思えば彼女はまだ、僕の家。つまり、診療所に来たことが無かった。
 まるで、いつか来るこの日の為に、誰かが取っておけと言ったように。
 今日、彼女は"患者"としてこの場所にやってくる。
 両親を失い、心も身体も傷を負った姿で。

 僕は彼女に何をしてあげられるのだろう?
 僕を闇から救い出してくれたのは彼女だ。
 彼女の明るさや笑顔で……いや、存在そのもので僕は救われ、そして彼女を好きになった。
 だけど、いざという時、僕は情けないほど弱くなる。
 助ける側ではなく守られる側になってしまう。
 ずっと……ずっと、そうだった。
 そんな僕が、彼女にいったい何をしてあげられるのだろう……。





「昔語(六)〜事態の現状と虚像と〜」






 ―――朝。窓から漏れた太陽の光が、夜が明けたことを教えてくれる。
 眠れなかった。
 ずっと電話の前に座り込んで、ずっと優日さんの事を考えていた。
 何をするでもなく、何も出来なく。ただずっと、彼女の事だけを。

「……今、何時だ?」

 時計を見る。
 まだ6時が過ぎた頃だった。

「…そういえば、いつ頃帰ってくるのか聞いてなかったな」

 ずっと座っていたためか足が痺れていて、少しふらつく。
 壁に手をつき立ち上がり、窓から空を眺める。
 昨日の雨が嘘みたいに、雲一つない青が一面に広がっている。
 僕を照らす太陽が、鬱陶しいくらいに眩しく感じた。

「……」

 彼女は今日、帰ってくる。
 浩司の様子から察するに、事故や両親のこと以外に何かがあったみたいだ。
 それで彼女は自分を責めて追い詰めている。

「……今はまだ、何もわからない」

 彼女が教えてくれることもきっとないのだろう。
 自分の罪を話すということは、許しが欲しいからだ。
 だから自分自身を傷つけ、辛く苦しみながら話す。
 だけど、僕は彼女に許しを与えることは出来ない。

「……今はまだ、どうしたらいいか分からない」

 「彼女を救うのはお前だ」と浩司に言われた。
 救えたことの無い僕が、守られる立場になってしまう僕が、いったい何を救うことが出来るのだろうか。

「……今はまだ、どうすればいいのか分からない」

 それでもきっと、僕は彼女を救おうとするのだろう。
 彼女が好きだから、彼女の笑顔がまた見たいから、彼女と一緒に日々を過ごしたいから。







 ――プルルルルル
 7時を過ぎたあたりに電話が鳴った。

「はい。穂波診療所です」
『……よう。俺だ。九時にはこっちを出る。だから、昼は過ぎるから』

 眠そうな浩司の声が、受話器の置くから聞こえてくる。
 あっちでの処理は全部浩司に任せてしまっているからかもしれない。

「浩司? 大丈夫か? なんか疲れてるけど」
『……ちょっとな。詳しくはそっち行ってから話すさ。それで、お前の決心はついたのか?』

 決心というほど、大げさなものではない。
 ただ、自分の気持ちを確認しただけ。
 だけど、それだけで救いたいという気持ちが、止められなくなった。

「大丈夫。それに、僕の心配をしても仕方が無いさ」
『よし。なら、ウチらに出来ることは必ずある』

 僕に何が出来るかは分からない。
 もしかしたら何も出来ないかもしれない。
 本当に、出来ることなんてあるのだろうか?
 ただ、それだけが不安だった。

「だけど、僕に何が出来るだろうか?」

 救いたいという気持ち。
 それは嘘偽りないもの。
 だけど、それが空回りして結局、彼女を傷つけるだけだとしたら。
 何もしないほうがいいに決まっている。

『バカ。それは今お前が考えていたってどうしようもないさ。俺にだってわかんねーよ。俺に何が出来るのか』

 浩司はさも当り前のことを言うように、僕を諭す。
 それが浩司の凄いところ。
 そして、とても羨ましいと感じてしまうところ。

『だけどさ。それを考えていたら足が止まってしまう。まず行動しようって思えなくなってしまう。そうすることで手遅れになってしまう事もある』

 冷静に自分を見ることが出来る。
 当事者だというのに、第三者からの視点で自分を見る事ができる。
 だから、いつも正しいと思えることを言ってくれる。

『だからな。自分がしたいと思えることをするんだ。何が出来るかじゃなくて、何がしたいのか。だから、自分で決定してしまうな。自分の出来ることを』

 普段なら、僕もそう考えていただろう。
 だけど自分が当事者になってしまうと、何をすればいいか分からなくなって、自分の可能性を狭めてしまう。
 自分に何が出来るのか、と。

