声で語り出した。
 僕の方を見ることはせずに。
 ただ、窓の外を見つめている。
 姿は見えないけれど、その先にあるのは診療所だった。

「姉さんに会いたい。会って私の事をちゃんと見て欲しい。けど、会うことを拒否している私がいます。私はどうすればいいのか、分からないのです」
「……自分がしたいことをすればいいんじゃないかな」

 紗衣香ちゃんが最初に言ったこと。
『姉さんに会いたい』
 これは、ただ純粋に求めているものだと思うから。

「……私は、姉さんに会いたい。ですが、会いたくても、私のことを思い出してくれなかったらどうしようって考えると……何も考えられなくなるんです」

 会うことが怖い。
 一度否定された自分が、また否定されることを怖がっている。
 当然だ。
 一番大切な人たちを失い、そして同じくらい大切な人に自分の存在を否定されたんだ。
 この辛さを分かる人なんて居るはずがない。本人しか分かるはずがないのだ。
 言うべき言葉なんて見つかるわけがない。

「会うときのことを考えるだけで、手が震えてしまいます。声が震えてしまいます。足が竦んでしまうんです」

 こうやって紗衣香ちゃんの弱さを聞いていると、痛感してしまう。
 自分には何一つ出来ることはないと。
 いや、してあげられないのだと。

「私は、この恐怖に打ち勝たないといけないのです。いえ、打ち勝ちたいのです。会いたいという気持ちに偽りはないのですから」

 僕に紗衣香ちゃんを支える事は出来ない。
 それは、優日さんを支えると決めてしまったから。
 だから僕は、こんな言葉しか言えないんだ。

「……頑張れ。僕は待つから。君が優日さんに会いに行けるようになるまで、待つから」

 頑張れ。
 なんと無責任な言葉だろう。
 彼女は頑張っている。
 今も、その前も……ずっと。
 だからこそ彼女は今、こうして目の前に居るんだ。

「はいっ」

 そんな無責任な言葉にも、彼女は励ましを得たのだろうか、さっきよりは少しだけ明るい声で僕に応えた。
 後ろめたいような心のざわつき。
 それを、悟られてはいけないと、僕は笑顔で紗衣香ちゃんを見つめた。







「浩司……どうしてついて来るんだよ?」

 紗衣香ちゃんと会話を終え、僕は診療所に戻ろうとしていた所、なぜか浩司もついて来ていた。

「ん? 優日ちゃんが記憶を思い出してきてるんだろう? 俺の顔みて少しくらいは思い出してくれるかもしれないしな」
「うーん……」

 優日さんが記憶を取り戻すのは眠って夢に見るときだけだ。
 少なくとも起きている時に、記憶を思い出したことはない。

「どうかしたか?」
「いや、なんでもない」

 せっかくこうして来ているのだから、伝えることでもないだろう。

「紗衣香ちゃんはどうだった?」
「……闘っているよ」

 何と、なんて言わなくていい。
 浩司なら分かるだろうから。
 ずっと側で見てきた浩司なら……。

「……そうか。ははっ。やっぱ敵わねぇよな。お前には……あはははははははは」

 浩司は笑っている。
 まるで、悲しいものを吹き飛ばしてしまうように。
 自分のそういう姿を見せないように。
 笑っている。

「……浩司」
「紗衣香ちゃんは俺には話してくれなかった。ただ『大丈夫です』ってそれだけ。何を言っても無駄……やっぱ俺には無理なんだよ。結局な」

 そんなことない、と言ってあげたかった。
 だけどそれは、浩司が望む答えではない。
 浩司が言いたい事はそういうことじゃない気がする。

「っと、愚痴になっちまったか。そうじゃない。そんなことを言いたいんじゃないんだ。お前は頑張ってるってそう言ってやろうと思っただけなんだ」
「僕は……僕の大切な人のために、出来ることをしているだけだよ」

 今回のことだって元を辿れば、優日さんの為。
 記憶を思い出させるきっかけを知っているかどうかを、聞きに来ただけなのだから。

「……俺も、大切な人の力になってやりたかった。けど、紗衣香ちゃんはお前を選んだ。お前を頼った。お前に自分の弱さを打ち明けた……」

 浩司を見る。
 その顔は、酷く疲れていて、どうしようもないほどの悲しさと諦めで歪んでいた。

「俺も……出来ることをしてあげたかった……でも、俺に出来たことはお前に助けを乞うことだけだった」
「……」
「他の状況では分からない。だけど今、この状況ではお前を頼りにしてくれている人たちがたくさん居る。俺もその一人だし、紗衣香ちゃんも、優日ちゃんも、母さんも、皆だ」

