数日が経った。
 何がきっかけになったのかは分からないけど、優日さんは少しずつ、自分の思い出を取り戻していった。
 大切な思い出を。
 自分が生まれた場所、育ってきた場所、家族には両親と妹がいる事。
 こんな母親だった、こんな父親だった、こんな妹だった。
 けど、その顔は霧が掛かったように思い出すことは出来なかった。
 思い出せているのは、ほんの少し。
 だけど、それでいいんだと思う。
 後ろに下がっているわけではなく、前に進んでいるのだから。
 確実に一歩一歩。





「昔語(八)〜記憶の夢と両親と〜」






 朝。
 ベットから起き、伸びをする。
 窓の向こう側には青空が広がっていた。

「いい天気だな」

 今日は目覚めが良かった。
 久々に清々しい朝というものを味わった気がする。
 たぶん、優日さんのおかげなのだろう。
 彼女の記憶は少しずつだけど、回復に向かってきている。
 それに、以前程ではないけど、笑顔を見せるようになってきていた。

「さて、と。それじゃ行くか」

 朝の身支度が終わり、優日さんの部屋へと向かう。
 僕は、最近は常に彼女とは一緒に居るようにしていた。
 彼女が泣きそうになっている時は抱き締め、彼女が笑っている時は僕も一緒になって笑う。
 少しでも彼女の不安を紛らわせるように。
 少しでも彼女の笑顔を長く見ていられるように。
 最初は、傍に居るだけでいいのかって自問していた。
 けど、彼女を励ましたり、彼女を慰めたり、彼女を笑わせたり、彼女と笑ったりしていると、それが結局僕に出来ることで僕がしたいことだと分かった。
 つまり、傍に居ることが全て"僕の想い"だったんだ。
 浩司が言った『傍に居るだけでいい』とは、そういうことだったのだろう。

 優日さんの部屋の前。
 扉をノックする。

「はい、どうぞ」

 いつもと変わらない声と姿がそこにあった。

「おはようございます」
「うん。おはよう。今日は夢を見た?」

 いつもの挨拶。
 そして最近、決まりごとになりつつある、質問をした。

「はい。見ました」

 優日さんは嬉しそうに目を瞑る。

「今日は家族で海に出かけていました。たぶん中学生になり立ての頃でしょうね」

 彼女は、自分の失った記憶を夢として見ていた。
 その夢は起きたからといって忘れてしまうわけでもうろ覚えになるわけでもなく、はっきりと覚えている。
 つまりは、夢を見ることによって彼女の大切な思い出が蘇り、記憶の元ある場所に収まるのだ。

「へぇ、海か。僕は最近行ったことないかな」
「すごく奇麗でしたよ。どこかはよく分からなかったんですけど、水が透き通っていて、魚がたくさんいました。けど、私は喘息持ちだったから、泳ぐことは出来なかったんです」

 少し前に紗衣香ちゃんに聞いたことだった。
 彼女は軽い運動もしてはいけないほど、重い喘息を持っていた。
 優日さんは小さい頃から、何をするにも制限が付いていたんだ。

「そんな私に妹は、海の中にいる魚を見せてあげるって言って、一人で海に入って行ってきました」

 その頃から紗衣香ちゃんは紗衣香ちゃんだったらしい。
 常に回りに気を配って……いや、この場合は違うか。
 ただ純粋に姉に見せたかったのだろう。
 海に潜る事が出来ない姉に。

「けど、一時間しても帰ってこなくて、お父さんもお母さんも心配になって探しに行きました。一人になった私は、妹がいなくなったらどうしようって、泣き出しそうになっていました」

 優日さんは少し、悲しい目をした。
 遠くを見、あの頃の事を思い出しているのだろうか。

「しばらくして、私を呼ぶ声が聞こえて。妹はお父さんに抱きかかえられていました。咳き込みながらも小さく息をして……それでも、私を見つけた妹は嬉しそうに手を開いて、『はい。お姉ちゃん。時間が掛かってごめんね』って言ったんです」

 まだ夢で見た感触が残っているのだろう。
 目を瞑り、僕の前で手を開いて見せてくれている。
 そこにはいったい、何があったのだろうか。

「その手には奇麗な色をした、お魚がいました。黄色と黒の縞々をした、小さな小さなお魚が。私は嬉しかったです……けど、私の為に溺れるまで捕まえ続けた妹を叱りたい気分もありました」