『おっと、もう切るぞ。優日ちゃんが起きたみたいだから様子を見てくる。昼過ぎにはそっちに着くからな、用意しとけよ』
「……うん。それじゃ」

 受話器を置く。

「……ふぅ」

 それと同時に自嘲めいたため息が出てきた。
 僕は相変わらず、浩司には勝てないみたいだ。

「…僕が僕を追い込んでどうするんだ」

 自分の出来ることを決めてしまってはダメだ。
 そんな簡単な事さえ分からなかった。
 僕は彼女を救えるなんて自信を持って言うことはできない…できることをやっていくだけ。
 そのできることは誰にだってにあるはずだ。
 浩司にしかできないこと。
 紗衣香ちゃんにしかできないこと。
 そして、僕にしかできないこと。
 浩司はきっと、紗衣香ちゃんの為にできることをしていくだろう。
 だから、僕は優日さんだけの為にできることをしていけばいいのだ。

「それが覚悟」

 僕は自分の大切な人の為だけに行動しよう。
 優日さんだけの為に……。







 十三時を過ぎた頃、チャイムが鳴った。
 優日さんたちが来たのだろう。
 急いで玄関に向かい、ドアを開ける。

「え? 浩司?」

 浩司は開いたドアに身体を滑り込ませ、ドアを閉める。
 何故か僕の前に立つ。ドアを阻むように。

「どうかした? それに、車の音、聞こえなかったんだけど……」

 車を見ようと、外に視線を向けようとする。
 けど、浩司が僕の視線を遮るように立った。

「当たり前だ。車で来なかったからな」
「じゃあ電車で?」
「ああ。その……やっぱ車の事故だからな、気を使ったんだが」

 ……何かおかしい。
 浩司はついさっきから、僕にドアの先を見せようとしない。
 それに、優日さんの姿が見えないのはどうしてだろうか。

「浩司?」

 いぶかしんで浩司を睨む。
 何かを隠しているというより、タイミングを計っているって感じがした。

「いや、なんでもな」
「あの、二人でなに話し込んでるんです? けが人が居るんですけどー」

 一瞬、明るい声が聞こえた。

「…え?」
「……っ」
「それにドアも閉めちゃって。……坂上さんは私を中に入れたくないんですか?」

 聞き覚えのある声に、心臓が跳ね上がるような感覚がした。
 聞き覚えがあるとか、そういうレベルではない。
 これは……僕がずっと聞きたかった声。

「俊也さんも居るんですよねー。早く入れてくださいよー」

 僕の名前を呼ぶその声は……恋しくて仕方が無かった声。
 だけど、違う。
 違うんだ。

「無視しないでくださーい。聞こえてるんですよねー」

 間違うはずのない彼女の声に……違うものが含まれている。
 だって、どうしたっておかしい。
 何故彼女は、こんなにも"明るい"声で……僕たちに呼びかけているのだろう。

「優日……さん?」
「あ、俊也さんっ! 早く開けてくださいよー。これでもけが人なんですからねー」

 浩司を見ると、目を伏せていた。
 浩司は知っている。
 そして、見ている。
 優日さんであろうこの声の主を。
 だから、僕に会わせることを躊躇(ためら)っていた

「……」

 ドアを開ける。浩司の邪魔はもうなかった。
 そこに居たのは、篠又 優日。
 間違うはずがない、僕の大切な人だった。
 その人は……"微笑んで"いた。
 柔らかく……何もなかったように。

「あ、やっと開けてくれましたねー」
「……っ」

 頭が真っ白になった。
 思考は完全に停止している。
 だって、一目で分かってしまったから。
 この異常な光景が……それを無理矢理に認識させてしまう。

「それにしても、ほんの少し会っていなかっただけなのに、しばらく振りのような気がしますね。俊也さん」

 微笑ながら、話し続ける優日さん。
 両親を失い、そしてそれを……自分の所為だと彼女は言っていた。
 笑えるはずがないんだ。
 なのにどうして彼女は、こんあにも明るい声で。
 僕の大好きな笑顔を浮かべながら、喋っているのだろう。

