私は……卑怯者だ。
 自分のことだけしか考えていなかった。
 なんてことをしてしまったのだろう。
 誰よりも尊敬していた。誰よりも大好きだった。
 そして、誰よりも恩を返したかった。
 なのに……私は見殺しにした。
 自分だけが助かって、安心して……。
 私の所為だ。
 私が…………大好きだった両親を、殺してしまったんだ。



 ある雨の日。
 一つの終わりと、一つの始まり。





「昔語(五)〜少女の言葉と不安と〜」






「おーい、俊也」
「ん?」

 声の主が荒々しく保健室のドアを開けた。

「どうしたの?」
「いや……・ちょっとな。体育の授業中に怪我しちまったヤツが居てな、連れてきた」

 よく見ると、浩司は背中に女の子を背負っていた。
 どうやら気絶しているみたいだ。

「何があったの?」
「ちょっとドッチボールをやっててな……」

 そう言ってベットまで歩いていく浩司。

「誰かがぶつけちゃったんだ。何処に? 顔?」

 浩司がベットに女の子を寝かせる。
 確か……この子は四年生の、紺野 梨絵って子だ。
 いつも男子に混じって、外で遊んでいる元気のいい子だ。
 見てみると、真正面にボールがぶつかったのか、顔が全体的に真っ赤になっていた。

「うわっ。こりゃひどい」
「……」
「とりあえず冷そうか」

 手頃なタオルを持ってきて、氷水に浸す。
 そして絞り、彼女の顔にかける。

「……う、ん」

 冷たかったのか、彼女は小さく唸るように声を漏らした。

「鼻血は出てないみたいだね。起きるのを待ってから、容態を聞くよ」
「……ああ。わかった」
「それにしても、随分力一杯ぶつけられてるねぇ」
「……ああ。そうだな」
「ぶつけた子も薄情だよね。連れてきてあげてもいいのに」
「……あはははは」

 浩司は、扉のすぐ横に背中を預けながら立っている。
 ドアが半開きなのが、すごく気になるのだけれど。
 それに、さっきから返答に間が空いてる。
 どうやら、何かをしたらしい。
 まぁ、予想は大体つきますが。

「こっちはもう大丈夫だから、戻ったら?」
「あ、ああ。そうだよな」

 浩司はホッと安心したような表情を見せる。
 半開きになっているドアを、まるで条件反射のように素早く開け、出て行こうとした。
 僕はその背中に釘を刺すように、一言。

「ぶつけて心配なのは分かるけど、ここからは僕の仕事」

 僕の背後から、ガンッと騒々しい音が聞こえた。

「っく……バレてたのか?」

 振り向くと、浩司が膝を抑えてうずくまっている。

「浩司は分かりやすいんだよ」
「悪かったな!」

 浩司はゆっくりと立ち上がり、自分の授業へ戻ろうとする。
 何処にぶつけたのか、だいぶ痛いらしく、右足を引きずっていた。

「戻るのはいいとして、後できちんと謝るんだよ?」
「わぁってるよ! ガキじゃあるまいし」

 浩司は手を上げて、保健室から出て行った。







 少し時間が経った。
 相変わらず雨が降り続いていた。

「……ん、うぅん」

 気が付いたのだろうか、声が聞こえた。
 ベットに近づき、声をかける。

「大丈夫?」
「うぅ……痛い……」
「顔が真っ赤だったからね」
「……あれ? ここどこ?」

 そりゃ、顔にタオルが掛かっていたら、場所は把握できないだろう。
 タオルを取ってあげる。

「へ……あ。上月先生?」
「どう? 気分は?」
「思い出した。体育でボールが当たったんだ……浩ちゃん先生の」

 なんか、今もの凄く似合わない言葉を聞いたような……。

「むぅう……もう、最悪だよぉ」

 思い出しただけで泣きそうになってる。かなり痛かったんだろうなぁ。
 浩ちゃん先生とは紛れもなく浩司のことだろうけど……。
 妙に可愛らしい愛称だ。

「坂上先生のこと、浩ちゃん先生って呼んでるの?」
「うん。みんなね。なんか先週あたりから『俺は生まれ変わったんだ。これからは、坂上先生なんて呼ばすに愛情を込めて浩ちゃん先生♪ と呼んでくれ!』っていきなり言ってきたんだよ」
「……」

