傍に居ること。
 すごく簡単な言葉に聞こえた。

 傍に居るだけでいいのか?
 何かをしなくてはいけないのではないか?
 でも、僕に何が出来る?
 僕なんかじゃ何も出来ない。
 じゃあ、傍に居ることしかできない。でも……。

 ずっとこんな事しか思い浮かばない。
 思考の悪循環だ。
 僕はどうすればいい?
 僕はどうしたい?
 考えれば、考えるほど……思考は、光さえ無い、深い暗い迷宮へと進んでいく…………。





「昔語(七)〜絆の所在と姉妹と〜」






 次の日の朝。
 彼女の部屋に向かう。
 昨日の夜、泣き疲れて眠ってしまった彼女をベットに寝かせ、部屋を後にした。
 どうして僕は彼女を抱き締めてしまったのだろう。
 それで彼女が救われるはずないのに。
 ましてや彼女がやっと出すことが出来た不安を、受け止め切れなかったんだ。
 僕は…何をしてるんだ。

「……はぁ」

 彼女の部屋の前に立つ。
 彼女は今、どんな表情をしているだろうか?
 昨日と同じ様な表情をしていないだろうか?
 僕の安易な行動で、彼女を傷つけてしまったのではないのか?
 答えは……この扉の向こう。

「……考えていても仕方がないか」

 不安を振り切り、ドアをノックする。
 ――コンコン。

「はい。どうぞ」

 了解を得、部屋に入る。
 彼女はベットに座り、微笑んでいた。
 しかし、そこにあるのは無理に作ろうとした笑顔ではなく、自然と現れたもの。
 気のせいかもしれないけど、彼女の暗い瞳や雰囲気もいくらか和らいで見えた。

「おはようございます」
「おはよう」

 たったそれだけの言葉の交換。
 だけど、昨日までの彼女ではない事が十分に伝わってきた。

「凄く……いい天気ですね」

 窓の外を見る。
 雲一つない青空のなか、太陽が穏やかに輝いている。

「……そうだね。この時期はいつもこんな天気だよ。気持ちがいいくらいに雲がない」
「へえ、そうなんですか。でも、暑くないですよね」

 彼女から返ってくる言葉。
 そして、緩やかな笑顔。
 分かる。
 彼女は今、笑いたいから笑っているんだということが。

「これからだよ暑くなるのは、六月に入ると梅雨も来るし、じめじめしてくる」
「じゃあ、今が一番、過ごしやすいんですね」

 会話が止まる。
 ……僕は彼女を抱き締めてしまったことを、謝らなきゃいけない。
 話題を切り出さないと。

「「あの」」

 声が重なった。

「……どうかした?」
「あ、いえ。その……少し聞きたいことがあるんですけど。昨日……」

 そして、優日さんは少し恥ずかしそうに、視線を伏せて。

「もしかして私……昨日、俊也さんの胸で寝てしまいました……か?」

 声だけじゃなく、同じ話題を切り出してきた。
 まったくもって情けない。
 僕が謝ろうとしていることを、彼女から言われるとは……。

「そのことなんだけど……」

 でも……情けなくても、謝らなくちゃ。
 僕はそう思い、言葉に出す。

「ごめん」

 その単語だけを言った。

「……え? あの、なにがですか?」

 彼女は何を言っているのか、分からないという感じだった。
 そりゃそうだろう。
 いきなり何も言わずに謝ったんだ。
 僕の言葉が足りないのは明白だった。
 だけど先に、どうしてもそれを伝えたかった。

「僕は、君が自分の気持ちを出してくれたのに……それを遮って君を抱き締めてしまった」

 弱さを見せて欲しいと僕は言った。
 そして、弱さを見せてくれた彼女に、もういいと遮ってしまった。
 理由は……僕が聞きたくないから。
 なんて自分勝手なのだろう。
 優日さんは少し考えると、どういうことか分かったようにゆっくりと答えた。