「少しの間ですけど、一緒に暮らすなんて……なんか恥ずかしいものですよね」

 それは……彼女が今、笑顔を作っているから。
 僕達に心配させないようになのか、自分が犯したという罪から逃げるためなのかは分からない。
 けど、彼女は自分のイメージを作っている。
 自分は普段こういう感じだろう、というイメージをそのまま投影しているんだ。
 確かに笑顔や明るさは間違ってはいない、だが決定的に違うのだ。
 雰囲気そのものが。

「あのー……聞いてますか? 俊也さん?」
「……あ、ああ。うん。聞いてるよ」
「今日から、お世話になりますね」

 彼女の顔を見る。
 そこにある二つの瞳。
 その瞳の色は……どこまでも闇に近かった。
 暗い、どこまでも暗い。
 そこに見え隠れするものは、いったいなんだろうか?

「……優日さん」

 呼びかける。

「はい?」

 僕のほうを見つめる眼差しは……どこか寂しかった。
 なぜそんなことを思ったのかは分からない。
 ただ漠然とそう思ったのだ。

「俊也さん?」

 彼女が不審げに僕の名前を呼んだ。
 何も言う事が出来ない、口を開くことが出来なかった。
 ただ、彼女を見続けていた。
 その瞳が何を語りかけようとしているのかを、少しでも感じたかったから」

「はいはい。見つめ合ってないで俺の話を少し聞いてくると嬉しいんだけどね」
「み、見つめ合ってなんかいないですよっ」
「……浩司」

 どうしても聞かなきゃいけないことがあった。
 浩司なら知っている。
 彼女の現状を。
 どうしてこんな風になってしまったのかを。

「俊也。まずは優日ちゃんを病室に連れて行ってくれないか?」

 「後で必ず話す、だけど今は話せない」と浩司の目が言っていた。
 素直に頷き、優日さんを案内するため、僕は彼女の前を歩き始めた。







 今、僕は浩司と診療室に居る。
 優日さんの案内が終わり、事情を聞くために。

「どういうわけか……話してくれるよね」

 どうして彼女は笑顔を浮かべているのか。
 どうして彼女は明るく努めているのか。
 浩司は知っている。彼女がどうしてこうなってしまったのかを。
 なら、どんなことであろうと、僕は知っておきたい。

「……・俺が今日の朝、目が覚めた彼女の様子を見に行ったとき、昨夜とは何もかもが変わっていたんだ」

 浩司は思い返しているのか、苦い顔をして話し始めた。

「落ち込んでいる訳でもなく、自分を責めている訳でもなく。ただ、何も映っていないような瞳で、部屋を見回していた」

 あの暗い瞳。
 見ている方が、悲しくなるような瞳。

「そして、俺にこう聞いたんだ。『私はどうして病院に居るんですか?』ってな」
「…………え?」

 嫌な予感がした。
 拭えなかった不安が確信をもって広がり始める。

「俺はヤバイ感じがして、すぐに担当の医者を呼んだ。そして、医者が優日ちゃんにこう質問したんだよ」

『今日は何月何日ですか?』
『あなたの名前を教えてくれますか?』
『あなたは何処に住んでいますか?』
『あなたの職業は?』
『ここは何処だかわかりますか?』
『私が誰だか分かりますか?』
『昨日の朝食はなんでしたか?』

「どの質問にも彼女は淀みなく答えていた。けど、ある質問にはまったく答えることが出来なかったんだ」

 僕はもう分かってしまっている。
 それは、とても悲しいものだってことが、分かってしまっている。
 彼女は、壊れてしまう前に、忘れてしまったんだ。

「……昨日の事故に関すること、だね」
「……ああ」

 彼女はきっと、"記憶障害"に陥っている。
 本来記憶というのものは、物事を吸収して、それを保持し、また再び確認するという一連の精神作用によって維持されている。
 その記憶のメカニズム――というか一連の流れの一部が疲労や不眠、重度の精神障害などによって阻害されてしまうと、その記憶は一時的にだが忘れてしまうことがある。
 一度だけ……たった一度だけそういう人に会ったことがあった。
 それは、出来ればもう見たくないと思ってしまうほど酷いものだった。
 今まで、その人を包んでいたものは色を変えてしまい……その人は何を信じて良いのか分からず、結局――。

