授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえた。
蹲(うずくま)っていた頭を起こし、教室を見渡す。
ボクの前の人は、隣の人と遊びに行く場所について話している。
隣席の人は、既に居なかった。誰かのところに話に行っているのだろう。
後ろからは、今さっきまで居た先生の陰口を誰かと喋っている声が聞こえた。
いつも通りの教室、いつも通りの喧騒。
あぁ……うるさい。
そんな中でいつも通りの感情が浮かんだ。
全ての授業が終わり、担任が来る前のひととき。
その雑踏の中で、ボクの席の周りには誰一人として居なく、ポツンと取り残されていた。
つまりボクには……友達が居ないのだ。
『夕日の中で』
ボクの真上にある時計が、ゆっくりと音を刻んでいた。
時刻は五時。放課後の教室。
四十個の机、椅子。教卓と黒板。そして空。何もかもがオレンジ色で染まっていた。
その中で一人、人を待ち続ける。
二ヶ月前の自分とは大違いだな、と不意に感じた。
前はクラスで委員長を務めたり、友達と色々なイタズラをしてよく先生に怒られていた。
バカやって、楽しい友人達に囲まれて、同じメンバーで中学を過ごせると思うと堪らなく嬉しかった。
そう。そこには自分の居場所があったんだ。
「……ねぇ」
けど、小学校卒業した3月のある日、「転勤する事になった」と親が告げてきた。
ボクはもちろん最後まで反対した、ここ以外で生活することは想像できなかった。
いや、想像したくなかったんだ。自分の居場所が消えてしまうのが怖かった。
だけど、親の言うことに逆らえるはずが無く。
結局は引っ越すことになってしまった。
「ねぇ」
だけど、ボクは諦めていなかった。
今居る学校に馴染めずにいれば、親が元の町に戻してくれるんじゃないか。
バカな考えだって分かってるけど、ボクは自分から一人ぼっちになった。
初めからクラスの人を受け入れない雰囲気を作って、話を掛けてくる人にも冷たくあしらった。
「ねぇっ」
そんなことをしていれば、一人になるのは簡単だった。
辛くない、と言えば嘘になる。辛いに決まってる。
だけど、それくらい前に居た町に戻りたかった。
そこにはボクの居場所があったから。
ボクが笑えて、怒れて、泣けて……素直に感情を引き出せる居場所があったから。
「ねぇってば!」
「わあ!!」
突然、耳元で甲高い声が響いた。
「さっきから何回も呼んでるんだぞっ!!」
内から外へ急激に意識が戻される。
一瞬何が起こっているか分からなかった。
「気づいてくれないなんて酷いんじゃないっ!?」
続きざまに出される声にたじろぎながらも、目の前に居る人に焦点合わせる。
ぼやけていた視点の先には透き通るような白い肌の顔。
そして、くるりとした丸っこい瞳が、頬を膨らませながら、ボクを見つめて……いや、睨んでいた。
「ご、ごめん」
頭を何度も下げ、彼女の厳しい視線を受けつつ、見つめ返した。
「少し考え事をしてて……」
ボクの行動に満足したのか、睨んでいた瞳を緩めて。
「いいよ。そんな必死に謝んなくて」
と腰ぐらいまである長い黒髪を揺らしながら笑った。
いつもの紺のセーラ服。それに対比するような真っ白な肌。
……相変わらず綺麗だな。
「今日は何にしてもらおっかなー♪」
膝の高さくらいのスカートを翻(ひるがえ)しながら彼女は楽しそうに言った。
「何に」というのはお菓子のこと。
ボクは彼女と会うと、お菓子を奢ってあげるというのがいつの間にか習慣となっていた。
「えーっと……」
ボクは財布の中にあるお金を見た…残金140円。
お菓子といっても高いものは買えない。
それにほら、ボクだって欲しいものがあるわけで……。
「なに? なにか問題でもあるの?」
「もう小遣いが残り少ないんだ」
「……ふーん」
それが? まさか買ってこないつもり?