 僕は……頼りにされるような人間なんかじゃない。
 逆なんだ。
 いつも支えられてばかりいる。
 優日さんや紗衣香ちゃんや浩司、柚華さん。
 いつもいつも助けられてきた。
 そんな、弱い人間なんだ。

「お前が自分のことをどう思っているのかしらない。だけどな……頑張れ。今、お前は誰からも必要とされている。それは事実なんだ」

 だけど、守られる存在から、守る存在へ。
 いつもそんなことを考えていた。
 いつかはそうなりたいと、願っていた。
 僕は今、そうなれているのだろうか。
 それは、分からない。

「たとえそれでお前が倒れたとしても、俺が立たしてやる。だから、頑張れ」

 分からないけど。
 頼りにしてくれているというのなら、その想いを無駄になんかさせたくない。
 そう強く思う。

「うん。頑張るよ。頑張りたい。僕になにが出来るかは分からないけれど」

 僕に出来ることなんてたかが知れてる。
 僕は優日さんの笑顔が見たいから。
 ただそれだけのために、行動するのだから。
 それが周りにどんな影響を及ぼすのかは分からないけど。
 とりあえず、進んでいこう。
 進んでいかなければ、壁にだってぶつからないのだから。

「おう。これから泣き言なんて俺が許さねぇからな!」

 浩司がバンッと僕の背中を叩く。
 その手のひらから流れ込んできた想いは、誰よりも紗衣香ちゃんを想う心。
 その想いを……確かに受け取った。







「ただいま」
「お邪魔しまっす」

 診療所に付いた頃は十二時を過ぎていた。
 昼食の支度をしていたのだろう、柚華さんは台所に居た。

「お帰りなさい。ちょうどお昼ご飯が出来たのよ」
「あ、すみません。僕が作らなくちゃいけないのに……」
「そんな決まりないでしょ? それに、作って貰ったんだから言う言葉が違うわよ?」

 少しだけ怒った感じで、柚華さんが言う。
 まぁ、顔は笑っているから、本気ではないのだろうけど。

「あ、えっと……ありがとうございます」
「よろしい。それじゃ、私は優日ちゃんにこれを届けてくるからね」
「お願いします」
「って俺は無視かいっ!!」

 今まで黙っていた浩司が騒ぎ出した。

「あら? え!? こ、浩司くんじゃない!!」
「その驚きはなんだよっ!」
「ど、どうして……なんでこんな所に? ここに来てもあなたの欲しいものはないわよっ!」
「俺はどんな人間なんだよっ!」
「まさか……紗衣香ちゃんだけでは飽き足らず優日ちゃんをまで手篭めに!? 駄目よ! 優日ちゃんには俊也くんという立派な恋人が…」
「何言ってるんですか!!」
「俺は鬼畜かっ!!」

 もはやダブルツッコミである。

「冗談、冗談。日々のスキンシップは大切でしょ?」
「……何が悲しくていつもおちょくられなきゃならんのだ」
「寂しいんだから相手してくれてもいいじゃない」
「親父が居ないから? そんなん関係ないだろっ。絶対っ」
「正解。面白いからね」
「ぐっ…………」

 勝者、柚華さん。

「それじゃ、ご飯冷めちゃうから届けてくるわね」

 放心している浩司をほっといて、さっさと歩き出した柚華さん。
 強い。これが母親の強さなんだろう。
 もちろん違う意味で。
 っていうか、なんであんなハイテンションだったんだ?