「困ったものですよね」と優日さんが付け足す。
 紗衣香ちゃんは、優日さんに見せてやりたいと必死に追いかけていたのだろう、溺れるまで。

「……優しい子だね」

 紗衣香ちゃんは優しい。
 それだけ優日さんのことが大好きだったのだろう。いや、大好きなんだ。
 今も昔も。
 変わらずに。

「はい……優しすぎるんです、妹は。だから、私は泣きながら妹に言ったんです。『ありがとう。本当に嬉しい』って」

 叱るような言葉ではなく、純粋に嬉しいと感じたから嬉しいという。
 危ないんだからとか、自分が楽しんでほしいとか、今はそんなことを聞きたいのではないのだ。紗衣香ちゃんは。
 ただ、姉に喜んで欲しかったから、笑っていて欲しかったから、自分が危険な目に合う事も厭わずに、純粋に追い続けた。

「私は、服が濡れるのにも気にせずに、ずぶ濡れの妹に抱きつきました。そこで、目が覚めたんです」

 彼女の夢は優しい。
 その思い出のほとんどは優しいお話なのだ。
 彼女の家族は、とにかく家族を大事にした。
 家族が家族の為に、幸せであろうと努力をしていた。
 なのに、今は……バラバラになってしまっている。
 それが、悲しい。

「そっか。良かったね」

 今日も思い出すことが出来て。
 思い出すということは、バラバラになってしまった家族を戻す事ができるかもしれないのだから。
 元には戻らないだろう。
 だけど、家族という絆をつなぐ事はできる。

「はい。良かったです」

 思い出せたことが嬉しいのだろう。彼女は微笑んでいた。
 思い出の夢を見るということは毎日ではない。
 いつ見なくなってもおかしくはない、不確かなものなのだから。

「それじゃ、また昼頃に柚華さんが来るから」
「分かりました。柚華さんとのお話ってけっこう楽しいんです。お世話もしてもらっているのに、話し相手にもなってもらえて、嬉しいです」

 入院してから、優日さんの身の回りの世話を柚華さんにお願いしていた。
 僕ではもちろんダメだし。浩司なんて論外。
 それに、現状では紗衣香ちゃんに合わせることが出来ないので、自然と柚華さんのところに話が回ってきたのである。
 柚華さんは、まだ浩司さんが院長をしていた時に、手伝いをしていたこともあるので、この診療所には詳しい。
 柚華さんは二つ返事で了承してくれた。

「うん。じゃあ、朝ご飯でも作ってくるよ」
「あ、はい。お願いしますね」

 僕は彼女の部屋を出、朝食の準備に向かった。







 昼が過ぎていた。
 僕は診察室の方で、学校での業務をたんたんとこなしていた。
 学校の方へは、事故の日以来行っていない。
 何かあったら、こっちで緊急に回してくれと浩司に言ってある。
 少なくとも優日さんが回復するまでは、彼女の傍について居たかったのだ。

「柚華さん相談室しゅうりょーう」

 突然後ろから声が聞こえた。
 振り返ると、そこにはお湯を張った容器とタオルを持った柚華さんが居た。
 太陽が真上に昇りきる前に、柚華さんは来てくれていた。

「お疲れ様です。ありがとうございました」
「ふふっ。確かに疲れたわね」

 容器とタオルを洗面所に置いて、僕の前に座った。

「すいません。なんか無理して頼んじゃったみたいで」
「そんなこと言わないの。私だって好きでやっているのだから」

 そう言ってくれると、本当に助かる。
「疲れって言っても心地よい疲れなのよ。世話を焼く事ができたーってね。やっぱり、女の子はいいわね」

 僕や浩司は男だから、女の子の世話をそんなに焼いたことがなかったのだろう。
 柚華さんはしみじみとそう言った。
 僕はお茶を入れる為に、台所に立つ。

「やっぱり、子どもは欲しかったですか?」
「そうね……欲しかったわ。けど、それが無理だって分かっても結婚したいと思ったの。だから後悔はないのよ」

 浩介さんと柚華さんの夫婦仲はもちろん良い。
 けど、子どもはいなかった。
 それが、結婚する時に決めたものだったそうなのだ。
 柚華さんに「子どもを授けてあげることは出来ない」と、浩介さんは言ったのだそうだ。
 その理由は聞いたことはないけれど、きっと前の奥さんが関係しているのだろう。

