歓迎会から一ヶ月。
 僕が居て、優日さんが居る。
 それが当たり前になっていた。
 まるで恋人"のように"一緒に時を過ごしていたと思う。
 相変わらず、あの夢に悩まされることもある。
 けれど彼女が居たから……平気でいられた。
 一緒に過ごしているのが心地良い、ずっといつまでもこうしていたい。
 いつの日からか……そう思うように、なっていた。





『昔語(四)〜周囲の認知と予兆と』






 ――コンコン。
 放課後。帰り支度をしている時、突然ドアがノックされた。

「はい、どうぞ」
「こんばんは」

 入ってきたのは優日さんだった。

「どうしたの? 何か用事?」
「あ、はい……その俊也さん。晩御飯って何にするか決めてます?」
「決めてない。というか、いつもは紗衣香ちゃんが作ってくれるから」
「あ、そうなんですか……」

 優日さんは何かを言い出そうとしている。
 この一連の会話から察すると、夕飯に招待してくれようとしているのだろうか?

「晩御飯がどうかしたって、またご馳走してくれるのかな?」

 思った通りのことを聞いてみる。たぶんハズレではないはずだ。

「あ……はい! 昨日、カレーを少し作り過ぎてしまったので、どうかなって思いまして」
「もちろんご馳走になります。優日さんの手料理っていつも美味しいから」

 この一ヶ月間は時々、僕に夕食をご馳走してくれた。
 歓迎会の時に紗衣香ちゃんが言っていた通り、どれも絶品で本当に店が持てるんじゃないかというくらいのレベルだった。

「そ、そんな! それ程でもないですって! 私程度の腕なんてたくさん居ますよ?」
「君レベルがたくさん居たら、日本中どこでも名店になるよ」
「だから、褒めすぎですって。……それじゃ、行きましょうか」

 外に出ると、水平線にもう半分くらい太陽が落ちていた。
 橙から藍、そして黒へ、段階をおいて変わってゆく。
 とても幻想的で……見慣れた風景。

「相変わらず、奇麗ですね」
「確かにね。けど、毎日見ていると飽きてこない?」
「俊也さんは飽きているんですか?」
「全然」

 飽きるわけがない。
 僕は心底、この町が好きなのだから。

「じゃあ私も飽きません」
「理由になってないよ? それ」
「いいじゃないですか。こんなにも奇麗なんです。それだけで理由になってます」
「あはは。そうだね」

 学校から数十分くらいのアパートまでの道のり。
 彼女と二人で歩いていく。
 ゆっくりと、ゆっくりと。

「なんだか……不思議ですね」

 ぽつりと、雰囲気を壊さないように、優日さんが口を開いた。

「うん? 何が?」
「私が今。こうやって俊也さんと歩いていることがです」
「……そうかな?」
「最初に会った時からほとんど一緒に居ますよ。私たち」

 そうなのかもしれない。
 何故か僕たちは一緒にいる機会が多かった。
 あの春の日に、優日さんが保健室を訪ねてきてくれたことから始まったこの関係は。
 いつの間にか、一緒にいるのが当り前になっていた。

「それに、今日も聞かれましたよ。女の子に。上月先生と付き合ってるのって」
「へ?」
「俊也さんって人気あるんですね」

 なんか、今すごい事を言ったような……付き合ってる???

「ちょ、ちょっと待って……僕たちってそんな目で見られてるの!?」

 初耳だった。
 保健室に来る生徒はいるけど、そんなことは一度も聞かれた事ない。

「こういう風に一緒に歩いてるところなんて何回も見られてますから。そういう目で見られてもしょうがないって事じゃないですか?」

 確かに何回かこうやって歩いている所を生徒に目撃されていた。
 でもだからって……どうして付き合っているということになるのだろうか。

「……もしかして嫌でした? 私とそんな風に見られるの」
「そんなことないよ」

 自然と口に出ていた否定の言葉。
 自分でも驚くくらいに、素直に。

「あ……えっと、その……ありがとうございます」
「い、いや……」

 夕日に負けないくらい僕たちは赤くなっていた。
 微妙な空気。
 けど不思議と嫌ではなく、心地良かった。

「……」
「……」

 しばらく沈黙が続く
 この空気に身を任せてみるのもいいかな。
 そんな気になる。
 ただ、一緒に居たいだけなのかもしれない。
 自分の気持ちが分からなかった。

 だけど、何故か求めてしまう。
 彼女に触れたい、と。
 分からない。僕は彼女の事が好きなのだろうか?
 触れたい。その想いが強くなる。

「……」
「……」

 手を伸ばす。
 すぐ隣にある彼女の手に向けて。
 触れようとする……けど…………。

「っ!」

 触れる事が出来なかった。
 彼女の手が、こんなにも近くにあるのに……遠くに感じた。
 何故だか、今にも消えてしまいそうな……決して触れることが出来ないかのように……遠く。