「謝ることなんて、何もないです」
「……どうして?」
「こんなこと言うのも、恥ずかしいんですけど……私、安心できたんです。俊也さんに抱き締めてもらって」

 優日さんは少しだけ顔を赤くして、気持ちを話してくれている。
 僕は、ただ聞いていることしか出来なかった。
 彼女は今、伝えたいことを伝えてくれているのだから。

「私は独りじゃないんだなって……その……俊也さんの温かさがすぐ近くにあって……心の中がポカポカして……とても心地よかったんです」
「……」
「だから……寝ちゃったんですけどね」

 すみません、と彼女は微笑んだ。
 傍に居るだけでいいんだ。
 浩司の言葉が頭をよぎる。

「……傍に居る、か」
「え?」
「いや、なんでもないよ」

 少しだけ分かった気がした。
 その言葉の意味を。

「それで、調子の方はどうかな?」
「はい。足のほうは、痛みが少しあるくらいです。いい加減、慣れてきましたよ」
「そう。記憶の方は……どうかな?」

 気持ちが変わったんだ。
 少しは変化があるかもしれない。
 そんな淡い期待があった。
 だけど、簡単に進展するわけなんてない。
 僕は分かっているというのに、何故か優日さんに聞いてしまっていた。

「……なにも変わりないです」

 予想通りの答え。
 少しだけ、本当に少しだけ落胆する。

「でもっ、昨日は一人で居ても誰と居ても、不安がずっとあって……どうしたらいいのか、分からないくらいに混乱してました」

 表情に出ていたのか、優日さんが必死に僕を慰めようとしてくれている。
 ……馬鹿。
 僕はどうしようもないくらいに馬鹿だ。

「けど、今日はそうでもないんです。不安はあるんですけど……少しだけ楽になりました」

 一番辛いのは誰だよ?
 彼女だろ?
 何を僕は焦っているんだ。

「だから、一歩前進です」

 そう言って彼女は笑った。

「……ありがとう」

 僕も笑う。
 ゆっくりと行けばいい。
 僕が焦る必要はまったくないんだ。
 だから、彼女に気を遣わせるようなことは、したくはない。
 もう二度と、聞かない。
 彼女に記憶に触れるうような事は……絶対に。

「ありがとう」

 彼女の笑顔は不思議な力を持っている。
 彼女の笑顔は周りの人を自然に笑顔にしてしまう。
 そんな柔らかな微笑み。
 今、彼女は自分の笑顔を思い出した。
 そう考えていいんじゃないだろうか?
 記憶のことは何も思い出してはいないけど、大切なことを思い出したんだと思う。
 こうやって、少しずつ、一つずつ思い出していけばいい、進んでいけばいい。

「それじゃ、僕は戻るよ。君の朝食も用意しないといけないしね」
「俊也さんが作るんですか?」
「うん。ずっと優日さんには食事を食べさせてもらってたからね。おかえしだよ」

 僕は部屋を出て行こうとした。

「俊也さんっ」

 不意に彼女に呼ばれる。

「うん?」
「あ……えっと…………その……あ……あの……」

 どうしたんだろう?
 彼女は顔を真っ赤にして、何かを言おうとしている。

「………どうしたの?」
「あ、いや……えっと……ですね」
「うん」
「その……不安に押しつぶされそうになったら………また……だ、抱き締めて……くれませんか?」

 思考が止まった。

「そ、そのもし良ければ………なんですけど……」
「…………あ、う……いや……その……」

 顔が熱い。頬と言わず顔全体が赤くなってる気がする。
 いきなり不意打ちで、こんなこと言われれば、誰だってそうなる。
 言ったほうも恥ずかしければ、言われた方も恥ずかしい。