「それにしても、紗衣香ちゃんが家に来てくれただけでも嬉しいのに、さらに女の子の世話が焼けるなんて嬉しいわ。ありがとう」
「そんな! 礼を言うのはこっちですよっ」
「……そうかな」

 ずっと笑顔を崩さなかった柚華さんが、少しだけ寂しそうな表情を見せた。

「どうかした?」
「……いえ。それで、優日さんはどうでしたか?」

 少し気になったが、そのままにしておくことにする。

「話した内容はもちろん秘密だけどね? けど、色々とさっぱりしたみたいだったわ」
「そうですか……良かった」
「ふふっ。妬けるくらいに大切なんだ? 優日ちゃんのコト」
「あ、いえ……その……はい」

 少し顔が熱くなった。

「あははっ。正直者のよね。俊也くんも優日ちゃんも」
「え?」
「気にしない、気にしない」

 優日さんも正直者とはどういうことだろうか。
 なんでも隠さずに話すという事か。
 ということは、柚華さんは同じ様な質問を優日さんにしたのだろう。
 彼女はどんな風に応えたのだろう……。
 まぁ、気にしないでおけというのなら、そうするけど。

「紗衣香ちゃんはどうですか?」
「そうね…落ち着いてはいるけど、まだ落ち込んでるというか、気持ちの整理が付けきれてないというか……」
「……そうですか」

 気持ちの整理。
 優日さんへの信頼。
 今まで築いてきた家族の絆への信頼。
 一度、全てを失ってしまったからこそ、取り戻すまでの時間が掛かる。

「浩司くんも、毎日帰ってきては紗衣香ちゃんと話してるみたいだけど……紗衣香ちゃんは自分の納得できる答えを見つけきれてないみたいなのよ」

 紗衣香ちゃんが選ぶ答えは、きっと優日さんと共に頑張っていくことだと思う。
 だから、優日さんが紗衣香ちゃんを思い出すまでは、きっと答えを見つけられない。
 だって、紗衣香ちゃんには今、希望が見えていないのだから。

「……もう少しだと、思うんです」
「? なにが?」
「優日さんの記憶が戻るのも、紗衣香ちゃんが答えを見つけるもの、全部」

 きっかけ。
 必要なのはきっかけなんだ。
 でも、それがまだ見えてこない。

「そう。それは良い事ね」

 また、寂しい表情を見せる。
 笑顔と笑顔の合間に、時折見せる表情。

「……どうかしましたか? 柚華さん」
「え?」
「いえ……その、時々、寂しそうな顔をしてるので……」

 自分でも何故か聞いていた。
 聞いていいのかも判断しないで、口から出てしまっていた。

「出さないように気をつけてはいたんだけどね………失敗失敗。沈んでいるヒマがないほど忙しくても、結局は思い出してしまうか……」
「柚華……さん?」

 苦笑する柚華さんは、いつもの雰囲気と違っていた。
 僕や浩司をからかいながらも、大事にしてくれた柚華さんとは違う。
 ただ、一人の人間として……悲しんでいた。

「なんでもないのよ。ただ、友人が亡くなってしまったから、気落ちしてしまっているだけ。優日ちゃんと紗衣香ちゃんの両親は、私の大学時代の先輩だったからね」
「え?」

 悲しみの正体。
 それは、大切なものを失ってしまったという喪失感。
 浩司からも聞いたことがない話だった。

「私がね、大学に入学して演劇部に入ったとき、四人しか居なかったんだ。その中の二人が彼女たちの両親だったのよ」
「……そうなんですか」
「誠人先輩とさやか先輩って大学時代からラブラブだった。それが羨ましくって、結構ちょっかいかけたものだわ……懐かしいなぁ」