「優日……さん?」
「はい?」

 どうしたんですか? と彼女は言った。
 近くにいる。
 肩が触れそうなほど近くを歩いているというに……。
 どうしてだ?
 なんでこんな感覚になる?

「俊也さん?」
「い、いや……なんでもないよ」

 わからない。
 考えても仕方のないことなのかもしれないけど……とても嫌な気分だった。
 視線を感じて、隣を向く。
 優日さんが僕の顔を伺い、心配そうな顔をしていた。

「本当になんでもないって。さ、もうすぐだね」
「あ。は、はい」

 考えないようにしよう。
 これ以上、優日さんに心配させるわけにはいかない。
 きっと、気のせいだ。
 そう思い込むんだ。







 次の日の放課後。
 いつも通りに仕事をし、いつも通りに片付け、優日さんに会いに行こうとしたとき、いつも通りじゃないヤツが来た。

「よっ! 俊也」
「浩司か。何しにきたんだ?」
「なんだよ。ずいぶん冷たい態度じゃないか」

 冷たいって……いつも通りの対応をしただけなんだけど。

「あ。もしかして、優日ちゃんに会いに行こうとしてたのか? 彼女、今日休みだぞ」

 なんでこいつはこういう感が冴えるのだろうか。
 それより。

「休み?」

 初耳だった。
 昼休みだって、毎日のように来るわけじゃないし。
 今日は来ない日なんだなって思っていたけど。

「どうして?」

 昨日は何にも言ってなかった。
 風邪を引いた感じもなかったし。

「俺が知るかよ。紗衣香ちゃんなら知ってるんじゃないか?」
「そう、なんだ」

 本当にどうしたんだろうか。
 突然いなくなる、というのだけは勘弁して欲しい。
 何かあったんじゃないかと思うだけで、胸騒ぎがし、嫌な予感が頭を埋め尽くしていく。

「心配か?」
「ただ、どうしたのかなって思っただけだよ!」

 にやにやして聞いてくる浩司に、イラっとして怒鳴る。
 浩司のヤツ、僕の反応を見て、楽しんでるな。

「……・なぁ、お前らどうして付き合わねーの?」

 浩司が突然、予想だにしないことを聞いてきた。
 ついさっきまで、僕で遊んでいた顔ではなく、真面目な顔つきをして。

「いきなりなに?」

 不機嫌さを隠さずに、というかむしろ睨みながら浩司に問う。

「なにそんなに怒ってんだよ。だって、傍から見てたらお前ら恋人そのもの。けど、付き合いましたなんて聞いたことないんだよ」

 そう。僕たちは、他の人から恋人に見られてるらしい。
 まったく自覚ないけど。

「確かに付き合ってはいないよ」
「だーかーら! どうして付き合わないんだ?」
「どうしてって言われてもな……」

 はっきり言ってしまえば、分からない。
 自分の気持ちも、彼女の気持ちも。
 だけど、僕はそれで良いと思っている。
 この友達のような関係が、心地良かったから。
 進んで、この関係を壊そうだなんて、思っていない。

「それに、自信がないとかも言うなよ。彼女はお前のことが好きだろうし、お前も彼女のことが好きなんだろう?」
「わからない」
「は?」
「わからないんだ。僕が優日さんのことが好きなのか」

 わからない。
 ただ、なんとなく今まで過ごしてきた。
 彼女のことは感謝してるし、決して嫌いではない。
 可愛いし、優しい子だし、彼女の笑顔はなんとも言えないようなほがらかな気分にさせてくれる。
 僕は彼女の事が好きなのだろう、とは思う。
 だけど、それが恋愛感情なのかは分からなかった。