 突っ込んだ方がいいのかどうか……。
 それに、それを素直に呼ぶ生徒達っていったい。

「たぶん冗談だったんだろうけど、面白半分で呼んでるうちに定着しちゃったんだ」

 可哀相というか、自業自得というか…。

「あ、そうだ。上月先生も"俊ちゃん先生"って呼んであげようか? なんか上月先生の方が似合ってる気がする!」
「……」

 キラキラと目を輝かせて、僕に言う。
 呼ばせてもらえそうだと、期待しているようだ。
 だが、それを肯定してしまうと、大人として大事なものを失う気がする。

「え、遠慮させてもらうよ」
「……可愛いとおもうんだけどなぁ」

 まだ引き下がるつもりはないようだ。
 でも……男で可愛いと言われても、少しも嬉しくない。
 これ以上言われても困るし、話題を変えよう。

「それより、どうだい? 顔はまだ痛い?」
「うー、まだ痛いけど大丈夫だよ。ありがと、先生」
「いや、僕はタオルを替えてただけだよ。あ、そうだ。坂上先生が、『ぶつけてごめん』だって」

 一応フォローはしてあげよう。

「浩ちゃん先生は許してあげなーい。まったく…女の子の顔にボールをぶつけるなんて、男失格だよ! 落第だよ!」

 もの凄く評価が下がってるぞ…浩司。

「まぁまぁ。ワザとじゃないんだから、許してあげて」

 浩司がワザとそんなことするわけない。っていうかしたら大人失格だ。

「ワザとじゃなきゃいいってもんじゃないもん」

 これはまいったな……。

「あ、じゃあさ、わたしの質問に答えて。そしたら許してあげる」
「へ? 僕が?」
「うんっ!」

 なんで浩司が許されるのに僕が質問されなきゃならないんだ?

「ちょうど、前から聞きたかった事があるんだぁ」
「ちょ、ちょっと待って。なんで僕が答えるの?」

 この問題に僕はまったく関係してないのに。

「え? だって先生、浩ちゃん先生の友達でしょ?」
「いや、友達だけど。それが理由にはならないよ」
「いーの。答えてくれれば許すって言ってるんだし」

 ダメだ。もう止められない……。

「先生。優先生と付き合ってるってホント?」
「へ!?」
「学校中、噂で持ちきりなんだよ? ホントのことが知りたいところなんだよね」
「え、いや……なんだって?」
「だーかーらー、優先生と付き合ってるってホント?」

 え? 誰? 優先生…って……え? 優日さんのこと!?

「一緒に歩いてたりとか、一緒にお昼ご飯食べたりとかしてるでしょ? 他の先生達に聞いても『あれはデキてるぞ』って言ってたよ?」
「……」

 噂が流れてるとは知っていたけど……こうも真正面から聞かれるのは初めてだ。
 というより、他の先生方も無責任な。

「でも、優先生に聞いてもはっきりしないし…上月先生は? ね、どうなの? ねっ、ねっ」

 優日さんははっきりとは言っていない……付き合ってるってことも付き合ってないってことも明確に言うのは避けてるんだ。
 そう。僕たちはそんな関係なんだ。
 付かず離れず。恋人でもなければ友達でもない。曖昧な関係。

「……そうだね。まだ付き合ってはいないよ」
「へー。まだってことはこれから付き合うかもしれないってこと?」
「どうだろうね」

 つい、答えをはぐらかしてしまう。
 だって、それはまだ分からないことだから。
 そうなればいいとは思うけど、そうなってしまってもいいのかとも思う。
 はっきりとしない自分。

「……答えること同じ」

 梨絵ちゃんは唇を尖らせて、つまらないというような仕草をする。

「『まだ付き合ってはいないけど、これから付き合うかは分からない』って。優先生も同じ事言ってた。上月先生が取られちゃうのは悔しいけど、優先生ならいいってみんな言ってるのに……」
「へ?」