 誠人とさやか――彼女達の両親の名前。
 本当に懐かしいのだろう。寂しい表情の中にも、微笑みが見えた。

「私の入った演劇部って結構本格的だったのよ?」
「本格的ですか?」
「オリジナルの脚本を書くの。元ある物語じゃなくてね。発表も年に二回。秋の学園祭と春の新入生歓迎会にするのよ」
「それは大変だったんじゃないですか?」

 一から物語を作るなんて、どんなに難しい事なのだろうか。
 僕には想像できない。
 普段読むような小説だったり、ドラマだったり、そういうものを書いていると考えると、素直に感嘆してしまう。

「ええ。もちろん大変だった。お話を書く人がね。私たち演じる人はそうでもなかったの」
「そういうもんなんですか?」
「そういうもんなんですよ。日路先輩――あ、脚本を書いてた人がね。すごく才能があったんだと思う。その人が書く物語はとても面白くて、哀しくて、切なくて…本当に演じるのが楽しかった」

 僕は何かの部活に入っていたことはなかった。
 小、中、高いずれもだ。
 だから、そんな思い出がある柚華さんを少し羨ましく思う。

「四人ってことは優日さんたちの親御さん以外にも、その日路さんとあと一人居たんですよね?」
「美冬っていう、いかにもお嬢様って感じの先輩がね」
「お嬢様?」
「ええ。本当にお嬢様だったんだから。如月製薬って知ってるわよね?」
「え! 如月製薬!?」

 如月製薬とは、日本でも大手の薬のメーカーである。
 普通に風邪薬とか薬局で売っているものの大概は、如月製薬のもの。

「ふふっ。そりゃ驚くかぁ、大会社だものね。そこのお嬢様なんだ、美冬先輩って。でも、わがままな性格でね。よく部内に問題を持ち込んできてたものよ」

 少しだけ声のトーンが落ちた。
 顔を見てみる。
 柚華さんはどこを見ているのか分からない、遠い目をしていた。

「本当にあの頃は楽しかった。卒業した後でも何回も会って、近況を報告し合ってたの。だから、優日ちゃんのことも、紗衣香ちゃんのことも私は知ってたのよ」

 卒業したあとも、たまに会って、話す事が出来る友人。
 僕にとっては浩司みたいなものだろうか。
 想像してみる。
 浩司が居なくなったら、僕はどうなるのだろう。
 きっと、つまらない生活になっているのだろうと思う。
 なんだかんだで、やはり浩司の事を信頼しているし、親友だと思っているから。

「いつ会っても元気で。ラブラブで。幸せそうで。本当に……今、居ないことが不思議なくらいなんだ……けど、やっと実感してきたのかもしれないわね。寂しいわ……やっぱりね」

 そう言って笑った。
 寂しさを含んだ笑顔は、見ているだけで切なくなる。
 どうしてだろう。どうしてこんな笑顔が出来るのだろう。
 優日さんも、柚華さんも。
 どうして、辛い時に笑っていることが出来るのだろう。

「…どうして、笑っていられるんですか?」
「どうしてって?」
「辛いのに、どうして笑えるんですか?」

 僕には出来なかった。
 今でも絶対にする事は出来ないだろう。

「うーん……不器用だからね。人に甘えるのが下手なのよ。だから、どんな時も大丈夫だよって笑っちゃうの。でも、だからこそ甘えられる人が欲しいんだ」
「……甘えられる人?」

 自分の……弱さを見せられる人。
 寄りかかっても、きっと受け止めてくれる人。

「私にとってはそれが浩介さんだった。優日ちゃんもどうやら、見つけているようだしね」

 僕の方を見ながら、微笑む。

「少しでも先輩たちの事を考えないようにするつもりで引き受けたのに、逆に思い出しちゃった。彼女達に先輩たちの面影が残っていて、びっくりした。でも、嬉しかったわ」
「嬉しい?」
「ええ。なんだか励まされた気分になったもの。おかげで立ち直ることが出来た」

 役に立てたのなら、嬉しかった。
 今まで、柚華さんにはたくさん迷惑を掛けてきた。
 だから少しでも、恩を返したかったのだ。

「それにしても、一日に同じ話を二回するとは思わなかったなぁ」
「え?」
「いや、優日ちゃんにもね、話してあげてたのよ。誠人先輩とさやか先輩の思い出をね。優日ちゃん、嬉しがってたわよ」