「……優日ちゃんにはまだ答えられない質問があったんだよ。『あなたに家族は何人いますか?』」

 がんっ、と頭を殴られたように衝撃が走った。
 予想していなかった訳ではない。
 ただ起きて欲しくなかったから考えようとしなかった。
 だって一番それが辛くて、悲しいものだと僕は知っているから……。

「…………紗衣香ちゃんのことを……優日さんは今、忘れてしまっている?」
「そういうことなんだ。彼女は今、事故のこと、両親のこと、そして両親に繋がる全てのことを忘れている。当然、紗衣香ちゃんの事もな」
「……そんな……じゃあ、紗衣香ちゃんは」

 今、一人きりだ。
 頼れるものが何一つない。
 家族が……大好きな姉がいるというのに、泣きすがることもできない。

「紗衣香ちゃんも事の成り行きは見ていたんだ……けど、彼女の様子を見ていられなくなって……飛び出していってしまった……俺らが出る頃になっても帰ってはこなかった」

 紗衣香ちゃんは今、きっと泣いている。
 僕には想像もつかない程の、孤独の中で。
 だって紗衣香ちゃんは、たった一人の肉親である優日さんに拒絶されたんだ。
 そんなの……寂しすぎる。

「だから俺はすぐ戻る。紗衣香ちゃんをほっとけない」
「そうだね。そうした方がいい」

 事態が全て悪い方向に向かっている……そう感じた。

「優日ちゃんも自分が記憶がところどころ抜けているのを分かったんだろう。必死に思い出そうとしていた。でも、その度に痛みを訴えて、何度も頭を抱えていた。それでも何度も、何度も思いだそうとしていたんだ」
「……でも、それじゃあ」

 想像するだけで嫌になる。
 無理に思い出そうとしたら、身体に負荷がかかるのは当然だ。
 彼女は彼女の精神を安定させる為に、記憶を一時的に失わせたのだから。

「けど、今は大丈夫だ。無理に思い出すものじゃない、自然に思い出していけばいいんだ、って医者に言われてな。一応は落ち着いている」

 思い出すきっかけなんて、それこそ人それぞれ。
 一日、二日で思い出してしまうこともあるし、何年も思い出せないこともある。
 ある日、全部思い出してしまうこともあるし、少しづつ思い出していくこともある。
 こればっかりは時間が解決してくれるもの、としか言いようがなかった。

「優日ちゃんは今、一番自分の身近にある"家族の絆"や"姉妹の絆"を忘れてしまっている……この孤独感は本当に……想像ができない」
「……」

 そう。彼女は今、絆という大切なものを持つ相手が…居ないんだ。
 両親の絆を失い、妹の絆を自分から忘れた。
 そんな彼女が持つ絆なんて、もうこの世界にはない。

「でもな。お前が唯一の希望なんだ」

 数秒間、頭が真っ白になった。
 何を言われたのか分からなく、反応すら出来なかった。

「彼女とお前ならきっと絆だって作っていける」

 さらに浩司に言われ、硬直は溶け、そして意味を理解していく。
 ……僕が……希望? 絆?

「な、なんでそんなことが言えるんだっ!? 希望だのっ、絆だのっ! そんな簡単に!!」

 思わず叫んでいた。
 そんな簡単に絆は作れるものじゃない。
 絆を作るなんて、思って出来ることじゃないんだ。
 それをさも簡単そうに浩司は言った。

「じゃあ、なんで彼女が無理をして明るく努めているんだと思う?」
「そんなの、皆に心配をかけさせないためだろっ」
「違う。"お前"に心配をかけさせない為だ」
「……え?」

 どうして?
 どうして僕なんかに心配をかけさせない為に、無理をして笑顔で居ようとするんだ。

「お前だけなんだ。彼女が無理して笑顔を見せようとしているのはお前だけなんだよ。お前だけが彼女の中で特別なんだ」

 僕が特別?
 ……そんなことは決してない。
 だって僕は優日さんが一番辛い時に一緒に居てあげられなかった。
 ただ、1ヶ月という時間を、他の人より少しだけ長く彼女と一緒に居たに過ぎないんだ。

「……そんなの信じられる訳ない。僕は彼女が一番辛い時に、僕は行ってあげられなかった。そんな僕なんかが……」
「それは俺が止めたからだろ? 彼女にそのことは話してある。けどな、彼女は現にお前に笑顔を見せている。俺と居たときは笑顔なんて一欠けらも見せなかった彼女が、だ」
「……」
「だから、お前が傍に居てやれ」

 確かに僕に出来ることはそれしかない。
 けど、傍に居るだけで解決するなんて思っていない。
 傍に居ること以外で、何かをしなくちゃいけないんじゃないだろうか?
 僕に他に何が出来るのだろうか? 何をしなくちゃいけないんだろうか?