「なにを今更」
「今更ってなんだよ」
「今更も今更……なんでそんなこと言ってんの?」

 浩司はなんてことはない、当り前だという感じで

「お前は彼女のこと好きだよ。間違いなく」

 真面目な顔で言い切った。
 なんで僕がわからないのにお前にわかるんだ?
 少しだけ、腹が立った。

「なんでそんなこと言えるんだよ!」
「なんでもくそもあるか! 言ってるだろ。傍から見てたらお前らは恋人同士だって」
「それがなんだよ!」
「だ・か・ら! 伝わってくんだよ! お互いがお互いのこと気遣って大切にしてるってな!!」
「え?」

 よく意味が分からなかった。
 僕は今まで普通に彼女と接してきた。
 彼女もそんな素振りはなかったはず……なんだけど。

「本人達はどーかしらねーけど、他のヤツのことも考えろ! しかも関係がはっきりしないときた!! いい加減じれったくてしょうがない!!!」
「な、なんで浩司にそこまで言われなくちゃいけないんだよ……」

 浩司には関係のないことだ。
 だけど、浩司の勢いに負け、何も言うことが出来ない。

「とにかく、くっつけ! 今すぐに! 今日中に!!」
「だからなんで浩司にそんなことを……それに今日は休みなんだろ?」
「じゃあ、今から聞きに行くぞ! 紗衣香ちゃんに」
「……拒否権は?」
「あると思ってんのか?」

 思いません。







 結局、浩司に連れられるまま、診療所に帰宅した。

「ただいま……」 「ただいま」
「あ、お帰りなさい。あ、浩司さん。どうかしました?」
「少し聞きたいことがあってね。優日ちゃんって何処にいるか知らない?」

 いきなり本題に突入する浩司。
 何を焦っているんだ?

「姉さんですか? 確か今は実家の方に行ってる筈ですが……」
「実家?」

 僕が疑問顔をしていたので、紗衣香ちゃんは事情を説明してくれた。

「昨日、母が風邪を引いたって電話がありまして。姉さんに伝えたら、看病に行くって言って、今日の朝方に出て行きました」

 なるほど。そういうことだったのか。
 だったら、僕が知れるわけないよな。
 何も知らなかった、というのも少し寂しいものだけど。

「その実家ってどこにあるんだ?」
「隣町です。町の少し外れの方なんですけどね。そこで喫茶店を経営しています」

 浩司の質問に、疑問も持たずに答えてくれる紗衣香ちゃん。
 そっか。実家は喫茶店をやっているんだ?
 なるほど。
 だから二人とも料理が上手いわけだ。

「ええっと……どうかされたのですか? 姉さんに何か用事でも?」

 と、ここまで聞いて、二人とも黙ってしまったものだから、紗衣香ちゃんが慌てていた。

「あ。いや……なんでもないよ」

 告白しようとしてた、なんて言えるわけがない
 とりあえず、今日は行くことがなさそうで、ホッとする。
 今から行っても迷惑なだけだからな。
 珍しく浩司がなんも言ってこない。
「なんでもあるわっ!」くらいのツッコミはあると思ったけど。

「……なんでもない。紗衣香ちゃんは気にしなくていいぞ」
「は、はい」

 なんか浩司の様子がおかしい。
 まるで告白のことには触れて欲しくないみたいだ。
 紗衣香ちゃんにバレちゃまずいってことでもないだろうに。
 むしろ浩司なら紗衣香ちゃんをも巻き込んで、告白を催促するもんだと思ってたけど。

「浩司……どうかした?」
「なんでもねーよ。そんじゃ帰るとするか」
「そうですか? 良かったら夕食、ご一緒にいかがですか?」

 ああ、そんな安易に……こいつなら絶対食ってくって言うぞ。

「あぁ。いいよ。今日は」
「へ?」
「なんだよ俊也。その間抜けな声は」
「い、いや……」

 あの浩司が紗衣香ちゃんの誘いをあっさり断った。
 本当にどうしたんだ?