 悔しいって……え?
 僕が意味を理解してないのを感じたのだろう、信じられないっていうような顔になる。

「先生知らなかったの!? 先生って人気あるんだよ! 中等部の先輩たちなんて、大半先生のファンなんだよ!!?」

 彼女はもの凄く驚いている。そんなに意外だったのか?
 けど、そんな話聞いたことないぞ。

「……ふーん。そっか。なるほどなるほど」

 僕の疑問をよそに、梨絵ちゃんは納得顔で頷いていた。

「優先生も大変だってことが分かったの。こうも先生がニブいなんてね」
「ニブい?」

 ニブいって何に対して?

「つまり、先生たちが発展しないのが、上月先生の所為ってこと」

 僕のせいって、確かに僕がはっきりしないからだろうけど……。

「それじゃ、先生。ありがとね。もう次の授業始まっちゃう! じゃあねーー」

 そう言って元気良くベットから飛び降り、保健室から出て行った。

「いや…そんな自分だけ納得されて出て行かれても…」

 僕の頭には疑問符が残るだけだった。







 放課後。
 体育の時間以降、保健室に来訪者は居なく、帰る準備をしていた。

「ちょうど、この時間帯によく優日さんが来てくれてたんだっけ…」

 いつの間にか、優日さんのことを考えていた。
 少しだけ会っていないだけで、こうも不安になり、相手のことを考えてしまう。
 彼女は今、何をしているんだろう?
 彼女は今、何を考えているんだろう?

「――? ――!」

 彼女は今、誰と話しているんだろう?
 彼女は今、どんな風に笑っているんだろう?

「俊―? おい――也!」

 "会っていない"不安、それだけじゃない…いつからか感じていた……彼女が遠くに行ってしまうような感覚。
 "会えない"不安。そう、これが適切だ。
 もう、彼女とは会えないんじゃないか。そんな考えが浮かぶんだ。

「俊也? おい、俊也!」

 耳元で、怒鳴るような声が聞こえた。

「え? 浩司?」
「ったく。何度も呼んでるじゃないか、どうしたんだ?」
「いや、ちょっと……考え事をね。それより、どうしたの?」
「ああ。凄い雨だろ? 今日は車で来たから、送ってってやるよ」

 窓の外を見る。
 朝から変わらずの雲と大雨。
 ノイズのような音が、窓を通して絶え間なく聞こえてくる。

「ありがと。助かるよ」

 すぐに準備をして、学校を出る。
 外には絶え間なく落ちてくる線。
 地面に叩きつけられ点となったそれは、穴となってグランドを浸食していく。

「あーあ。こりゃ、ひでぇな」
「仕方がないよ。止んだらならせばいいさ。行こう」

 浩司の車まで走る。
 それだけで服はびしょ濡れになった。

「ふぅ。マジですげぇな……優日ちゃんは大丈夫なのか? 隣町って確かここより酷いって聞いたぞ?」

 キーを回す。エンジンが動き出し、車を発進させる。
 ワイパーで雨を弾いても、前が見づらかった。

「母親を病院に連れて行くって言ってたけど……」
「連れて行くって優日ちゃんがか?」
「いや、父親に頼むって言ってたから、大丈夫だと思うよ」

 不安は昨日から消えていない。むしろ、いっこうに広がるばかりだ。
 けど、僕は待っているしかない、信じるしかない。
 彼女は絶対に無事に帰ってくる、と。
 だから、無理矢理考えないようにする。
 そうしていれば、ずっと楽だから。

「そういえば、浩司がボールぶつけた子。凄く怒ってたよ」
「そうか? あの後、会って謝ったけど、そうでもなかったけどな」
「それは、僕が質問に答えたからだよ」

 今思い起こしても理不尽だ。

「質問? なんだそりゃ?」
「質問に答えたら許してあげるって言われたんだよ」
「ははははっ、悪いな。俺がその場に居れば良かったのにな」
「本当だよ」

 それにしても、あの子はいったい何が分かったのだろう?
 僕がニブいって……どういうことだ?