「……ぼ、僕で言いのなら……喜んで」
「じゃ、じゃあ……その……お願いしますね」
「う、うん」

 なんだろう、この空気は。
 なんとも言えないけど……とにかく恥ずかしい。

「そ、それじゃあ!」

 この場に居られなくなって、さっさと話を打ち切り彼女の部屋を飛び出した。







 正午。
 昼食を彼女に運び終わり、廊下を一人で歩いていた。
 朝食を持っていった時より、幾分か楽になったけど、恥ずかしい事には変わりがなかった。
 今までの人生であんなこと言われたことは、もちろんない。
 抱き締めるなんて行為をしたのも初めてだ。
 というか…今、思い出してみれば、僕は結構大胆なことをしてしまったみたいだ。
 付き合ってるって訳でもないのに、女性を抱き締めるなんて。普通じゃ考えられない。

「そういえば……」

 思い出す。
 僕が悩んでいた時、彼女は抱き締めてくれたんだった。
 ……そう。だから僕は彼女を抱き締めたんだ。
 彼女がしてくれて……僕自身が安心できたから。僕一人で背負って行くわけじゃないんだってそう思ったから……だから、僕は彼女に同じ行動をして、安心させたかったんだ。

「……」

 見つけた一つの答え。
 彼女の為に何が出来るのか。
 彼女の為に何をすればいいのか。
 見えそうでも見えない、分かりそうで、分からない。
 もう少しで……答えに辿り着ける気がするのに。
 ――プルルルルル
 電話の音が聞こえた。
 少し走り、受話器を取る。

「もしもし?」
『よう。俺だ』

 浩司だった。
 少し疲れているような声に聞こえる。

「どうしたの?」
『ちょっとな……紗衣香ちゃんの事で聞きたいことがあって』

 そうか。浩司はずっと紗衣香ちゃんを探しているんだ。
 僕に電話をかけて来ている、ということはきっと……

「紗衣香ちゃんはまだ……?」
『ああ。まだ戻ってきていない』

 やっぱり、そういうことなんだ。
 出て行ったのは昨日の昼前……ってことはまる一日戻っていないってこと。

『……何処に居るか、分からないんだよ。昨日から探してるんだけど、まったく見つからない』

 浩司は焦っている。
 当り前だ。
 紗衣香ちゃんにとって辛いことが重なり過ぎている。
 絶対にそんなことはないと思う。
 思うけれど……不安が拭いきれない。

『嫌な予感がする。俊也は知らないか? 紗衣香ちゃんが行きそうな場所』
「紗衣香ちゃんの実家には行った?」

 一番妥当な所だと思う。
 浩司は焦りすぎているから、もしかしたら行っていないのかもしれない。

『ああ。もちろん。けど、居なかった』
「他には……」

 他に行きそうな所……まったく思い付かない。
 彼女にとって、それ以外に戻るべき場所はここであって……他にはないはずだ。
 思い出せ。
 彼女は辛いことがあると、どうしていたんだ? 思い出すんだ。
 記憶の中にある、彼女との会話……彼女の声を流していく。

 ―――先生は辛くないのですか? 患者さんの死を見取るだけなんて―――

 ずっと前のこと。
 僕は紗衣香ちゃんに聞いたことがあるはずだ。

 ―――私ですか? 私は辛いです。いつも泣いてしまいます―――

 患者さんが亡くなってしまって。
 何も出来なかった自分が、辛くはないか? と。
 泣いてはしまわないか? と。

 ―――でも……この場所で泣くわけにはいかないです。それは笑顔で亡くなられた患者さんに対して失礼ですし、私も患者さんの前だけは笑顔で居たいと思うのです―――

 そう。この診療所では泣くわけにはいかない。
 だから彼女は、どこで泣くと言っていた?
 思い出せ。

 ―――だから……誰も居ない所で泣きます。絶対に誰も来ない場所でずっと泣いているんです。気が済むまで、ずっと―――

 僕は冗談半分で聞いたはずだ。
 それに彼女は教えてくれたはず。

 ―――何処で、ですか? そ、そんなこと言えないですよ! 内緒ですっ秘密ですっ! ……え? ヒントだけでもですか? うーん……あ、いや。そんな土下座されてもですね―――