 記憶のあるないに関係せずに、親の昔話は子どもにしたら結構楽しいものなのだ。
 例えば、自分に厳しい父親が、実は自分よりも情けない性格だったとか、今ではおとなしくて静かな母親が、実は昔、相当やんちゃしてたとか。
 自分の知らない親の一面というものは意外に面白かったりする。

「それじゃ、そろそろ帰るかな?」
「もう少しゆっくりしていってもいいんじゃないですか?」
「いや、いいわ。あんまり優日ちゃんから俊也くんを取りたくないしね?」

 ちょっといたずら染みた笑顔をする。

「な、何言ってるんですか」
「ふふふっ。冗談冗談。でも、こんなおばさんなんかと話すより、若い子と話した方がいいわよ?」
「柚華さんだって十分若く見えるじゃないですか」
「そう? ありがとう。でも最近しわだって増えてきたんだから」

 見ている限り、しわ自体がないのだけど……いや、見えないのか。

「それじゃね。紗衣香ちゃんにも会いに来てね。バイバイ」
「あ、はい。分かりました」

 笑顔で手を振り、出て行く柚華さん。
 それに合わせて僕も手を振った。

「ほんとに若々しいというか、幼いというか…」

 少しだけ苦笑しつつ、柚華さんを見送った。







 柚華さんを見送った後、すぐに優日さんの所へと向かった。
 なんだかんだで、僕がいつも居る場所はあそこなのだ。
 ――コンコン。

「…………」

 返事がなかった。
 どうしたんだろう?
 ――コンコン。

「…………」

 やっぱりない。
 寝ているんだろうか?
 ふと、前にも同じような事があったのを思い出す。

「……入るよ?」

 騒ぎ立てる心を落ち着けて、ドアを開ける。
 ……そこにあったのは、前のように頭を抱えて苦しんでいる姿ではなく、寝息をたてて安らな眠りに落ちている姿だった。

「……ふぅ」

 いらない心配だったようだ。
 すごく安心する。

「……」

 椅子を彼女の近くに持ってきて座った。
 彼女の寝顔を見る。
 今も夢を見ているのだろうか。
 記憶の夢。
 楽しい夢。優しい夢。暖かい夢。
 けどそれは、確実に辛い現実へと向かっていく。

「……君は、その現実に耐えられるだろうか?」

 彼女は耐えられなかった。だから今、記憶を忘れてしまっている。
 しかも、それは両親が亡くなったという理由だけではないのだ。
 ……自分の所為だと彼女は言っていた。
 何が彼女をここまで追い詰めて、責め続けたのだろう。

 彼女の髪を撫でる。

「…………ん……うぅ……ん」

 気持ち良いのだろうか、彼女は笑顔になっていた。

「大丈夫だよ。君がどんな酷いことをしたとしても、きっと許してくれる」

 誰が? 彼女の親が?
 そんなの僕に分かるわけない。
 ましてや死んでしまった人だ。
 許しを請うことも、その答えを聞くことも、彼女には出来ない。

 では、誰が彼女の罪というものを許してくれるのだろう。
 ……それは、彼女自身でしかないのだ。
 罪が重くても軽くても、結局は本人次第。
 その罪を受け入れることができるのか、投げ出してしまうのか。
 それを決めることが出来るのは、本人しか居ないのだから。

 投げ出すのは簡単だ。逃げていればいいだけ。
 自分の所為なんかじゃないと、虚勢をはって、事実に目を背け、日々をのうのうと生きていく。
 全ては時間が癒してくれるのだと傍観して。
 ただ、受け入れることは容易ではない。
 自分の所為だと自覚し、時間を掛けて少しずつ罪を見つめ、認めていく。
 自分が許されるのかどうかを自問し、判断する。
 自分を許していいのか、ダメなのか。
 そうやっていけば、きっと誰でも必ず自分を許せる日が来る。
 それは命が終わる時なのかもしれないし、意外と早かったりするのかもしれない。
 期間の問題ではないのだ。"罪を受け入れること"が償いだと僕は思うから。

「……だから受け入れて欲しい」

 聞こえるのは彼女の息遣い。
 それ以外は無音だった。
 僕は罪を受け入れられただろうか?
 たくさんの死を見てきた。
 医者として何も出来なかった自分。
 医者として何かを成したかった自分。
 そして、何かを成したのに……守りきれなかった自分。
 イヤだ。
 守れないのは…もうイヤなんだ。

「……すぅ……すぅ……ん、うぅん……」
「あ」
「……ん………俊也……さん?」

 目が少しだけ開いた。
 視界がはっきりしていないのだろう。

「ごめん。起こしちゃったね」
「…………俊也さん」

 目が開かれる。
 もう一度、僕の名前を呼んだ。
 どうしたのだろう?