「それで? 何聞かれたんだよ?」
「それは……」

 とりあえず保健室で起きたことを全部、浩司に話した。

「くっくっくっ……あっはっはっはっは」
「え、なに?」
「わ、悪い……くくくっ……こうもこうだとは……お前、小四のガキに教えられんなよ」

 浩司は面白くてしょうがないようで、車が右に左にと、安定して走っていない。
 もの凄く危険なんだけど……。

「教えられるって?」
「お前がニブいってこと。しかも進展しないのはお前の所為って……くくくくっ……あの子の方がよく見えてるってことじゃん」

 つまりどういうことなんだ?
 まだ疑問顔の僕に、浩司は言ってきた。

「俺も言わなかったか? 傍から見たら、お前らはデキてるって。雰囲気がそうだって。つまりはそういう事なんだよ。何故、お前らは恋人に踏み込めないのか? それは簡単なんだ。相手の好意に気付いていないんだよ」

 相手……つまり、優日さんの好意に、僕は気が付いていない?

「だから、自分の気持ちも断言できない。自信がないから、自分の気持ちが分からないって嘘を吐く。本当は答えなんてとっくの間に出てるのに」

 そう、なのだろうか……?
 答えは出ているのだろうか…?
 分からないという、この感情は嘘なのだろうか…?

「さてと、もう着くぞ………ん?」
「……どうしたの?」
「いや……診療所の前に誰か立ってる……」
「え?」

 確かに雨で見えづらいけど……誰かが立っていた。
 こんなどしゃぶりの雨の日に。

「紗衣香……ちゃん?」

 浩司が呟く。僕には誰が立っているのか見えなかった。
 診療所に近づくに連れ、だんだんとはっきりしていく。
 紛れもなく紗衣香ちゃんだった。
 ただ、一点を見つめて……立っている。

「どうしたんだ? 紗衣香ちゃん」
「……」

 嫌な感覚が広がっていく。
 頭の中で警告が鳴り響いていた。
 不安。どうしようもないほどの不安。

「着いたぞ。なんだか知らんけど、早く行ったほうがいいんじゃないか?」
「分かってる」

 車から降り、紗衣香ちゃんのところへ駆け寄る。

「……紗衣香ちゃん? どうしたの?」
「……」
「紗衣香ちゃん?」

 いつから立っていたのだろう。
 身体はもう、ずぶ濡れで、服は十分すぎるほど水を吸っていた。
 ――ちりん。
 音がした。
 下に落ちているのは、"優日さん"が忘れていった財布。
 今まで彼女を見守り続けていた不恰好なペンギンの人形のストラップ。
 その持ち主は今……ここには居ない。

「……せ、せんせい…………姉さんが…………」

 どんどんと広がっていく不安。
 それはもう確信の域まで来ていた。

「……事故に………あったんだ……そう……です」
「――――――」

 瞬間、思考が止まった。
 何も考えることが出来なかった。
 紗衣香ちゃんが何を言ったのかも、理解することが出来なかった。

「……事故?」

 浩司の声が聞こえた。
 いつの間に外に出ていたのだろう。
 分からない……なにもわからない……わからない……。

「…………はい…今、隣町の……病院から……電話が…………掛かってきて………」
「とりあえず中に入ろう。全員、風邪引いちまう」

 だれがなににあったって……?
 でんわ? だれから?
 耳から流れてくる言葉の意味が、よく分からない。
 自分が今、考えようとしている事が、とても気持ち悪く。
 心が必死に拒絶している。

「俊也! とりあえず中に入るぞ!!」

 だれが? なにが? こえが……きこえる。だれの? なんのこえ?
 思考はどんどんと、混乱していく。

「俊也!! 来い!!!」

 力強く引っ張られる。
 なにも思い浮かばない……考えることができなかった。







 気付いた時には、診療所の中に入っていた。
 あれ? どうして?