「いつも大変だねぇ。浩司くん」
「……ははははは。もう慣れたよ、俊也くん」
「それじゃ僕もちょっと行ってくるよ」
「ん、おいおい。だったら俺も行くぞ?」
「あ、そういえばそれで来たんだっけ」

 ということで、浩司と二人で優日さんの部屋に向かう。
 途中で柚華さんとすれ違った。

「あら? 二人してどこに行くの?」
「優日さんの部屋です」
「ふぅん……女性の食事をしている所を見に行くなんて関心できないわね」

 柚華さんはじと目でこちらを睨んでいる。
 僕と浩司を、というよりは浩司を睨んでいる。
 どういう意味が込められているのだろうか。

「なら、うちらもあっちで食べればいいんじゃん?」
「うちらもって浩司くんの分はないわよ?」
「へっ?」

 浩司がまぬけな声を出す。

「当然じゃない。ここに来るなんて言ってなかったんだから」
「なら時間空けるか?」
「うーん……そうだね。僕らも昼食を取ろうか」

 会うのなら別に後からでもいい。
 それに柚華さんの言うように、食事をしているところにいくのは、なんか失礼な気がするし。

「誰が作るのよ。それ」
「え、もちろん母さんが」
「私はそんな暇ないわよ。これから帰って紗衣香ちゃんにも作ってあげなくちゃならないんだから」
「うぐっ」

 どうやら、浩司は昼ご飯なしで僕が食べ終わるのを待つか、昼飯を食べるために一度家に帰るかしかないみたいだ。
 無論、僕は自分の分があるので作らない。
 しかも浩司は料理が出来ない。自炊能力が無いのだ。
 何故こいつは一人暮らしが出来るのだろうか? 不思議でならない。

「くそっ……めんどくさいが一回帰るか」

 昼ご飯は我慢できないらしい。

「というわけで、お前は一緒に食ってこい」
「邪魔者は去るから。ゆっくりとね」

 柚華さんの顔がニヤニヤとしていた。
 なるほど。そういうことか。
 柚華さんのお節介に、苦笑する。







 浩司と柚華さんを送り出し、自分の分の昼ご飯を持って彼女の部屋へと向かう。
 頭の中にあるのは紗衣香ちゃんのこと。
 彼女の気持ちに整理がつかなければ、優日さんも記憶を取り戻すことは無い。
 それにまだ眠るという無防備な状態でしか思い出せていないのだ。
 しっかりと意識を保ったまま、記憶に触れる。
 そんなことを今の優日さんに出来るのかは分からなかった。
 部屋の前に着く。
 ――コンコン。

「はい、どうぞ」
「失礼するね。僕もここで食べようと思って」

 そう言って、持ってきていた昼ご飯を掲げる。

「あ、ありがとうございます。では、どうぞ」

 そう言って、柚華さんは笑った。
 そして、ベットの近くにあった机と椅子を指差す。
 僕はさっそくそれをベットの横に持ってきた。

「柚華さんお料理上手なんですね。おいしいです」

 僕が食べ始めると、同意を求めるように言ってきた。

「ん。そうだね。これぞ母親の味って感じかな」
「こういう味、憧れます。私こういう味を出せるようになりたいです」
「そうなんだ? 十分なくらいに美味しいのに」

 優日さんの腕は本当に驚いてしまう。
 なんで教師をやっているのだろうと思ってしまうほどだ。
 あの腕なら、自分の店でも出して、食べていけるだろうに。

「私なんてまだまだですよ。やっぱり母親の味って違いますから。私の目標です」
「お母さんの味って覚えてるの?」
「はい。思い出しています。けど、あの味ってなかなか出ないんですよ。教えてもらってはいたんですけどね」

 優日さんがお母さんに料理を教えてもらっている姿を想像する。
 紗衣香ちゃんも一緒に習って、一生懸命母親の味を出そうとする。
 けど出なくて、それでもめげずにまた教えてもらう。何度も、何度も。
 母親のようになりたくて。
 想像するだけでも、なんとも微笑ましい光景だった。

「そういえば俊也さん。私の財布を知りませんか?」
「……財布?」

 その単語が……頭に引っかかった。

「はい。そういえばずっと見ないなぁとは思っていたんですけど、丁度夢に出たのです」
「夢に?」
「はい。えっと……妹に何かを貰って……それが嬉しくて私、財布にずっと付けたのです。あれは……高校に入る前だったと思うのですけど……」

 ……え? …………あれ? …………何処かで……聞いたことがあるような……。

『これ。私が姉さんにあげたものなんですよ』

 確かに聞いたことがある。
 嬉しそうに語っていたのは誰だったか。

『もうだいぶ昔になるんですけどね。姉さんの高校受験の時に渡したのです。お守りとして』

 もう何年も前のものだというのに。
 とても大切に扱っていたの誰だったのか。
 そして、絶対に失くす事がないように。
 それを付けたものは何だったのか。

「財布……財布だ!」
「俊也さん?」

 だけど、何処にあるんだ?
 あの雨の日は確か紗衣香ちゃんが持っていた。
 僕と会ってそれを落として……僕は、診察室の机の上に置いたはず。
 けど、それ以降見た記憶がない。
 ということは、誰かが持っていったっていうこと。
 あの場に居たのは浩司と紗衣香ちゃんだけ。
 僕ではないのだから、この二人しか考えられない。
 なら―――