「じゃあな。あ、俊也。ちょっと見送れよ」
「うん? いいけど」







 浩司と一緒に外に出る。
 空に広がる満天の星。
 この町を、いつもと変わらない小さな光で、照らしてくれている。
 それに、風が少し出てきていた。
 僕の身体を通り過ぎていく風は、包むというような優しさではなく、何処かへと攫(さら)っていかれてしまうような、冷たさをはらんでいる。

「……あのな。優日ちゃんに告白しようと思ってるとか紗衣香ちゃんに言うなよ」

 僕が夜空を見上げていると、浩司がぼそりと静かな声で言った。

「……なんだか分からないけど。言わないよ」

 もともと言う気なんてない。
 そんな恥ずかしい事。
 それに、浩司がこんなにまじめな顔をしているのだから、きっと大事な事なんだろう。

「そんじゃ、俺は帰る。明日にでも帰ってくるようならビシッと決めろよ」
「はいはい。わかりましたよ、ったく」

 それにしても、今日の浩司はいつもに増しておかしかった。
 いったいどうしたのだろう?
 僕と優日さんのことは、浩司にはまったく関係ないことだ。
 それを、"見ているのがもどかしい"なんて理由で、僕に告白を強要するなんておかしすぎる。

「……いったいどうしたんだろ? ホントに」

 首を傾げながら、診療所に戻る。
 ふと、紗衣香ちゃんの話し声が聞こえた。

「……?」

 掛かってきた相手と話しているんだろうか?
 近づいてみる。

「……はい……はい……そうですね。分かっていますよ……はい……あ、姉さんちょっと待っててくださいね」

 僕に気付いた紗衣香ちゃんが、受話器を置いて、僕の方へと近寄ってくる。

「……どうかした?」
「電話の相手、姉さんなのですけど、確か姉さんに話したい事があったのではないかと思って」
「あ……うん。あったと言えばあったけど」
「じゃあ、代わります。姉さんも喜ぶと思います」

 いや。話したいことって……告白のことなんですが……。
 電話で出来るはずないんだけど。

『もしもし? 紗衣ちゃん?』

 受話器から聞こえる声。
 それは間違いなく優日さんのものだった。

「あ、いや。僕だよ。俊也」
『あれ? 俊也さん? どうかしたんですか?』

 どうかしたって聞かれてもなぁ。
 用件は告白のこと以外にないし……。

『俊也さん?』
「い、いや。なんでもないよ。隣町の実家に行ってるって聞いたけど、お母さんの方は大丈夫?」
『あ、そこまで聞いているんですね。そんなに私のこと心配でしたか?』

 受話器の奥でくすくすと笑う優日さん。

「あ、いや……そういうわけじゃなくって」
『あははは。冗談ですよ。えっと、少し重いみたいで明日にでも病院に連れていってあげようと思ってます』
「でも、明日は朝からすごい雨だって言ってたよ? 大丈夫?」

 ニュースでは台風が来ると言っていた。
 風も強くなってきたし、明日には大雨になるだろう。

『紗衣ちゃんにも同じ事言われました。明日は朝から雨で視界が悪くなるから姉さんは運転しないでくださいって』
「へぇ……あれ? 免許持ってたんだ?」
『はい。あれ? 話してませんでしたか? 私、運転免許取ったばっかりで、まだ下手なんですよ』
「聞いた覚えは……ないかな」

 ちなみに僕は車の免許は持っていない。
 医者になるまで大変だったし、それ以降もこの場所でずっと色々な経験をしてきたから行く暇がなかったのだ。

『そうでしたか……まぁ、私も怖いんで、父親に頼もうと思ってましたけどね』
「そう……」
『……? どうかしましたか?』

 どうするべきだろう?
 なんだかんだで引き返せない所まで来てしまった気がする。
 関係がはっきりするのは、いいことだとは思う。
 結果はどうであろうと。

「いや。なんでもないよ。それより、こっちに帰ってきてから話したいことがあるんだ。いいかな?」

 今日は浩司に強引に押し切られて、告白をしようとした。
 だから彼女が居なくてホッとしたのだと思う。
 自分の心の準備が出来ていなかったし、優日さんとの関係をはっきりさせたくない自分がいた。
 けど、進んでみてもいいかもしれない。
 彼女が受け入れてくれると決まったわけではない。
 でも、断られるとはあんまり考えていなかった。
 何故かはわからないけど、そんな感覚がしたんだ。

『はい……いいですけど。今じゃダメなんですか?』
「うん。大切な話だからね」
『……? はい。分かりました。明後日には帰ろうと思っていますので』

 明後日、か。
 それまでに、僕の気持ちをはっきりさせよう。
 元々は浩司に流されて、ここまで来たのだけど。
 僕自身も、自分の気持ちが気になってしまった。

「そう。分かったよ。それじゃ、切るよ。紗衣香ちゃんの方はいいのかな?」
『はい。話したいことは話しました。代わらなくてもいいですよ』
「それじゃ、気をつけて」
『はい。ありがとうございます』