「じゃあ、俺はそろそろ電車の時間だから行くぞ」
「……」
「……俊也。大丈夫か?」
「……あ、うん。大丈夫。紗衣香ちゃんのことは任せたよ」
「おう。出来ることをする。それだけさ」

 浩司は玄関の方へと向かっていく。
 けど振り返り、真っ直ぐに僕を見て言った。

「俊也。今は何も考えるな。傍に居るだけでいいのかとか、自分に何が出来るかとか。そんな心配はしなくていい。お前は傍に居てあげればいいんだ。な? 余計な事は何も考えるな」
「……」

 分かっている。
 何が出来るかとかなんて考えていてもしょうがない。
 そんなことは分かっているんだ。

「……分かってる。大丈夫、大丈夫さ」

 浩司はまだ何かを言いたそうだったけど、結局そのまま出て行った。

「……」

 静寂。
 昨日からずっと診療所を纏っている雰囲気だった。
 あんなにも楽しくて落ち着けていた場所が、こんなにも変わってしまった。

「……優日さん」

 誰にかける訳でもない声は、静けさに中に消えていった。







 優日さんの様子が気になり、部屋まで歩いていた。
 一人で居ると本当に余計な事まで考えてしまいそうだった。
 だから彼女の顔を見て、少しは気を紛らわせたかったのかもしれない。
 ――コンコン。
 部屋の前まで着き、ドアをノックする。

「……はい」

 一拍置いてから、優日さんの声がした。

「俊也だけど、入ってもいい?」
「あ、はい。どうぞ」

 部屋に入ると、彼女はベットの上で起き上がりこちらを見ていた。
 あの見ている方が辛くなるような笑顔で。

「どうかしましたか?」
「調子はどうかな、って思ってね」

 もちろん建前でしかない。
 ただ彼女の姿を見たかっただけ。
 無理して明るくしていても、見ているのが辛くても、彼女が見たかった。

「悪くはないですよ、多分。痛み止めも効いていますし」
「そっか」
「お医者さんには奇麗に折れてるから直にくっつくし、丈夫になるって言われましたよ」

 そう言ってまた微笑む。
 不意に頭に疑問がかすめ、言葉に詰まった。

「……」

 どうして彼女は自分が辛い時に、笑顔で居れるんだろう?
 思えば彼女はずっとそうだった。
 こっちが辛い時に笑顔で励まして、慰めてくれる。
 けど、自分の事になると、どんなに辛くても、大丈夫だからって笑ってた。

「…俊也さん? どうかしましたか?」

 彼女は……そういう人なんだ。
 自分の弱い部分というものを決して相手に見せない。
 それは多分、見られたくないからとかじゃなくて、彼女が優しすぎるからなんだ。

「俊也さん?」
「……ん。どうかした?」
「どうかしたじゃないですよ。ずっと黙り込んで、なんか元気ありませんよ?」

 自分の弱さを相手に見せると、相手に心配させてしまう。
 だから彼女は弱さを見せないし、見せられない。
 でも、弱さを見せて欲しい時だってある。
 本当の彼女が見えなければ、僕だって彼女に何をしてあげたらいいのか分からなくなる。

「優日さん」
「はい」
「…………もう……無理をしなくてもいいんだよ」

 ただ、口から漏れてしまった本心。
 もう見ていたくなかった。
 その瞬間、彼女の笑顔が引きつった。

「浩司から事情は聞いた。無理に笑顔でいる必要はないんだ。辛い時は辛いって言ってくれていいんだ」

 いつか聞いた言葉。
 そして、心が軽くなった言葉。
 それは僕が暗闇に居た時に、彼女からもらった言葉。

「無理ってなんですか? 私は無理なんかしてませんよ。私は笑顔で居たいから笑顔で居るんです。だから無理なんかしてません」
「……僕も優日さんには笑顔で居て欲しいって思ってる。けど、それは今の笑顔じゃないんだ」