「俊也さんっ! どうしたんですか? いきなりボーっとして」
「ごめん。ちょっと用事思い出した! すぐ戻ってくるよ!」
「え? 俊也さん!?」

 ―――なら、今二人が居る場所に行く。
 行って聞けばいい。
 頭にはそれしかなかった。







 走った。
 全てが回り始めた気がした。
 優日さんの記憶を取り戻すきっかけが見つかったのだ。
 それを現物としてどうしても見たかった。

「浩司っ!」

 チャイムも鳴らさず、坂上家に入る。
 うるさいくらいに廊下を駆け抜けて、居間へと入った。

「なんだなんだ? 騒々しい」
「先生……どうかしたのですか?」
「俊也くん。とりあえず落ち着いてくれるかしら?」

 昼食を取っていた浩司、紗衣香、柚華さんはあっけに取られつつも、理由を聞いてくる。

「聞きたいことが……あるんだ」

 息切ればかり起こして、上手く喋れない。
 だけど落ち着いてられないのだ。
 もしかしたら、優日さんの記憶を回復させることができるかもしれない。
 どうしても、気持ちが焦ってしまう。

「紗衣香ちゃん……辛いことを思い出させてしまうかもしれないけど、聞きたいことがあるんだ」
「……はい。なんでしょうか?」

 息を整える。
 そして、確信をつく言葉を、一気に言った。

「優日さんの財布。どこにあるか知らないかな?」
「……え?」
「えっと、あの事故の日に紗衣香ちゃんが持っていた財布だよ。ほら、ペンギンの人形が付いていた」
「財布って……あぁ、確か紗衣香ちゃんが落としたやつだよな。診療所の前で」

 紗衣香ちゃんはゆっくりと、過去を振り返っていた。
 そして、少し目を伏せながら、頷いた。

「あるなら見せてほしいんだ。もしかしたら、それがきっかけになるのかもしれないから」
「あの……すみません。私は持っていません」

 予想外の答えだった。
 浩司は望みは薄かったけど、紗衣香ちゃんならきっと持っているだろうと思っていた。

「じゃあいったい、どこに?」
「……きっと、あの病院にあると思います」

 変わらずにずっと目を伏せたままでいる紗衣香ちゃん。
 思い出すのが辛いのだろうか、それとも何か別の理由なのか。

「病院って、隣町の?」

 優日さんと、両親が運ばれた病院。
 紗衣香ちゃんと浩司が向かった場所だ。

「はい。私も今まで忘れていました。病院に行ったときは持っていました。心配でずっと握り締めていましたから。ですけど……その……病院を飛び出してからの記憶が曖昧なので不確かなのです」

「すみません」を紗衣香ちゃんは申し訳なさそうに、それでいて心配するような声で言った。

「隣町……か」

 確証はないが、行く価値はあると思う。
 どうする? 確かめに行こうか?
 どうしても手元にあるんだという確信が欲しい。
 なら、行くしかない。
 あの財布……いや、正確にはあの財布に付いている人形こそが、全てを解決するきっかけになるはずだから。

「……浩司、悪いけど車出してくれないかな?」
「ま、そういうことなら仕方ないだろ。断るわけにはいかない」
「ありがとう。すみません、柚華さん。優日さんを宜しくお願いできますか?」
「行ってらっしゃい。よくは分からないけれど、大切なことなんでしょう? なら私に遠慮しないで自分の思う通りに行動なさい」
「んじゃ、善は急げだな。さっさと用意しよう」

 そう言って、浩司は車を用意するため、外に出て行った。
 僕も外に向かうため、居間を出ようとした。

「あのっ! 私も!!」

 紗衣香ちゃんが必死に声を絞り出して、叫んでいた。

「私も……行ってもよろしいでしょうか……!」
「……大丈夫?」

 見れば、紗衣香ちゃんの身体は緊張の所為で硬直しきっていた。
 手が震えている。足が震えている。
 立っているのも辛そうに見えるというのに。
 声を振り絞って、僕に訴えている。
 私も一緒に行きたいと。