と目で訴えてきていた。
「ま、まあ買えないわけじゃないよ」
「だよね〜」
こ、怖かった。
「はぁ…」
今月はもう何も買えないや。
ボクはしぶしぶ近くのコンビニに向かってと歩き出す。
「楽しみだなぁ〜」
後ろから聞こえるのは、言葉どおりワクワクした彼女の声。
ま、期待を裏切るわけにはいかないか。
そう思い直し、教室を出た。
手にはコンビニ袋とスプーンとプリン。
彼女の大好きな食べもの。
前に一度食べさせた時に、もの凄く喜んでいたんだ。
彼女のその笑顔を見たとき、僕はあまりの美しさに数分動けなかったのを覚えてる。
ボクは彼女がまた喜んでくれる姿を想像し、教室までの廊下を歩いていた。
「それにしても……」
彼女と出会ってからどれくらいが経つだろう。
少なくとも一ヶ月は過ぎているんじゃなだろうか。
「懐かしいな」
出会いの時も放課後の教室だった。
先生に頼まれた仕事を終わらし、教室の扉を開けると、そこに彼女は居たんだ。
入ってきたボクを、机に座っていた彼女はゆっくりと見つめ、静かにボクのところに歩いてきた。
オレンジ色の夕日を背に、紺色のスカートを翻(ひるがえ)しながら、彼女は音も無く僕の前に立って、「一人で寂しくない?」と寂しそうな笑顔で問い掛けてきたんだ。
それは今のような無邪気な姿とは違い、憂いを帯びた女神のようにボクには映った。
もしかしたらボクは、その時から彼女のことを好きになってしまったのかもしれない。
「お待たせ」
教室の扉を開ける。
「お〜そ〜い!」
彼女はボクを見るなり、プクッと頬を膨らませ怒っていた。
今は憂いのひとかけらもない……。
「は〜や〜く!」
「はいはい……」
ボクは少々呆れつつ、彼女の元に向かう。
彼女が座っている机の椅子に座り、ビニール袋からプリンを取り出す。
「あっ! プリンっ」
嬉しそうな声と嬉しそうな笑顔。
それだけでボクはもう満足だった。
プリンの蓋を捲り、スプーンですくい上げる。
「あーん」
彼女が口を開けて待つ。
口までプリンを運び、彼女の口に放り込む。
「ん〜っ、おいしい♪」
表情だけで充分伝わるような笑顔で、おいしさをアピールする。
うん、良かった。
買いたいものを我慢しただけの価値は十分にあった。
それにしても、この「あーん」という行為。
今では当然のように行動してるけど、はじめはずいぶん恥ずかしかった。
仕方がなかったとはいえ、顔を真っ赤にしてしていた記憶がある。
慣れというのは恐ろしいものだ。
「ねぇ……」
「うん?」
「もしもさ…今日で私が消えるって言ったら……キミはどうする?」
「……え?」
彼女の顔を見ると、さっきまで浮かんでいた笑顔はなく、怖いくらいに真面目な顔をしていた。
なんでいきなり、そんな突拍子も無いことを……?
「だからっ、これで最後だって言ったら……キミはどうする?」
「どうして、そんなこと言うの?」
訳が分からなかった。
「いいから、答えて」
どうして急かすんだろう。
彼女が居なくなる、それはボクには到底、考えられることではないというのに。
彼女はボクの初恋の相手で、ボクの居場所でもあったから。
だから、正直ものすごく。
「困るよ。ボクは君のことが好きだから……困る」
「……ありがとう。でもキミは知っているはずでしょ?」
それは叶えられる想いでは決してないことを。
「……うん。けれどもう遅いよ。好きになっちゃったんだもん」
分かってる。いくら彼女を好きになったとしても、その想いは実らない。
だけど、どうしようもないのだ。
好きになってしまったら、もう好きになっていくしか、選択肢はないのだから。
「じゃあ……」
彼女の目に冷たい光が宿った。
刹那、ボクの中を言い知れない冷たさが駆け巡る。
彼女はボクの頬に手を添え、じっと見つめて
「ついて…くる?」
と、ボクの心を惹き付けるような不思議な声でそう言った。
まるで吸い込まれるような彼女の目。
どくん、と胸が高鳴った。
ボクがいくら子供でも、これはどういうことかぐらいは分かる。
目の前にある彼女の顔、白く透き通った肌。そして頬に触れる柔らかい手。
ぐるぐると思考が回って……何も考えられなくなってきた。
急かすように彼女の顔が近づいてくる。
「あっ……」
びっくりして、どうしようもなくなり、ぎゅっと目を瞑った。
その時に何故かお父さんやお母さん。
それと前の学校の友達が浮かんでは消えていった。
楽しかった思い出や、辛かった思い出、そして彼女との時間。
これを走馬灯、っていうのだろうか。