 それは確か、とても不思議な言葉だったはずだ。
 その時の僕には皆目検討がつかなかった。
 だから、きっと忘れてしまったのだ。

 ――……しかたがありませんね。"この町の全てが見える場所"。これがヒントです―――

『…分からないか? くそっ。どうすりゃ』
「"この町の全てが見える場所"」

 そう。彼女はそう言ったんだ。
 少し僕から目線を外しながら、恥ずかしそうに。

『……なんだって?』
「"この町の全てが見える場所"だ! 浩司は知ってる!?」

 全てが見渡せるということは山……なのだろうか。
 山だとしたら、この町にあるのは裏の山くらいだ。
 だけれど、そんなこと聞いたことがないし。

「たぶんそこに紗衣香ちゃんが居る! だいぶ前だけど、辛いことがあったらそこに居るって言ってたんだ」

 浩司は先ほどからずっと黙ったまんまだった。
 そして、やがて思い至ったのか。
 低い声でその場所を言った。

『裏の山だ』

 僕が予想していた場所を。

「裏の山? だけど、そんな場所があるって聞いたことないんだけど……」
『くそっ! 俺としたことが見落としてた!!』

 何か物を叩く音が聞こえた。
 浩司は苛立っている。
 ということは、浩司は知っていたんだ。
 前から。その場所を。

『頂上近くにこの町の景色が見下ろせる場所がある……にはあるんだけどな。結構、分かりづらい』
「……浩司を待った方がいいのか?」

 知っているのなら、そうした方がいい。
 だけど、紗衣香ちゃんが心配だ。
 今こうしている間にも、彼女の身に何が起こっているか分からないんだ。
 早いところ、無事を確認したい。
 一刻も早く。

『いや。俊也が行ってくれ。紗衣香ちゃんが心配だから。……頂上付近に少し空間があいた広場がある。そこを少し降りたところにあるはずだ』

 浩司は自信なさそうに、呟く。

『最近行ってないから、どうなってるか分からないけどな』

「大丈夫。行けば分かるさ」

 なんとかなる。
 場所が特定できたんだ。
 そこまで行けば、見つけることが出来るさ。

『悪い。俺もすぐに行く!』

 浩司はそう言って電話を切った。
 急ごう。
 今は考えるより、走るんだ。







 歩いて行けば三十分掛かる山道を、ただひたすら走った。
 急な坂を全速力で走っているため、途中で何度かつまづき転んだ。
 身体中が痛く、足が重い。
 けど……どうしても不安だった。
 紗衣香ちゃんはたぶん、昨日から"この町の全てが見える場所"でずっと、泣いていたんだろう。
 誰も居ない……暗い山でずっと……一人で。
 そんなの寂しすぎるじゃないか。
 何か間違いを犯してしまうかもしれない。
 だからそうならない為にも、彼女には傍に居てあげる誰かが必要だったのだ。

 一度立ち止まる。
 息をするのも、辛いくらいだった。
 吸い込んだ空気は身体の中に入ることなく、咳き込んでしまう。
 大きく息を吸い、整える。
 落ち着こう。
 ここからは、冷静でなくてはいけないのだから。

「……ここら辺なのか?」

 もう少し歩けば、頂上に着く。
 浩司が言っていたのは、この辺だと思う。
 辺りを見回す。

 木と木の間隔が他の場所より、広いところがあった。
 近づいてみる。
 そこには少しだけ下りることが出来る段差があった。
 生い茂っている草を押しのけて、その段差を下り、前に進んでいく。
 やがて森が開けた。
 雲一つない青空。
 そこから見えた景色は、この穂波町の全てだった。
 すぐ真下に診療所があり、学校がある。
 少し視線を先に行かせると、町の人たちが住む住宅街が見え、その先には商店街の通りが見える。そしてそのさらに先には、駅が見えていた。
 この町は一目で見渡せるほど、こんなにも小さかったのだ。
 そして……この景色を見渡せる場所に彼女は……紗衣香ちゃんは佇んでいた。
 胸の動悸を落ち着かせるために、深呼吸をする。