「大丈夫です! ……お願いします」

 あの病院は自分の存在を否定された場所。
 今の紗衣香ちゃんなら、近づきたくないはずなのだ。
 けど、彼女は決心した。
 この恐怖と闘おうと。
 なら、その背中を押してやらないでどうする。

「よし。じゃあ行こうか」
「はい!」

 行こう。
 全ての悲しみが始まった場所へ。







 二時間かけて隣町の病院に来ていた。
 僕は初めて、浩司と紗衣香ちゃんにとっては二度目となる場所。

「俊也、もうすぐ着くぞ」
「ん。分かった」

 あともう少しで着く。
 ようやくこの目で見れる。この手で触れる。
 確かなものとして、受け取ることができるのだ。
 僕は不思議と確信していた。
 あの人形が、きっと最後の記憶を思い出すきっかけになると。

「……なぁ。そんなにその財布が大切なものなのか? なんでこんなに急ぐ必要があるんだ?」

 事情が分かっていない浩司には、この状況は不思議なのだろう。
 僕があまりにも必死になっているから付き合ってくれている。
 僕が落ち着くまで、聞くのをずっと待ってくれていたみたいだった。

「財布というより、財布に付いている人形が大切なんだ。それは紗衣香ちゃんの手作りの人形なんだよ」

 多少の感謝と申し訳なさを含めながら、事情を説明する。

「それがどうしたっていうんだ?」
「優日さんに、紗衣香ちゃんがお守りとして渡したんだよ。それから優日さんは肌身離さずに持っていた。よっぽど嬉しかったんだろうね」

 少し前。
 恥ずかしながら、そしてちょっとだけ誇らしげに紗衣香ちゃんが話してくれたこと。
 高校受験の時に渡したこと。
 そして、優日さんの喘息まで、落ち着かせてくれたお守り。

「それはたぶん、優日さんにとって大切なものなんだと思う。紗衣香ちゃんとの絆の証なんだよ。ちゃんと目に見えるもの」

 そう。
 ちゃんと目に見えるもの。
 だからこそ、大切なんだ。
 絆という目に見えないものが、はっきりと伝わるものだから。

「……つまりはそれを紗衣香ちゃんから渡してもらえば、紗衣香ちゃんの思い出を思い出すかもしれないし、それに両親の、さらには事故の事も思い出していくかもしれない、と」
「うん。上手く行けばだけどね。優日さんも思い出したがっているから、ほんの少しの後押しさえあれば、きっと思い出せる」

 そう信じている。

「……大丈夫なのか? 優日ちゃんにとっては辛いことなんだろ? そんなものを一気に思い出させてしまってもいいのか?」

 浩司の心配は的を得ている。
 辛くて忘れてしまったもの。それをいっぺんに思い出させるんだ。
 精神的な負担は計り知れないものだと思う。
 だけど、優日さんは一人じゃない。

「確かに負担にはなるかもしれない。けど、あの時のように一人じゃない。僕も居る、紗衣香ちゃんも居る、浩司も居る……なら、乗り越えていけるよ」
「そっか……そうだな」