 僕は彼女の笑っている姿が大好きだ。
 だから分かる。
 いや、彼女の笑顔を一目でも見たことがある人は、誰でも気づく事が出来るはずだ。

「無理に笑顔で居る必要なんてない。例え君が笑顔でいたいと言っても、それは誰が見てもわかってしまうんだよ。本心からか、そうでないか」
「……でも、私は笑顔でいたいんです」

 彼女はまっすぐに僕を見詰めている。
 優日さんの性格を考えてみても、そう考えたとしても不思議じゃない。
 むしろ優日さんらしい行動だと思う。
 だけど、例えそれが彼女の心からの願いであったとしても、心を偽るのは間違っている。

「心配を掛けさせたくないって思っているのなら、素直な君の表情を見せてあげればいいって僕は思うよ」

 無理な表情なんて見せられたら、必ず誰かは気付くし、心配する。
 皆に……または大切な人に心配を掛けさせたくないのなら、そのままの表情で居てくれて方がずっといいんだ。

「……かっこ悪い姿なんて……見せられる訳ないじゃないですか」
「逆だよ。かっこ悪い姿を見せてくれないと困る。人間はその人の、そのままの、ありのままの表情を見て、その人が今なにを思っているのかを感じるんだ。楽しい、嬉しい、悲しい、辛い、痛い……それぞれの表情でその人の感情を感じるんだ」

 辛いと言って欲しい。
 悲しいと言って欲しい。
 僕の弱みを引き出してくれたように、彼女の弱さを見せて欲しい。
 そう思うのは、僕のわがままなのだろうか。

「それがないと、相手が何を思っているのか分からなくなる。どう接していいか分からなくなる……だから、笑顔でいなくてもいいんだよ」

 その瞬間、彼女は俯いた。
 何かを堪えるように。
 もう言うことは何もなかった。
 これ以上言葉を重ねても意味がない気がする。
 だから、彼女の言葉を待つ。

「……っ……怖い……ですっ」

 彼女は俯いたまま……泣いていた。

「……どうっ……しようもないほどにっ……怖いですっ……」

 初めて見せた彼女の涙。
 これが彼女の本心なんだ。

「……記憶が無くなってる所……が……あるって分かって……からっ……不安で……不安でっ…………」

 そのままの声。
 僕にも辛さが伝わってくるような悲痛な声。

「……何度……っ考えても……来るのはっ……頭の痛みだけでっ………私は……何をして……しまったのか……わ、分からなくって……」

 在るのは不安ばかりで、しかも思い出すまでは決して拭えはしないもの。

「……私にっ……家族が居たのかも……全然、思い出せなくて…………何かをっ……とても、大切な何かを失くした気がっ……して……」

 家族の絆を失くしてしまったという喪失感と孤独感。

「……俊也さんっ……私は……何をしてしまったんでっ……しょうかっ? 何を……失くしてしまったっ……でしょうかっ? 怖い……思い出したくてもっ……心がっ……拒否するんです……」

 もう……聞いていられなかった。
 懺悔のように吐き出される彼女の本心は……どうしようもないほどに辛く、哀しかった。
 僕が話してくれと言ったから、彼女は話してくれたのに……僕は……僕は…………。

「……俊也さん……わ、私は……私は……――――」
「――っ」

 瞬間、彼女のことを抱きしめていた。

「……もういい。ごめん……もういいんだ」

 彼女は僕の言葉に一瞬だけビクッとして、そしてそのまま僕の胸に顔を当てて―――

「……っっ……うわあぁぁぁああぁああぁぁあぁぁああぁぁあっっ」

 ――――泣き出した。
 初めて抱きしめた彼女は……ただ温かくて、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい。
 何をしているんだろう……僕は。
 彼女の不安さえ受け止めてあげられない。
 ただ、自分の思うままに彼女を抱きしめてしまった。
 こんな僕に出来ることなんてあるのだろうか。
 傍に居てあげるなんてことすらも、出来ないかもしれない。
 好きな人が…何よりも大切にしたい人が目の前で泣いているのに……気の利いた事も言えず、慰めることも出来ずに…何も出来ないのだろうか。
 僕は……どうすればいいんだろう。
 僕は……どうしたいんだろう。






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