「紗衣香……ちゃん」

 そして、彼女の名前を呼んだ。
 彼女の身体がびくっと跳ねた。
 そして、ゆっくりとこっちに振り返る。

「……先生」

 言ったかどうか聞き取れないほど、彼女の声は小さく、掠れていた。
 目は真っ赤になっている。
 きっと昨日からこの場所で一晩中泣いていたのだろう。

「……どうしてここが分かったのですか? 私がここに居るって…」
「だいぶ昔に教えてもらったヒントを思い出したんだ。"この町の全てが見える場所"ってね」
「よく覚えていましたね……私だって、そんなこと言っていたのを忘れていましたのに……」

 かすれた声で、無理に微笑みを浮かべようとする。
 掛けるべきことは、何も思い浮かばなかった。

「……昨日からずっと、ここに居たの?」

 そんな当たり障りのないことを聞いた。

「…………はい」

 紗衣香ちゃんは自分の身体をきつく抱き締める。

「……寒くなかった? いくら暑くなってきたとはいっても……夜は冷えるだろ?」
「……少し。ずっと、ここで座ってましたから……あんまり感じはしませんでしたが」

 僕は自分が着ていた上着を、彼女に後ろからかける。
 少しだけ触れた彼女の身体は、やはり冷たかった。

「ありがとう……ございます」
「いいよ。それより早く戻ろう。風邪をひいているかもしれない」

 出来るだけ優しい声で言った。
 だけど、彼女は動こうとはしない。
 その代わりに、か細い声で聞いてきた。

「……姉さんは……どうしてますか?」
「今はベットで安静にしてる。足の方は順調に回復してるし、退院なんてすぐだと思う」

 身体の方は順調そのものだった。
 足も綺麗な折れ方をしているらしく、繋がりやすい。
 だけど、心の方は……。

「……けど、記憶の方は何も思い出していない」

 一瞬、彼女の顔が悲しいくらいに歪んだ。

「……先生」

 そして、思い詰めた表情で、僕に聞いてきた。

「…………姉さんにとって……私って……なんなのでしょうか?」

 ずっと、そんなことを考えていたのだろう。
 そして、自分には答えを出せなかった。

「私は……簡単に忘れられてしまうくらいの……存在だったのでしょうか?」

 いや。出せるわけがないんだ。
 紗衣香ちゃんは今、自分が信じられないのだから。
 自分と優日さんが過ごしてきた日々を、信じる事が出来ないのだから。

「お父さんとお母さんが死んでしまって……その事実を受け入れられなくて……それでも、立ち直らなきゃって……思って……姉さんも私も同じなんだって……」

 優日さんは逃げてしまった。
 仕方ないとはいえ、事実を受け入れることが出来なかったんだ。

「たった二人の姉妹になってしまいましたけど………姉さんと一緒に頑張っていこうって……思うようにしたんです…………ですけど、姉さんは……私と頑張ろうとは思ってくれなかったみたいです」

 優日さんにある罪の意識。
 それはきっと、自分で受け入れるしかないものだった。
 だからこそ、耐え切れなかった。
 優日さんには、受け入れる事が出来ない事実だった。
 だから、彼女は記憶を忘れたんだと思う。
 今はまだ何も分からない。
 憶測でしか、ものを言う事が出来ない。

「先生……よろしければ教えてください……姉さんにとって私って……なんなのでしょう…?」

 優日さんは紗衣香ちゃんや両親の記憶を忘れることで、悲しみを乗り越えようとした
 紗衣香ちゃんは優日さんと助け合って過ごし、悲しみを乗り越えようとした。
 交わらなかった思い。
 だけど。たった一つだけ、確信して言えることがあるはずだ。