 浩司と話している間も、紗衣香ちゃんはずっと黙ったままだった。
 手をギュッと硬く握って、俯いている。

「さ。着いたぜ」

 紗衣香ちゃんの様子を見ていたら、いつの間にか病院の駐車場に着いていた。

「よし。じゃあ行こうか」

 車を降りる。
 バタン、バタンとドアを閉める音が二つ。
 けど、三つめの音が聞こえてこなかった。
 後ろを振り向く。
 紗衣香ちゃんはずっと俯いたままだった。

「俊也。紗衣香ちゃん、本当に大丈夫なのか? かなり無理してるように見えるぜ」
「うん……無理しているんだろうね。きっと」

 後部座席のドアを開け、紗衣香ちゃんに声を掛ける。

「大丈夫? 無理なら降りなくてもいいんだよ?」
「……すみません。大丈夫です。降ります」

 この場所で彼女は全てを失ってしまった。
 この場所に踏み入れるということは、悲しみと向き合うということ。
 全てを失った記憶と向かい合うということ。

「……本当に大丈夫ですから」
「分かった」

 彼女の手を取る。
 ビクっと一瞬だけ動き、そのまま手を預けてくれた。

「こうしていれば少しは紛れるよ。きっと」
「……ありがとう、ございます」
「じゃあ、行こうか」

 紗衣香ちゃんが降りてくるのを待ち、浩司のもとへと向かう。

「……おいおい、見せ付けてくれるねぇ」

 浩司が繋いでいる手をめざとく見つけて言った。

「ったく、こんな時におちょくるなよ……」
「冗談だ、冗談。さ、行くぞ」

 病院の中に入り、受付までさっさと歩いていく浩司。

「……紗衣香ちゃん、気分は大丈夫?」
「……正直に言いますと、辛いです。ですけど、私だって頑張りたい。姉さんが思い出そうと頑張っているのなら、私だって頑張りたいのです」

 強い、と思った。
 両親を失くし、優日さんに拒絶され……それでも、その現実と向かい合い、前へ進もうとしている。

「……なら頑張ろう。僕は手を握ってあげることしか出来ないけど、それでもいいのなら、僕も一緒に居てあげられるから」
「……十分ですよ。ありがとうございます……では、姉さんに悪いですけれど、少しだけお借りしますね」

 それにしても、浩司は何をしているのだろう?
 受付に行ってからもう数分は経っていた。

「浩司さん、どうかしたのでしょうか?」

 紗衣香ちゃんも気になったのだろう。
 浩司の方を見てみる。
 けど、浩司は何をするでもなく、ただずっと立ち尽くしたままだった。

「……行こうか」
「あ、はい」

 紗衣香ちゃんをひっぱりつつ、浩司のもとへ向かう。

「…浩司?」
「……! あ、いや……」

 振り向いた浩司は、焦っている風に見えた。
 まるで見つかってはいけないものを、見つけてしまったみたいに。

「……財布。あるにはあったんだけどな……」

 浩司は言い淀んだ。

「……その…………ないんだよ」
「……? 何が?」
「……付いてないんだよ。お前の言っていた、人形のストラップってやつが」
「え……なん……だって?」

 浩司は手に持っていたものを僕たちに見せた。
 それは、白の下地に青色の水玉が入っている財布。
 けど、そこに付いてあるはずの……紗衣香ちゃんが優日さんの為に作った、あの不恰好なペンギンは……無かった。

「……どうして?」
「分からない……受付の人に聞いても、この状態で見つかったって」

 何かの拍子で切れたのか?
 それでどこかに落ちてしまった?
 紗衣香ちゃんの緊張が。握った手から伝わってくる。
 くそっ! どうしてこう物事は上手く運ばないのだろう。

「すみません! これを拾った人を教えてください!!」

 受付の人に叫ぶように言った。

「あ、その……届けてくれたのは退院された患者さんのお子さんでして、今居ないんです」
「何処で拾ったとか言ってませんでしたか!?」
「確か……」

 記録でもつけてあるのだろう、紙を捲りながら探している。

「23号室ですね」
「あ。23号室って確か優日ちゃんが居たところだ」
「よし! 浩司、案内し……え?」

 いつの間にか、握っていたはずの紗衣香ちゃんの手の温もりが消えていた。

「紗衣香ちゃん!?」
「病室を聞いたらすぐに走っていった! 行くぞ!!」

 浩司が叫びながら、走っている。
 僕もその後に続いて走り始めた。







 23号室。
 今は誰も入院患者は居なかった。

「……紗衣香ちゃん」

 彼女は床を這いながら、下に落ちてはいないか必死で探していた。

「ほら、俺らも探すぞ!」
「うん」

 僕も床を這って、どこかの隙間に落ちていないか見てみる。
 ここで無くなったんだ。
 ここにあるはずなんだ。
 誰かが持ち出さない限り、絶対に。

 無言で探す。
 だけど、いっこうに見つかる気配がない。
 この病室は小さい。
 3人で調べるのなんて数分で終わってしまう。
 だけど、ない。
 ここには……ない。

「お前ら、ちょっとここ探してろ。他の部屋の人に聞いてくる!」

 ここにはないと判断したのか、浩司は23号室を出て行った。
 紗衣香ちゃんは座り込んで、ずっと俯いていた。

「……ある。絶対にある。諦めないで探そう!」
「……ど……て」
「え?」
「……どうして……どうして……どうしてっ…………どうして!!」

 ただ同じ言葉を繰り返して……泣いていた。

「私たちがっ……何か……しましたか? ……返してください……あれは……大切なものなんですっ。あの時のっ、姉さんは……とてもっ疲れていて……ただ………姉さんに笑って欲しかったから…………!」