 受話器を置く。
 それと同時に紗衣香ちゃんがやってきた。

「あ、電話終わりましたか?」
「うん。もしかして、なんか話すことでもあった?」
「姉さん忘れ物してたみたいで」
「忘れ物?」

 紗衣香ちゃんが何か手に持っているのに気付く。
 白の下地に青の水玉模様が付いた財布。

「はい。今日の朝来たときだと思うのですけど……置いていってしまったみたいなんです。ついさっき見つけたのですけど……」
「そうなんだ。ごめんね。切っちゃって」
「あ、いえ。いいですよ。どうせ姉さんも気付いているでしょうし」

 ――ちりん。
 紗衣香ちゃんが動いたときに、ふと鈴の音が聞こえた。
 音の元を探してみると、財布についている何かの動物の人形に目がいった。
 これは……ペンギンだろうか?
 青色の生地で、ちょうど真ん中あたりに白の楕円形が縫い付けられている。
 その左右と下に生地よりも深い青色が四つ。たぶん手と足だと思われる形がある。
 その上には、黄色の三角形が上下にして付いていた。嘴(くちばし)だろう。
 そして、最後に黒が点、点と二つ付いている。これは目だと分かる。
 聞こえた鈴はその人形の上にある紐にくくりつけてある。
 お世辞にも上手に出来たとは思えないもの。けど、一生懸命さは伝わってくる。

「……あ、この人形ですか? ちょっと不恰好で恥ずかしいですけど、ペンギンなんです」

 僕の視線に気付いたのだろう、紗衣香ちゃんが人形を掲げる。

「……。うん。大丈夫。分かるよ」

 一瞬なんなのか分からなかったのは永遠に秘密にしておこう。

「これ。私が姉さんにあげたものなんですよ」
「へぇーそうなんだ」
「はい。もうだいぶ昔になるんですけどね。姉さんの高校受験の時に渡したのです。お守りとして」

 紗衣香ちゃんは本当に懐かしむように、そのキーホルダーを眺めている。
 大切なんだな。
 紗衣香ちゃんにとっても、優日さんにとっても。
 思い出の品物、なんだろう。

「受験前に作って神社でお祓いしてもらった由緒あるお守りなんですよ。ご利益ありです」
「ご利益……?」
「本当なんですよ? 姉さんは喘息の持病を持っていて、運動が全然出来なかったんです。ですけど、これをあげて以来、喘息も落ち着いて、今じゃ軽い運動くらいは出来るようになったんですよ」

 また初耳なことを言われる。
 優日さんが喘息持ちだったなんて、まったく知らなかった。
 今日は初めて知ることばかりだ。

「そうなんだ。不思議なことってあるもんだね」
「不思議でしょうか? きちんとお祓いを受けたものですし、私の思いが篭っていますから、それくらいしてもらわないと困ります」
「そっか。それは、そうだね」

 そう言って微笑みあう。
 優日さんと紗衣香ちゃんは顔も性格もあまり似ていない。けど、時々、ふとした表情が似ている時があった。今回もそうだ。
 相手を大切に思うからこそ、出来る笑み。

「さて……今日は僕が夕飯を作るよ」
「そうですか? じゃあ、お願いしますね」
「分かった。それじゃ、すぐに作るとするよ」

 部屋を出て台所へと向かう。
 浩司のせいでというか、おかげでというか、僕は自分の気持ちと向き合うことになった。
 そのことに今まで興味はなかったし、知りたいとも思わなかった。
 ただ、ゆったりとした時間を彼女と過ごしたかった。
 僕は彼女のことが好きなのだろうか?
 確かに感謝はしている。好意は持っている。
 でも、果たしてそれは恋愛感情なのだろうか?
 今日はずっとその自問を繰り返していた。
 だけど、結局は分からないままだった。
 それは当然でもある。
 すぐに分かるような気持ちだったのなら、とっくの前に気付いているはずだ。
 だから探そうと思った。
 優日さんが帰ってくるまでに、ゆっくりと、自分と向き合おう、と。







 だけど、僕はこの分からない気持ちのまま、彼女に対面する事になる。
 何かが起こるのに、準備なんか要らない。
 いつも唐突に、突然に、簡単に、大事なものを奪っていく。
 それは、忘れられない記憶。
 暖かさも、温もりも、全てを奪うような冷たい雨の中……彼女の想いは砕かれた。






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