「紗衣香ちゃん。君は優日さんにとって何事にも変え難い、大切な妹だよ。家族だよ。それは何があっても絶対変わることはない絆なんだ」

 そう。それだけは絶対に変わらない。
 どんなに大事にしていたのかを、知っている。
 どんなに大切にしていたのかを、知っている。
 それは、彼女自身がよく分かっていること。

「……では……どうして姉さんは……私を忘れてしまったのですか?」
「……自分を守る為だったんだ。そうしなきゃ、優日さんの精神はきっと壊れてた」

 だから、罪に押しつぶされる前に、大切な家族の絆を守るために、記憶を忘れた。
 そう考えるのは、僕のエゴなのだろうか。
 だけど、優日さんが紗衣香ちゃんのことを忘れているだなんて、そんなことは絶対にない。
 心の何処かで、きっと覚えている。

「優日さんが君のことを忘れるなんてことはあるとは思えない。もう一度会えば、きっと思い出してくれる。……ただ、今は時期じゃない。そう思うんだ」

 これは推測でしかないが、きっと記憶を取り戻す鍵は紗衣香ちゃんが握っている。
 本当にもう一度会えば、優日さんは記憶を取り戻す可能性が高いと思う。
 けど、今は両方にとって……時期ではない。
 たとえ会ったとしても、どちらも大切な相手を傷つけてしまう。

「……私は一度、姉さんに拒絶されました……」

 それは、揺るがない事実だ。
 どんなに綺麗な言葉を並べたとしても、優日さんが今、紗衣香ちゃんを思い出せないのは、本当の事なのだから。

「…………それでも……私と姉さんの思い出を……両親との思い出を信じていいんでしょうか?」
「信じよう。簡単に忘れ去られてしまうような思い出ではなかったと、信じていよう」

 僕にはそれしか言うことが出来なかった。
 けど、信じて欲しい。
 彼女達の家族の絆が、そんな簡単に消えてしまうようなものじゃないと。

「……はい」

 彼女は頷きながら、涙をこぼした。
 今までも泣いていたのに、まだ溢れてくる涙。
 それは僕が止めてあげること出来ないもの。

「それじゃ、戻ろうか?」

 紗衣香ちゃんがひとしきり泣いて、落ち着きを取り戻した頃、そう言った。

「……あの……何処にですか?」

 ……何処に?
 あ、そうか。紗衣香ちゃんは診療所に戻るわけには行かないから、一時的にでも泊めてあげる場所がないと……
 少し考えを巡らせて、思いつく。

「浩司の実家でいいんじゃないかな」
「……浩司さんの?」
「ああ。浩介さんは出張中だけど、柚華さんは居るはずだから」

 もちろん本人が居ない中で、こんな事を言ってもしょうがないのだけど、柚華さんならきっと二つ返事で了承してくれる。

「……でも、浩司さんがいないのにそんな事、頼めるんですか?」
「ああ。それは心配ないよ。あいつならここに来るから、待っていよう」







 それからしばらくして、浩司は走ってきた。

「はぁ……はぁ……俊也ーーーっ! どこだーーーーっ」
「浩司ーーー! こっちだーーーー」

 聞こえてきた声に大きく応える。
 やがて、浩司は木々の隙間からすごい速度でやってきた。

「俊也! 紗衣香ちゃんは!? 大丈夫なのか!!」
「大丈夫だよ。ほら、目の前に居るじゃない」
「……え?」

 少々面食らった感じで、浩司は紗衣香ちゃんを見る。

「…………はぁあああ……良かった……マジで良かった」
「あの……浩司さん。すみません。ご心配をお掛けしたみたいで……」
「当たり前だっ! でも良かった……無事で……」

 紗衣香ちゃんの頭を乱暴に撫でる。
 紗衣香ちゃんもくすぐったそうに、目を細めた。
 こうしてみると、兄と妹みたいだな。

「それで、浩司。相談があるんだけど……」
「相談? なんだよ」
「ああ。えーっと、少しの間、紗衣香ちゃんの面倒を見てあげてくれないか?」
「……ちょっと待て……俺が? どうして。診療所じゃダメなのか?」