 まるで、癇癪を起こしたかのように、紗衣香ちゃんは叫んだ。
 今まで貯めていたものを言葉にして、吐き出そうとしているかのように。
 少なくとも、僕にはそう見えた。

「そうです……私は……姉さんの笑顔が……大好きだった。ずっと……見ていたかった……笑っていて……ほしかった……それが……私の願いなんです」

 僕は立ち尽くしていた。
 彼女に声をかけることが出来なかった。
 だから……探さないと。
 優日さんの記憶を思い出させるとか、そういう理由じゃなく。
 彼女たちの大切な絆を取り戻すために。

「……先生。私は今まで……何もしていませんでした……ただ、自分の不幸を嘆いているだけでした……だから……罰があったのでしょうか?」
「……大事な人を亡くしたんだ。そんなの罰でもなんでもない」
「そう。罰なんかじゃないぜ」

 背後から声が聞こえた。
 振り向く。
 ドアの前に浩司が立っていた、少しだけ汗を掻いている。

「……浩司さん?」

 浩司は何も喋らず、紗衣香ちゃんのもとへと歩いていく。

「ほら。あったぞ」
「……え?」

 そう言って、紗衣香ちゃんに差し出した。
 何を、なんて言わなくてもいい。

「あ……」
「もう落とすんじゃないぞ。今度は紗衣香ちゃんがしっかりと持ってるんだ。届けてあげんだろ? 優日ちゃんに」

 浩司の手からそっと受け取り、抱き締める。
 もう離さないように、きつく。

「廊下走ってたら掃除のおばちゃんとぶつかってな。んで、このこと話したら持ってたんだよ。ゴミ箱に捨てられててたところ、おばちゃんが見つけたんだってさ」
「よく捨てられなかったね」
「ホントにな。でも良かった」

 近くにあったベットに座り込む。
 本当にホッとした。
 本当にあって良かった。

「……先生」
「うん?」

 人形を抱き締めながら、僕の目を見る。

「……私、姉さんに会います。会いたいです」
「大丈夫?」

 何回この言葉を聞いてきただろうか。
 だけど、今まで聞いてきた言葉と、今回は違う。
 ただの確認。
 心配する言葉ではなく、本当に確認するだけの言葉。

「……まだはっきりとは言えませんけど……大丈夫だと思います。……だって、思い出したのですから」

 僕を見つめる目が違った。
 本当に決心したことを告げる目だった。

「私は姉さんの笑顔が大好きだってことを……思い出しましたから」

 そう言った紗衣香ちゃんの顔は、確認するのでさえ、失礼な気がした。
 それぐらい、晴れ晴れとしていたから。
 自分が求めているもの。
 自分がしたいこと。
 自分はどうすればいいのか。
 全てを見つけ出せたような、顔をしていたから。

「ですから、私と会うことで姉さんの記憶が戻るのなら、怖いとか不安だとか言ってられません。私は姉さんの笑顔をもう一度見たいです。いえ、一度だけじゃなく、これから何度でもです」
「……うん。僕も見たいって思ってる。だから頑張れる」
「先生が頑張ってくださっているのに、妹の私が頑張らないでどうするのですか。……ですから会わせてください。お願いします」

   そう言って頭を下げる。
 断る理由なんて何一つないのに。

「……違うよ。お願いするのは僕の方だ。ありがとう、笑顔が好きだって言ってくれて。ありがとう、会うって言ってくれて。ありがとう、優日さんを大切に想ってくれて。……本当に……ありがとうっ」

 頭を下げる。
 やっと……全てが揃った。
 これで僕が、彼女の為にしてあげられることは無くなった。
 あとは背中を押すだけ。
 優日さんならきっと、前を向いて進んでいける。
 すぐには無理だとしても、時間を掛けて……ゆっくりゆっくり進んでいける。
 僕はそれを見守りたい、支えていきたい。
 ずっと側に……恋人として彼女の隣に居たい。
 ……さぁ、始めよう。
 最後の記憶を見せてあげよう。
 それが彼女にとって辛いものだとしても、乗り越えていくべきものだと思うから……。






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