「つまり……優日ちゃんが事故にあったのは、ついさっきなんだな?」
「……はい」

 優日ちゃんが事故……? 優日ちゃんって…………――。

「――っ!」

 そうだった……優日さんが事故にあったって聞いて……頭が真っ白になって。

「俊也。大丈夫か?」
「……大丈夫。それで、優日さんはどうなの? 大丈夫なの?」
「……その……わからないんです……ただ、今すぐ、こちらの方に来てくださいと、言われまして」

 不安が増す。
 身体が……心が……頭が……全て不安に包まれていく。

「そうか。なら、今から行ってくる」
「なら、僕も」
「お前はここで待ってろ」

 浩司は冷静に。酷く冷静に、そう言った。

「な、なんで! 僕も行くよ!!」

 なんで? どうして?
 心配だった。どうしようもないほど。
 もう彼女に会えないんじゃないかという不安。
 僕はこの不安を解消したい! 安心したい!
 彼女の無事な姿を見て。少しでも早く!!

「どうして!? どうして僕は待ってなきゃいけないんだ!!
「ここを空けて、もし急患が来たらどうする? 誰が診る?」

 こんな時間に来るはずが無い!
 現に今までも誰も来ることはなかった!

「そんなこと言ってる場合じゃ――」
「診療所には今、お前以外誰もいない! 親父はまだ帰ってきてないだろ! こんな時だからこそ、用心しとかないとダメなんだ!」

 どうしろっていうんだ!
 僕はこの気持ちを抱えて、どうして待たなきゃいけないんだ!!

「どうし」
「いい加減しろ!! こっちは急いでるんだ!! お前は医者だろが!!」
「――っ」

 ……僕は、医者。
 この町で、今日、優日さんと同じような事故が起こらない確率なんて……元から無い。
 だから……僕が居る。
 何があっても、すぐに対処できるように。
 その僕がこの場所から居なくなってしまうとういうことは……助かるかもしれない命を…………。

「……お前が心配してるのは凄く分かる。けどっ!」
「……わかってる」

 それ以上は何も言えなかった。
 浩司が言ってることは正しい。僕は医者なんだ。
 今、この状況下では……一個人の感情だけで動けない。

「……先生」
「大丈夫だよ。ありがとう」

 僕を気遣うような、紗衣香ちゃんの声。
 こんな状況でも、その声は……優しかった
 対して僕は、どこまでも情けない。
 自分の事しか、考えていなかった。







 僕は一人、電話の前で立ち尽くしていた。
 隣町の病院まで車なら、二時間くらい。
 もうそのくらい経っただろうか……時間間隔がマヒしていた。
 ただ、ずっと不安に耐え待ち続けていた。
 浩司は「必ず電話する」と言っていた。
 だから、電話を待ち続けている。
 それしか今、僕に出来ることが無いんだ。
 ――プルルルルル
 電話が鳴る。
 待ちわびたその音に、受話器をすぐに取る。

「もしもし!?」
『……俊也か? 俺だ。浩司だ』
「優日さんは!? 無事なの!?」

 まるで、浩司に噛み付くように、問いかける。

『ああ。安心しろ。優日ちゃんの方は、足は折れちまったけど、命に別状は無いそうだ』
「そう……」

 力が抜ける。
 良かった。……足が折れていても……生きてさえ居れば、また、会うことは出来る。
 何処か……会えない何処かに行ってしまうわけではなかった。
 ただ……漠然と、安心した。

『……けどな? 親父さんの方はほぼ即死。おふくろさんも俺たちが着いた頃には、もう……』
「……え?」

 緩みきっていた思考に、唐突に冷たいものが走り抜ける。
 僕はバカだ。
 優日さんが無事だからといって、一緒に乗っているはずの人が無事だという保障はどこにもないというのに。
 ただ優日さんの無事だけを喜んでいた。
 それによって、彼女が傷つく事なんかを一つも考えずに。
 自分のことだけを……最優先に考えていた。

『だから……亡くなったんだよ。親御さんは……二人ともな』

 なにも言えない。
 言う事なんか出来ない。
 こんな報告は聞きたくなかった。
 優日さんは……紗衣香ちゃんは……いったいどんな事を考えているのだろう。
 どんな顔をしているのだろう。