「……どうして、泣いているんですか?」
「え?」

 泣いて……?
 その時、初めて気付いた。
 自分の頬に涙が流れていることを。

「え、あ、いや……なんで…だろ? あれ?」

 いつのまに? なんで? どうして?
 疑問が頭の中に渦巻く。
 自分の身に起きていることに、理解が追いつかない。
 なんで涙を流している?
 何が僕の涙腺に触れたんだ?

「……どうして? あれ? なん――」

 ふわっと風が舞った。
 すぐ後に温かさが僕を包む。

「……落ち着いてください。大丈夫ですか?」

 なんとも言えない気分になる。
 まるで、羊水に浸っているような、ゆったりとした心地よさ。
 匂いは甘く、どこまでも溶けて行きそうな感覚がする。

「……うん」

 不思議なことに自然と落ち着きが取り戻せた。
 頭の中には混乱も疑問もなくなっていた。
 すぐに涙を拭き、彼女から離れた。

「ありがとう。大丈夫だから」
「そうですか……良かったです」

 少しだけ寂しそうな顔を見せたが、すぐに笑顔で僕を見てくれた。
 だから、僕も微笑み返す。

「どうして泣いていたんですか?」
「うーん……昔のことをちょっと思い出しちゃったのかもね」

 本当に昔のこと。
 初めて"失う"ということを知った時のこと。
 僕が医者を目指した理由。

「……昔ですか?」
「うん。子どもの頃の話さ」

 これ以上は語る気はなかった。
 そりゃいつかは話す日が来るのだろうけど、今はその時じゃない。
 しかも涙を見せてしまった。
 僕は今、守られる側に居てはいけないんだ。
 彼女を支える為にも、涙なんか絶対に見せてはいけなかった。
 だから、この話は終わらせたかった。
 また泣いてしまうかもしれないから。

「……そうですか」

 彼女はそれ以上、聞いてこなかった。
 僕の気持ちが伝わったのだろうか。

「でも、俊也さんが泣いている所なんて初めて見ました」
「ごめんね。情けないところを見せて」

 静かに優日さんは首を振る。

「同じですよ。言ってくれたじゃないですか。弱いところを見せて欲しいって。だから、私にも弱いところを見せてください。耐えるなんてしないでください」
「ありがとう。でも男の子はそう簡単に弱音を吐けないんだよ」

 吐くわけにはいかない。
 今は支えなければ。優日さんを。

「……ふふっ。そうなんですか。男の子って大変ですね」
「女の子の前ではいい格好で居たいからね。だから虚勢を張るんだ。男の子ってやつは。子どもな癖に、無理に大人になろうとする。特に特別だと思っている女の子に対しては、ね」

 優日さんを見ながら言う。
 意味は伝わっただろうか。
 まぁ、今は伝わらなくてもいいのだけど。

「………え?」
「それじゃあ、ゆっくりしてるんだよ」
「え。あの……はい……あれ?」

 自分が何を言われたのかを必死で考えている。
 その答えにたどり着く前に、僕は彼女の部屋を出た。

「え……えええぇぇぇぇ!」

 少ししてから絶叫が聞こえた。
 気にせずに彼女の部屋から遠ざかっていく。
 もう紗衣香ちゃんと会っても大丈夫かもしれない。
 ふと、そんなことを思う。
 けど、きっかけがない。
 会うために……思い出させるために、必要なきっかけが。
 紗衣香ちゃんだけではなく、彼女達の絆を思い出させるために必要な何か。
 それを見つけ出さないといけない。
 きっとそれは、全ての記憶を思い出すための鍵となるだろうから。
 思い出せ、見つけ出せ。
 それが僕に出来る、最後のことなのかもしれないのだから……。






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