「……」
ボクは目を開け、彼女との距離を離した。
そして、ゆっくりと首を振る。
「……どうして?」
彼女は悲しそうに顔を歪ませた。
「今、お父さんやお母さん、友達の顔が浮かんできたんだ……」
まるで、そっちに行ってはいけないと、警告をされたように。
「だから、ボクはまだ行くわけにはいかないと思う」
「けど、私が居なくなるとキミはまた一人ぼっちになるんだよ?」
そう。彼女が現れるまでは、きっと辛かった。
それこそ生きていないような顔をして、日々を生活していたんだと思う。
「……ボクは勝手に自分は一人だと思い込んでいたんだよ」
だけど、それは自分で勝手に作ってしまった日常だった。
「居場所がなくなるって勝手に思い込んで、新しい場所で居場所を作ろうとしなかった。そして、やっと見つけた居場所は普通の居場所ではなかった」
分かっていた。
彼女と接していることそのものが、異常だったってことぐらい知ってた。
「それに気が付いてはいたけど……失うのが怖くて、ずっと引きずったままでいた」
彼女は僕の大切な居場所だ。
だから、もう失いたくなかったんだ。
居場所を失うのは、もうたくさんだったから。
「ボクは一人じゃなかった。いつでも見守ってくれている人たちが居たんだ。それを、君は思い出させてくれた…だから一緒には行けないよ」
そう。作ろうと思えばいつだって何処でだって自分の居場所は作ることが出来る。
失ってしまってもまたやり直せばいい。
壊れてしまってもまた作り直せばいい。
ボクは……一人じゃないんだから。
「そう……だよね。キミは一人じゃないよね。分かってた。誰よりもキミのことを見ていたから」
彼女は一ヶ月という短い時間、ボクの側に居てくれた。
それが、どれほどの救いになったのか想像さえつかない。
きっと、それだけボクは彼女のことが大切だった。
「だけど……私は結局、一人ぼっちなんだ」
彼女はボクと同じだった。
違ったのは、望んでいたことと望まれていないこと。
彼女は一人を望んでなんかいなかった。
だから、彼女だけがボクの孤独に気付いたのだ思う。
だけど彼女は一人なんかじゃない。
「ボクが君のことを忘れない。ずっと……死ぬまで。だから一人なんかじゃないよ」
ボクの記憶の中に君は居るから。
ずっと居るから。
この想いは色褪せることなく、ボクの力となるから。
「……ありがとう」
彼女は今まで見てきた中で、一番の笑顔を見せてくれた。
目の端に涙を湛えて、すぅっと、ボクから離れていく。
「私は……キミを私の世界に引きずりこもうとした。一人が嫌だったから」
ボクは彼女を見上げる。
そっか。結果的にボクは彼女を拒絶した。
だから、もうこの世界には居られないんだ。
「出会えたこと自体が偶然だったっていうのに…その偶然にすがって…私だけのものにしようとした」
ゆっくりと、事実を受け入れていく。
ああ……もうお別れなんだ。
変わりようの無い、永遠のお別れがもうすぐ……。
「ごめんね。だけど、嬉しかったよ。私も……キミのことが好きだったから」
どうして最後にそんなこと言うんだろうか。
彼女を突き放してしまったのはボクだというのに……。
ボクだって好きだった。彼女も好きだと言ってくれた。
なのに、決して交わることのなかった恋。
だから……ボクは安心してほしいと思った。
「大丈夫。君の事は、絶対に忘れない」
絶対に忘れない。
彼女の姿は頭の中にあるから。
彼女との思い出は心の中にあるから。
彼女への想いは胸の中にあるから。
ずっと、ずっと永遠に……。
「うん。私も、忘れないよ」
彼女の姿がだんだん薄くなっていく。
存在が、なくなろうとしていた。
「…最後に会えたのがキミで良かったよ」
「ボクだって……君に出会えて本当に良かった」
ボクも彼女も堪えきれず涙が溢れてくる。
彼女の姿はもうほとんど見えなかった。
「……それじゃ、もう終わりだね……バイバイ」
「うん……」
手を振りあう。
姿は見えなかったけど、そこにいると信じて。
「……さよなら」
もう、そこには何も無かった。
あるのは、食べかけのはずだったプリンと。
オレンジ色の教室の静けさだけだった。
「……忘れないよ」
別れはいつだって唐突だった。
だけど、ボクは……一人じゃない。
それに気づく事が出来たんだから。
「さよなら」
もう一度呟く。
気持ちに整理をつけるために。
彼女はもう居ないんだと、認めるために。
心の中でもう一度。
さよなら――ボクの初恋。