『それとな。落ち着いて聞けよ? 確かに優日ちゃんの命には別状は無い。けどな……心の方が重症なんだ』
「こころ?」

 親を亡くしてしまった。
 それだけで、充分に心が傷ついているはずだ。
 けど、浩司が言おうとしている所は、そういう所じゃなく。もっと深くて、暗いことのように思える。
 浩司の口は重い。話しづらい、という事が伝わってくる。

『自分を責めてるんだよ』
「責めてる……? 優日さんが……?」
『優日ちゃんは親を死なせてしまったのは自分だって、私は酷い娘なんだって。私が……死ねばよかったのにって……ずっと言い続けていて……』

 浩司の声は、焦るようにどんどん熱を帯びていく。
 だけど、僕には想像することができなかった。
 あの、いつも柔らかく微笑んでいるような人が、どうしてそんな事を言うのだろうか。
 そんな辛くて暗い言葉を、叫んでいるのだろうか。
 どこか、遠い場所の出来事。
 そんなように思えてくる。

『分からないんだよ! 雨で視界が悪かった。そこに、子供が飛び出してきて、それを避けて対向車と正面から衝突したみたいなんだ。でも、いくら考えても彼女が自分を責める状況ではないんだ』

 なのに、彼女は自分を責めている。
 これは、事故だというのに。
 子供が飛び出してきたというアクシデントから発生した悲しい事故。
 誰も恨むことが出来ない。どこに怒りをぶつけていいかも分からない。
 そんな……悲しい事故。

『けど……こういう状況なのに……自分の所為だって言い続けている』
「……」
『とりあえず、優日ちゃんは今は寝かせてる。紗衣香ちゃんも、だいぶ参ってる状態だし……今日はこっちに泊まる』
「……分かった」
『優日ちゃんはそっちに入院させるよう手続きするぞ。いいだろ?』

 ……なんだ?
 消えたはずの不安。彼女が無事だと聞いて……消えたはずのあの感覚。
 拭えはしない。とても嫌な感覚。
 粘りつくような……拭っても拭っても、逆に広がっていく。

『俊也?』
「あ、ごめん。大丈夫」
『もう紗衣香ちゃん達をほっとけないから切るぞ。とりあえず明日には帰ろうと思ってる』

 明日、優日さんに会える。
 彼女は今、どんな顔をしているのだろうか。
 自分のことしか考えていなかった僕は、どんな顔をして彼女に会えというのだろうか。
 自分の事が、嫌になる。

『……お前は自分の気持ちに整理をつけとけ。優日ちゃんが来てから、お前は救われたはずだ。今度はお前の番だ。お前が彼女の心を救う番だ。それはお前以外に出来ないことだから』

 そうだ。僕は彼女に救われた。
 なら、今度は僕が彼女を助ける番だ。

「そうだね。僕は彼女に恩を返したい」
『馬鹿。そうじゃないだろ? だから気持ちに整理付けろって言ってんだ。よく考えてみろ』

 分かってる。
 恩を返すとかそういうのじゃない。
 僕の気持ちは、そんなんじゃないんだ。
 気付いている。とっくの間に気付いてる。
 ただ、気付いていないフリをしていただけ。

『じゃあ明日な。行く前に電話する』

 ……嫌な感覚はまだ消えない。不安だけが募る。
 昨日、彼女の手を握ろうとした時に感じたように…。
 彼女にもう会えないような感覚。
 今、きっと彼女達は闇の中に居る。
 どこまでも暗く、深い闇の中に。
 大切であれば大切であるほど、どんどん闇に囚われていく……。
 今、僕の気持ちに整理をつけなければ、彼女の想いを受け止め切れないだろう。

 どうせ決まってるんだろ?

 自分の内に語りかける。
 はっきりとした答えは、ずっとあったんだ。
 少し前のこと……出会った頃? いや、彼女のあの笑顔を見た時からかもしれない。
 ずっと芽生えていた気持ち。
 分からなくて、分かっても分からないフリをした気持ち。
 それは、恋。

 僕は、優日さんの事が…………好きなんだ。






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