 当然の疑問を浩司は聞いた

「診療所には今、優日さんが居る。だから出来るだけ会わせたくはないんだ。今は会わせちゃいけない気がする」
「……そうだな。今、会っても両方が傷つくことになるかもな……特に紗衣香ちゃんが……」
「……だから、紗衣香ちゃんを少しの間だけ泊めてあげて欲しいんだ。ダメかな?」
「いや、ダメではないんだが……そ、その……紗衣香ちゃんはいいのか?」

 少し慌てながら紗衣香ちゃんに聞く。

「……?」

 なんだ? 浩司の様子が少しおかしい。

「はい。お願いします」

 紗衣香ちゃんの答えを聞いた後、浩司は何故か明らかに動揺している。

「いや、でも……俺にも心の準備と言うものが……」
「すみません。けど、頼んでもらえますか?」
「………頼む? 誰に?」
「誰にって……柚華さんにだよ。当然だろ?」

 一瞬、浩司は「あっ」と声をもらし、納得したように頷いた。

「オーケオーケ。そう言うことね。分かったよ」
「浩司?」 「浩司さん?」

 紗衣香ちゃんも浩司の様子がおかしいと気付いたらしく、心配げに名前を呼んだ。

「あ。いや。なんでもない。マジで。気にしなくていいから! それじゃ行こうか、柚華母さんの所に」

 何故か柚華母さんを強調する。
 ……もしかして浩司は、自分のアパートに紗衣香ちゃんを泊めると勘違いしたのか?

「……あのさ、浩司」
「聞くな。何も」

 速攻で拒絶された。







 それから、柚華さんは二つ返事で紗衣香ちゃんを泊めてあげることを了承してくれた。
 紗衣香ちゃんのことを浩司に任せ、僕は診療所に戻ってきた。

「ちょっと時間経ってるな……大丈夫だろうか」

 二時間近く診療所を空けていた事になる。
 少し不安になって優日さんの様子を見に行くことにした。
 ――コンコン。

「……」

 返事がない。
 ――コンコン。

「……優日さん?」

 もう一度ノックしても返事が聞こえてこない。
 嫌な予感がして、ドアを開ける。

「!」

 目の前に飛び込んでいるのは、頭を抱えてうずくまっている彼女の姿だった。

「だ、大丈夫!?」
「……あ……俊……也さん……」
「いいから! 喋らないで、深呼吸して…」

 そうしているうちに、痛みが和らいできたみたく、顔を上げた。

「……すみません、でした……」
「……いや。大丈夫?」
「はい。もう、大丈夫です……その、色々なこと考えていたら……急に頭が痛くなってきてしまいまして」

 これから何度もこんな事が起きるだろう。
 頭痛は記憶を思い出そうとしているから起こるもの。
 けど、優日さんが苦しむ姿はできるだけ見たくなかった。

「今は……不安?」

 そんな事を聞いていた。
 それは彼女との約束。
 正直に言うと、僕は優日さんを抱き締めたかったのだ。
 優日さんは、少し考えてから、少し頬を赤くして言った。

「………はい。不安です。どうしようもないくらいに」

 少しだけ微笑んで、僕は彼女に歩み寄る。
 そして……抱き締めた。
 温かい……ただ純粋にそう思う。
 僕たちはこんな理由がないと、相手と触れ合えない。
 僕たちは恋人同士ではない、気持ちを伝え合ったわけではないから。
 だから不安である事を理由にして、相手の温もりを求める。
 自分が孤独ではないことを、確かめるために。
 いつか、無条件で彼女と触れ合いたい。
 それには、いくつもの試練を超えていかなきゃいけないのだろう。
 だから、少しずつ、一歩ずつ歩いていけばいい。
 こうやって時に慰めあいながら、励ましあいながら…。
 いつか必ず来る、試練の時に向かって。






Back Novel letter Next